46:夏のはじまり
梅雨が明けて暑い日が続いている。昼食の場所は中庭から屋上に続く階段へと移った。先客はなく、日も入らないためひんやりと涼しい。
「冬は別の所にしないといけないけどね。とりあえず」
その日の昼休みは約束通り食後にいちごミルクを渡したのだった。
夏が始まり、糸結びのペースは上がっていた。週末には紙の束をごっそりと引く。お陰で、あれほど分厚かった束は半分以下にまで減っていた。いつまで経っても終わりなど来ないだろうと思っていたのが嘘のようだ。
終わりが見えたということは、そのうち近衛と繋がる糸も切れるということだ。それは別れを意味する。極力、考えないようにしているけれど。
そんな調子でこれまで以上のペースで糸を結んでいるが、近衛が厳しくなるということもなかった。むしろ、以前よりも優しくなった。疲れていないか。勉強に支障は出ていないか。ささやかなことでも褒めてくれるようにもなった。時々、心配になるほどに。
自らの意思で跡を継ぐと決めたからだろうか。以前よりも、多少は自立できたから。
今日もまた、放課後は近衛との約束がある。あの日から、全てが順調だった。先日の学期末試験も。
「夏休み、補習ありそう?」
「香菜のおかげで大丈夫っぽい」
試験の結果は、どの教科も平均点以上を取ることができた。
神様仏様、香菜様。ふざけて手を合わせると、香菜は隣でにんまりと笑みを作った。思わず身構えてしまうくらいの。
「じゃあさ、ひとつお願い聞いてくれるかしら」
「……なに、を」
「今ね、浴衣の着付け習ってるの。お母さんで練習してるんだけど、別の体型の人の着付けしたくて」
「なんだ、そんなこと」
何かもっと大変なことでも頼まれるかと構えていたら、思いもしない簡単なお願いで拍子抜けする。
「いいよ、全然。家に浴衣あったはずだし」
「ありがと! 結子ならそう言ってくれるって思ってた!」
「大袈裟だわ」
「いーや。本当に感謝してるんだから。……で、せっかくだから」
そして、ごそごそとスカートのポケットから小さく折りたたんだ紙を取り出し、結子の膝の上に放った。
「これに合わせて、どうかな」
紙を開いてみると、それは花火大会のチラシ。
「別にいいよ、そんな」
「えー。こっちとしては、長時間着てみての感想が聞きたいのよ。歩きづらくなかったか、とか。着崩れなかったか、とか」
そう言われると、確かにその気持ちは分かる。テレビの花火大会の中継で歩きづらそうにしている子や着崩れてしまった子を見かけるものだ。
「……香菜も一緒なら」
「あ、いい? ありがと。セルフでの着付けはしたことないから、私は普通の服に……」
それで話がまとまるかと思いきや、香菜は妙な所で言葉を途切れさせた。
「……折角の花火大会、女同士で行くの?」
「……だめなの?」
「だめじゃないけど。……浴衣よ?」
「うん」
「結子、好きな人がいるのに」
たっぷりの間の後。階下まで結子の声が響いた。
「──……はあっ!?」
「いるって言ってたじゃない。違った?」
じっと見詰められては、嘘はつけない。
「……違わない」
「だったら、誘おう」
「それは……ちょっと……」
浴衣を着て花火大会に行く、といった間柄ではないし、そもそもが近衛は人ではないのだ。その重要な部分は説明できないから、香菜には不思議で仕方がないようだった。疑問具をどっさりと付けて迫られる。
「浴衣着るのに? 誘わないの? 花火大会よ? 夏の一大イベントよ?」
「なにそれ、ちょっと、香菜、いつもとキャラ違うって」
人の恋路に口を出してくるようなことはなかったのに、急にどうしたのか。
「行きたくないの? 一緒に」
行きたくない、と言えれば良かったのか。結子の意思が強ければ、もう見ているだけで満足だと思えたならば、きっぱりと断れたのだろうけれど。
「……行き、た……い」
絞り出てきたのは、本音。少しだけ──ほんの少しでも、夢を見てしまうのだ。そしてそれは、香菜が期待していた通りの返事である。
「でしょ?」
「いや、でも、そういうの興味ない……人、だから……」
訊いたわけではないが、多分、近衛は花火大会に強い興味を持ってはいまい。
「誘ってみないと分かんないって。ね」
「……急に、どうしたのよ」
「べーつに。ただ、放っておいたら告らないんじゃないかなって思っただけ」
「そんな──……ことは……」
ない、とは言い切れない。以前よりも関係が良くなった。連れ立って花火大会に──と夢見ることはあっても、夢は夢。現状に満足している。一時期のように冷たくされるよりもいい。元より、付き合えるような相手ではないのだ。
「ほらね。ほらね。望み薄でも告っといた方が良いよ」
「でもなあ……」
「はしかも小さい時にかかってた方がいいって言うでしょ。失恋も経験のうちだって」
「……失恋前提で言ってるよね」
そうなのだけれど。失恋することに間違いはないのだが──それを他人から言われると、少し、いやかなり落ち込む。
「そんなつもりじゃないって。ただ、失恋するのがこわい、とか言って告らないのはもったいないって話」
「それは……まあ、一理……ある、けど」
「でしょ? だから、とりあえず誘ってみて。ダメだったら私と行こう。うまくいったら儲けもの!」
香菜の言う通りだ。どうせ実る恋ではない、と言っても──思い出のひとつになるだろう。告白するかどうかは別として。
「でも、どうやって誘えば……」
「そうねえ。──……あ。一学期頑張った打ち上げに、とか」
「……打ち上げに、打ち上げ花火見に行こう、って?」
大喜利でもあるまいし。物言いたげな視線を隣に向けると、香菜は膝を打って笑っていた。
「うまいねえ。結子ちゃん、座布団いる?」
「いらない」
ため息をついて、そう返した。
放課後、いつも通りに近衛と合流して糸を結んだ。何も問題なく、これでもかというほど順調に。
駅から家までの帰り道、人の姿がないのを確認して近衛が姿を現す。
『順調だな』
束から今日結んだ人の名が記された紙を破りながら近衛が言う。あと何枚あるのだろうか。紙束が薄くなるのは、近衛との時間の終りが近付いているということだ。
今年の神議りには出られるよう頑張る、と言ったのだから早く終わるのは良いことだ。
だが、それでも寂しい気持ちは消えない。
「あと、どのくらいで終わりそうですか」
『そうだな──……』
ぱらぱらと紙を捲る音がする。
『夏休み中にどうにかできるようにしようか』
「夏休み中ですか!?」
それでは、もう二ヶ月しかないということだ。
『忙しいのならば無理は言えないが──』
その後で、何かを呟いたようだったがそこまでは聞こえなかった。独り言のような小さな声音だったのだ。
「いえ……大丈夫です。補習もありません」
『そうだったな。忙しいのに頑張っていた』
「……」
どうしたのだろう。"休暇"明けから近衛はとても優しい。時々、心配になるほど。これまでも多少褒めることはあったが、それだけでなく今は微笑んでいるのだ。
少し成長しただけでこれほど態度が変わるものだろうか。もしかすると、妙な啓発本に手を出してしまったのかもしれに。《子どもは褒めて伸ばす》というような。
そこまで考えて、結子は内心でがっくりと項垂れる。近衛にとっては子どもを育てている感覚なのか、せめて《部下》が良かった、と。
『どうした』
「いいえ。何でも──」
何でもない、と言いかけて今がチャンスなのだと気付く。昼間、香菜に言われた花火大会。香菜が提案した流れにぴったりではなかろうか。
何でもない、と打ち消しかけた言葉を飲み込み、咳払いをする。
「んっ……あの、一学期、頑張りましたし、これ、行きませんか」
『……?』
スカートのポケットから、貰ったチラシを取り出し近衛の眼の前で広げてみせる。
『花火大会──か』
そう言ったきり、返事がない。これは自然な流れだ、と思ったが言葉不足だった感が否めない。慌てて補足をする。
「あ、あの、ですね、ちょうど夏休み後半ですし、その頃には糸結びも終わってる頃かもしれない、ので、打ち上げというかご褒美というか」
ご褒美。子どもに思われたくないくせに、一番子どもらしい理由で誘っている。
「いや、ご褒美って、これ自分でしでかしたこと、ですけど──なので、付き合ってくれた近衛さんにお礼というか、その──あの」
言えば言うほどぼろが出てくる。近衛と行きたい、という本心を隠すとどうしようもない理由しか出てこない。
「やっぱりいいです、人多いし、そもそも花火なんて見慣れてますよね、大丈夫、忘れてください」
早口でまくしたてる。この話題はここで終わりとしたかった。
『行こうか』
「そうですよね、はい──……はい?」
近衛がうんというはずもないだろうから、と聞き分けの良いふりをしながら頷いたのだが。何か、大切なことを聞き流してしまったような気がする。
今、確かに行こうと言われたような気がしたが、にわかには信じがたい。聞き間違いだったのかもしれない。もしくは、結子の願望が聞かせた幻聴。
結子がそう片付けようとしているのが伝わったのか、近衛はもう一度、同じことを口にした。
『わたしで良ければ、一緒に花火を見に行こう』
ベタとは思いつつ頬をつねってみると痛みがある。夢でも幻聴でもない、となると。
「いや、あの……冗談、では……」
『わたしは、そんな冗談を言うような奴だと思われていたのか』
「いえ、そんなことは、決して」
首を振って否定する。近衛は人をからかうような冗談など言わない。そんな、他人で遊ぶようなことはしない。
『だろう』
そう言って、近衛は微笑む。だから、言われたことは冗談ではないのだ。
一緒に、花火を見に行こうと──そう言ってくれている。
『打ち上げでも褒美でも、どちらでも良い。目標があれば、夏休みも頑張れるだろう?』
それでようやく実感が湧いてきた。本当に、近衛は花火を見に行ってくれる。打ち上げでもご褒美でも、どちらだって構わない。理由はどうあれ、花火を見に行くことに変わりはない。
「……頑張ります、頑張って結びます!」
前のめりになりながら言うと、近衛は、そうか、とだけ言って笑ったのだった。




