9:神崎君枝
神崎君枝は、仕事から帰りようやく一息をついた。
吐き出したのは、溜息にも似ていたが、果たしてどういう類のものかは──よく分からなかった。
充実しているはずだ。
この雇用状況が芳しくない時勢で、幸いにも正社員の職に就いている。一人暮らしをして、貯金に回せる程の収入がある。自由に過ごせる。休日は好きな時間に起きて、好きな時間に好きなものを作って食べれば良い。
誰の面倒を見ることもなく、誰に干渉されることもない。文句を言われることもなければ、誰かに対して苛立つこともない。
充実している──はずだった。
何が悪かったのだろう。
鞄を床の上に置き、脚を放り出して座る。
昨日、娘が座っていた辺りを眺めた。
大きくなっていた。十年も経ったのだ。大人の十年はあっという間だが、子供にとっては長い長い年月だっただろう。
彼女は、相変わらず感情を押し込めた目をしていた。
──あのね、お母さん──……今の生活、楽しい?
そう訊ねられても、苦笑しか出てこなかった。
それは、娘に対してのものか、自分に対してのものか、どちらだろう。
あの夜、十年前──夫と喧嘩をした夜だ。娘は隣の部屋からじっと様子を伺っていた。出ていく、出て行け、の応酬の後、夫は居間を出ていった。
喧嘩のきっかけは、数日前に神社に顔を出した同級生だった。結婚はせず、仕事を続けているという。好きな仕事をする彼女は輝いて見えた。持っているブランドのバッグは、海外に旅行に行った時に買ったのだという。
数年前までは同じ教室に机を並べ勉強をしていたのに、別の世界の住人に見えた。
対して、自分はどうだろう。自分は、彼女ではないけれど──満ち足りているとは思えなかった。
姑に詰られ、家事に神社の手伝いに追われる日々。唯一の救いは、娘だった。寝顔を見るだけで、この子を守るのだと折れそうになる気持ちを支えられた。
だが、あの夜。
いつもなら聞き流す姑の小言に引っかかったのだ。
──君枝さんも、表に出るのならもう少し綺麗な格好をしてもらわないと。私がいじめていると見られるでしょう。
その日は慌ただしく、化粧もせずに社務所に顔を出した。それを言っているのだった。はあ、だの、ええ、だのとぼんやりとした返事をした。
それがまた、姑の気に障ったのだろう。
──この前来ていた人、同級生なの? 君枝さんの後輩かと思ったわ。
その言葉に、さあっと血が引いた。
老けていると直接言わず、そんな回りくどい言い方をする根性に腹が立った。唇を噛み締めて何も言い返さずにいる様子を見て溜飲を下げたようだった。
姑が部屋に戻り、入れ替わりのように風呂上がりの夫が姿を見せた。その呑気な様子に腹が立って仕方がなかった。
──私は、女中ですか。
ずっと抱えていた、けれども決して口に出してはならない言葉が口をついて出たのだった。突然、言いがかりのように投げつけられた言葉に夫は驚いて、どうした、何があった、と言った。
そんなこと、訊ねなくとも分かるだろうに。そこにまた腹が立って、後はもう感情に任せた言葉を投げつけたのだった。
若かったのだ。
夫は案の定怒った。決して謝りはしなかった。そういう人なのだ。気分が悪い、と吐き捨てて姿を消す。
喧嘩の後、結子が心配そうに近付いてきた。
──どこかに行くの?
この子を置いて、どこに行くのか。喧嘩だから、出ていったりしない、とすぐに答えられれば良かったのだろう。
その少しの間を、結子はどう受け取ったのだろう。
──いいよ。
そう言って、手にしていた糸切りバサミで左の小指の辺りを切ったのだ。
ハサミが音を立てて空を切る。けれど、その仕草にぞくりと鳥肌が立った。
いつだったか、結子は赤い糸が見えると言っていた。子供の言うことだから、何か絵本でも見て影響を受けて見える気になっているのだろうと微笑ましく聞いた。そして、確か赤い糸の話をしたように思う。
──それはきっと「運命の赤い糸」よ。
その赤い糸を、結子は切る素振りを見せた。実際に切ったのかは分からない。だが、つまりはそういうことなのだ。
姑に──結子にとっての祖母に──言われたのだろうか。糸を切ってやれ、と。どちらにしろ、結子にとって自分は出ていっても良い存在なのだ。
そこでもう、ここに居る理由が分からなくなった。
女中扱いされているのではなく、本当に女中としてしか見られていないのではないか。そう思うと、出て行きたいという気持ちになったのだ。
以前貰っていた離婚届に名前を書き込み、夜のうちに家を出た。ビジネスホテルに泊まり、友人のつてで仕事を紹介してもらい──今に至る。
けれど、離婚届は提出されないままだ。自分もまた、何が引っかかるのか離婚してくれと催促することはなかった。
何度か遠巻きに神社の様子を見に行ったこともあったが、鳥居は潜れなかった。
ならばもう、このままで良いのかもしれない。また誰かと再婚するという気にもなれないのだから。
鞄の中で、スマートフォンが震えていた。だらしなく寝そべり、鞄を手繰り寄せる。
「はい」
画面も確認せずに出ると、結子の声がする。
「どうしたの」
聞けば、明日の夜に店を予約したという。急な話だ。社会人を何だと思っているのだろう。けれど、特に断る用事もなかったからそのまま受ける。
明日、七時に梅屋。
梅屋は、何かあるたびに使っていた店だった。夫が決めたのだろう。
明日か──明日。七時ならば、会社から直接行けば間に合うだろう。
天井を眺めながらぼんやりと思い浮かべるのは、十年よりも更に昔のこと。短大を卒業して、就職して一人暮らしを始めたのが、あの神社の近くだった。
朝の散歩をした時に、掃き掃除をしている青年と出会ったのだ。
初めは挨拶を交わす程度だった。それが会話になり、どんどん長くなり──そして、ある日、言われたのだ。
──今度、食事でもどうですか。
君枝も同じように、もっと話をしたいと思っていたから迷うことなく頷いた。
それが、そもそもの間違いだったのだろうか。朝の散歩をしなければ。そもそも別のアパートを借りていれば。あの時、誘いを断っていれば。そうすれば、今はもっと別の──。
別の──何だろう?
考えても考えても、霧深い森の中を歩くようで答えが出てこない。
分かっているのは、少なくとも夫を、娘を嫌ってはいないということだ。
嫌ってはいないからこそ、何も思われていないことが受け入れられなくて、だから家を出た。
迷いなく好きだとは言えない。
十年のうちに、思いはどろどろと溶けて形を失って、それでも消化しきれずに君枝の中に留まっている。明日は、それを片付ける日なのだろう。
とりあえず、今日の夕食は納豆ご飯で終わらせようと思った。