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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
一章
14/43

14 悪魔の契約者

 バルモンのアパルトマンの近くまで来たマリオンは目を瞬かせた。

 このアパルトマンは昼間に見た時は、周囲の建築物に比べれば新しくて、デザインも悪くないので、居住地として人気がありそうだと思っていたのだ。

 しかし今はまるで廃墟のような、不気味で暗澹たる雰囲気を醸し出している。建物が大きいせいで異様さも増していた。

 いくら夜になったからといっても、あまりの落差に場所を間違えたのかと疑いそうになる。

 カルヴィンがマリオンの腕を掴む力を強めた。


「急ぐぞ」


 何かを感じ取ったのだろうか。マリオンがつんのめりそうになるのも構わず走るような速度になる。

 近づくにつれてアパルトマンの内部にある明かりも見えてきた。各階の階段通路には、恐らく管理人や住人が点火する形式のガス灯が設置されていて、街頭には劣るが、ちゃんと通路を照らしていた。

 昼間に見ていなければ、ここでようやくこのアパルトマンが廃墟ではないのだと信じられただろう。

 二人は門を通り抜けると正面入口から中へ入った。

 すぐに管理人部屋を見つけて、カルヴィンが扉を叩く。

 しかし何度叩いても、不在なのか居留守を使われているのか、誰も出てこない。


「ジョセフさんに部屋番号を聞いておけばよかったわ」


 そこまで頭が回らなかったことをマリオンは悔やんだ。


「いや、余計な詮索をされて、足止めをくっていただけだろう。それは仕方がない」


 だが今はもう酒を飲みに出かける人間くらいしか外出しない時間だからか、アパルトマンの他の住人にも遭遇しない。向かいにある洗濯屋も、パン屋も当然閉まっている。

 小さなアパルトマンであれば、一階の住人の部屋の扉を叩いて聞き出すこともできるかもしれないが、ここまで大きいと、その方法では迷惑がられた上に知らないという答えだけが返ってきそうだ。

 それでも実践してみるべきかマリオンが思案していると、カルヴィンが地面のある一点をじっと見つめていた。


「カルヴィン?」


 どこか不自然なその行動にマリオンが声をかける。

 その時カルヴィンの影がさっと動いたような気がした。しかしカルヴィンがマリオンの顔を見つめたので、マリオンの意識はすぐにそのことから逸れる。


「とにかく上に行ってみよう」

「え? 上?」


 大きなアパルトマンであるので、一階よりもその上の階に住んでいる可能性のほうが高いわけだが、それにしても漠然としすぎている。


「嫌な感じがするんだ」

「え?」


 意味がわからなかったが、カルヴィンがさっさと階段を上ってしまったので、マリオンもそれに続く。

 二階を通り過ぎて更に上へ行こうとするので、どこまで行くのか、マリオンが尋ねようとした時だった。

 悲鳴が聞こえた。

 次いで一人分ではない大きな足音が響く。

 マリオンとカルヴィンは顔を見合わせた。


「上からだ」


 カルヴィンが走り出したので慌てて後を追う。

 足音はどんどん近づいてきていた。

 置いていかれそうになったマリオンは、カルヴィンが急に足を止めたので、見失わずにすんだ。

 どうしたのかと聞く前に、上の踊り場から飛び出すように姿を現した人物がいて面食らった。


「うわぁっ!」

「ひぃっ!」


 その男はただ人がいたことに怯えたのか悲鳴をあげて、連鎖反応のように後ろから出てきた女も上擦った声を出す。


「な、なんだあんた! そこをどけ! 急いでいるんだ!」


 階段は狭くて成人男性なら、お互いに端に寄らなければ行き交えない。

 怯えているのに高圧的な物言いをする男の顔を見て、マリオンはあっと声をあげた。


「バルモン!」


 アルノーたち煙突掃除人の元締めのバルモンだった。それを聞いたカルヴィンが、すぐに男の腕を掴んだ。


「ひっ!」


 バルモンは過剰に怯えていた。


「あんた何から逃げているんだ。何があった」

「い、いいからどけ! 早く、早く逃げねぇと!」

「早く行っとくれよ、あんた!」


 後ろにいる痩せぎすの女が酷く焦って急き立てる。彼女がバルモンの妻らしい。

 バルモンは妻に何か文句を言おうとしたのか、顔を歪めて振り返る。だがそこではっとしたように固まった。


「おい……お前、クレマンはどうした」

「え?」


 彼女は唖然として振り返って、後ろに誰もいないことに気がつくと息を飲んだ。


「馬鹿野郎! 連れ戻してこい!」

「あ、あんたが行っとくれよ!」

「いいから行け!」

「勘弁しとくれよ!」

「何があったんだ!」


 言い争う彼らの声を遮るように、カルヴィンが叫んだ。

 彼らはぴたりと口を閉じて、恐る恐るカルヴィンに目を向けた。


「悪魔が……悪魔が出たんだ」


 マリオンは声も出せず驚愕した。

 予想していたことだ。しかし現実となると混乱していた。


「あんたらの家にか?」


 バルモンはコクコクと頷いた。


「そうだ」

「ねぇ、アルノーは? アルノーはどこにいるの!」


 彼らの口から一向に出てこない名前に、マリオンはカルヴィンを押し退ける勢いで問い詰めた。

 アルノーの家からここまでやって来たのだ。途中で会わなかったのだから、まだこのアパルトマンにいるはずだった。


「知らねぇよ! まだ上にいるんだろ!」


 マリオンの背筋が凍った。

 不気味な気配がしていた。

 煙突を覗いた時のような。

 マリオンの家に悪魔が現れた時とは違う。まるでひっそりと身を潜めていた凶暴な獣が、敵意を隠すのをやめたかのような気配だった。


「それよりクレマンが!」


 バルモン夫妻はアルノーのことなど心底どうでもいいと思っているのか、再び息子のことで言い争いを始めた。


「俺が連れてくるからあんたらはさっさと逃げてろ。部屋はどこだ!」


 苛立ったのか、これ以上は聞き出すことがないと判断したからなのか、カルヴィンはバルモンの胸ぐらを掴んで言い争いをやめさせた。


「六階だ……階段から二つ目の……」


 バルモンの大きな体を力づくで押しやって、カルヴィンは階段を駆け上がった。

 マリオンもそれを追いかける。普段では決して出せない速度で走っていた。嫌な予感はどんどん大きくなっている。

 六階まで来ると、一つだけ開きっぱなしになっている扉があって、バルモンの家がどれかはすぐにわかった。

 迷わずそこへ入って行くと、部屋の中は不自然に明かりが消えていた。それでも月明かりとガス灯のおかげでうっすらと近くのものは見える。

 カルヴィンが部屋の中央に踞っていた。

 何かあるのかと後ろから覗いてみれば、人が倒れていて悲鳴を上げそうになった。


「ムッシュー・クレマン……?」


 よくマリオンの花を買いに来る、中学教師がそこにいた。

 普段は学生寮で生活しているはずの彼は、偶然両親の家に来ていたのか。


「白目を剥いて気絶しているだけだ。こいつは問題ない」


 カルヴィンが素っ気なく言った。


「え……? 問題ないの? 本当に?」

「ああ、ちゃんと息もしている」


 信じがたいが息をしているのなら大丈夫なのだろうか。

 カルヴィンは立ち上がって部屋の奥へと進んだ。

 そこに何かがあるかのような行動に、マリオンは目を凝らして薄暗がりを見つめる。かろうじて人の輪郭を捉えて、マリオンははっとした。


「アルノー!」


 駆け寄って間違いなくアルノーだと知れる。

 だが手が届く距離に行く前に、マリオンを引き止める手があった。

 マリオンは驚いて腕を掴んだ人の顔を見る。カルヴィンは緊張感の漂うとても厳しい目をアルノーに向けていた。

 そこに何かを耐えるような感情も窺えて、マリオンは目を瞬いて再びアルノーを見た。

 十三歳の少年は手足を投げ出して、背中を壁にもたれかけさせる座った体勢で眠っていた。

 ざわり、と胸が震えた。

 気絶ではなく、眠っているようなアルノー。

 一体、何があったというのか。

 マリオンは止める手を無視して、アルノーの傍へ行こうとした。


≪遅カッタナァ≫


 嗄れた、人間のものではあり得ない声が響いた。

 アルノーの背中と壁の間から、影のような黒い物体が伸びてくる。

 つい一時間程前に会った、あの悪魔だった。

 ほぼ顔しか見せなかった先程とは違い、凹凸のないまっすぐな胴体と枝のような腕があり、オレンジがかった白い目は高い位置からマリオンを見下ろしていた。

 マリオンは思わず身を引いた。


≪チャント教エテヤッタノニナァ。オ別レデキナカッタノカァ≫


 ケケケと嗤う悪魔にマリオンはゾッとした。

 だがアルノーをそんな奴のすぐ傍にいさせたくなくて手を伸ばす。


≪手遅レダ≫


 マリオンは動きをぴたりと止めた。


≪コイツノ願イハ、モウ叶エテヤッタ≫


 こいつ、と悪魔が言う相手はクレマンではなかった。

 明らかにアルノーを指し示している。


「何……いっているの?」


 マリオンは本当に悪魔が何を言っているのかわからなかった。


「あなたの契約者は……ムッシュー・クレマンでしょう?」


 途端に悪魔はゲタゲタと大嗤いをし始めた。


≪オ前、馬鹿ダッタノカ! セッカク教エテヤッタノニ! 大切ナ友達ダト教エテヤッタノニ、馬鹿ナノカァ!≫


 マリオンは頭の中が真っ白になった。


「嘘だ……。そんなはずない! アルノーが悪魔と契約なんてしているはずない!」


≪コイツダヨォ。俺ト契約シタノハ、コノ煙突掃除人ダァ≫


 楽しそうに体を揺らしながら悪魔が言う。


「アルノーのわけない!」


 マリオンは叫んだ。

 すると悪魔は動きを止めて、影のような体をズズズッと壁から抜け出してきた。

 ただ真っ黒な実体は、ゆっくりと顔をマリオンに近づけて、目の前で止まる。悪魔は目を細めて、口をニタリと歪ませた。


≪人間ハ、スグニ真実ヲ曲ゲル≫


 マリオンは驚愕に目を見開いた。

 反論の言葉をなくした彼女は、悪魔が楽しそうに嗤う姿を、茫然と見ていることしかできなくなった。

 

 

 

 

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