16 闇の世界に浮かぶもの
「どうやって進行方向がわかるの?」
何もない空間をカルヴィンは迷う素振りもなく進んでいるから、マリオンは不思議だった。
「俺がわかるわけじゃない。ギィだ」
カルヴィンが目で示す先を見ると、小さな悪魔がいた。どうやら後ろ姿だったせいで周囲と同化していたようだ。彼が先導していたのかと、ようやく気づく。
「ギィはアルノーがどこにいるのかわかるのね」
≪……ワカル≫
微妙な間があって、マリオンは僅かばかりの不安を覚えた。
「人間の魂の居場所も一応はわかるらしいが、それよりも悪魔の居場所がわかりやすいらしい。あの悪魔とアルノーは恐らく一緒にいるだろう」
カルヴィンが説明を捕捉してくれた。
しかしやはり一緒にいるのかと思うと気ばかりが急いてしまう。走ればそれだけ迷いやすいと教えられて、なんとか大人しく付いていっている状態だ。
「まだ間に合うの? 魂を弱らせて肉体と切り離すって、すぐにはできないことなの?」
「相手の状態によるな。今日のアルノーはどんな様子だった?」
マリオンは夕方に会った時のことを思い出す。
「……普通だったよ。いつも通り。わたしが悪魔を見たって言って、マテューも悪魔にすごく怯えていたから、ようやく悪魔の存在を少しだけ信じ始めたっていう風に見えたわ」
カルヴィンは何か考えるように目線を伏せた。
「そうか。から元気だったということは?」
「ないと思う。アルノーはそういう時ってあんまり笑えない冗談をよく言うから、わかりやすいの」
「なら、すぐにどうこうはならない。大丈夫だ。アルノーの精神状態のためにも、早く見つけたほうがいいことには変わりないが」
「うん……」
こんな暗い場所で悪魔しか近くにいなくて、その悪魔が精神的に追い詰めてくるのだ。アルノーの状況を思うと、胸が扱き乱されるような感覚がした。
≪カル≫
ギィが何かを言った。
「どうした?」
カルヴィンのことを呼んだらしい。ギィは立ち止まって振り返った。
≪気配、スル≫
厳しい顔つきになったカルヴィンは、注意深く辺りを探った。マリオンも視線をさまよわせてみたが、何も変化はない。
「隠れているのか?」
ギィは首を傾げた。
≪気配、スル≫
隠れているのかどうかについてはわからないのか、ギィはただ同じ言葉を繰り返す。
カルヴィンは頷くと、カツンと何かを打ち鳴らした。
点火棒だ。ずっと持っていることが不思議ではあったが、それを言うと二人とも魂の姿であるはずなのに服を着ているので、そういうものなのだろうと思っていた。
カルヴィンは点火棒を掲げた。マリオンが何度も見たことのある仕種だ。
すると火種が何かに引火したかのように大きくなり、マリオンたちがいる周囲だけが明るくなる。そして暗闇の中から姿を現したものがあった。
「えっ」
マリオンは目を見開いた。
「何これ……!」
「ガス灯だ」
見ればわかることをカルヴィンが言った。
「そうなんだけど、そうじゃなくて……!」
さっきのカルヴィンの動作は、まさしくガス灯に火を灯す時のもので、そうして本当にガス灯がそこにあった。
「ガス灯があるの、ここって……!?」
「いや、ない。でも作ろうと思えば作れる」
「作ろうと思えば?」
意味がわからない。このガス灯は元々ここにはなくて、カルヴィンが作ったから現れたというのだろうか。
「そういう世界なんだ。慣れればできる」
説明が面倒だったのか、そんな余裕がないからなのか、それだけで理解してくれと言いたげだった。
カルヴィンはしばらく歩くとまた点火棒を掲げた。明かりが広がると同時に、ガス灯がまた一つ増える。
まるで暗がりにあったから、今まで見えていなかっただけのような現れかただ。しかし本当にそうであったなら、カルヴィンは見えていない状態で、ガス口の場所を正確に把握していることになる。さすがにそれはないだろう。
ギィが先導する経路に、カルヴィンは等間隔でガス灯を灯していく。
「ねぇ、ギィは光が平気なの?」
心もち避けてはいるように見えるが、ギィはガス灯の光の近くにいても平然としていた。
「こいつはこの程度なら問題ない。日中に太陽の光を直接浴びたりはできないが、光には強いんだ。色々、特殊なんだよ」
「へぇ……」
マリオンは不思議そうにギィを見た。すると彼は何を思ったのかするする近づいてくる。そして一度目を合わせたあと、マリオンの後ろに回って、するりと体を半分ほど地面に沈めてしまった。
「えっ」
ほどんど頭しか出ていない状態で、微かに首を傾げられる。
「影の中にいると落ち着くらしい……。ギィ出てこい。まだ何も終わってない」
不満なのか、渋々といった体でギィは従う。
無口なのでいまいち何を考えているのかわからない。不穏な感じはしないが。
前方に戻るギィを目で追っていたマリオンは、あっと声を上げた。
「カルヴィン、何かあるわ」
「ああ……」
ガス灯が並んでいる真横。ぼんやりとではあるが、絵画のように切り取られた風景があり、その中で人らしきものが動いていた。
マリオンは気になって仕方がなかったが、手を繋いだままのカルヴィンが、まるで注意を向けようとしない。
「まだ、待て」
こちらのほうが重要だというような態度で、また一つガス灯を灯す。すると霞がかった風景が少しはっきりとした。
パリの街に数えきれないほどある、小さなアパルトマンの一室のようだった。
布団を乗せるスペースがあるだけの質素なベッドに、木材が歪んでしまったのか収まりきっていない引き出しがあるタンス。釘を打っただけの帽子や上着掛け。
特別に貧しいわけでもない、よくある庶民の家の中だ。
突然現れたそれは、周囲が暗いせいでマリオンに大衆オペラの役者が、独白をする場面を連想させた。
ベッドに横たわる人の隣で、二人の人物が話をしている。
そのうちの一人が誰なのかわかって、マリオンは叫んだ。
「アルノー!」
駆け出そうとしたマリオンを、カルヴィンが止めた。
「待て。あれは本物じゃない」
表情を変えず冷静なカルヴィンに、マリオンはその光景をもう一度じっと見つめた。
アルノーは明らかに聞こえているはずの距離にいたマリオンの呼び声にまるで反応していない。隣にいる人物――彼の母親に困りきった顔を向けて口を開いていた。
「本当に大丈夫なのかよ、母さん」
彼女は何度も頷いた。
「大丈夫に決まっているわ。ちゃんと聞いたんだから、古着屋が親戚にこの人と同じ病気にかかった人がいて、薬で治ったって言っていたのよ。薬を飲んでしっかりと手厚い看病をすれば治るのよ。だから何も心配いらないわ。薬代ならあるのよ。今までそりゃあ真面目に働いてきたんだから」
「でも赤ん坊がいるんだろ?」
普段は大人しい母親が、常になく明るく振る舞っているせいか、アルノーの不安そうな表情が消えない。
まさかと思い、マリオンはベッドで眠る人物に目を向けた。二人の影で隠れて僅かしか見えないが、状況から考えてもあれはアルノーの父親だろう。
なぜか彼が生きていて、病気になったばかりの頃の、家庭での一幕らしきものが目の前で繰り広げられている。あれが事実起こったことなのか、そうでないのかマリオンにはわからないが、事実であってもおかしくはないと思えた。
「赤ん坊がいたって働けるし、看病だってできるわ。あんたが産まれた時だって、産まれるその日までわたしは働いていたのよ」
「……産まれた後はどうすんだよ」
「その頃にはこの人だって治ってるわよ。大丈夫」
アルノーは返事をしなかった。すると母親は泣きそうな顔で怒り出した。
「あんたは父さんの病気がよくなってほしくないの?」
「違う、そんなわけないだろ!」
不信げな眼差しを向けられたことに慌てたのか、アルノーは必死で言い繕う。
「俺だって親父に元気になってほしいよ。そのためにメシがちょっと不味くなったって平気だし、俺も仕事探すし……だから薬ぐらいたくさん買って、早く治そうぜ」
「アルノー……」
彼女はほっとしたように表情を弛めた。
「そうよね。二人で頑張って働いて、この人の病気を治しましょう。しっかり働いて薬をずっと飲ませていれば、病気なんて治るものだわ」
「ああ……」
母親が見ていない僅かの間、アルノーは何か言いたげに口を開いていた。
マリオンはこの時、アルノーが何を考えていたのか、わかるような気がした。
知っていたからだ。アルノーは最初から、父親の病気は年齢が上がるにつれて致死率も高くなるものなのだと理解していた。亡くなった後に、マリオンにそう漏らしていたのだ。
アルノーの父親は若くない。
病気は手厚く看病して、薬を飲ませておけば治るなどという単純なものではない。
アルノーは多分この時、本当に父親は治るのかと母親に聞きたかったはずだ。
治る見込みの少ない病気のために薬代をつぎ込んで、赤ん坊が産まれた後に悲惨な生活を送る未来を、アルノーは想像していたのかもしれない。
アルノーたちの姿が薄れていく。
煙に巻かれるようにその光景は消えた。後に残ったのは、周囲と同じ暗闇だ。
「……今の何?」
マリオンは隣にいるカルヴィンを見上げた。
「多分、アルノーが捨てた記憶だ」
「捨てた?」
「ああ、悪魔から身を守るためにここに記憶を捨てたんだ。でもあれは魂の欠片でもある」
「欠片って……」
「捨てれば当然、魂は弱まる。悪魔から身を守るために記憶を捨てたのに、そのせいで魂が弱まっている」
「っ! 早くしないと!」
マリオンはもう何度目になるかわからない焦燥感に襲われた。
「でもあれもアルノーの魂だ。ちゃんと拾わないといけない」
「え?」
カルヴィンはさっきまで過去のアルノーがいた場所へと歩いていく。そして地面から何かを拾った。
彼の手のひらの上にあるものをマリオンは覗き込んだ。
「十フラン……?」
硬貨だった。なぜそんなものがここにあるのか。
「ただの予想だが、さっきのアルノーの頭の中にあったものなんだろう」
「お金の心配をずっとしていたということ?」
「頭の中にあるものの中で形にできるものがそれだったんじゃないか」
カルヴィンはマリオンに手を出すように促すと、彼女の手のひらにそれを乗せた。
銀色の硬貨を見て、マリオンは悲しくなる。
紙幣でもなく、金貨でもなく、十フラン銀貨。それは恐らくアルノーがその二つをほとんど見たことがないからなのだ。
「アルノーの魂の欠片だ。返してやらなくちゃいけない。あんたが持っていてくれ」
マリオンはしっかり頷くと、銀貨をハンカチに包んでポケットにしまった。
庶民(労働者階級)の成人男性の日給がおよそ五フランです。
銀貨などは銀色の硬貨という意味で使っています。形としては百円玉みたいなものです。