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6:夢のようなうつつ

 初めは結子の両親から、という近衛の提案は正しい。

『身内が良いだろう。練習にもなる』

 多少手際の悪い所があっても、娘の立場を使えば誤魔化せる。

 だが、気が重い。

 出ていった母は、きっとどこかで幸せに暮らしていると思っていたのだ。離婚はしていなくとも、自分の時間を得て何に縛られることもなく自由に暮らしているのだろう、と。

『神崎、どうした』

 黙り込んだ結子に、近衛は不思議そうに訊ねる。

 どう言えば、このもやもやとした気持ちが伝わるのだろう。神使にとってはささやかな悩みなのかもしれないし、自分で蒔いた種だから悩むなと言うのではないか。

『不安があるなら、言っておけ。わたしでどうにかできることならば、手を貸そう』

 何でもない、と言って誤魔化せそうにもなかったから、観念する。

「……不倫、しているかもしれないんですよね、母が」

 幸せは人それぞれだ。だから、娘であろうと幸せではないと言い切ることはできない。不倫も、当人が幸せだと思っていたら、幸せ──なのだろうか。法に触れる関係でも?

『可能性のひとつだ。そういうこともある、というだけで、必ず不倫をしている訳でもない』

 しているかもしれないし、していないかもしれない。それは母が選んだ道なのだ。結子が糸を切ったことがきっかけだったとはいえ。

『もし、不倫をしているのなら、今の宙ぶらりんの関係を清算した方がいい。今が頃合いだろう』

「……」

『なんだ』

「何でもありません」

 少しは、不安を取り除くようなことを言ってくれるかと期待していたのだ。

『これから、嫌というほど縁を切ってきた人間と向き合うんだ。心しておけ』

「……もう少し、優しい言葉を選んだ方が人付き合いはうまくいくと思います」

『休日に遊ぶ友人もいないおまえに言われるのは心外だが──覚えておく』

「それは、神社の手伝いをしているからです」

『そういうことにしておこう』

 そう言って浮かべる微笑みには、口惜しいがそれ以上の追求を封じる力があった。


 結木様に報告する、と言って近衛は本殿へと戻りようやく一人になる。いつもと変わらない自分の部屋。

 一人になった途端、今までのことは夢だったように思えてくる。そもそも、近衛の容姿からして現実離れしているではないか。夢なのかもしれない。いや、夢だ、きっと。


 それなのに、小指に巻きついた糸は、何なのだろう。


 あれが夢でないのならば、この糸は決して切れないと言っていた。これまで、結子には切れない糸などなかったのに。試しに、机の上にある糸切りバサミを手に取り刃を当ててみる。手を握り、赤い糸を切る要領でひと思いに──。


 だが、いつもの心地良い音はしなかった。蜘蛛の糸のように、ねっとりと刃に絡み付く。

「……なに、これ」

 気持ちが悪い。

 指先から全身へ鳥肌が伝わる。居てもたっても居られず、着替えを手に浴室に急いだ。

 全て洗い流してしまうのが一番、と。


 湯に浸かってもなお、糸は小指にしっかりと結ばれている。結び目を引っ張ってみても解けない。刃には絡み付いたが、指に貼り付くようなことはない。

 もうそろそろ夢だと言い聞かせるのも疲れてきて、頭の中を整理するために、この短い間に起こったことを思い返す。

 美しい、きらきらとした肌の美丈夫が現れたこと。この先、自分が結婚も初恋もできないこと。糸を結び直さなければならないこと。最後の最後まで、あの白蛇の神使は失礼なことを言っていた。

 友人が居ない、と。

 失礼だが、間違ってはいない。

 結子には友人が少ない。いや──居ないと言ってもいい。

 学校では一人ではなかったけれど、休み時間を一緒に過ごす程度の仲だ。休日に会ったことは一度もない。彼女たちは卒業すれば華やかな女子大生になるのだろうし、結子は大学で資格を取って神社を継ぐ。進学先は異なるのだろうから、卒業すればば切れてしまう仲。だから、深い付き合いも面倒だ。

 それに彼女たちの話はといえば、好きな先輩と挨拶をしただの。彼氏がバイトばかりで遊んでくれないだの。良かったね、大変だね、それは酷いね、お定まりの返事をする。

 そういえば。


 ──ねぇねぇ、結子の家って"縁切り神社"なんでしょ?

 ──あたしの縁も切って欲しいな。

 ──今の彼氏と別れたーい。


 あれは、ホワイトデーのお返しが好みじゃなかった、と言っていたのか。どんな別れ方をしたのか、聞いていなかった。そうなんだ、それは酷いね。いつもの定型文で答えながら、クラスの誰かが持っていたソーイングセットの小さな糸切りバサミで切ったのだった。


 ──チョキン!


 こんな小さなハサミでも切れるほどに弱い縁。ホワイトデーのお返しが気に入らない、というような下らない理由で別れたいと言うのなら、そうすれば良い。それがお互いにとって良い選択なのだ。

 そうやって、切る度に自分を正当化していた。

「夢じゃなければ、罰が当たったのかも」

 あれから、友人はどうしただろう。


 ──なんかさ、あたし二股かけられてたみたいで。

 ──え、うそ。さいあく。


 その時は、二股など当人同士に原因があるのだと思って話半分に聞いていた。

 だが、もし赤い糸を切ったせいでのことならば。夢ならばそれで良いけれど、夢でなかったら。

 熱い湯に浸かっているのに、身体が冷えてくる。

 このままでは、彼女たちも将来不倫をしてしまうのか。高校だけの仲とはいっても、見知った人が表立って言えない関係に足を踏み入れてしまう所を見たいとは思わない。

 これまで結子が縁を切ってきた人たちも、同じような境遇なのかもしれない。

 それでは寝覚めが悪い。

 これはもう、現実なのだと受け入れようではないか。

 まずは、両親から。母が不倫をしているのなら、仕方がない。いずれ、向き合わなければならない現実ならば、近衛が言っていた通り今が時期なのだ。

 腹をくくると、沈んでいた気持ちが少し楽になった。

 風呂を出て、いつもより早くベッドに入る。

 眠りに落ちる前に、思う。あの肌は、触れるとひんやりとするのだろうか──。


『おはよう』

 挨拶の声で、眠りから覚めた。誰かから起こしてもらうなど、久しぶりだ。父も忙しいから、目覚まし時計で起きるようになって久しい。

 結子は眉を寄せて、ベッドの傍に立つ狩衣の美丈夫を見上げた。

「……一応、私は十六歳の世の中で言う所の年頃の娘になるんですが」

 なぜ、この神使は眠っている間に勝手に部屋に入ってきているのだろう。

『ならば、年頃の娘らしい反応をして欲しいものだな』

「叫んで、駆け付けた父に近衛さんを見られては困るじゃないですか」

『年頃の娘は、そういうことを計算して叫びはしないだろう』

 それもそうか。納得したから、それ以上は言わずにのろのろと身体を起こす。

「近衛さんは、母の住所は知っているんですよね」

 母とは、連絡を取っていない。どこに居るのかも分からないのだ。

『そう遠くない所に居る。今日にでも、行くか』

「そうですね。そうします。とりあえず、近衛さん」

『どうした』

「着替えたいので、出て行ってくれませんか」


 近衛を追い出して、着替える。パジャマのボタンを外しながら、あれこれと考えていた。

 なぜ、母は遠くに行かなかったのだろう。今日行くか、と言える程の距離なのだ。そんなに、家族が嫌になったのだろうか。

 クローゼットから、動きやすそうなデニムパンツとゆったりとしたボーダーのシャツを選ぶ。

 着替え終え髪をひとつに纏めながら、考えに考えた案をどこかで待っているだろう近衛に話す。

「父と、母と、私と。三人で食事の機会を作ってもらえるようお願いします。きっと、大丈夫だと思うんですが……」

 近衛の返事があった。少しして、ふわりと狩衣の袖に風を孕ませて姿を見せる。

『娘の頼みだ。親は嫌とは言わないだろう』

 そうであれば良いのだが、万が一もある。

「それでも駄目だと言われた時は、近衛さん、手を貸してください」

 父とは、母の話をしていない。だから、母に対してどんな思いを抱いているか分からないのだ。

『その時はな』

 この時間、父はまだ境内を掃き清めているだろう。朝食の支度を終える頃に戻ってくるか。表情を引き締め、部屋を出た。


 朝食は、トーストと目玉焼き。時々ベーコンだが今日はなし。フライパンに落とした卵を蒸し焼きにして、半熟でひとつを皿に乗せる。もう一つは完熟にするのだ。

 半熟は父の分、完熟は結子の分。

 祖母が居た頃は必ずご飯に味噌汁、おかずが一品であった。

 口うるさい祖母は、朝は和食、パンなどもってのほかと常々言っていた。食事だけではない、礼儀作法や家の手伝い、女の子なのだから、と埃っぽい考えを押し付けてきた。反発しなかったのは、その考えに同意した訳ではなく、ただただ面倒だったのだ。母を見ていたからかもしれない。一つ言い返せば、十返ってくる。

 母も辛かったのだろう。守れば良かったのだろうか。だが──それが幼い結子にできたとは思えなかった。

「お──……」

 背後で声が聞こえて振り返ると、父の姿があった。

「おはよう、お父さん」

 結子の挨拶に、父は顔を逸して応じた。

「あ──ああ、おはよう」

「朝からお疲れさま。ごはん、用意したよ」

 テーブルの上には、トーストと目玉焼き。いつも通りの神崎家の朝食が並んだ。

 手を合わせて、トーストをかじりながらも味はよく分からなかった。いつ、何と言って切り出そうか、そればかりを考えていたのだ。

 思い切りがついたのは、食事を終えてから。テーブルの上にこぼれたパン粉を集めて皿に乗せて、切り出した。

「お父さん、あのね」

 父の表情がどこか強張っているように見えたのは、気のせいか。

「ど……どうした、結子」

 返ってくる声が震えている。

「誕生日でもクリスマスでもないんだけど、ひとつ、お願いがあるの」

 前置きをする。神崎家は、結子が同学年の子たちから仲間はずれにされないようにとこっそりクリスマスを祝う。祝うと言っても、ただケーキやフライドチキンを食べて枕元にサンタ役の父が夜中にこっそりとプレゼントを置いてくれるというものだけれど。

 クリスマス・ミサも賛美歌もない、"日本のクリスマス"だ。

「お父さんと、お母さんと……三人で、食事をしたいの」

 返事がくるまで、やけに長く感じられた。実際には、五分もなかっただろう。


「そうだな。そろそろ、そういう機会があっても良い頃だな」


 ほっと安堵の息が漏れた。

 先に待つのがどんな結末だろうと、とりあえずは一歩、前に進めたのだ。

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