12 悪魔の姿
同じだった。
オレンジがかった白い裂け目のような目は、煙突の中で見たものだ。
しかしあの時よりもまだ周囲が微かに明るいからか、真っ黒な顔の輪郭らしきものが見える。角ばった顎に頭から生えている二本の細長い角。
あらゆる絵画、絵本の中で描かれる悪魔の姿の、最も簡素で抽象的な、よくある形だ。
マリオンは目が離せなくなった。
恐怖ももちろんある。しかしさっきまで混乱していたというのに、頭の隅にある奇妙に冷静な部分が、逃げ出すという選択肢を遠ざけていた。
目の前にいる悪魔は、アルノーたち煙突掃除人を酷い目に遇わせてきた元凶のはずだ。だからこの悪魔はなぜ煙突掃除人を狙うのか、自身と契約した人間が誰なのか真実を知っている。
マリオンは知りたいという欲求に駆られていた。
アルノーたちが煙突掃除を辞めれば、もう狙うつもりはないのか、どうすれば誰も傷付けずに、この悪魔を満足させて、彼らから永遠に遠ざけられるのか。
安全になったのかどうかはっきりとはしない状況に、アルノーたちを置き続けたくはなかった。
契約が遂行されるということは、契約者である人間の魂が悪魔に喰われるということだが、今はそのことについては考えない。
≪オ前、変ナ気配ガスルナ≫
悪魔が真っ黒な口を動かして喋った。
意味を尋ねそうになったマリオンは、咄嗟の判断で声を殺す。悪魔とは極力会話をすべきではない。
≪マア、イイ。モウ邪魔ヲスルナ。折角、高イ場所カラ落トセルハズダッタ≫
マリオンはヒュッと小さく息を飲んだ。
強く悔しがるでもなく、どうでもよさそうでもなく、まるで酒場で気楽に賭けをしている男たちが、もう少しで当てられたのにとでも言っているような口調で、マテューを煙突の高い場所から落とせなかったことを惜しんでいる。
これはやはり悪魔なのだと思った。
「どうして、落としたかったの?」
マリオンは慎重に口を開いた。
恐ろしいが悪魔はむやみやたらと人間を襲うものではない。低俗な獣と同等のように思われるのが我慢ならない、プライドの高い存在だからだ。
関わりを持つべきではないが、もう認識されてしまっているのなら、慎重に刺激しないようにして、少しでも情報を引き出したい。ドクドクと大きく脈打つ心臓に気づかれないように、何でもない様子を装った。
≪契約ノ為ダ≫
マリオンは悪魔が自分の言葉に対してしっかりと返事をしたことに、少なからず驚いた。
「どんな契約なの?」
≪人間ハ契約内容ヲ簡単ニ教エルノカ?≫
馬鹿にしたように返される。
「いいえ、でも契約相手なら誰にでも教えるわ」
だから教えてくれるでしょうという意味を込めて言った。
すると悪魔が何か面白いことを思い付いたように、ニヤリと口で弧を描いた。
≪オ前ガ、ヨク知ッテイル奴ダ≫
「え?」
≪モウスグ会エナクナルゾ。オ別レヲシナクチャナァ?≫
ケケケッと鳴いているのか嗤っているのかわからない声を出す。
≪悲シイナァ。悲シイナァ。大切ナ友達ダロウ。オ別レヲシナクチャナァ≫
嗄れた声で楽しそうにはしゃぐ姿は、そうすることでマリオンの神経を逆撫でし、不安を掻き立てられることを知っているかのようだった。
大切な友達。
その言葉で連想した顔がある。
「やめて!」
そんなはずはないと思いながら、マリオンは大声で叫んでいた。
「もうやめて! 出てって! 出てってよ!」
しかしそれで素直に出ていってくれるような存在ではない。悪魔は楽しそうにケケケッと嗤いながら、戸棚の影でぐるぐると回っている。
きっとからかって遊ばれているだけなのだ。でも動揺したマリオンはどうすればいいのかわからなくなった。もう一度何かを叫ぼうとした時、扉の向こうから名前を呼ばれた。
「マリオン!」
同時に玄関の扉が勢いよく開く。
マリオンが始めに目にしたのは小さな火の光だった。
次にカスケットと警邏隊のような制服。
彼が部屋の中を見渡してマリオンを見つけると、近くにいた悪魔の気配がスッと消えた。
いつも制服を着ている時は目にすることができない彼の表情が厳しいものになり、眉間に皺が寄る。
大股で近付いて来ると、彼は座り込んでしまっていたマリオンと視線を合わせた。
「大丈夫か? マリオン」
茫然としながらマリオンは小さく頷いて、彼の名前を呼んだ。
「カルヴィン……」
すがるような響きを持っていたからか、カルヴィンの眉間の皺が深くなり、何かを耐えるように口が引き結ばれる。
「ちょっと待ってろ」
カルヴィンは立ち上がると、薄闇の中でもすぐにオイルランプの場所を見つけて、持っていた点火棒から火を移してくれた。
部屋中が明るくなって、マリオンはようやく肩の力を抜く。
だがすぐに重要なことを思い出した。
「おばあちゃん!」
やはりエヴリーヌはどこにもいなかった。扉が開きっぱなしになっていたマリオンの部屋にも、エヴリーヌの部屋にも。
「おばあちゃんがいないの! いつもこの時間は家にいるのに。おばあちゃんは腰が弱いから、こんな時間に出掛けたりしないはずなのに!」
必死の形相で訴えてくるマリオンに驚きつつ、カルヴィンは落ち着けと肩に手を置いた。
「悪魔が原因かどうかはわからない。とりあえず家の中でおかしなところがないか見てみるんだ」
カルヴィンも状況を把握できなくて困惑している様子なのに、どうすべきなのか真剣に考えてくれている。だからマリオンは素直にそれに従った。
まずエヴリーヌの部屋へ行き、彼女がいない理由がそこにないか探した。
しかしすぐにカルヴィンに呼ばれたので居間へ戻ってみると、メモが書かれた紙切れを差し出された。
そこにはエヴリーヌの字で、四階に住む知り合いの若夫婦の奥さんが風邪で熱を出したので、看病と子供の世話をしに行く。今日は帰らないかもしれない、ということが書かれていた。
マリオンは力が抜けてその場に座り込んだ。
エヴリーヌは無事だった。不安はただの杞憂だったのだ。だが、それだけではマリオンは安心していられなかった。
「何があったんだ」
カルヴィンが手を差し伸べながら聞いてくる。その手を見つめてから顔を上げて、険しさと気遣いが混ざり合った表情をぼんやり見た。
「わたしの大切な友達だって言ったの」
「は?」
「あの悪魔。さっきここに悪魔がいたの。そいつアルノーたちを怪我させた悪魔だよ。わたし見たから。煙突の中にいるのを」
「何言って……。見たってどういうことだよ」
マリオンの要領を得ない言葉に混乱しながらも、カルヴィンは煙突の中で見たというところに大きく反応した。
「マテューが落ちそうになってたの。だからアルノーと女将さんとでどうにかしようとして……。煙突の中を覗いてみたらあいつがいたの」
「おい、悪魔にむやみに近づくな。契約済みの悪魔じゃなかったら、唆されてあんたが契約させられていたかもしれないんだぞ」
「でも、本当に悪魔がいるのか確かめなきゃと思って……」
怒られて肩を落とすマリオンにカルヴィンは何も言えなくなった。立ち上がろうとしないマリオンと目を合わせるために屈み込む。
「それで?」
「……その悪魔がここにいたの。わたし誰と契約しているのかって聞いて……そしたらそいつ、わたしの大切な友達だって、そう言っていたの」
あの悪魔の標的である煙突掃除人と係わり合いを持っている、マリオンの大切な友達なんて一人しかいない。
「でもアルノーがそんなことするはずないよ。それにアルノーはまだ子供だもん。悪魔は子供とは契約をしない。そうでしょ?」
絶対に違う。アルノーではないと思っているのに、悪魔がマリオンの不安を煽ったせいか、焦燥感が生まれて消えてくれない。誰かにその通りだと言ってほしかった。
しかしカルヴィンは頷かなかった。ますます眉間の皺が深くなってマリオンから目を逸らす。
「カルヴィン?」
「……確かに悪魔は子供とは契約をしない。でも……それは悪魔にとっての子供であって……人間が思う子供と、悪魔にとっての人間の子供は基準が違うんだよ」
「どういうこと……?」
「アルノーは今いくつだ?」
「十三歳」
「俺もはっきりとはわからない。でも、十三歳なら、悪魔は子供とは認識していないかもしれない」
マリオンは息が詰まりそうになった。
「でもっ! アルノーは悪魔なんか信じていないもの! さっきようやく、いるかもしれないってちょっとだけ思うようになったくらいなんだよ!」
「……そうだな」
今度はカルヴィンも頷いてくれた。
しかしマリオンはその直前に、カルヴィンが何か言いたげに瞳を揺らしていたのを見逃さなかった。
カルヴィンはアルノーのことをあまりよく知らない。だからそんな態度を取るのだ。反発心に似た気持ちでそう思う。
マリオンは勢いよく立ち上がった。
「どうした?」
予想しなかった動きにカルヴィンが驚く。
「アルノーのところに行ってくる」
決然とマリオンは言った。
「は? もう夜になるぞ」
「ガス灯を辿って行くから大丈夫よ」
「いや、さっき悪魔に会って恐い思いしたばっかりだろ。今日は明るくして家にいろよ」
「だからだよ。関係ないはずの、さっきたまたま居合わせただけのわたしのところに来たくらいだもの。アルノーのところに悪魔が行っていてもおかしくないし、アルノーがまた危険な目に遇っているかもしれない」
マリオンはすぐにでも玄関へ向かおうとした。
「待てって。アルノーは契約者じゃない。大丈夫だから落ち着けよ」
普段はあまり表情を動かそうとしないくせに、カルヴィンはとても正直な性格らしい。本心からそう思っているわけではないことが口調や態度から透けて見えてしまっていた。
「落ち着いているし、わかってる! でもすごく嫌な感じがするの! とにかく行ってくるから」
まったく落ち着いているように見えないことを自覚しながら、マリオンは自分の意思を貫くために、カルヴィンの目を強く見据えた。
アルノーが契約者であろうとなかろうと、とにかく心配でたまらなかった。
困りきった顔で見返していたカルヴィンは、諦めたように息を吐く。
「わかった。俺も一緒に行く」
マリオンは驚いて目を丸くした。
「いいの?」
「一人で行かせるわけにいかないだろ。それにどの道、本当はこのあと様子を見に行くつもりだったんだ」
「ありがとう!」
ほっとしてマリオンは笑顔を浮かべた。
申し訳なくもあったが、もしアルノーに本当に何かがあったとしたら、自分よりもカルヴィンのほうが役立ちそうだった。
そうと決めれば、二人はすぐにアルノーの家へ向かった。