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51:最後の糸

 思わせぶりな近衛の発言は、翌日には理由が分かった。例の女の子が、神社の境内に居たのである。

 昼食を食べて、糸を結びに出掛ける時に、お参りにと立ち寄った神社で見かけた。今日はひまわり柄のスカートに、提灯袖の白いブラウス。高い位置でポニーテールにした髪を結ぶのは赤いボンボンの付いたゴムだった。

 今日もまた、よそゆきの格好をしている。

 日陰にある石に腰掛けて、じっとしている。今日は脇に水筒が置かれていた。

 気になったけれど、今日もまた返事をしてくれないかもしれないと思うと声を掛けるのは躊躇われた。

『神崎、あの子の小指を見てみろ』

 近衛に言われ、気付かれないようにちらりと見た女の子の小指には、先の切れた赤い糸が結ばれていた。

 さあっと血の気が引いて、結子は腕を擦る。

 神社の境内を出て、周りに誰も居ないのを確認してから近衛に訴える。

「私、あんな小さな子の糸も切ってたんですか? かなりダメですよね。あの子、一生結婚できなかったかもしれないんですよね」

 当人が望むならば、とどんどん切っていた。手際はどんどん良くなり、相手の顔も見ずに、拝殿に手を合わせているからと次から次に切っていたのだ。

 今更のように、結子は過去の自分が恐ろしくなる。

『だから、今、結び直しているだろう』

「……そうですけど」

 だからといって、問題ないと万事解決とはいかない。

『大丈夫だ。──大丈夫。あの子の糸も結べば、全て終わりだ』

 負のループに陥りそうになる結子に、近衛は優しく諭すのだった。


 女の子と向き合う日は、そう遠くはなかった。つまりは、もう残っている結ぶ糸もなくなってしまったということだ。

『神崎は、神社の手伝いをしていればいい』

 残り一枚になった紙を見ながら、近衛が言った。

「あの女の子ですか?」

『そう。今日も来るだろう。そろそろ、相手もな』

「大丈夫ですか?」

『大丈夫』

 女の子は、毎日のように神社に来ていたが、彼女が待っているらしい人物は全く姿を見せない。

『気になるなら、声を掛けてみるといい』

「でも、またあれは……」

 後ろめたい気持ちがあっても、あの態度を取られては心が折れる。あれはまるきり不審者に相対した時の態度だ。

『今日はこの神社の巫女だと分かるだろう』

 白衣と緋袴姿という分かりやすい格好であれば、この神社の関係者と伝わる。

「少し、様子を見ながら……声を掛けてみます」


 夏になって、さらには縁切り目的の参拝客が減って、神社は閑散としていた。かといって静かになった訳ではない。木にはセミが張り付き、一生懸命鳴いている。蝉しぐれというと聞こえはいいが、うるさいのだ、昼間は。

 社務所でお守りの整理をしていた結子だったが、ふと顔を上げると定位置にあの女の子が座っていた。

 今日はオレンジのワンピースに麦わら帽子。水分は摂っているだろうけれど、それだけでは心配になる。

「お父さん、あの子──……」

 奥で帳簿を付けていた父に訊ねると、心配そうな、迷惑そうな表情で顔を歪めた。

「ああ、今日も来てるだろう」

「声、掛けたの?」

「この前な。暑いから、中に入っていたらと言ったんだが。いい、ここに居る、の一点張りでね。夕方には帰るから、迷子ではないみたいなんだがなあ」

 そして、困った様子でため息をつく。この辺りの子ではないらしい。

「ちょっと行ってくる」

 机の隅に置いていた塩飴を何粒か握り、外に出た。


「こんにちは」

「……こんにちは」

 挨拶はしてくれたが、態度と声にはありありと警戒の色が伺えた。それでも、結子は勇気を振り絞って笑顔を作る。しゃがんで、女の子より視線の位置を低くして話を続けた。

「暑くない? 飴、食べる?」

「……いりません」

「でも」

「ママから、知らない人から物を貰わないようにって言われてます」

 予想していたが、年齢の割にしっかりとした返事に臆してしまう。だが、ここで挫けてはいけない。何より、女の子をこのまま放っておくのは怖いのだ。糸を結ぶ云々を抜きにして、神社の人間として。

「でもね、あなたが熱中症になって倒れちゃうと私たちも困るの。だから、これを食べなさい。──ね、変なのじゃないから」

 ひとつ、包みを解いて結子は自分の口に放った。甘じょっぱい味が口の中に広がって、頬が痛くなった。変な飴ではないのだと食べて示してみせたあと、結子は女の子の小さな手に飴を握らせた。

 女の子は、掌の中の飴をじっと眺めていたが、観念して頷く。

「……はい」

 包みを解いて、女の子の口には大きな飴を頬張っていた。

「近頃、よく来てるね。神社、好きなの?」

 返事はなく、ただ曖昧に首を傾げる仕草が返ってきた。女の子の目的が神社ではないことくらい、結子は百も承知だ。けれど、それを真っ先に指摘するべきことではない。人付き合いが苦手な結子が、ここ数ヶ月で学んだことだ。

「誰かを待ってるの?」

 返事は、首肯。

 喋りたくないのではなく、喋れないのかもしれない。飴が大きくて。

「来るまで、神社の建物の中で待たない? あっちならエアコン効いてるから涼しいよ」

 あっち、と社務所を指さして誘ってみたが、返事は拒否。強く首を振り、膝の上に乗せていた両手をぎゅっと握りしめる。

 近衛は、今日くらいには相手が来るだろうと言っていたが、それが何時になるのかは分からない。それまでこんな暑い場所に置いておくのも可哀想で、どうすべきかと悩んでいると、女の子が口を開いた。

「あのね」

 すると、飴がぽとりと口から滑り落ちる。砂まみれになった飴に構わず、彼女はなおも続けるのだ。

「ヒロくんを待ってるの。ヒロくん、この前こっちに帰ってきたの。……二年前にね、引っ越しの時、私、待たなかったから」

 女の子が吐き出したのは、どこにも出せないまま発酵してしまった感情だった。彼女しか分からない“ヒロくん”との間にあった出来事のせいで、ここから動けないでいるのだろう。

「そうなんだね。でも、どうしてここの神社にしたの?」

 二年前といえば、縁切り神社として有名になっていた頃だったはずだ。

「ママが、なんか有名な神社なんだよって、だからお参りしようって言ったの」

 女の子の母親のぼんやりとした情報から選ばれたのか。これまでに糸を切られた人にも、そんな被害者──ここは被害者という表現で正しいと思う──が居たのかもしれないと思うと、結子は申し訳無さでいっぱいになる。

 それも、この子が最後だ。それには相手の“ヒロくん”が来てくれなければいけない。それまでこの子を放っておくべきか、否か。

『神崎』

 とん、と背中を叩かれて振り返る。近衛が、見るようにと指をさす先には、行儀の良さそうな男の子が立っていた。

「はるかちゃん」

 頬を上気させて、少し掠れた声で呼ぶのは女の子の名だろう。

「ずっと待っててくれたの? ありがとう」

「あの時ね、ママがもう帰ろうって言うから帰っちゃったの。……私も、もうヒロくん来てくれないんだって思って、嫌なことお願いしちゃったの」

女の子──“はるかちゃん”の目に涙が浮かんでいた。

「嫌なこと?」

「……ヒロくんが虫歯になりますようにって」

 “はるかちゃん”は唇を尖らせて言う。すると、“ヒロくん”は朗らかに笑う。まるで映画やドラマを見ているような、そんなお手本のような反応をするのだ。

「奥歯の虫歯、きっとそれだったんだ」

「意地はって、手紙も書かなかったの。ヒロくん、ぜんそくなの、知ってたのに」

「いいよ、僕のほうこそ、待たせてごめんね」

 こんな王子様のような男の子も居るのか。あまりじろじろ見るものではないと分かっていても、ついじっと見入ってしまった。

『神崎、眺めていないで糸を結びなさい』

 咳払いと共に近衛に言われ、すっかり失念していた役目を思い出す。二人の小指から伸びている糸に手を伸ばし、切れないよう、解けないようにしっかりと結んだ。

「仲直り、できた?」

 “何も知らない巫女のお姉さん”を装って、二人の間に入る。これまで女の子と話をしていたから、不自然ではないだろう。

「じゃあ、うちの神社でお参りして帰ったらどうかな。ここ、縁結びの神社なんだよ。ずーっと、仲良くいられますようにって」

 女の子、“はるかちゃん”の表情がぱっと華やいだ。糸はしっかりと結ばれてほどける様子はない。

 二人を見送り、立ち上がって袴の裾を整えながら独り言のように呟いた。

「男の子が引っ越すから、一緒にお参りしようって約束したのかな」

『それが、すっぽかされて怒って虫歯になれってお参りしてたところを結子に糸切られて連絡もしないまま──ってことらしいな』

 頭上から聞こえたのは十夜の声。見上げると、黒い衣に空気を孕ませてふわりと下りてくる。

『でも、結子が糸を切っていて良かったじゃねえか。他のやつに目移りしても結ばれねえんだし。しかもあれ、アメリカ帰りらしいぞ。ほっといたら、かわいーいあっちの女の子とくっついてたんじゃねえの?』

「……何でアメリカ帰りって知ってるの」

『さっき土産がどうのって話してた』

「……」

 立ち聞きしていたのか。二人仲良く手をつないでお参りする後ろ姿を見る。あの年頃の男の子は女の子と話をするのが恥ずかしいだろうに、そんな素振りが一切ないのはアメリカ仕込みなのかもしれない。元々、彼が持っていた素質もあるだろうけれど。

「でも、糸が結ばれていても、あの子たちは大丈夫だったと思うよ」

『何でそう言えんの』

「だって、二年前のことを悔やんで、ここでじっと待つような子よ。そう簡単に諦めるはずないわ」

 幼かろうと、あれほど一途に思えるのだから、きっと離れている距離も年月も関係ない。

「もし、だめになったとしたって、いい思い出になってると思う。好きになった気持ちは消えないし、きっと経験になるわ」

 そうだったらいい、という希望も込めて。あの二人にというよりも、自分へ向けての希望だった。近衛は消えてしまっても、好きになった経験は残る。そうであってほしい、と。

 今は未だ、近衛が消えてしまう実感は湧かないから、寂しさは対岸にあるけれど。

 一人になって、泣いて、泣いて、泣き止んだ時、きっと好きになって良かったと思うだろう。近衛を好きになってから得たものはたくさんあるのだから。

『何はともあれ──』

 近衛は最後の紙を綴りから破る。すると、二人の名が書かれた紙はちりちりと燃えて跡形もなく消えてしまった。

『おめでとう、神崎。これで糸結びも終いだ』

「元々は自分で蒔いた種なんですけれどね」

『それでも、頑張ったことには変わりないだろう』

「──……」

 認めてくれるのか、結子の努力を。自業自得なのだから当然だ、とは言わずに。

『神崎の役目は終わったが、結木様が今年の神議りに出るには、報告書を作らなければならないからな。十夜にも手伝って貰わなければ』

『えー、俺、そういうのほんっとうに嫌いなんだけど』

 十夜の文句は聞き流された。十夜に苦手な役目を手伝わせるのも、これからのためなのだ。近衛は、黙って消える準備を整えている。遠かった実感が、少しずつ近付いてくる。

 好きになったことは良い経験になるだろう、けれど──まだ、もう少し時間が欲しい。良い思い出にするには、もう少しだけ一緒に居たい。

 結子も気付かないうちに、白い狩衣に触れようと手を伸ばしていた。もっとも、触れられないまま手は空を切ったのだけれど。

『神崎?』

 触れられなかったが、近衛には伝わったようだった。名を呼ぶ声は優しく、結子に寄り添うようだった。

「いえ、何でも──……」

『寂しくなったのか。約束は守るから案ずるな。糸はまだ解かないから、何かあれば呼びなさい』

 黙って頷くしかなかった。何か喋ってしまえば、言葉の代わりに涙が溢れてしまいそうだったのだ。

『じゃーな、結子』

 そう言い残して、十夜と近衛は姿を消した。縋るように小指の糸を見る。

 まだ大丈夫──大丈夫。糸は繋がっている。

 手をつないで神社を後にする小学生の二人は、明るい声でこれまでの距離を埋めるように話に花を咲かせていた。

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