1 ガス灯が灯る
ポツ、ポツ、と火が灯る。
幻想かと見紛いそうなほど温かく美しい光景は、太陽が去り際に、その欠片を地上に落としていったかのようだと思った。
空を見上げてようやく薄い夜の帳が下りてきたのだと気づくような、そんな時刻。アパルトマンの二階、自分の部屋の窓から、マリオンはそれをじっと見つめていた。
目の前にあるのは、美しく発展的なパリの街角と、この街が誇る優美なガス灯。
その灯柱は細く、所々に丸みのある段差を作り、錆など決して許さない鋳鉄製となっている。先端にある上部に向かってやや広がる形の角灯のガラスは、光を柔らかく見せるために白く濁らせており、傘部分は花を逆さにしたような形をして、縁には草花をあしらった模様があった。
そんなガス灯の元で立ち止まった人物がいる。
彼は警邏隊のような制服を着ており、手には自分の身長ほどの長さの火種がついた棒を持っている。
その棒を角灯の中へ差し込んだ。底面は覆われていないので難なく入っていき、先のほうに付いているフックでガス栓を開ける。すると火種がガスに引火した。
ポッとガス灯が灯る。
また一つ、太陽が欠片を落としていった。
薄闇を照らす光は、心を落ち着かせる。
マリオンは窓を開け放ち、笑顔で路上の彼に声をかけた。
「こんばんは、ムッシュー。灯し人さん」
急に二階の窓から話しかけられた彼は、頭上を見上げた。
そこにいたのは茶色が混ざった金髪に空色の瞳をした、十六、七歳ぐらいの可愛らしい少女だった。彼は微かに驚いて目を瞬かせる。
一方、マリオンのほうからは彼がカスケットを目深に被っているので口元しか見えず、落ち着き払っているような印象を受けた。
「こんばんは、お嬢さん」
彼は礼儀正しく挨拶を返してきた。低く若い青年の声だ。
マリオンは嬉しくなって笑みを深くする。
「とても綺麗な灯りね。ずっと見ていたくなるわ」
すると彼は首を傾げた。
「ただのガス灯だ。どこにでもある」
「どこにでもあったって綺麗なものは綺麗だわ。一つ一つ火が灯っていくのを見るのが好きなの。あそこから」
マリオンは街の中央からやや南に位置する、時計塔のある教会を指差した。
「道を辿ってゆっくりここまで近づいてくるの。その間に路地の物売りが仕事を切り上げて、酒場が賑わい出して、教会は夕方の一番大きな鐘を鳴らしたわ。そしたら陽気でお洒落なパリの街がいつの間にか、どこかに秘密を抱えている夢の中の街のようになっているのよ。不思議だわ」
勝手に好きなことをしゃべり出したマリオンをどう思ったのか、彼は無言になった。マリオンは慌てて言い繕う。
「あっ、ずっとぼうっと見てたわけじゃないわよ。ちゃんと仕事もしていたわ。いつもレース編みをしながら眺めているの。レースと窓の外を何度も交互に見ているから、首が丈夫になっちゃった」
「そう」
彼の返事は素っ気ない。マリオンは肩を落とした。
「……今日は月がない」
目に見えて気落ちしたマリオンに何を思ったのか、彼はそんな言葉を投げかけてきた。
「月? ええ、そうね、今日は空が雲っているわ」
「こんな日は悪魔がやって来やすい。気をつけて」
この街ではよく交わされる挨拶のようなものだった。悪魔が来るかもしれない、気をつけて。
マリオンは笑顔に戻った。
「ふふ、ありがとう、でも大丈夫よ。だってわたしの部屋の前にはガス灯があるのよ。シャルムの灯火がちゃんと守ってくれるわ」
楽観的にも聞こえる口調だったからか、彼の口が不満げに歪んだ。
「灯火が近くにあろうと、夜がふければ暗闇から近づいてくる悪魔はいる。簡単に大丈夫だなんて言うものじゃない」
明らかにこちらを気遣う言い方だったので、マリオンはますます口元を弛ませて、綻ぶような笑顔を見せた。
「ありがとう。ちゃんと気をつけるわ。悪魔に声をかけられても絶対に返事なんかしないから」
「……ああ」
すると彼は長話をする気はないとばかりに背を向けて歩き出した。マリオンは窓から身を乗り出して声を大きくする。
「お仕事お疲れ様!」
返事はなく、彼は片手でカスケットを少しばかり上げる仕草をした。
マリオンはしばらくその後ろ姿を眺めていたが、急に身を翻すと、足早に部屋を出た。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
台所にいたマリオンの唯一の肉親である祖母のエヴリーヌは、椅子に座って皮剥きをしていたじゃがいもから目を離すことなく返事をした。
「どうしたの、マリオン」
マリオンはそんなエヴリーヌの足元にしゃがみこむと、まくし立てるようにしゃべり出した。
「聞いて、今日はお話しできたわ! お話しよ、挨拶じゃなくて会話ができたの。顔はほとんど見られなかったけど、別に迷惑そうじゃなかったと思うわ。うん、そういうことにしておくわ。だって世間話をしていただけだし、この地域の灯し人さんはわたしの部屋の前にあるガス灯が最後のお仕事でしょう。ちゃんとお仕事が終わってから声を掛けたのだから、迷惑ではないわよね。それに気をつけてって言ってくれたわ。今日は月がないからって。わたしが大丈夫よって言うと、簡単にそんなこと言うなって叱られちゃったわ。それって心配してくれたってことよね」
微笑みながら孫娘の話を聞いていたエヴリーヌは、作業の手を休めずに穏やかに言った。
「よかったね、可愛いマリオン。お前の声は綺麗だし、おしゃべりは楽しい気持ちにさせてくれる。迷惑だと思う人間なんているわけがないよ」
「そんなこと言うの、おばあちゃんだけだわ」
マリオンは困った顔を作ろうとしたが、上手くできずに笑ってしまう。
「でももっと親しげにお話しできるようになれないかしら。別れ際にね、帽子を上げる仕草をしてくれたの。かっこよかったけど、でもそれってちょっと余所余所しいわよね。今度は手を振ってくれたらいいのに。それからその後は名前で呼んでくれないかしら。じゃあまた、マリオンって言ってもらっちゃったら……」
きゃーと小さな悲鳴のような歓声を上げてマリオンは身悶えた。しかしすぐにはっと我に返ると、恥ずかしそうに両手で顔を覆う。
「もぅ、また一人で盛り上がっちゃったわ。こんなんじゃ相手にしてもらえないわよ」
マリオンは項垂れた。ただでさえ子供っぽいと言われることが多いのに。いや、自分では全くそんな風には思っていないのだが、なぜか人からよく言われるのだ。おしゃべりなせいだ、きっと。
心の中で言い訳するマリオンの頭に、皮剥きを中断したエヴリーヌの手のひらがポンと置かれた。
「お前は笑っているだけでいいよ。そうしたらその人とも仲良くなれるはずだ。マリオンの笑顔は人を優しい気持ちにさせるからね。それにいつだって笑ってくれているのだもの。いつでも笑っているっていうのはね、言うのは簡単だけど、とても難しいことなんだよ。お前はそれができるんだから、すごいことだよ」
微笑みながら愛おしそうに言うエヴリーヌの手はとても温かい。
「ありがとう、おばあちゃん。でもわたしおばあちゃんみたいになりたいだけよ」
「まあ、嬉しいことを言ってくれる子だね」
「本当よ」
信じていなさそうな祖母に、マリオンは念を押す。
「そうかい。それなら働き者にもならなきゃね。さぁ、そろそろ夕食の準備を手伝ってくれ」
「はぁい」
マリオンは明るく返事をして立ち上がった。
今日はエヴリーヌが昼間に通りを歩いていたヤギ飼いから買っていた新鮮なヤギ乳がある。シチューを作るために鍋を取り出して、野菜を入れると火にかけた。そして少し固くなってしまったパンを鍋の近くに置いて温めておく。
夕暮れから夜に移り変わると、二人で食卓を囲んだ。
その間、マリオンはずっとおしゃべりを続けていた。元々の性分もあるが、祖母が自分の他愛ないおしゃべりを聞いているのが好きだと知っているからだ。
幼い頃のマリオンはよくエヴリーヌに言われたものだ。
――マリオン、おばあちゃんに何かお話をしておくれ。
年老いた女性と若い娘の二人暮らしだというのに、このアパルトマンの二階の部屋は、静けさとは無縁だった。
夜もふけて就寝に入る前、エヴリーヌは部屋に入ろうとするマリオンに声をかけた。
「おやすみ、マリオン。今日は闇が深いから、本当に悪魔には気をつけるんだよ」
「ええ、おばあちゃんも気をつけてね。おやすみなさい」
その存在を見たことのある人間が、どのくらいいるのかは定かではない。しかしこの街のほとんどの人間は、悪魔が実在するのだと信じている。
だから夜中であろうと街は明るくなくてはいけない。悪魔は暗闇からやって来て、人間を唆して魂を奪ってしまうから。
マリオンは窓からガス灯を眺めた。
夜でも街を明るく照らしてくれるガス灯。
悪魔から守ってくれるこの光を、街の住人は魔法の灯火と呼んでいた。
「ムッシュー」は「ミスター」のようなものです。