7:再会
天気の良いうららかな日曜日。電車の中は家族連れや友人、恋人と共に楽しそうに談笑する人々で溢れていた。
そんな中にあって結子だけが浮いている。パーカーを羽織った装いは周りと同じなのだが、表情が重い。眉間に皺を寄せて、一点をじっと見つめていた。
『……神崎』
近衛が自身の眉間を人差し指でなぞる。この人混みの中で姿を見せられないから、今は結子にだけしか見えないようにしているらしい。それもこれも、あの白い糸のお陰なのだそうだ。
言われて、結子も自分の眉間を撫でる。痕が残りそうなほど、しっかりと皺が刻まれていた。指先で揉みほぐし、表情を和らげる。
これから母に会いに行く。父に告げると、快く休みを貰えた。
十年。十年、会っていないのだ。
十年といえば、産まれた子供が小学校高学年になっている年月だ。事実、小学校に入学したばかりの結子が高校に通っている。それ程に長い年月が流れているのだ。
母は、この十年をどう過ごしたのだろう。少しでも結子や父を思い出すことはあったのだろうか。
手摺を握る手がじっとりと汗をかく。
『安心しろ。断られた時は、わたしが無理矢理にでも引っ張っていくさ』
「……あまり乱暴なことはしないでください」
周りに聞こえないよう、小さな声で注意をする。
『常識の範囲内だ、安心しろ』
神使の常識をどこまで信頼して良いのか分からないが、とりあえずの返事に安堵とも不安ともつかぬ息を漏らした。
それまで、特に静かでもなかった電車内に、ひときわ大きな声が響く。何の拍子か、両親に連れられた三、四歳の男の子が泣き出したのだ。微笑ましく見守る者も居れば、あからさまに顔をしかめる者も居る。
「いいなあ……」
大きな口を開けて大粒の涙を零す男の子に、そんな言葉が漏れる。
男の子は、両親とお出かけなのだろう。父親が抱き上げて、懸命にあやしている。
「家族で、日曜の昼間から出掛けたことってなくて」
小さな頃から、家族でどこかに出掛けたことがなかった。年末から初詣の準備で忙しかったし、神社に休日などはない。旅行などもってのほか。
だから、出掛けるといえば社務所を閉めてからの時間だった。
「小学校の入学祝いに、豆腐懐石を食べに行ったんです」
個室を予約して懐石料理を食べたのを覚えている。小学生になりたての子供の舌には、ハンバーグやグラタンの方が魅力的だったけれど。あの頃が、一番幸せだったのかもしれない。
『同じ店を予約してもらうか』
「何のお祝いでもないんですよ」
安い店ではなかったはずだ。
『神崎家の新たな門出になる食事会だろう?』
近衛の言い方に、唇を尖らせて俯く。
どうなっても、新しい門出には違いないが、一方はあまり明るいものではないだろうに。
『そんな顔をするな。もしかしたら、良い方向に進むかもしれないんだ』
「……悪い方向に転ぶかもしれません」
『それは、神崎次第だろう』
この神崎とは、一家のことではなく結子を指しているようだった。
「両親の問題でしょう」
一緒に暮らすか、それともきれいに離婚するか。それは両親の問題だろう。結子は糸を結ぶだけで、あれこれ口を出すべきではないと思うのだ。
だが、近衛はなおも続ける。
『おまえも、神崎家の一員だろうに』
「一員、って──……」
スポーツチームでもあるまいし。そう続けそうになった言葉を遮るように、近衛が窓の外を見る。
『次の駅で降りるぞ』
窓の外の景色が次第にゆっくりと流れるようになる。駅のホームに滑り込み、電車が止まった。
母が住む家は結子の最寄り駅から五つほどしか離れていない街にあった。学校とは逆方向だから、あまり馴染みはない。
自動改札を抜けて、通りに出る。
『右に曲がって、しばらく真っ直ぐ』
近衛が横から出す指示に従って歩く。途中、通りかかった公園の桜は満開で、近所の住人が集まって花見を楽しんでいた。
「良いところですね」
公園もあり、住人が外に出ている。人々が表に出ない住宅街はゴーストタウンのようで怖ろしいが、この街は賑やかだった。賑やかと煩さは紙一重だ。もしくは、気持ちの問題か。
『まあ、悪い場所ではないな』
素直に良いと言えないのは、結木神社の神使ゆえだろうか。
『その角を、右。突き当りのアパートだ』
言われた通り右に曲がると、二階建てのアパートがあった。
『二階の二○五号室。角部屋だな』
アパートの前で立ち尽くす。ここまで来て、その先に進めない。足が、地面に貼り付いてしまったかのようだった。
『神崎? 行かないのか』
行こうとは思う。ここまで来たのだし、父にもそう告げたのだ。食事をする約束を取り付けなければ、糸を結べない。
だが、頭では分かっていても、身体が動かない。
母に会いたい、だが──会いたくない。怖い。その相反する思いが渦巻く。
『まだ午前中だ。ゆっくり考えれば良い』
「背中を押してはくれないんですね」
押して欲しい訳ではなかったけれど、ついつい口をついて出る。何か喋っていないともやもやとした思いに絡め取られてしまいそうなのだ。
『わたしのせいにされても困るからな』
「そうですよね、近衛さんはそういう方ですよね」
『わたしを薄情者のように言うな。神崎を信じているんだ。おまえなら、できるから』
そんなことを照れもせずに平気で口にする。しかも、微笑みながら。
「…………」
ずるい。強制されてもいないのに、やっぱり帰る、とは言えなくなるのだから。
深く息を吸い込み、吐き出し、勇気を奮い起こして踏み出そうとした時だった。
二階の角部屋の扉が開き住人が出てくる。短い髪の女性。ベージュの春物のコートの裾がひらりと風に揺れる。細身のデニムパンツを履き、かかとの低い靴を履いている。
記憶の中にある母は、まだ二十代の姿だ。十年、歳を重ねればどうなっているだろうか、とあれこれ想像をしてみたが、その姿とは重ならない。重ならないのに、すぐに分かった。
階段を下りきった女性は顔を上げ、双眸を見開く。
「ゆいこ……?」
女性は、懐かしい声で結子を呼んだ。
「買い物に行こうとしていたのよ。入れ違いにならなくて良かった」
母は、結子を家にと招いてくれた。気付かれなかったり、無視されたりといった最悪の状況は回避されたのである。
気を利かせてなのか、近衛は近くの神社に挨拶をしてくると席を外してくれた。帰る時には小指の糸を引けば戻ると言って。
十年ぶりに過ごす、母娘水入らずの時だった。
「誰から、ここを聞いたの?」
母は、快く結子を迎え入れてくれた。部屋は、日当たりの良い1LDKだった。フローリングのリビングには、ローテーブルとテレビ。奥の部屋が寝室だろう。
「近所の人から……聞いて」
本当のことを伝える訳にもいかないから、適当に誤魔化す。近所の、どこの誰だと追求されたら困る、と構えていたが母はそれ以上は言わなかった。
テーブルの上には、コーヒーの注がれたマグカップが二つ。手に取り、両手で包み込む。いただきます、と頭を下げて一口、飲む。いつもは牛乳だけしか入れないのだが、しっかりと砂糖が入っていた。そういえば、コーヒーは子供の飲むものじゃない、と言われて滅多に飲ませてはもらえなかった。飲めるのは、特別な時。けれど、大人の飲むようなコーヒーは苦くて美味しくないから、牛乳と砂糖をたっぷり入れて、甘い──もう、コーヒー牛乳と言っていいものだ──を作ってくれたのだ。それを覚えていたのだろう。その頃に比べれば砂糖は控え目だけれど、懐かしくなる。
「どうしたの、今日は」
まるで、数日会わなかっただけのような口ぶりだった。数日どころか、十年も音沙汰がなかったというのに。
「結子も、もう高校生なのね」
「うん……。お母さん、は……何をしてるの?」
「近くの会社で、事務をしているわ。ほら、お母さん、簿記の資格を持っていたでしょう」
ほら、と言われても結子は知らない。そうなんだ、と言うだけで精一杯だった。
会話らしい会話が続かなかった。十年という月日を嫌というほど感じさせる。血の繋がりなど、十年の間に作られた分厚い壁の前にはどうしようもないものなのか。
ここには、結子の知らない母の暮らしがあるのだ。
もしかしたら、誰か知らない男が訪ねて来ているのかもしれない。母の"女"の部分を想像して、何とも言えぬ気持ちになった。
「あのね、お母さん──……今の生活、楽しい?」
母は目を瞬かせて、苦笑を浮かべた。どんな答えが返ってくるのかと身構える。どんな答えを望んでいるのだろう。楽しいと答えられたら、きっと小さな針がちくりと胸を刺す。楽しくない、と答えられたら──。
だが、母の答えはそのどちらでもなかった。
「楽しそうに見える?」
返す言葉が出てこなかった。楽しいか楽しくないかなど、当人の問題だ。結子にどう見えるかではなく、どうかと訊ねているのだ。
それに、楽しく過ごしてもらっていなければ困るのだ。不倫──は、嫌だが、自分の時間を持って充実していてもらわないと。
結子は、そのために糸を切ったのだから。
「それは……今、会ったばかりだから……」
どうにも答えられず、考えることから逃げて曖昧に首を傾げた。
「そうね。変なことを聞いたわね」
母の手がマグカップに伸びる。自分用のものだろう、青いマグカップだった。いつも家で使っていたものは、もっと落ち着いた赤だった。今でも、食器棚の奥に仕舞われている。こんな、寒々しい青など似合わないのに。
コーヒーを一口啜り、母は溜息を溶かしたような声音を紡いだ。
「でも、お母さんにも分からないのよ」
幸せかどうか。分からない、ということがあるのか。
「だったら──」
戻って来れば良いのだ。だが、出かかった言葉を飲み込む。戻るかどうか、それを決めるのは母だ。父と話し合って決めるべきなのだ。
そして、今日は大事なことを伝えに来たのだ。話し合う為には、まず二人を近付けなければ。そのための食事会なのだ。
「今度、お父さんとお母さんと、私と……三人で食事をしない?」
「三人で……?」
眉を寄せた母に、慌てて言い添える。
「おばあちゃん、去年亡くなったの。だから──」
だから三人だ、と言いたいのか。だから大丈夫、と言いたいのか。結子自身も分からずに言い淀み、結局何も言えないまま少しの沈黙が続く。
「特に、誰の誕生日でもお祝いがある訳でもないんだけど」
ちらと母の様子を伺った。拒否されるかと構えていたが、母はふっと笑って頷いた。
「いいわね。仕事は六時には終わるから。いつでも良いわ」
手繰り寄せたメモに、さらさらと電話番号を書く。
「決まったら、連絡をして」
その後は、他愛のない──通っている高校の話や、美味しいケーキ屋の話をした。昼を少し過ぎた頃に辞した。
昼食を作るから、という申し出を断ったのは、どこかぎこちなさがあったからだ。
急に押しかけられて母も心のどこかでは迷惑だと感じているかもしれない。
母の家を出て角を曲がった所で糸を引く。すぐに、近衛が姿を現した。
「帰りますよ」
『夕方まで居るものだと思っていたが』
「母にも予定があるでしょう」
『それもそうだが──十年ぶりの再会なんだ、食事くらい』
「食事は、今度。父と三人でします」
その返事に近衛は不満そうだった。だが、目的は今日の食事ではないのだ。
『その様子だと、約束は出来たようだな』
「はい」
けれど、どこか心が浮かない。
『どうした』
「いえ──……」
曖昧な返事に、近衛はそれ以上追求してこなかった。
『神崎は今まで怠けすぎたからな。大いに悩め。悩んで成長しろ』
「……勉強も手伝いも、それなりにしてきたつもりですけれど」
他人と比較するものでもないが、決して怠けている部類ではないと思うのだ。
『勉強と家業が人生のすべてじゃないんだ』
そんな分からないことを言う。結子は一層眉根を寄せて、とりあえず空腹を補うために、来る途中で見かけたファストフード店に向かうのだった。