18 悪魔との契約
閉ざされた扉とアルノーだけが残った。驚きの表情のままアルノーはじっとその扉を見つめている。
姿が消えたバルモンとクレマンの声が、扉の奥から聞こえてきていた。
「父さん、煙突掃除人たちに酷いことをしていないだろうね。さっきの子はとても疲れているようだったよ」
「俺がそんなことをするはずがないだろう。そうさ、行儀の悪い子供を叱るくらいのことならあるがな。掃除人をまとめるのが俺の仕事なんだからなぁ。でもそれが酷いことなわけがないさ。教師のお前ならわかるだろう?」
さも自分がまっとうな人間であるかのような言い方に、アルノーの顔が歪んだ。
「わかっているよ。でも父さんは口が悪いからね」
肯定しながらもクレマンの口調は父親に対して、距離を置いているように聞こえた。
「まったく、お前は上品に育ちすぎちまったよ。ああ、もちろんそれがお前のいいところさ。でも俺の口が悪いなんて、馬鹿を言うんじゃない。この街ではこれが普通だろう。煙突掃除人の親方が上品な口なんて聞いてりゃあ嘗められるじゃないかよ」
「そうかい?」
「そうさ。親方が餓鬼どもに嘗められるなんて、餓鬼にとっても親方とっても不幸なことさ!」
言葉少なに返事をするクレマンとは裏腹に、バルモンは機嫌よくしゃべっている。かと思えば腹立たしげに声を荒らげた。
「時にお前、また掃除人どもを見つけては親切にしてやっているらしいじゃないか。やめてくれと言っただろう。酒場の連中がなんて言っているのか知っているのか。クレマン坊っちゃんは煙突掃除人に育ててもらったから、恩返しをしなくちゃと思っているのさ、だと! ふざけるなってんだ、お前を立派にしたのはこの俺だ!」
「その通りだよ、父さん」
クレマンは面倒な人間の相手をさせられている者特有の単調さで同意した。
「そう思うなら、これ以上俺にみじめな思いをさせるんじゃねぇよ。お前が掃除人の家族の病気を治すために手を尽くしていると聞いた時の俺の気持ちがわかるか? まさか本当のことじゃないだろうな?」
「ああ」
そのことかというように、クレマンは今まで一番感情のこもった声を発した。
「手を尽くしているなんて大袈裟だよ。父親が病気だからあんな仕事しているんだという子がいたから、いい医者を紹介してあげると言っただけだ」
アルノーの背中がびくりと震えた。
「医者ぁ? まさかお前、メイフィの医師のことじゃねぇだろうな?」
「そうだよ。だって可哀想じゃないか。あんなにきつい仕事をして父親の薬代を稼いでいるのに、あの子の父親はもう助からないよ。若くないし病気も進行している。それくらいあの子もわかっているのさ」
「だからってあの医師を紹介するなんざ」
「まさか、本当に紹介したりしないさ。あの人は役人や教授やら僧侶を治療するので手がいっぱいなんだから。煙突掃除人の父親を診てくれなんて言えるわけがないよ。僕はただあの子にだって希望は必要だと思っただけさ。治らない父親のために働いているせいで、目が荒んでいたからね。治るかもしれないという希望をあげたんだよ。腕のいい医者を紹介してあげる、その人に診てもらえれば治るはずだって言ってあげたんだ。あの子は嬉しそうにしていたよ」
とてもいいことをしたと、満足しているような声音だった。
マリオンは息を飲む。何を言っているのだろう、この人は。
「それじゃあ、本当に医師に話もしてねぇんだな」
バルモンは息子が常識はずれの行動をしてはいないかと恐れているように念を押した。
「してないよ。どうせ断られるんだから、話なんかしても無駄だろう?」
何の悪意もなく、クレマンはそう言い切った。
マリオンは胸に泥水を詰め込まれたような気持ち悪さが込み上げてきた。理解できなかった。クレマンの言動が。
アルノーを見る。彼は無表情だった。
すべての感情が削ぎ落とされた顔で、ただ扉に目を向けている。あんな顔をマリオンは見たことがなかった。十三歳の少年がするような表情じゃない。
「アルノー」
聞こえないことがわかっていても、マリオンは呼び掛けた。こっちを向いて、そんな表情をしないでほしいと願った。
アルノーがこの時、何を考えていたかなんてわからない。でもマリオンの心にはクレマンに対する嫌悪感が募っていった。
もし本当に、クレマンが腕がいいと言われている医師に相談していてくれたなら、マリオンは彼を尊敬していたかもしれない。
でも違う。クレマンはたまたま目にした不幸な子供に、自分にとって耳障りのいい言葉で嘘を吐いただけだ。
こんなの馬鹿にしている。結局、彼にとってアルノーもアルノーの父親も取るに足らない存在で、同じ人間として見てはいないのだ。
彼はどうしてわからないのだろう。こんなにも見下されている相手に、お金でもなく、僅かな手立てでもなく、偽りの小さな希望を与えられるくらいなら、関わらないでいてほしいのだと。
彼は今話題に出している子供が、さっきすれ違った少年であることにすら気づいていない。
悔しかった。
あんな人たちにアルノーが傷つけられたことが。
自分が何の力にもなれないということが。
アルノーはゆっくりと扉に背を向けた。ふらふらとした足取りで歩き出す。何も映していないかのような瞳が、マリオンの胸を抉った。
アパルトマンの階段を降りきったアルノーは、薄暗く静かな夜道をガス灯の光のもとで歩いていた。
映像はまだ消えない。マリオンは遠ざかろうとするアルノーの背中を追った。頬に微かな感触がして、自分が泣いていることに気づく。
悔しいという思いがより一層強くなって、涙が止まらなくなった。
アルノーはやがて、灯りの少ない路地へと入っていた。暗くてわかりづらいが、段々と汚ならしく清潔感のない通りになっていく。
ふと顔を上げたアルノーが立ち止まって左右を見渡した。ぼんやりしていたのだろう。帰り道を間違えたに違いないが、アルノーはそのまま歩き続けた。
男たちの喧騒が聞こえてくる。酒場が近いのだろうとマリオンは思ったが、声が大きくなるにつれて交わされている言葉が暴力的で乱暴なものだとわかってきた。
ここは危険な場所だ。労働者の中でもより困窮した人々が住む「掃き溜め」と呼ばれるような地区なのだろう。
急に明るくなった路地は、人の気配も濃厚になった。今にも崩れそうな掘っ建て小屋のような酒場から、顔を赤らめて目を濁らせた男たちが追い出されるようにして出てきた。
彼らは店の中に向かって罵声を浴びさせたあと、首を反転させて、面白いものを見つけたというにやにや笑いを浮かべてアルノーを見た。
マリオンの心臓が竦んだ。
「ボウズのくせに酒場に飲みに来るたぁ、いいご身分だな。それとも飲んだくれの親父に買い出しにやらされたのかい?」
アルノーは男を睨み付けたがすぐに顔を逸らした。
その態度が気に入らなかったのだろう、隣にいた別の男がおい、と低い声で呼んだ。
答える間さえ与えずに、男はアルノーを蹴り飛ばした。
「生意気な野郎だな。どうせ親から家を追い出された口だろうが。ちったぁ礼儀ってもんを学ばなくちゃいけねぇよ」
そう言うと踞るアルノーに再び近づこうとする。この後に起こることを予想して、マリオンは喉を引きつらせた。
だが酒場の中から響いてきた店主のものらしき怒声によって、その男は足を止めた。チッと大きな舌打ちをしてやむなくアルノーから離れる。
彼らは興が冷めたように背を向けて歩き去った。
店内からちらちらといくつかのアルノーを観察する目があったが、客たちはみんな無視を決め込んでいた。
アルノーは更にぼろぼろになった体を引きずるように数歩ほど歩くと、酒場と隣家の間の路地へと入り、力尽きたように座り込んだ。
壁と壁の隙間は狭くて窓もなく、室内から漏れる灯りすら遠くて暗い。
マリオンはアルノーに歩み寄った。今度はカルヴィンは止めなかった。
自嘲するように歪んだ笑みを浮かべた少年は、じっと地面を見つめている。マリオンは目線を合わせるために屈み込んだ。
「アルノー」
手を伸ばせば触れられるはずの距離から呼び掛けても、アルノーは瞬き一つしない。
「アルノー、帰ろう」
届いて、という思いを込めて呼び掛けた。そうせずにはいられなかった。
だが事実としてマリオンはこの時、アルノーの傍にはいなかったのだ。記憶の中の彼に話しかけても、何の意味もない。
大人たちに痛めつけられたアルノーの傍に、彼を大事に思う人は誰もいてあげられず、独りにした。
しかし本当に一人であったなら。それならばまだましだったのだと、そうマリオンは気づいた。
隣家の壁、そこに不自然な形の影が浮かび上がっていた。薄暗い周囲よりもなお濃い黒い影の形。マリオンはそれと同じものを、自分の家とそしてバルモンの家で見ている。
息が止まりそうになった。
≪ナァ、人間ハ屑バカリダナァ≫
影が蠢いて嗄れた声が響く。あの悪魔の声だ。同意を求めるための軽薄な媚びが含まれていた。
沈黙が降り、アルノーにはこの声が聞こえていなかったのかと疑い出した頃、彼は投げやりに呟いた。
「……そうだな」
≪ソウダロウ!≫
「アルノー、返事をしちゃ駄目!」
嬉しそうに答える悪魔にぞっとして、マリオンは思わずアルノーの腕を掴もうとしたが、両肩を押さえられ振り返った。そこには厳しい目をしたカルヴィンがいる。
カルヴィンはこれまでの、マリオンに同調するような苦悩の表情をしておらず、絶対にそれ以上は近づいてはいけないのだと訴えていた。
≪オ前ハ辛イ目ニ遇ッテイルノニ、オ前ヲ辛イ目ニ遇ワセタ奴ハ好キ放題ヲシテイル。ソンナノオカシイヨナァ≫
嘆くような口調は同意を得るためなのか逆なでするためなのかわからない。癇に障ったらしいアルノーは吐き捨てるように言った。
「黙れよ、酔っぱらい」
顔を上げる気力がないのか、影を見ず地面に目を向けたままのアルノーは、自分が誰と話しているのかわかっていなかった。
酒場の酔っぱらった客が絡んでいると思っているのだ。嗄れた声も呑んだくれならばおかしくはないかもしれない。
マリオンはアルノーにそれ以上はどうか相手にしないでと願った。そうはならないことは、もうわかっているのに。
≪ナァ、アイツラダッテ、酷イ目ニ遇ウベキジャナイカ? アンナ奴ラガ、ズットイイ思イヲスルナンテオカシイダロォ。不公平ダロォ≫
悪魔の言葉はアルノーを揺さぶった。まるで心の中を言い当てられたようにアルノーは肩を揺らした。表情はほとんど変わらないが拳をぐっと握りしめている。
「ああ、あんな奴ら痛い目見ればいいんだ。ちょっとくらい、苦しめばいい」
それは誰もが口にするような、感情の発露だった。怨嗟と呼べるものですらない、理不尽に対する嘆きのようなもの。
だがマリオンはそれを聞いた悪魔が、意を得たとばかりに嗤ったような気がした。
≪ソノ通リダ! 奴ラハ苦シメバイイ! 俺ニ言ッテミロ。望ム通リニシテヤル。誰ヲドンナ目ニ遇ワセタインダ?≫
「何言ってんだ、あんた」
呆れと困惑の混ざった口調でアルノーが返す。
≪ホラ、言ッテミロ。サッキノ酔ッパライ共カ?≫
「あんな奴らどうでもいい。でも……」
アルノーは考え込むような目つきになって、口を閉ざした。そして悪魔が痺れを切らしたように影を揺らし出した頃、ついにある人物の名前を口にした。
「バルモン……あのジジイ」
「アルノー、駄目」
すぐ傍にいるように見えてしまう少年を、マリオンは小さな震える声で止めた。届かないことはわかっていた。
「あいつはせめて、仕事ができなくなりゃあいい。煙突掃除人の元締めなんて、あんなクソジジイがやっちゃいけないんだよ。あいつのせいで……皆が苦しんでる」
≪ソレガオ前ノ望ミカ。ソンナモノ簡単ダ。俺ガ叶エテヤル≫
「あんたが?」
アルノーは失笑した。
≪ソウダ。俺ガ叶エテヤル。オ前ノ魂ト引キ代エニナ≫
「なんだ、それ。悪魔の真似事かよ」
本物の悪魔である彼は、そのことには答えなかった。
≪ドウスル? 俺ナラソノ屑ヲ痛イ目ニ遇ワセテヤレルゾ≫
唆すための囁きは、優しさを含んでいるように聞こえる。
悪魔の影が大きくなって、周囲の闇が深くなった。
≪ソレトモ、屑ニ利用サレナガラ生キテイクカ? 永遠ニ≫
恐ろしい言葉にアルノーの体が固まった。ハハッと乾いた笑いが漏れる。
「確かにこんなの糞みてーな人生だよな。この先もずっとこんなんなら、なくてもいいくらいだよ」
「違う」
そんな、自分のすべてを否定するようなことを言わないで。マリオンはこれから起きることを予想して、胸が締め付けられて涙が出る。
「いいよ。あのクソジジイを痛い目に遭わせてくれるなら、俺の魂あんたにやるよ」
それがどんな意味を持つのか、まるで理解せずにアルノーは決定的な言葉を口にしてしまった。
悪魔が嗤う。
嬉しそうに影が揺れた。
≪契約成立ダ。アルノー≫
するりと影が縮んで、悪魔は素早く消えた。
アルノーはハッとして顔を上げる。しかしそこには既に誰もいない。
知るはずのない自分の名前を呼ばれて、しかもその相手は一瞬で消えている。その不気味さにアルノーは眉根を寄せた。
きょろきょろと辺りを探りながら、本能からか明るい路地へと出ていく。しかし酒場の近くにはいたくなかったのか、その路地では数少ないガス灯の下へ行き、足を止めた。
首を反らしてアルノーはガス灯を見上げた。
何も映していないようだった瞳が、その火を捉えていた。
しばらくそうしていたが、やがて遠いどこかへ視線を向ける。その表情は夢から覚めたようで、マリオンがよく知るアルノーのものになっていた。
「……帰らなきゃな」
ぽつりと呟くと、彼は母親と弟が待つアパルトマンへ向かって歩き出す。
そこでその光景はフッと消えた。
暗闇に包まれる。
マリオンはしゃがみこんだまま、涙を流し続けていた。
「なんで……」