17 柘植の枝
ガス灯を増やしながらカルヴィンは歩く。
振り返れば道しるべのようにそれらが並んでいて、マリオンはふとパリの夜の街角を歩いていたかのような錯覚に襲われた。しかし前方は相変わらずの暗闇だ。
しばらくすると先程と同じ現象が起きた。絵画のように切り取られた光景が浮かび上がったのだ。
今度もアルノーが以前に住んでいたアパルトマンの一室だった。違うのはアルノーの母親が膝をついて両手で顔を覆っていること。彼女のお腹が大きくなっていることだ。
これもアルノーが捨てた記憶なのだと思うと、マリオンは見るのが少し恐くなる。
「……すぐにアルノーの魂の欠片を拾うことはできないの?」
これを見なければさっきの十フラン銀貨のようなものは現れないのだろうか。先を急ぎたいこともあってカルヴィンに尋ねた。
「できなくはないが……確認しておきたいことがある。それがわからなければアルノーを助けられない」
「……わかったわ」
マリオンはアルノーたちに目を向けた。
彼は懸命に母親を宥めていた。
「母さん、もう休めよ。あれだけ働いてからまたずっと看病だなんて、ぶっ倒れるぞ」
彼女は顔から手を離して大きく首を振った。
「駄目よ。今は駄目。ここが正念場なのよ。今さえ乗り越えられれば、きっと回復するはずなの。今は駄目」
「だからって母さんが倒れたら赤ん坊はどうなるんだよ」
やつれた彼女はアルノーの言葉をちゃんと聞いているのかどうかすら怪しい様子で、頑なに拒絶する。
「駄目なのよ。今は駄目なの」
アルノーはもどかしげに唇を噛むと、意を決したように母親を呼んだ。
「母さん、こんな曖昧なこと、言わないほうがいいんだろうけどさ……」
深刻そうな顔をするアルノーに、彼の母親はビクリと肩を震わせた。まるで言ってほしくないことを、息子が言おうとしているのではないかと怯えるように。
しかしアルノーが口にしたのは真逆のことだった。
「今日さ、仕事で学校に行ったんだ。そしたらそこの教師が急に話しかけてきて、どうしてこんな仕事をしているんだって聞くんだよ」
何の話なのかわからず、母親は目を瞬かせた。
「親父が病気だからだよって答えたら、驚いた顔してさ、なんか根掘り葉掘り聞いてくるんだ。一体何なんだって思っていたら、優秀な医師を知っているって言い出すんだよ。その人に診てもらえれば治るはずだから、希望を捨てるなって」
一瞬、目を輝かせた彼女は、すぐに表情に陰りを見せた。
「でも、そんな人……」
「ああ、治療費だって高いだろうし、うちみたいな貧乏人は相手にしないだろって言ったんだ。そしたら治療費は借金にしてもらえるし、自分はその医師と知り合いだから口を聞いてやるって言うんだよ」
すると母親はみるみる顔に生気を取り戻し、すがるようにアルノーを見た。
「じゃあ……」
「すぐには無理だけど、ちゃんと話をしておいてやるから待っててくれってさ。何が目的なのかはわかんねぇけど」
「アルノー! 滅多なことを言うものじゃないわ。世の中には親切な人がいるのよ! その人はきっとあなたに同情して、手を差し伸べてくださったのよ!」
「でもさぁ……」
「わたしたちみたいな貧乏人を騙したところで、何の得もないじゃないの。何のためにそんなことをするの」
「そうだけど」
「ええ、そうよ。親切な人なんだわ。その人が医師を連れてきてくれたら、この人の病気が治るかもしれないのね」
とても嬉しそうに彼女は笑った。
先の見えないトンネルから、ようやく抜け出せたように。
そんな母親に戸惑いつつも、つられてアルノーも笑った。
「そうだな……。俺たちを騙したって得なんかしないもんな」
アルノーは納得しきれていない様子ではあったが、母親が笑顔になったことで安心していた。
「じゃあ、ほら母さんも休めよ。これからまた死ぬほど働かなきゃいけないんだからさ」
「そうね。いっぱい稼がなきゃいけないんだものね」
頑なに夫の枕元から離れようとしなかった彼女は、今度は素直に息子の言うことを聞いた。
そこでその光景は、突然ふっと消えた。
まるで初めから何もなかったかのように。
カルヴィンが近づいていって銀色の小さなものを拾い、マリオンに手渡した。
予想した通りに、それは先程と同じ十フラン銀貨だった。家族のことを除けば、確かにこの時にアルノーの頭の中にあったのは、お金のことだっだろう。
アルノーのこの記憶が、自分を守るために捨てた記憶なら、忘れたかったのは、それでも父親が死んだという事実なのだろうか。
「行こう」
促すカルヴィンに頷いてマリオンは進んだ。
そして今度のそれは、いくらも歩かないうちにすぐに現れた。
また同じ部屋だった。
しかし薄暗く、ランプではなく蝋燭が灯されている。
寝台から少し離れた場所で、アルノーの母親が椅子に座っていた。お腹の大きさはほとんど変わっていない。彼女の隣にはアルノーが寄り添うように立っている。
二人はぼうっとした表情で寝台を見つめていた。
寝台の前には近所に住むマリオンとも顔見知りの中年男性が立っていて、手に持った枝を振っている。
彼が何をしているのか、マリオンはすぐにわかった。同じことをしたからだ。
聖水で濡らした柘植の枝を、死者に向かって振っているのだ。これはアルノーの父親が亡くなった翌日の、通夜の出来事だった。
この時に二人に掛けられる言葉が何もなかったことを、マリオンはよく覚えている。悲しみよりも無気力感に襲われていたのだろうことは、見ているだけでもわかった。
そしてこの後にアルノーは近所の人々に心無い言葉を浴びせられて自暴自棄になってしまったのだ。
だがもう立ち直ったのだと、マリオンは数時間前まではそう思っていた。
誰も声を発しない短い間に、その光景はフッと消えた。
後に残ったのは、小さな柘植の枝の欠片。マリオンは自分でそれを拾って銀貨と同じように包みポケットへ入れた。
マリオンもカルヴィンも無言でギィの後を付いていく。
次に現れたのはアルノーのアパルトマンとは別の場所の光景だった。
室内であることは変わりないが、内装が比較的新しく、調度品もやや質が良い。父親が亡くなった後にアルノーたちが移り住んだ部屋とは明らかに違う。
これはきっと、さっきまでマリオンたちがいたバルモンのアパルトマンの部屋だ。座り込んだアルノーの前で、バルモンが肩を怒らせて立っていることからしても、間違いないだろう。
アルノーは胸を手で押さえながら、バルモンを強く睨みつけていた。
「本当のことだろうが、この下衆ジジイ! せめて契約通りの給料ぐらい出せよ。他の奴らが稼がないせいだなんて嘘なんだろうが! てめえが意地汚く俺たちが稼いだ金を抱え込んでんだろ!」
「こぉんのクソ餓鬼っ!」
顔を真っ赤にしたバルモンが、足を振り上げて思いきりアルノーの腹を踏みつけた。
「ぐぅっ!」
「アルノー!」
加減が一切ない暴挙に、マリオンは悲鳴を上げて駆け寄ろうとした。
しかし繋がれた手がそれを阻む。カルヴィンは手のひらに力を込めて、振り返ったマリオンに、痛みを堪えるような顔で言った。
「……あれは過去だ」
わかっている。
そう返しそうになったマリオンは、歯を食い縛って押し止めた。
そうだ。あれは過去だ。今のマリオンにできることなど何もない。
本当は、いつだって不安はあったのだ。バルモンの評判やアルノーが毛嫌いしている様子からして、酷い仕打ちを受けているのではないのかと。立場の弱い子供が理不尽な目に遭わされるなんて、よく耳にする話だ。
しかし狡猾なバルモンは他人の目につく場所には傷を作らず、アルノーも彼に怯えもせずに、暴力などないかのような態度を取っていた。だからマリオンは深く追求することができずにいた。
アルノーがそれを望むのなら、口出しなどできない。
だって、それを暴いたところで、マリオンにできることなど何もないのだ。
もっといい職場を紹介してやりたくても、それはとても難しいことで、腰を弱くした祖母と二人で暮らしているマリオンには、金銭的余裕もないから、援助もしてやれない。
生きていくためには働くしかなく、弱い立場の人間はその場所を選べもしない。
アルノーはかろうじて腕で腹を庇いつつも、折れることなくバルモンを睨み続けていた。そんな彼をバルモンは殊更馬鹿にした顔で見下ろす。
「ハッ! 何が契約だ。そんなもんを交わした覚えはねぇんだよ! てめぇがあるってぇんなら契約書を持って来いよ! ねぇだろうが、そんなもん! 頭の悪いクソ餓鬼に教えてやらぁ。契約ってのはなぁ、紙の上で交わすもんなんだよ!」
「あれはっ! 文盲のあんたが書くのを嫌がったんだろ! 知ってんだよ、隠してたって! かしこいフリをしたがるくせして、文字も書けないんだろ、あんた!」
「てめぇ!」
暴力を振るっても怯えないアルノーを、馬鹿にすることで溜飲を下げようとしたバルモンは、反撃を受けて更に頭に血を上らせた。
踏み潰そうとするかのように何度もアルノーに向かって足を振り下ろす。まだ大人になりきれていない少年の身体は、その度に衝撃に跳ねた。
「やめて……」
マリオンは震える声で呟いた。
決して聞こえることのない言葉を頭の中で繰り返す。痛い、やめて。
「だったらてめぇ一人の力で稼いでみろってんだ! お前みたいな薄汚ねぇ餓鬼なんざ、俺のような大人に付いてなきゃあ、仕事だろうと他人の家にも上がらせてもらえねぇんだよ! 父無しなんか浮浪児と同じだからなぁ! そんなくだらねぇ屑がこの俺に楯突くんじゃねぇよ! 黙って言う通りに働く以外にお前に価値なんざねぇんだ!」
「やめて!」
耐えられずに叫んだマリオンの声は、当然届かない。
しかし続けて同じ言葉を、誰かが言った。
「やめなよ、あんた」
聞き覚えのある女性の声。
姿は見えないが、それはバルモンの近くから聞こえてくる。
「そんなに叫んじゃあ、アパルトマン中に聞こえるじゃないか。今に誰かが文句を言いに来るよ」
「ここの住人にゃあ、他人の事情に首を突っ込もうとする奴なんざいねぇさ! 賢く聞き流すのが礼儀ってもんだろう!」
無茶苦茶ないい言い分で妻の制止をはね除けるバルモンに、彼女は苛立ちを抑えようとするかのように言い募った。
「いい加減にしとくれよ。今日はクレマンが来るはずなんだ。あの子になんて言うつもりなのさ」
するとバルモンは口をつぐんだ。
彼は自分よりも社会的地位が高い職業に就いていて、自慢の種でもある息子が弱点なのだ。
「ふん、仕方ねぇな。おら、とっとと立て」
最後に一蹴りして、バルモンはしゃがみ込んだ。顔を上げたアルノーを見下ろして凄む。
「今度くだらねぇこと言いやがったらクビだ。俺はお前が一人で二人分働くと言うからいい給料を出してやっていたんだぜ。お前みたいな餓鬼にこんな金を渡してやる奴は俺ぐらいしかいねぇんだ。クビになって親子ともども飢え死にしたくなけりゃあ、いい子でいやがれ」
アルノーは何かに耐えるように唇を噛み締めた。
自分一人のためであったなら、反骨精神の強いアルノーはあるいは果敢に言い返していたのかもしれない。しかし彼には守らなくてはいけないものがあった。
よろめきながらなんとか立ちあがり、黙って玄関へ向かおうとする。
服は汚れ乱れていても、外傷がすべて隠れているせいで、その様子はただ重労働に疲れきっている子供ようにも見える。
アルノーは扉を開けて外へ出た。
そこには黒服の青年が立っていた。彼の顔を見たアルノーは驚いて目を見開く。
「こんばんは」
アルノーの態度に不思議そうな顔をしながらも特に気にも止めず、クレマンは軽く挨拶をしてから扉の中へ消えていった。