11 安堵、そして次なる不安
腕を強く引かれた。
視界を覆っていた闇がなくなり、マリオンの目の前にあるのは、渋い色合いのどこにでもありそうな居間の風景になる。
アルノーや女将や家主の男性から凝視されながら、マリオンは数秒ほど、この日常的な風景の中に自分がいることが信じられなかった。壁一枚を隔てた向こう側、煙突の中はあまりにも非日常だった。
「何だよ、何があったんだよ!」
悲鳴のようなマテューの声がして、マリオンははっと我に返った。
「マテュー、降りてきちゃ駄目!」
「マリオン!? どうしたんだよ!」
「悪魔がいたの!」
目を見て訴えると、アルノーは今度は怒り出さなかった。代わりに困惑した顔をマリオンに向ける。
「本当にいたのか!?」
家主の男が叫んだ。
「ふざけるな、何だって俺の家に! くそっ、光を灯さねぇと、マッチはどこだ!」
「待てよ、煖炉に火を点ける気かよ、マテューが落ちちまったらどうする気だよ!」
「悪魔を追い出さなきゃならんだろうが!」
マッチを擦ろうとする男と、止めようとするアルノーと女将とが取っ組み合う。
マリオンはそれを見ながら混乱する頭でどうするべきか必死に考えた。
煙突の中が暗闇ではなくなれば、確かに悪魔はいなくなるだろう。しかしそこに力尽きたマテューが落ちてきたら、マテューは助からないかもしれない。もうとっくに落ちていてもおかしくはないだけの時間が経っているとアルノーは言っていた。
そこでふと、マリオンは違和感を感じた。
何かおかしい。
そう、悪魔がただマテューの落下を待っているのがだ。
この悪魔の目的が、マテューを落とすことならばの話ではあるが、これまでの経緯からしてそうなのだろう。
でもそれなら悪魔はロープを上から切ればいいだけだ。今日カルヴィンから聞いた話のように。それをしないのは、できない理由があるからなのだろうか。
「マテュー、あなた煙突のどの辺りにいるの? かなり上のほうにいるの?」
先程の衝撃をまだ引きずっていたマリオンの声は掠れていた。もう一度大声で同じ言葉を繰り返してようやく返事が返ってくる。
「そうだよ。入り口のほうにいる!」
「はぁ!? だったら早くそう言えよ! お前ずっと降りられないってばっかり言ってるからてっきり! ……ああ、くそ!」
アルノーは苛立ちまぎれに床をだんっと踏み鳴らしてから、外へ飛び出して行った。
屋根に登って煙突の上のほうからロープを引っ張るつもりなのだろう。
やはりマテューはかなり上のほうにいたのだ。悪魔がロープを切れなかったのは、マテューの頭上が光の届く場所だったから、そこへは行けなかったのだ。
マテューは混乱と恐怖と下に意識が集中したことで、ただアルノーに引っ張り上げてもらえばいいというだけの、正常な判断ができなかったようだ。
マリオンはほっとしてアルノーが間に合ってくれることを祈った。自分は女将と二人で、この男が煖炉に火を点けるのを阻止しなくてはいけない。
アルノーに助けられたマテューは体が硬直して、しばらくはまともに動けないようだった。
それでももう高い場所にいるのは嫌らしく、半分落ちるようにして屋根から降りてきた。自分と同じ体型の人間をロープで引っ張り上げたアルノーも体力をかなり消耗しているようで、手を貸すこともできずゆっくり降りてくる。
ようやく地面に降り立ったマテューは、青ざめた顔でガクガクと震えていた。
「しっかりして、マテュー。もう助かったのよ。あの男の人が思いっきり煖炉に火をいれているし、あの煙突にも、もう悪魔はいないわ」
マリオンも怖い思いはしたが、マテューがあまりにも震えているので気の毒で、自分の経験は大したことではないと思えてくる。必死でマテューを宥めようとするが、彼はまったく聞こえていないようだった。
「嫌だ……。もう嫌だ」
体を隠すように丸めて、泣きそうな声で何度も同じ言葉を呟く。
「とにかく立てよ、マテュー。今日はクソジジイの所に行かなきゃいけないだろ」
疲れ果てた表情でアルノーが言うと、マテューは急に勢いよく顔を上げた。
「……あいつだ」
「え?」
「あいつがやったんだ! いつもそうじゃないか! 俺たちを酷い目に遇わせるはいつもあの親父なんだ!」
「おい? 落ち着けって。何のことだよ」
「悪魔だよ! 親父が悪魔に俺を襲わせたんだ! あいつならそれくらいのことはする!」
「はぁ?」
アルノーとマリオンは困惑する。しかしマテューはその考えに囚われてしまったのか、二人のそんな様子には気づかない。
「俺たちのことが気に入らないから、だからこんなことをするんだ。殴ったり朝から晩まで何時間も働かせるだけじゃ足りなくて、悪魔にまで頼んで痛い目に遭わそうとしているんだよ!」
「落ち着けって、マテュー! いくら何でもクソジジイなわけないだろ。俺たちが怪我ばかりしていたら、あいつだって金が稼げなくなるんだからさ」
「じゃあ他に誰がいるんだよ。俺たちをこんな酷い目に遭わせるのなんてあいつだけだろ!」
「悪魔に願いを叶えてもらったら魂を差し出さないといけないのよ。命と引き換えにするようなことじゃないと思うよ」
二人がかりで落ち着かせようとするも、マテューはまるで話を聞こうとしなかった。
絶対にあいつだと言って元凶をバルモン以外に認めようとしない。
「もう嫌だ……。あいつのところでなんかもう働きたくない……。もう煙突掃除なんかしたくない……」
頭を抱えて震える姿にマリオンもアルノーも途方に暮れた。
「はぁ……。とりあえず俺はこいつを家まで送ってから、一人でクソジジイのところに行ってくるよ」
「わたしも行くよ」
「いいよ。マリオンがいたら話が面倒になる。そろそろ暗くなるしマリオンは帰れよ」
「……アルノーは大丈夫なの?」
心配そうな顔をするマリオンに、アルノーは肩を竦めた。
「もうあのクソジジイにマテューを近づけさせないほうがいいだろうしな。煙突掃除も多分辞めるだろ。まぁ、ジジイにいろいろ言われるだろうけど、適当に聞き流してくるよ」
「アルノーも辞めてよ」
昨日とは違い、マリオンは険しい顔で、声を固くして言った。
「悪魔、いたよ。ちゃんとこの目で見た。輪郭はあやふやだったけど、あれが悪魔なんだってわかった。アルノーはまだ信じられない? マテューのこの様子が幻覚のせいだって思う?」
そうだ、とは言わなかった。でもアルノーがその気持ちを捨てきれないでいることも、もしかしたらという思いが芽生えていることも、なんとなくマリオンにはわかった。
「お願い。アルノーだってまた同じ目に遭って、今度は治らないくらいの怪我をするかもしれないんだよ。わたしは絶対にそんなことになってほしくない。お願いだからアルノーも煙突掃除を辞めてよ」
「あー、もう!」
アルノーは頭をガシガシとかいた。
「わかったよ! どうせこれからの時期仕事がなくなってくるし、もっと割のいい仕事見つけてからにしたかったけど、辞めてやる。しばらくは工場仕事でも仕方ねぇな」
「アルノー! よかった!」
ほっとしたマリオンはアルノーに笑いかけた。
「わたしもアルノーの仕事探し手伝うからね」
「おう」
これでアルノーが怪我をする心配はなくなった。そのせいで他の子供が怪我をしてしまうかもしれないが、だからといってアルノーが犠牲になればいいものでもない。それにマリオンは見ず知らずの子供よりもアルノーのほうが大事だ。
ただ、このまま放っておくのも気が引ける。カルヴィンが何か行動を起こしているかもしれないし、協力できることがないか今度聞いてみよう。
「はぁ、ジジイが荒れるな」
「あっ、やっぱりわたしも一緒に行くよ」
「いいっての。余計に荒れるだけだから。言うだけ言ってさっさと逃げてくるよ」
逃げ足が速いことは知ってるだろと、アルノーは笑った。
また日が長くなっているのか、マリオンが家に帰るために歩き出した頃は、夕方だというのにまだ外は明るかった。
しかし家に近づくにつれてどんどん薄暗くなっていく。
ガス灯はまだ灯っていない。マリオンの家がある辺りは、いつも最後に灯し人が来るのだ。
普段ならばまったく気にならないくらいの薄暗さが、今日に限っては不安を煽った。先程の出来事を思い出してしまう。暗闇の中にいる悪魔を。あの目に自分が認識されたということを。
マテューに対する心配や、アルノーが仕事を辞める決意をしてくれた安堵で忘れていられたのに。
マリオンは早く家に帰りたくて早足になった。家に帰ればエヴリーヌが明かりを灯して待っていてくれる。マリオンにとって最も安心できる場所だ。
アパルトマンが見えた時、マリオンはほっと息を漏らした。
ガス灯はまだ灯っていなかったが、じきに来てくれるだろう。ここまで来ればきっと大丈夫だ。
アパルトマンの階段は外よりも暗くて、マリオンは駆け上がった。家の扉が見えたことで頬を弛める。
いつものように扉の向こうは暖かい明かりが灯されていて、エヴリーヌが夕食の支度をしながら帰りを待っていてくれているのだと、そう信じて疑わなかった。
だからマリオンは茫然としたのだ。
部屋の中が階段よりも薄暗く、人の気配がないことに。
「おばあちゃん……?」
返事はない。
確かにここはマリオンの家で、エヴリーヌがいないことを除けば、おかしなところなどないはずなのに、どこか余所余所しく感じる。
それはマリオンの不安が生んだまやかしに過ぎないが、今のマリオンにはそんな冷静な判断ができるほどの余裕がなかった。
暗い部屋。ガス灯はまだ灯らない。
悪魔が来る。
「明かりを……!」
とにかく部屋を明るくしなくてはと思った。
しかし暗いせいもあるが、こんな時に限ってオイルランプに火を入れるためのマッチが見つからない。
ここしばらくはずっと、夕方にはエヴリーヌが家にいてくれて、マリオンの帰りを待ってくれていたから、マリオンがマッチの在りかに頓着していなかったというのもある。
慌てて探し回っていたのが悪かったのだろうか。
部屋の隅、一段と暗い場所で、マリオンはあの目を見つけてしまった。