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ソワレと灯火  作者: 山吹ミチル
一章
10/43

10 悪魔の標的

 マリオンはカルヴィンと別れてすぐ行動に移した。

 今まではきっと無理だろうと思い、アルノーの雇用について尋ねていなかった人たちにも、声を掛けるようにしたのだ。

 結果はやはり芳しくない。


「うちは息子も孫もいるからなぁ。後がつっかえてるのに、他人を雇うわけにはいかねぇよ」


 古本屋のセオドアはマリオンが男と連れ立ったことについて、やたらと心配事を口にしてから、ようやく質問に答えてくれた。

 予想通りの答えにマリオンは、子供の働き手を安くない給料で探している人がいたら教えてほしいと頼んでおく。期待はできないが、何もしないよりはましだ。

 青果店のアンナに至っては控えめながら嫌そうな顔をされた。


「あんたまだあの子供の世話を焼いていたのかい? もういいんじゃないかい。手を引いても。いや、あたしは煙突掃除の子供に罪があるなんて思っちゃいないよ。でも仕方がないんだよ、こういうのは。客商売なんだから、厄介事は極力避けていなくちゃいけない。元煙突掃除人を食品店が雇っているなんて知られたら、何を言われるかわかったものじゃないよ」


 普段は気のいいおばさんである彼女でさえ、こんな感じなのだ。

 アルノーが割のいい仕事に就くことなど無謀に思える。

 しかし諦めるわけにはいかない。明日にでもアルノーはまた怪我をして、今度は取り返しのつかないことになるかもしれないのだ。本当はすぐにでも辞めさせたいが、それだと食べていけない。少しの間であればマリオンとエヴリーヌとで援助するという手もあるが、そうするための説得に、アルノーが応じてくれるわけがなかった。

 次は噂話が大好きな、アパルトマンの管理人に相談すべきか悩みながら歩いていると、そこにやる気がなさそうに夕刊を売り歩いているジョセフがいた。


「こんばんは、ジョセフさん。新聞配達の人手は足りている?」

「何だい、マリオン。うちはチビどもが三人もいるんだ。人手は足りてるよ」

「そうよねぇ」


 マリオンはふとあることを思い付いた。


「ねぇ、ジョセフさん。バルモンっていう煙突掃除人の親方の家を知っている?」

「ああ、あのケチのバルモンかい? 知ってるよ。うちが配達をやっているからな。カッサニア通りのオリーブ色の屋根のアパルトマンに住んでいるぜ」

「そう、ありがとう」

「マリオン、あの男に文句でも言いに行く気かい? やめときな。痛い目を見るだけだ」


 ジョセフはバルモンがアルノーの雇い主だと気づいたのか、心配そうに忠告する。


「いえ、奥さんに用があるだけだから大丈夫よ。ありがとう」


 適当なことを言ってマリオンはジョセフと別れた。

 バルモンに文句を言ってやりたいと思ったことはある。アルノーはマリオンにはあまり知られないようにしていたようだが、彼の雇い主が横暴であることはなんとなく気づいていた。

 でもそんなことすれば困るのはアルノーだ。解雇されてそれで終わりということにしかならない。

 美しく発展的なパリの街も、こんなところは他と変わらない。いつだって立場の弱い者が辛い目に遭う。そして弱い立場から這い上がるには、努力だけではどうにもならないことが多すぎる。

 カッサニア通りに出たマリオンは目当ての建物をすぐに見つけた。かなり大きくて人気のありそうなアパルトマンだ。

 周囲を見回すとパン屋と洗濯屋がある。

 マリオンは洗濯屋の扉を押した。


「お客さん、今日はもう終わりだよ」


 四十歳ぐらいの女性がカウンターらしき台の向こうで、シーツにアイロンをかけながら、こちらを見ずに言った。


「こんにちは、ここにバルモンの奥さんがいるって聞いたのだけど」


 彼女はアイロンの手を止めてマリオンのほうを向いた。


「バルモン? ああ、あの煙突掃除の。奥さんならここじゃないよ。パンの配達女をやってるはずだ。ほら、通りの向こうの」

「まあ、わたしったら聞き間違えたのね、ありがとう」


 驚いたふりをしたあと、マリオンはチラチラと彼女を意味ありげに見た。言いたいことがあるが、言うべきかどうか迷っているというように。

 噂話が最大の娯楽である下町で、こんな態度を取られて無視ができる女性はほとんどいないのだ。果たして彼女はあっさりとマリオンの思惑に乗ってくれた。


「何だい? 何かあったのかい?」


 好奇心を隠さずに聞いてくる。マリオンは僅かに躊躇ったふりをしてから口を開いた。


「旦那さんの悪い噂を知っている?」

「旦那? あいつなら悪い噂はたくさんあるからどれのことかわかんないよ」


 マリオンが声をひそめると、洗濯婦もつられて小声になった。


「そうよね。わたしが聞いたのはあの旦那が雇っている子供の怪我があまりにも多すぎて、とうとう子供の父親の一人が我慢できずに報復しようとしているということよ。あの旦那はどんな目に遭ったって自業自得だけど、奥さんはいい人でしょう? 心配なの、わたし」

「奥さんがいい人? それはないよ。あんな陰気で無愛想な女。心配してやる必要なんかないさ。あの家で唯一まともなのは息子ぐらいだろ」

「息子さん?」

「そうだよ。あの夫婦の自慢の種なのさ。頭がいいからがんばってお金を貯めていい学校へ行かせたんだってね。他人の子供は酷い扱いをするのに、自分の子供は可愛くてしょうがないのさ。だいたいがんばって金を稼いでいたのはあんたじゃなくて、子供たちだろうに。酷い話だよ、まったく」


 彼女はアイロンを再開させながら流暢にしゃべった。


「やっぱり恨みはたくさん買っているのね」

「嫌っていない人間なんかいないくらいさ。この前だって酔って酒場で暴言を吐きまくっていたし、無理やり奢らせようとするしね。まあ、これくらいのことなら、同じことをする奴はたくさんいるけど」


 アイロンを立て掛けて、彼女は身を乗り出してきた。


「それで、その報復しようとしている父親ってのはどこの誰なんだい? 明日にでも来そうな様子だったかい?」


 野次馬してやろうという魂胆が透けて見える。でたらめを言っていたマリオンは困って首を振った。


「わたしが直接見たわけじゃないわ。でもわたし奥さんに親切にしてもらったことがあるから、心配になったの」

「あの女がねぇ。まあ、教えてやりたいなら、パン屋かアパルトマンへ行きなよ」

「ありがとう。そうするわ」


 マリオンは礼を言うとさっと店を出た。

 通りで長い息を吐く。

 上手く聞き出せなかった。本当はバルモンに最近変わったことがないかを知りたかったのに。

 しかし洗濯婦のあの噂好きそうな様子では、目立つ出来事があったなら、率先して教えてくれていただろう。ここまで来てわかったことは、バルモンが小さな恨みならたくさん買っているということぐらいだ。

 マリオンはひとまず家の近くまで戻ろうと歩き出した。今日は花売りの仕事がすぐに終わったが、もうそろそろ夕方になる。





 歩き慣れた通りまで来たマリオンは、突然大声で名前を呼ばれた。


「ああ、マリオン! よかった、ちょうどいいところに!」


 昼間に花を買ってくれた宿屋の女将さんだった。彼女はマリオンの姿を見つけてほっとした様子だったが、すぐに慌てたように手招きする。


「ちょっと来とくれ! 大変なんだよ、アルノーたちが!」

「えっ!」


 マリオンの背筋が凍った。

 アルノーが怪我をしたのだ。そう思ったマリオンは彼女の元まで駆け寄った。


「どこにいるの、アルノーは!」

「こっちだよ、とにかく来とくれよ」


 心底困ったという顔で女将はマリオンの腕を引っ張った。

 彼女が入っていったのは宿屋の隣の小さな家だった。マリオンは知らない人物の家だ。

 その家の居間まで来ると、マリオンは安堵で足の力が抜けそうになった。アルノーがいたからだ。一見してどこも異常はない。


「マリオン!? どうしたんだよ」


 アルノーが驚いて尋ねた。

 そういえばどうしたというのだろうか。てっきりまたアルノーが煙突から落ちたのだと思い込んでしまったがそうではないらしい。

 マリオンが女将に事情を聞こうとすると、その前に怒鳴り声が響いた。


「いい加減にしやがれ、この薄汚れたガキどもが! さっさと俺の家から出ていかないか!」


 部屋の隅に初老の男性がいた。彼はアルノーに近づきたくないのか、距離を置きつつ忌々しそうに睨んでいる。


「今すぐ出ていかないと警察に突き出すぞ! バルモンの野郎にも文句をいってやるからな!」

「ちょっと、そこまでしなくたっていいだろう?」


 女将が遠慮がちに意見を言うも、今度は彼女を睨み付ける。


「こんな薄汚いガキに家に居座られる俺の身にもなってみろ! なんだって俺をこんな目に遇わせるんだ、え? 俺は煙突掃除をしろと言っただけなんだぞ!」

「こっちだってこんな陰険臭い家に長居したくなんかねぇよ。マテューを回収したらすぐに出てってやる」


 アルノーがうんざりしたように言った。


「なんだと、このガキ!」


 男性は顔を真っ赤に染めて、怒りからか腕をぶるぶると震わせた。かなり頭に血が上りやすい性格らしい。


「血管切れるぞ、ジジィ」


 ぼそりと呟いたアルノーの言葉は幸いにして彼には聞こえていなかった。しかし既に我慢の限界は越えていたのか、荒い足取りでアルノーに向かっていく。

 マリオンは慌てて二人の間に立ち塞がった。


「待ってください。何があったんですか」


 男性は驚いて立ち止まった。拳を握りしめてはいたものの、女でありまだ若いマリオンにそれを降り下ろすほど、冷静さを欠いてはいなかったようだ。


「マテューが出てこなくなったんだよ。体が動かなくなったって言って」


 アルノーが事情を説明する。


「え? マテューが? そこにいるの?」


 煙突掃除仲間としてはアルノーから唯一聞いたことのある名前だ。出てこなくなったというのは煙突からだろう。アルノーは煖炉の前にしゃがみ込んでいる。

 アルノーは眉間に皺を寄せて、言いたくなさそうに口を開いた。


「悪魔がいるって言うんだ。それで怖くて体が動かなくなったんだと」

「はっ! 録でもないことしかしていないから、悪魔になんぞ狙われるんだろう!」


 いい気味だと家主の男が笑った。

 アルノーは一瞬だけ目付きを険しくしたが、相手にするべきではないと顔を逸らす。マリオンも文句を言いたくて仕方がなかったが、マテューが煙突の中に居たままなら、そちらを先にどうにかしなくてはいけない。


「マテュー、いい加減に降りて来いよ。ゆっくり体を動かすだけだ」


 煙突の中に向かってアルノーが叫ぶ。


「む、無理なんだって言ってるだろ! 本当に腕が動かなくなったんだ。それに下に行ったらあいつがいる!」


 反響した声がかろうじて聞こえてくる。


「あいつって悪魔のこと?」

「多分な」


 マリオンは煖炉をじっと見た。この壁の向こうに悪魔がいると、マテューは言っている。


「本当にいるの?」

「はぁ? いるわけないだろ。あいつ今日、他の奴らが悪魔に襲われたって喚いているのを聞いちゃったんだ。それで不安になって幻覚とか見てるんだよ、きっと」

「確認した?」


 真面目な顔でマリオンが問うと、アルノーは絶句した。


「……マリオン! 今はそんな馬鹿なこと言ってる場合じゃねぇだろ! 早くあいつを降ろさないと。もうずっとああしているんだ。とっくに腕がもたなくなって落ちててもおかしくないのに」

「でも本当に悪魔がいるなら、ゆっくりだって降りてくるのは危険かもしれないわ」


 そうはっきりと言うと、アルノーは口を開けたまま信じられないものを見る目でマリオンを見た。

 確認しなくちゃとマリオンは思った。

 マテューを更に危険に晒させないためにも、容易にその存在を認めようとしないアルノーのためにも。

 それにマリオンだってまだ完全にこれが悪魔の仕業だと認めているわけではないのだ。だから知りたい。

 暗闇の入り口である煖炉に向かって、マリオンは足を進めた。


「マリオン、危ないだろ! マテューが落ちちゃったらどうするんだ!」

「覗くだけよ」


 止められないためにマリオンは素早く動いた。恐怖心がないわけではない。でも本当にちょっと覗くだけだ。

 煖炉の前に陣取っていたアルノーを押し退け、体を捻って煙突の中へ顔を半分だけ入れる。

 そこは一見して、細長い闇が続いているだけのようではあった。遠いのかマテューさえ見えない。

 しかしマリオンは本能的にそれを感じた。

 ――何かいる。

 それは視覚でもすぐに証明された。

 入り口付近以外では光は一切届いていないはずなのに、闇が動いて見えたのだ。そして二つの白い点が浮かび上がった。

 それが段々と大きくなって丸ではなく裂け目のような形をしていることに気がつく。

 目、なのだとマリオンは思った。

 オレンジがかった白い色なのに、決して光ではないそれが少しずつ大きくなっているのは、近づいているからなのだと理解した時、マリオンは自分の体が硬直していることに気がついた。

 部屋から漏れる光が届かない場所で、それはぴたりと止まった。

 嗄れてくぐもった声が響く。


≪邪魔、スルナ≫


 その目は確実にマリオンを見ていた。


「きゃあああ!」

「マリオン!」

 

 



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