15 悪魔の世界
目の前で何かが振り下ろされた。
悪魔が驚いたように飛び退く。たが間に合わなかったのか、繊月のような口が大きく開かれた。
≪ギャアアッ!≫
耳をつんざく不快な音が響き渡り、マリオンは身を竦めた。
≪オ前、ソレハ……!≫
吊り上がった目で悪魔はカルヴィンを睨んだ。点火棒を振り下ろしたカルヴィンは、もう一度それで悪魔を攻撃するべく、狙いを定める。
≪ヤメロ!≫
悪魔は影のような姿に戻ると、アルノーと壁の間にするりと入って行き、出てこなくなる。
茫然自失に近い状態だったマリオンは、微かに正気を取り戻した。
「待って!」
悪魔がアルノーの魂まで連れて行ってしまうのだと思った。
「マリオン!」
耳元で名前を呼ばれて、びくりと体を震わせる。
「しっかりしろ! 大丈夫だ。まだ間に合う」
力強い目で見据えられた。しかし何がまだ間に合うのか、マリオンにはわからない。ただ自分よりも強い存在に助けを求めることしか、今はできなかった。
「カルヴィン! アルノーが……アルノーが……!」
両手で彼の腕の服を掴むと、目線を合わせられる。
「大丈夫だ。まだアルノーは死んでない。まだ間に合う」
「本当に……?」
「ああ。今はまだ悪魔の世界に連れて行かれただけだ。連れ戻せる」
頭の働きが鈍っているマリオンにはどういうことなのかわからなかった。しかし何の知識もない彼女は、その言葉にすがるしかない。
「でも、どうやって……」
「あんたはここでアルノーにずっと呼び掛けてやってくれ。そうすればアルノーも戻ってきやすい」
「そんなことでいいの?」
「ああ、俺が中からアルノーを探す」
「中?」
「とにかくあんたは今から何が起きても、落ち着いてアルノーに呼び掛けてくれていればいい。いいな?」
説明している時間もないのか、カルヴィンは要点だけ言うと、マリオンに背を向けた。
彼がどこかへ行こうとしているように思えて、マリオンの不安が増す。
「ギィ!」
短い言葉を発したカルヴィンの、影が不自然に歪んだ。
瘤のようなものができ、それがどんどん大きくなると、プツリと千切れる。そしてそれは影ではなく、黒い物体となった。
突然現れた、黒い何か。
マリオンはその不可思議なものに、オレンジがかった白い小さな丸が二つ付いているのを見た。次いで細長い二本の角のようなものも。
悪魔だ。
マリオンがそう認識したと同時に、カルヴィンが躊躇いなく、それに手を伸ばした。
「ギィ、行くぞ」
もう一方からも、枝のような腕が伸ばされる。
マリオンは混乱した。
この短い間で、理解し難いことがいくつも起きている。自分が何をすべきかなんて考えられなかった。これがどういう状況なのかもわからない。
ただここに、一人で取り残されるのは嫌だと思った。
だからマリオンは無意識のうちに動いてしまった。彼らを止めようとして。
「待って!」
大きな手と、黒い鉤爪を思わせる指に触れる。その瞬間に、マリオンは突然床がなくなったかのように平衡感覚を失った。
視界が暗転する。
「マリオン!」
呼ばれて目を向けると、そこには酷く驚いた顔のカルヴィンがいた。
周囲は暗い。しかし不思議なことにカルヴィンの髪の形も服の色も昼間に外で会った時のようにはっきりと見えていた。
「ギィ!」
カルヴィンが責めるような目をどこかへ向ける。
そちらを見ると悪魔がいた。
周囲よりも更に暗い、純度の高い黒で構成された体は、例えるならば立ち上がることができるようになったばかりの赤ん坊に似ていた。
赤ん坊よりも細い手足に、同じく枝のように細い二本の角。蝙蝠のような翼がおまけのように小さく付いていて、まん丸の目はさっきの悪魔とはまったく違い、思わずつぶらなと形容しそうになる。
彼はなぜ自分が怒られているのかわからないのか首を傾げた。子供のような仕種がとても様になっている。
これは本当に悪魔なのだろうかとマリオンは疑問を持った。
「はぁー」
カルヴィンが片手で顔を覆って、とても大きなため息を吐いた。
「ねぇ、ここ……どこ?」
座り込んでいたマリオンは立ち上がって辺りを見回す。
カルヴィンと悪魔らしきものの他には何も見えない。さっきまでアパルトマンのバルモンの部屋にいたはずなのに。
「……悪魔の世界の……入り口のようなところだ」
重い口調でカルヴィンが答える。
「悪魔の世界……」
何もない空間に目をやったマリオンは、そうなんだ、と納得した。
あまりにも予想外すぎることが起きているので、混乱するどころか逆に落ち着いてしまっていたのだ。
アルノーの魂が悪魔の世界に連れて行かれたから、取り戻すためにここまで来たというわけだ。通常ならばあり得ない思考に行き着く。
「この子は……悪魔なのよね?」
「……そうだ」
カルヴィンの影から出てきた、カルヴィンと親しげな悪魔。嫌な想像をしてしまって、マリオンは不安げにカルヴィンを見る。
彼女が何を考えたのかわかったのだろう。カルヴィンは首を振った。
「こいつは生れたてのせいか、悪魔としてはかなり特殊なんだ。俺と契約はしているが、願いを叶えてもらうためのものではないし、人の魂も喰わない」
「生れたての悪魔なんているんだね」
悪魔といえば数百年、数千年は生きているものだという認識がある。
「正確な歳はわからないが、悪魔としては多分生れたてだ」
マリオンは悪魔に向き直って屈みこんだ。
「こんにちは。わたしはマリオン。あなたギィっていうの?」
彼はこくりと頷いた。
「人の魂、喰べないの?」
≪喰ベナイ。イラナイ≫
カサカサとした木擦れのような声がした。人間のものとはまったく異なるが、不気味さはなかった。口調はどこかたどたどしい。
≪ギィ、花喰ベル≫
「花? じゃあ、今度プレゼントするわ。わたし花売りなの」
小さな子供と会話をしている気分になって、マリオンは微かに笑っていた。
人間の魂を喰べないというギィの言い分を、ひとまずは信じることにした。彼はあの裂け目のような目をした悪魔とは違い、背筋がぞっとするような感覚も、不快さもまったくなかったから。
そんな二人の様子をカルヴィンは奇妙なもののように見つめていた。
「それでここでどうすればいいの?」
「ああ……とにかくアルノーの魂を探す」
「魂って見てわかるものなの?」
光の玉のようなものを想像したマリオンに、カルヴィンが当たり前だと頷いた。
「アルノーそのままの姿だ。だいたい今は俺もあんたも魂だけの状態だ」
「え……えぇぇ?? そうなの?」
マリオンは自分の体をペタペタと触ってみた。普通に触れる。
「ここは悪魔の世界であり、魂の世界であり、影の世界でもある。肉体では来れない世界だ。一日や二日くらいなら生きている人間がここにいても問題はない。いるだけならな。人間の肉体と魂っていうのは、そう簡単に切り離せるもんじゃないんだ」
日常とかけ離れた説明ばかりが続く。カルヴィンはいちいちマリオンに信じられるかどうかの確認などしなかった。
「だからさっきのあの悪魔は、アルノーの魂を弱らせて、肉体と切り離そうとしているはずだ。そうしないと食事ができないんだからな」
変に落ち着いていたマリオンも、これには狼狽した。
「早くアルノーを探さないと!」
「やみくもに動き回っても迷子になるだけだ」
今にもどこかへ駆けて行きそうなマリオンの前に立ち塞がり、カルヴィンは手を差し出した。
困惑するマリオンの手を掴み、カルヴィンは先に歩き出す。まるきり子供扱いだったが、きっとこうするほうが都合がいいのだろう。
「ここにいる間はなるべく手を離さないでくれ。それと俺かギィの近くには必ずいるようにしてくれ。走るのも駄目だ」
強く言い含められてマリオンは落ち込んだ。
「わかったわ。ごめんなさい。勝手に付いて来たりして」
きっとマリオンは邪魔になっている。
「あんたが悪いわけじゃない」
カルヴィンは特に怒っているわけではなかった。
だからマリオンは思いきって聞いてみた。
「ねぇ……アルノーは悪魔にどんな願いをしたと思う?」
「……さぁな」
眉間に皺を寄せて、自分にわかるわけがないだろうという顔をされる。それはそうなのだが、マリオンはさっきから頭の隅でそのことをずっと考えていた。
「わたしはアルノーが悪魔を信じていないっていう態度を取っていたから、絶対にアルノーじゃないんだと思ってた。カルヴィンに悪魔に対する願いって自分本意なものばかりじゃないんだって教えてもらっていても、アルノーじゃないと思ってたのは、そのこととアルノーに命を引き換えにしてでも叶えたい願いなんてないと思っていたから。そう思い込んでいたの。でも一番の理由はそれじゃなかったみたい。わたしはただアルノーが死ぬかもしれないことについて、考えたくなかったのよ。契約者がアルノーだったら、アルノーは死んでしまう。アルノーが死ぬわけないって思いたかっただけなの」
マリオンは自嘲するように言った。
「アルノーのことならだいたいわかっているんだって態度を取って。でもそんなわけないよね。どれだけ仲がよくても、わたしはアルノーじゃないんだもの。アルノーが本当に考えていることなんてわかりっこない。それにアルノーはきっと、わたしや誰にも知られないようにしていることだってある」
マリオンとアルノーは別々の人間だ。
そんなことくらいわかっていたはずなのに。
あまつさえクレマンに契約者の可能性があるとわかれば、その可能性に飛び付いた。
悪魔の言う通りだった。マリオンは真実を曲げた。
「わたしはいつだってアルノーの味方でいたいし、アルノーを助けたい。でもアルノーが何を望んだのか、何があってこんなことになったのか、本当のことを知るのが恐い」
マリオンは小さく呟いた。
「わたしこんなんでアルノーを助けられるのかな……」
それが最も恐いことだった。
悪魔がアルノーの魂を弱らせようとしているなら、悪魔からアルノーを守って助けなくてはいけない。アルノーの本心さえわからないマリオンに、そんなことができるのだろうか。足手まといになりはしないだろうか。
「……暗闇は恐怖を煽る」
カルヴィンが言った。
「アルノーを助けたいと思うなら、そのことだけ考えてろ。ここは悪魔の世界だ。いつだって悪魔が魂を弱らせようと狙っている。契約者でなくても、ただ楽しいからという理由でそうする」
口調は淡々としていても、目は気遣わしげにマリオンを見ていた。
「気持ちを弱らせるな。あんたはただアルノーを助けることだけ強く考えていればいい」
「……うん」
余計なことを一切考えずに、アルノーを助けるという思いだけに集中する。それならできる気がする。
カルヴィンはマリオンがしっかり頷くと、再び前を見る。
この人がいてくれて本当によかったと思った。