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5:神崎篤彦

 神崎篤彦は考えていた。やはり、妻との関係にかたを付けるべきではないのか、と。

 妻、神崎君枝が家を出て十年になる。十年経ったが、君枝は帰ってはこなかった。

 今日こそ、明日には、と最初の頃は思っていた。だが、いつまで経っても君枝が戻ることはなかった。

 当然だろう。

 いわゆる、嫁姑問題──というものが拗れて出て行ってしまったのだから。

 君枝にとっての姑──篤彦にとっての母──神崎松乃は、宮司の妻であることに誇りを抱いているようだった。父とは見合い結婚であったらしい。厳しい母だが、そういうものだろうと思っていた。松乃しか知らないのだから、当然といえば当然である。

 松乃は、君枝にも──いや、篤彦以上に厳しく接した。箸の上げ下ろしひとつ取っても口を酸っぱくして注意をした。孫が産まれれば少しは良くなるかと思ったが、女の子であることへの落胆を隠そうともしなかった。

 それでも、君枝は耐えてくれたと思う。宮司の妻として、懸命に支えてくれた。

 だが何事にも限界はある。その限界に、篤彦は気付かなかった。いや、気付いていて見て見ぬふりをしたのだ。


 境内には掃き掃除をする篤彦の他に人影はない。平日ならば犬の散歩をする近所の住民の姿があるが、今日は日曜日。一日の始まりは少し後ろ倒しになっているようだった。

 誰の目もないから、と無意識のうちに溜息をついていた。誰の目もないのだ。娘の目も、ここならば気にしなくていいのだ。


 娘は──結子は仕事を手伝ってくれている。

 土日祝日、長期休暇もほとんどを費やしてくれるのだ。ありがたいことだと思う。だが、遊びたい盛りの高校生をそんなに拘束して良いものか。結子は気にするなと言うが、気を遣っているのだろう。

 松乃が健在の時は、社務所での仕事を請け負ってくれた。だが足腰が弱り始めて、気付けばそれは結子の仕事となっていた。アルバイトを雇おうかと言ったが、それは松乃が嫌がった。


 ──結子が居るじゃないか。年末年始ならまだしも。


 結子は文句も言わずにそれに従ってくれた。松乃が亡くなり、反対する者は居なくなったのに、それでもずるずると結子に頼ってしまっている。

 君枝との関係を清算し、再婚するか──。

 いや、それでは結婚という形を取った職員の採用ではないか。神社で、家事で、人手が足りない。だから人を雇うよりも身内にしてしまった方がうるさくはないだろうから。

 君枝はそれで出ていったのだ。


 ──私は、女中ですか。


 冷ややかな妻の声を思い出す。

 自由な時間ならば自分だってないのだ、それをどうして分かってくれないのか。

 言葉は次第に激しくなった。嫌なら出て行け、出て行きますとも、と折れることを知らなかった。

 隣の部屋で、結子がじっと聞いていたのを覚えている。

 仕方がないではないか、家業なのだ。先代は亡くなり、頼る人は居ないのだ。だから、君枝も分かってくれるだろう。夫婦という関係に甘えていた。

 次の日には朝食の支度をしているだろうと簡単に考えていた。

 だが。

 翌朝、テーブルに置かれていたのは朝食ではなく、一通の封筒。中には、便箋と、緑の枠線が書かれた紙。枠線の中には、君枝の名前が書かれていた。

 それが離婚届と気付いたのは、結子が起きてきてからだ。結子は、静かな居間を見回し、ぽつりと一言、訊ねた。


 ──お母さんは?


 正直に伝えるべきか悩んだ。だが、とっさに誤魔化した。誤魔化してしまった。


 ──お母さんは、ちょっと出かけているから。すぐに戻るよ。


 篤彦自身、驚いてしまうような明るい声で伝えると、結子は黙って頷いていた。

 数日が経っても君枝は帰らず、結子に何と言って誤魔化そうかと悩んだが、訊ねられることはなかった。松乃が何かを吹き込んだのかもしれない。本来ならば、折を見て父である篤彦が事実を伝えるべきだったのだろう。

 だが、結子は言葉にせずとも理解してくれているようだった。我が子にも甘えた。本来ならば、甘やかす立場である親が。

 それに、いつまでも黙っている訳ではない。いずれ話すつもりなのだ。

 いずれ──そのうち。そうやって先延ばしにするうちに一年が経ち二年が経った。

 その間に、神社は縁切り神社と呼ばれるようになった。宮司が妻に逃げられているのだ、縁結びよりも縁切りの力があると思うだろう。

 初めは躊躇いがあった。仮にも縁結びの神を祀っているのだ。そんなことはできないと断ったが、以前ここでお参りした人が、縁が切れたのだと言う。

 だが、いつまでもそうは言っていられなかった。貧しい、小さな神社なのだ。参拝客が求めるのならば、と渋々縁切りの祈祷を受けるようになった。背に腹は代えられなかった。


 家事をするようになって──それでも、結子と分担ではあるが──君枝の苦労が嫌というほど分かった。女中ではないと言いたくなるだろう。もっと話をすれば良かったのだ。それは、今だからこそ分かることだ。

 だからせめて、結子には不自由をさせたくなかった。旅行に連れて行ってあげられない分、欲しいものは何でも与えていた。

 金が代わりになるとは言わないが、ないよりはある方がいいに決まっている。

 もっとも、欲しがるものは値の張らぬものばかりだったが。

 離婚届には、署名と押印がある。篤彦が記入し、役所に届ければ良いだけになっている。君枝は、今更と思うだろうか。

 そもそも、君枝はなぜ十年もの間、連絡をよこさなかったのか。中々提出されない離婚届にやきもきしなかったのか。


 境内の掃除を終えて家に戻ると、台所から音が聞こえてきた。結子が朝食の支度をしているのだろう。

「お──……」

 おはよう、と挨拶が最後まで出てこなかった。流しの前に立つその後ろ姿が、君絵に瓜二つだったのだ。

「おはよう、お父さん」

 年々、結子は君絵に似てくる。だが、今日はいつも以上に君枝の、面影があった。そして、ぞっとする。娘にも、妻と同じことを強いているのではないか。

 食事は父が、掃除洗濯は娘が。そう決めていたルールもこうして時々破られる。仕事が忙しいのだから仕方ない、と言ってくれるが、不安になるのだ。いつか、結子も出て行ってしまうのではないか。

「あ──ああ、おはよう」

「朝からお疲れさま。ごはん、用意したよ」

 テーブルの上には、トーストと目玉焼き。そしてそれぞれのマグカップ。君枝のマグカップは食器棚の奥に仕舞われたままだったはずだ。

 食事を粗方終えてしまった頃に、結子が不意に口を開いた。

「お父さん、あのね」

 どこか思い詰めたように感じられたのは、あれこれと考えすぎたせいだろうか。

「ど……どうした、結子」

 訊ねる声が震えていた。

「誕生日でもクリスマスでもないんだけど、ひとつ、お願いがあるの」

 何が欲しい、と訊ねてようやく欲しいものを言う結子が、自発的に言うとは珍しい。それが心をざわつかせた。

 先を聞くのが怖くて促せない。そして、促すよりも先に結子が"お願い"を口にする。


「お父さんと、お母さんと……三人で、食事をしたいの」


 それが、最後の晩餐への招待のように聞こえたのは篤彦の考え過ぎだろうか。

 そしてそれが異宗教の事跡から発生した言葉であると気付き、苦笑する。

 だから、朝から君枝のことを考えていたのだろう。誰かに背を押されているのだ、きっと。君枝の連絡先は分からないが、もしかすると結子とは交流があるのかもしれない。


 どのくらい考えたろう。中々答えが返ってこないことに、結子の顔にじわりと不安が滲む。

 いや、考えずとも答えは決まっている。

 その不安を取り除くように、答えるのだ。

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