13 繋がる人物
アパルトマンを出るとカルヴィンは点火棒を掲げて、マリオンの部屋の前のガス灯を灯した。
最後の仕事を終える直前に、マリオンの叫び声を聞いて駆けつけてくれたのだろう。
「行くぞ」
灯し人の制服を着たカルヴィンは普段よりもどこか頼もしく見える。心臓が高鳴りそうになるマリオンは、そんな場合ではないと、意識を他に向けるために先に歩いた。
「こっちよ」
数分もすればアルノーのアパルトマンに辿り着いた。
アルノーたち家族が生活をしているのは、大抵は貧乏な若者が一人暮らしをしている、冬になれば凍りそうなほどに寒くなる屋根裏部屋だ。
五階まで上がったマリオンたちは、ドアノッカーを叩いた。
「こんばんは、アルノー。マリオンよ」
気持ちが逸って、いつもより大きな声をかけてしまう。
扉はすぐに開かれて、赤ん坊を抱いた女性が現れた。
アルノーの母親だ。彼女は一年程前までは、年齢よりも若々しく見えていたのに、最近ではすっかり老け込んでしまっていた。
「おばさん、こんばんは。アルノーはいる?」
「いいえ、まだ帰っていないの。どうしたのかしら」
彼女は眉尻を下げて下の子供をぎゅっと抱きしめた。夫を亡くして間もないせいで、不安に陥りやすいのだ。そのことを思い出したマリオンは慌てて言った。
「そういえば、マテューを家まで送ってから親父さんのところへ行くって言っていたわ。まだ帰っているわけなかったわね」
実際、マリオンと別れた時間から考えれば、家に着くには早い。
自分がやはり冷静ではなかったのだと気づかされたマリオンは、しっかりしなくてはと唇を噛んだ。
「そうなの? じゃあ中で待っている?」
壁に隠れているカルヴィンが見えない彼女は、マリオンを家の中へ招き入れようとする。
「ううん。明日にするわ。ありがとう」
マリオンは何でもなさを装うために、いつものようにアルノーの弟の額にキスをしてから、その場を辞した。
「ごめんなさい、カルヴィン。アルノーはきっとまだバルモンのところにいるわ」
「場所はわかるのか?」
「アパルトマンなら。部屋は……管理人さんがいてくれるといいんだけど」
ここからでは遠いとは言えないが、近くもない距離だ。二人はどちらともなく歩く速度を速める。
その間、カルヴィンが何も言わないので、マリオンはアルノーのことを考えていた。
やはりマリオンはアルノーが悪魔と契約をしただなんて思えない。だってたとえ願いが叶ったとしても、自分は死んでしまうのだ。
アルノーに母親や弟を置いて死ぬことになったとしても、悪魔に叶えてもらいたい望みがあるなんて、とても思えなかった。ましてそれが仕事に関わることだなんて。
しかしその可能性をはっきりと否定しないカルヴィンが考えていることも、少し冷静になってみれば理解できたのだ。
昔話や噂話でもよく聞く話だ。とても悪魔と契約するような人間には見えない、絶対にそんなことをするはずがないと、周りから思われていた人間が、実際は契約していたということが。
あの中学教師のクレマンが言っていたように、悪魔と相対しても、強い意志を持っていれば唆されずにいられる、などというそんな簡単なことではないだろう。
悪魔は恐ろしいほどに人間の心の弱い部分を突くのが上手いと言われている。
だからカルヴィンが自信を持ってアルノーではないと言ってくれない理由は理解できた。
しかし、理解はできても納得はできない。
マリオンはやはりアルノーではないと思うのだ。
「マリオン」
呼ばれてマリオンは顔を上げた。
カルヴィンはしっかりしろと言いたげにこちらを見ている。
周囲に目が向いたマリオンは、曲がらなければいけない角で直進しようとしていたことに気がついた。
「あっ、ごめんなさい」
アルノーのことを心配して探しに行っているのに、自分がこの体たらくでは何をしに行こうとしているのやらわからない。
本当にしっかりしなくては。
角を曲がり別の通りに出ると、景色が少し明るくなった。
ガス灯だけではなく、酒屋や食堂があるせいで、店内の明かりが漏れているのだ。
早くも酔っ払った人たちが数人、酒屋からあぶれるようにして路上へ出てきている。その中の一人が手を挙げた。
「おう、マリオンじゃねぇか。こんな時間に一人で何やってるんだよ」
新聞配達人のジョセフだった。
彼は近くにいるカルヴィンが灯し人の制服を着ているせいか、連れだとは思わなかったらしい。
「えっと、ちょっと急い……」
「そういやバルモンの家を聞いていたな。まさか今から行くんじゃねぇだろうな」
酔っ払いらしく人の話を聞かずに、言いたいことを言ってくる。
「おい、待てよ嬢ちゃん。あのケチのバルモンのところになんざ行くつもりかい? やめとけよ。あいつのところへ行くくらいなら俺にしとけ。もっといい思いさせてやるからさ」
ニヤニヤ笑いながら隣にいた男が言った。
これは強行に立ち去るべきかと考えているとぐいっと腕を引かれた。
カルヴィンが一歩前へ出て、マリオンを隠すように立っている。
「なんだ、男連れなんじゃねーか。そりゃそーか。あんたみたいな可愛い娘がバルモンはねーわな」
笑いながら言われて、マリオンは恥ずかしくなって俯いた。
別にこれくらいの言葉で動揺するほど上品ぶるつもりはない。彼らは大分加減してくれているのだから。
しかしからかわれている対象がカルヴィンだと話が違う。庇ってくれたこともあってマリオンは顔が赤くなった。
「お前はお呼びじゃないってよ」
「バルモンが相手だったら勝てたのに、灯し人の兄ちゃんじゃなぁ」
「おいおい、だからなんであんな娘がバルモンとどうにかなっていると思うんだよ。息子のクレマンならともかく」
「えっ?」
何気なく言われた名前に、マリオンは驚いて顔を上げた。
「クレマン? バルモンの息子はクレマンっていうの?」
「ん? ああ、そうだよ。中学教師のクレマンだ」
「バルモンの息子にしちゃあ、まともだよなぁ。あいつは」
マリオンの知っている人と同一人物かはわからないが、中学教師まで一致している。まさかの繋りに困惑した。
「いつもバルモンの野郎が自慢してやがるからな。頭がいい奴だから、がんばって金を貯めていい学校へやってやったんだってな。その割には中学教師なんて、実入りの少ねぇシケたもんになっちまってるけどな!」
「そいつは浮かばれねぇな。あいつをいい学校へやるために、あくせく働いていた煙突掃除人がさ」
「そう言ってやるなよ。あの男の息子が中学教師なら、上出来も上出来だろ!」
男たちがガハハとおかしそうに笑っている。
マリオンはその場に縫い止められたかのように動けなくなっていた。
腕を引っ張られて、よろめきながら歩き出す。
「悪い。急いでいるんだ」
カルヴィンが男たちに言った。
「おう、がんばれよ、兄ちゃん!」
囃し立てる声を背中に受けながら、マリオンは動揺していた。
「……カルヴィン!」
悪魔から助けてくれた時と同じように、すがるような声で名前を呼んでいた。
「……何だ」
カルヴィンは静かな声で応えた。
「わたし……あの時、絶対に違うんだって思ってたの」
脈絡のないことを言い出すマリオンを、カルヴィンはチラリと見ただけだった。
「あの時……ムッシュー・クレマンが言ったの。悪魔に願いごとをすれば、辛い思いをして働いている煙突掃除人を救うことだってできるはずだって。そうしようか迷っているみたいな言い方していた。でもわたし、本当にそんなことをする気なんてないくせにって思っていたの」
その後にカルヴィンから、悪魔が願いを叶えるための手段など選ばないと教えられていたのに。契約者がそんなことを望んではいなくても、悪魔の勝手な解釈で行動するんだと教えてもらって、クレマンの言ったことを思い出していたはずなのに。
カルヴィンにそのことを伝えてすらいなかった。
「わたしがあの人のことを誤解していただけかもしれない。さっきの人たちだってムッシュー・クレマンはまともだって言ってた。あの洗濯婦の人だって」
マリオンにはとてもそんな人には思えなかったが、周囲の彼の評判は悪くない。
クレマンが辛い境遇の子供たちの中でも、煙突掃除人を特に気にかけていたのは、自分の父親がその元締めで、彼らに酷い扱いをしていたことを知っていたからなのだ。
「ムッシュー・クレマンは本当に煙突掃除人のことをとても気にかけていて、悪魔にお願いしたのかも。煙突掃除人を辛い仕事から解放してほしいって願ったら、悪魔が怪我をさせることで解放しようとしたのかもしれない。ねぇ、それだとこれまでのこと、辻褄が合うよね」
「……そうだな」
ただ相槌を打つようにカルヴィンは同意した。
マリオンは泣きそうになった。
「わたし……今、すごくほっとしている」
掴んだ腕が震えていて、カルヴィンはマリオンの顔を見下ろした。
「アルノーじゃないって確信していたはずなのに、やっぱりアルノーじゃなかったんだってほっとしている。ムッシュー・クレマンがわたしが思っていたような人じゃなくて、本当にいい人で、そのせいで死んじゃうかもしれないのに、アルノーじゃないからほっとしているの」
言葉とは裏腹に、マリオンの表情は苦悩と不安に苛まれていた。
「わたしなんだか嫌な人だなって、酷いこと思っていて、そのことを申し訳ないと思うのに、それよりも悪魔に願いを叶えてもらって死ぬのがあの人でよかったって思っているの」
なんて自分勝手なのだろう。
いくらマリオンにとってアルノーのほうが身近で大切な人なのだとしても、これはそんな理由で片付けられることではないはずだ。
でもマリオンは自分がそんな酷い人間であることを、悲しむつもりなどなかった。それはある意味では、彼に対して死を願うよりも非情だ。
しかしそんなつもりなどなかったはずなのに、胸が何かに圧迫されているかのように苦しかった。
歩みを止めないまま、ただマリオンの言葉に耳を傾けていたカルヴィンは、やがてポツリと呟いた。
「……それの、何が悪いんだ?」
マリオンは奥歯を噛み締めた。
溢れそうになる涙を堪える。
導くように路地を点々と照らしているガス灯は、いつもと変わらず温かな光を放っていた。
酒場や食堂へと繰り出そうとしている人々がその光を辿りながら歩いている。
ガス灯が作り出した二人の影は短い。
しかしマリオンは隣を歩く人物の影が自分よりも濃いことも、影の先に二本の細長い角のようなものが出ていることにも、少しも気がついていなかった。