19 罪悪の在りか
銀色の硬貨が落ちている。
カルヴィンが拾って目の前に差し出したが、マリオンは動けなかった。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
どうして。こんなことがあっていいのかという疑問が渦巻く。
こんなのアルノーが本当に望んだことじゃない。悪魔に騙されただけだ。傷つき疲れ果てた時につけこまれたのだ。
そしてほとんどの人が怯えて警戒する暗がりの中での声を、悪魔の存在を信じていないアルノーは、怯えずに酔っぱらいだと思い込んでしまっただけだ。
アルノーにとっての不幸が重なった結果なのだ。
だってアルノーはあんなに心無い大人たちに痛めつけられていたというのに、ちゃんと自分で立ち直っていた。アルノーにあんなことがあったなんて、彼は欠片もマリオンに匂わせたりしなかったのだから。
昼間に会った時だって、友達を助けるために奮闘して、友達と自分のために、あの非道な男にもう一度立ち向かうつもりでいた。
アルノーは強くて、悪魔なんか必要としていない人間だ。
それなのに、どうしてこんなことに。
≪ソイツガ願ッタカラダヨォ≫
答えるようなタイミングで嗄れた声が響いた。
いつの間にか、裂け目の形をした目がそこにあって、マリオンはびくりと体を震わせる。
角張った顔と二本の角、マントを羽織っているかのような単純な輪郭は、それでもあちらの世界にいた時よりははっきりとした姿をしていた。
カルヴィンがマリオンの前に立つ。
≪ソイツガ俺ニ、悪魔ニ、願イゴトヲシテ、魂ヲ差シ出シタンダヨォ。ソイツガ選ンダコトダ≫
「嘘よ、アルノーはそんなこと望んでいない! あんたが騙したくせに!」
馬鹿にする口調に頭に血が上ったマリオンは、相手が悪魔という認識すらなくして言い返した。
≪ケケケ、愚カダナァ。悪魔ハ契約デハ嘘ナド吐ケナイ。騙シテナンカイナイサァ。ソイツガ望ンダカラ、コウナッタンダヨォ。チャアント代償ニ魂ヲ差シ出セルカ聞イテヤッタジャナイカァ≫
「アルノーが勘違いしてるのわかってて黙っていたくせに!」
≪嘘ハ吐イテイナイサァ。契約ハ、チャアント成立シタ。ナァ、アルノー≫
すぐそこにいる人物に話し掛けるように悪魔が言った。しかしアルノーの姿などどこにもない。
≪オ前ガ望ンダコトダカラナァ。バルモンカラ煙突掃除人ノ元締トイウ仕事ヲ奪ッテヤッタヨ。アアデモ、ソノセイデ可哀想ナ煙突掃除人ガタクサン怪我ヲシタナァ。アア、可哀想ナコトヲシタ≫
「あんたが勝手にやったんじゃないの! アルノーは皆に怪我なんてさせたくなかった!」
≪コイツガ悪魔ニ願イゴトナンテ、シタセイダヨォ。骨ヲ折ッタ奴モイタナァ。恐怖デ、オカシクナッタ奴モイタナァ。コイツノセイデ!≫
「アルノーのせいじゃない!」
悪魔がわざとらしい演技のように声を張り上げて、大袈裟な身振りをする。負けじとマリオンも大声で言い返した。
そこでぴたりと動きを止めた悪魔は、一転してゆっくりと近づいて来る。
≪コイツガ悪魔ニ願ワナケレバ、ソンナコトハ起キナカッタンダヨ≫
道理のわからない子供に教えるように、優しげに悪魔が言った。
それでもアルノーのせいじゃない。
そう思うのに、マリオンは咄嗟に何を言えばいいのかわからなくなった。
「黙れ、悪魔」
鋭い声がして、黒に塗り潰されていた空間に光が灯り、マリオンははっとした。
カルヴィンがガス灯を灯している。
「アルノー」
呼び掛けた先、悪魔に隠されるようにして踞り、両手で耳を塞いでいるアルノーが姿を現した。
「アルノー!」
本物だ。そう直感したマリオンはアルノーに駆け寄る。動かない彼が聞こえなかったのだと思い、肩に手を置いた。
その感触が泡のようにぼんやりとしていて驚いた。反対の手を握りこめば、自身の手の感触はしっかりとあって戸惑う。アルノーの存在が希薄になっているような気がした。
悪魔は人間の魂を体から完全に引き離すために、魂を弱らせる。
カルヴィンの言葉を思い出してぞっと体が冷えた。
「……マリオン?」
アルノーが顔を上げた。力のない目と目が合う。
ここにマリオンがいることに驚きもせず、不思議そうな様子すら見せないことがおかしかった。
「……帰ろう、アルノー。迎えに来たんだよ」
「帰る……?」
どこに、とでも尋ねるような口振りだった。
「そう、帰るの! おばさんが待ってるよ。アルノーのことすごく心配してた。だから帰ろう!」
マリオンはポケットから銀貨や柘植の枝を包んだハンカチを取り出した。それをアルノーに渡そうとして手を取る。
だがアルノーは拒絶するようにマリオンの手を振り払った。
「アルノー?」
「……帰れない」
苦悩に満ちた震える声を聞いて、マリオンに怒りと悲しみが同時に襲ってきた。
あんなに強かったアルノーが、こんなにも弱っている。
≪ソウダヨナァ。帰レナイヨナァ。ダッテ、アッチニハオ前ノセイデ、コレカラモズット苦シム人間ガ、タクサンイルモンナァ≫
嬉々とした声が、小さな心の防壁を打ち砕くように響き渡った。
アルノーがぎゅっと体を縮める。
「アルノー! 違う、アルノーのせいじゃないよ!」
「俺が悪魔に願いごとなんてしたせいだよ!」
マリオンたちが来るまでの間、アルノーに何があったのかはわからない。だが恐らくこの暗闇しかない空間でずっと、あの嗄れた神経を逆なでするような声で詰られ続けていたのだ。アルノーは自分のせいで同じ煙突掃除の少年たちが辛い思いをしたのだと思い込まされていた。
「俺がバルモンを酷い目に遭わせてやりたいって、そんなことを思ったせいなんだ。仕返ししてやって、それでいい気味だって思いたかったんだ。そのために悪魔なんかと契約してしまって、皆に怪我させちまったんだ……。足に怪我なんかして治らなかったら、まともな仕事に就けなくて一生貧しくなるのに。マテューだって、あいつが稼がなきゃ、一番下の赤ん坊が孤児院に入れられるって言ってたんだ。それなのにあいつ怯えて家から出たくないって。俺のせいであいつの妹があんな所に入れられちまう」
まるで誰かから言われたことをそのままなぞっているかのような言い方だった。
「アルノー、足に怪我をした子は治らないって決まったわけじゃないでしょ。処置が早かったんだから大丈夫なはずよ。マテューだって立ち直れないって決まったわけじゃないよ。だいたいアルノーはただバルモンに仕返しをしたかったわけじゃないでしょ? 皆のためにあんなやつが煙突掃除人の元締じゃいけないって言ってたんじゃないの」
アルノーは不思議そうにマリオンを見上げた。
「違う、俺はあいつにやり返したくて……」
言っている途中でアルノーは確証が持てなくなったのか戸惑った表情になる。
記憶だ。アルノーはいくつかの記憶を捨てたから、覚えていることと吹き込まれたことで混乱している。
マリオンはもう一度銀貨と柘植の枝を差し出した。
「アルノー、これを……」
だが彼は怯えたように後ずさった。
「嫌だ、いらない」
驚いてマリオンはアルノーを見る。反応が普段の彼とはかけ離れている。アルノーはたとえ本心では怯えていても、それを表には決して出そうとしない子なのに。
これは本当にアルノーなのかと疑問を持ったが、魂の一部を手放して弱った姿なのだとしたら、こうなってしまうのも道理だろう。
≪ソウダヨォ。ソンナモノハ、イラナイヨナァ。オ前ハ元ノ世界ニ戻ッテ、何事モナカッタカノヨウニ過ゴスノカ? オ前ノセイデ苦シンデイル人間ガイルノニ?≫
アルノーの顔が泣きそうに歪んだ。
「そうだよ……。あそこに戻る資格なんてないんだよ。俺は怪我だって大したことなかったのに、俺のせいで俺より酷い怪我をしたり、苦しんだりしてるやつの所になんか戻れない。俺が悪魔に願いごとさえしなかったら、そんなことにはならなかったのに」
「アルノーは騙されただけなんだよ!?」
「それでも俺が原因だろ!? 騙された俺が悪いんだよ! どんな顔してあいつらに会えばいいんだよ! どうせ戻っても別の場所で殴られながら働かされるだけなんだ。それならここで罰を受けたほうがいい。俺なんか悪魔に魂を喰われればいいんだ」
辛い、もう嫌だという感情が渦巻いていた。
たとえ弱らされているのだとしても、これはきっとアルノーの本心だ。ここに来る前には、なかった気持ちなどではない。
マリオンに理解できるとは言えない。しかし理解できないとも言い切れない感情だった。胸に苦く悲しいものが広がる。でもそれ以上に強かったのは怒りだった。
マリオンは無言でアルノーに手を伸ばす。そしておもむろに鼻を摘まむと、ぐっと押して強制的に上を向かせ、開いた口めがけて振りかぶった手のひらを叩きつけた。
一連の動作を流れるようにやったせいで、アルノーはそこでようやく目を丸くさせた。周囲の空気も固まっていたのだが、マリオンは気にせず怒りに任せてアルノーを睨み付けた。
「飲み込むの!」
何のことか理解するよりも前に、アルノーは自然の摂理としてそれを飲み込んでいた。
マリオンがアルノーの口に叩き込んだのは、もちろんアルノーの魂の欠片だ。彼に返さなくてはいけない、彼の一部だったものなのだから、飲み込むことで元に戻すという行為は、何ら問題ないはずだという判断である。
ちゃんと喉が動いたことを確認してから、マリオンは手を離した。
「マリオン……!」
何をするんだと抗議しようとしたアルノーは、今までにないくらいの怒りを宿したマリオンと目が合って思わず体を引いた。
「馬鹿じゃないの、アルノー」
「な、なんでだよ!」
怯みつつも言い返すアルノーに向かって、マリオンは大声を張り上げた。
「そんなことして何になるの! 悪魔に魂を喰べることができて、しめたなって思われるだけじゃないの! アルノーは悪魔にいい思いをさせるために死ぬっていうの!」
「そんな、つもりじゃ……」
「そういうことなんだよ! 結局はアルノーたちを苦しめた奴らは誰も辛い思いなんてしてないの。あのバルモンのクソジジイだって、またすぐに同じようなことをするに決まってるし、クレマンだってそう! 一番の元凶の悪魔は、思い通りにアルノーの魂を喰べられて満足するでしょうよ! 一方的にアルノーや他の煙突掃除人たちが痛めつけられただけじゃない、こんなの! それなのに、そんなことを受け入れてアルノーは死ぬっていうの!」
自分のしでかしたことにばかり目を向けていたアルノーは、思い通りに動かされているだけだと言われて、唇を噛み締めた。
「違う、でも……俺のせいだっていうのも事実じゃないか」
「アルノーのせいじゃない!」
マリオンは全力で否定した。
「アルノーは悪くないの。こんなことまで自分のせいだって思ってしまったら、わたしたちは、弱い立場の人間は、いつだってすぐに不幸になってしまう。だってそういう風になってるんだもの。いつだって、一番最初に辛い思いをするのは、そういう人間じゃない」
たとえこの美しく発展的なパリの街であろうと、いや、だからこそ余計に、弱く貧しい者は蔑まれていく。そしてより弱い女子供は、気を抜けばすぐに誰かの身代わりのように不幸を背負い込まされてしまうのだ。
下町に住んでいれば、そんなことは大人になる前に理解させられていく。貧しくも気楽に生きているようでいて、深い闇を抱え込んでもいる場所。
「自分のせいだって思うことが『正しい人』だとかそんなこと言われたって知らない。わたしはわたしを守りたいもの。アルノーも自分を守ってよ。アルノーはバルモンや悪魔よりも悪いの? 違うでしょ。それなのにみんなに怪我をさせた悪魔に魂を喰べられるなんて、すごく馬鹿で間抜けな死にかたじゃないの」
アルノーは何も言い返さなくなった。叱られた子供のように眉尻を下げてマリオンをじっと見ている。
喧嘩腰になっているマリオンが見返すと、小さく息を吐いた。
「相変わらず顔に似合わずキツいよな……」
「顔は関係ないでしょ!」
失礼なとマリオンが目尻を上げると、アルノーは顔を緩ませた。抱え込んでいたものを少しだけ下ろしたような表情だった。
「アルノー」
カルヴィンが呼んで、一枚の銀貨をアルノーに差し出す。最後の銀貨だ。
無言で恐る恐る、アルノーは手を出す。
「大丈夫だ。お前の父親の代わりに殴り返すくらいのことはしてやる」
淡々と言われた言葉に、アルノーは目を見張った。
「……本当に?」
人を殴ったことなどなさそうな静謐な空気を纏いながら、カルヴィンは真面目に頷いた。
「それは頼もしいな」
笑いながらアルノーは銀貨を受け取った。
そしてぐっと手のひらを握り、再び開いた時には銀貨はもうなくなっていた。アルノーの中へ帰っていったのだ。
本来のアルノーに戻ったのだ。マリオンは安堵で微笑んでいた。
「アルノー、帰ろう」
もう一度そう言うと、今度はアルノーは頷いた。
「ああ、ごめんな、マリオン」
「いーよ、これくらい」
アルノーが帰って来てくれることに比べれば何でもない。
でも本番はこれからだ。
それを何とかしないことには、アルノーがここから出ることはできないだろう。
マリオンは不気味なほどに静かになった悪魔を見た。