4:「神崎」と「近衛さん」
『物事には責任がつきまとう。勉強になったろう』
近衛の口ぶりは気に障るが、しかし事実だから何も言えなかった。未成年だから、といって親に責任を押し付けることはしたくない。何しろ、両親の糸も切ってしまったのだ。
『ただ、一人では難しいからな。わたしも手助けをする』
そう言って、近衛はたっぷりとした袖を探り糸の束を取り出した。白い、きらきらと輝く糸だ。見たことがあるように思えて、必死に記憶の引き出しを開ける。昔、父に連れて釣りに行ったことがあった。
「釣り糸ですか」
『……おまえは本当に十六の娘か』
ロマンがない、と大仰にため息をつき、冷え冷えとした目を向けてくる。しかし、他に思い浮かばなかったのだ。
『これは、おまえにも切ることのできない糸だ』
そんな説明をしながら、結子の左手を取ると、その小指に糸の端を巻き付ける。赤い糸とは別に、白い糸が結ばれた。そして、もう一方の先は──。
糸を追うと、それは近衛の左手の小指に結ばれている。
白い糸で繋がれた縁、とは一体どんな縁なのだろうか。しかも、相手は神使。
『これで逃げられずに済む』
この白い糸は枷なのだ。結子が逃げないように。
『安心するといい。責任を果たした時に解けるようになっている』
つまり、責任を取るまで決して解けはしない。
『しかも、怠けるようならば糸がキリキリと縛り上げてくれる。この糸は頑丈だからな。指のような柔らかいものは、どうなるか分からない』
それは、もうヤの付く仕事ではないか。第一関節から先がない小指を想像して、ぞっと鳥肌が立った。
「それは……それは、便利なことで……」
そうとしか言えない。
結子に、近衛は部屋の真ん中へと促した。確かに、扉の前でへたり込んで話を聞くのもどうかと思うが──ここは、この部屋の主は結子なのだ。
立ち上がり、部屋の真ん中で改めて座り直す。向かい合って正座をして、近衛の簡単な講義が始まった。
赤い糸を結び直しても、それが本当に切れて良い縁ならば自然と切れるのだそうだ。
『運命の人──なんて言うが、それは一人じゃない。無数に居るものだ。その中の誰を選ぶかは、その時の自分次第ということだ』
「自分次第? どういうことです」
運命の人と言うくらいなのだから、決まっているものではないのだろうか。
『そもそも、運命の人というものは産まれた時に決まっているものではない。毎年、神無月に出雲で開かれる神議りで話し合われるものだ。神議りの説明は、必要ないな』
「それは、大まかには分かります。出雲大社に全国各地の神様が集まって、農業のことや縁結びのことで話し合うのですよね」
『そう。神々はその土地の人々を見守っている。この二人を一緒にすると、良いのではないか、と考えながら。ただし、人は変わるものだ。娶せてみたが、矢張り合わなかったということもある』
「神様も間違えるんですか」
『間違えるだろう。国産みの時にも間違っていたじゃないか』
「ああ──……」
高天原から降りた伊邪那岐命と伊耶那美命が国を造るべく互いに声を掛ける。素敵な方ね、と。だが、本来ならば男からであったところを女から掛けてしまった。産まれたのは水蛭子であった。
間違いを改めて、二柱の神は日本列島をお造りになった──というのが、小学生の頃に読んだ『古事記』の内容だった。
高校生になって、大人向けに書かれたものを読むと、声を掛けたその内容はもっと生々しいものであったけれど、それはまた、今ここで話題にすることではないだろう。近衛も、そういうことを言っているのではない。神様、とは言っても万能ではないのだと、そう言いたいのだ。
『糸は繊細なんだ。気持ちが通じ合わなくなれば自然に切れてしまう』
「そういうものなんですか」
『そういうものだ。少なくとも、人がどうこうするものではない』
「十年もの間、放っておかれたのは、どうしてですか」
止めるのなら、もう少し前に止めて欲しかった、と──あの紙がもう少し薄い内にどうにかして欲しかった、と思うのは我儘だろうか。
近衛はきれいな形の眉を寄せ、額を押さえる。次いだのは、絞り出すような苦しげな声。
『……だから、神々も間違うことはあると、言っただろう』
「気付かなかった、と」
『気付いておられた。結木様はそこまで阿呆ではない』
「あ……あほう……」
主に対して、なんてことを言うのか。神使とは皆がこうなのだろうか。どうなっているのかと訝しむ結子に気付いているのかいないのか、近衛は神使の威厳などどこへやら、両手で顔を覆って項垂れた。
『結木様は、気付いていてお隠しになったのだ。悪い方ではないのだ。決して──決して……』
初めは責任を結子に押し付けていたが──実際、結子が悪いのだが──結木様にも困った所はあるのか。
『だが、結木様も見ないふりをしてきたことを悔いていらっしゃる』
「神議りに出席できなくなったからですか」
近衛は苦々しく頷く。
『どうしようもなくなって、ようやくお気づきになられた。……この土地を預かる神なのだから、もう少し自覚を持って頂きたいが──楽観的な所は、長所なのか短所なのか……』
「神使も、大変なんですね」
そうとしか言いようがなかった故に出たのだが、ギロリと向けられた紅い瞳は、おまえが言うな、と言っていた。その通りだから、何も返せない。
何か話題を変えなければ。必死に考えて、出てきたのは当たり障りのなさそうな質問。こうした時は失敗や気を付けるべきことは知っておきたい。
糸は切った者しか戻せないのならば、結子の身に何かあった時はどうなるのか。
「例えば、私がうまく糸を結び直せなかったらどうなるんですか? 全てを結び終える前に事故死する、とか──」
『そうならぬように、糸を結んだのだ』
そう言って、左手を掲げてみせる。先程結ばれた白い糸がしっかりと近衛と結子を繋いでいる。
糸を結ぶ間は、事故に遭うことも病に罹ることもないのだそうだ。逃げないようにと結ばれた代わりに多少のメリットはあるのか。
『あれこれ説明しても仕方がない。頭でっかちになって動きにくくなる。不明点は逐一、わたしに訊くように』
乱暴過ぎる気もするが、一気にあれこれ詰め込まれても結子自身、覚えられる気がしない。だから、こうして放り出される方が良いのだ、きっと。
『わたしは、対象者を近付けさせる。おまえは、切った糸を結ぶ』
「はい。ひとつ」
学校のように挙手をすると、近衛もつられたように指をさして発言を許可する。
『なんだ』
「他の人に、あなたの姿は見えないんですか?」
『消そうと思えば、姿は消せる。元の姿に戻ることもできる。そこは案じずとも良い』
元の姿、というと白蛇か。
「あと、もうひとつ」
今度はもう、黙って促される。
「おまえ、と呼ばれ続けるのはいくら相手が神使でも嫌な気持ちになります。ですので、呼び方の改善をお願いしたいのですが、宜しいでしょうか」
『──……』
返ってきたのは、回答ではなく溜息だった。そうだろうと思っていたから、特に気にもならない。
近衛は考えて、考えて、考えた末に口を開く。
『……巫女』
それは、結子の名ではなく立場を指しているだけではないか。
「神崎結子といいます」
『知っている』
苦虫を噛み潰したような、とはこういう表情を言うのだろう。心から面倒くさそうに、
『……神崎』
「私も、近衛様とお呼びします」
『様付けはやめろ』
「でも、神使ですから」
敬うべき存在だろうに。近衛は鳥肌を治めるためにか腕を掻き毟っている。
『嫌がらせか? わたしが、慣れていないと知った上で』
勢い良くかぶりを振った。嫌がらせのつもりは毛頭ない。
普段は、何と呼ばれているのだろう。いつもは、仕えている結木様の傍に居るのだから、恐らくは呼び捨てか。
「でしたら、近衛さん」
『……様、よりは良い』
どうにかこうにか、呼び方はそれで落ち着いたのだった。
近衛は紙の束を手繰り寄せ、ぱらぱらと捲る。こんなにも多くの人たちの縁を切ってきたのか。いつからか糸を切ることは結子の日常になっていたけれど、切られた人の日常はそこから変わってしまったのだ。
半年と少し。短いとは言っていられない。壊してしまった誰かの幸せを、元通りにしなければならないのだ。
責任は、取らなければならない。
『早速だが、神崎。最初はこの二人にしようじゃないか』
紙の束を捲って示されたのは──
神崎篤彦
神崎君枝
結子の両親だった。