39:先のない恋
どうして、悪いときの勘は当たるのだろうか。何となく、そうではないかという気はしていた。だが、あの真面目な近衛に限って。気のせいだ、そんなことはない──と、そう思うようにした。
「そう、なの……」
発した声は、別の誰かの声のようだった。
『元々、結木様に熱心にお祈りしてた娘なんだって。兄者、その辺りをねぐらにしてたから、そこで惚れたんじゃねえのかなって』
「そうなんだ……」
それは、間違いなく近衛が結木様に願い事を伝えた娘だろう。好意を持っていたから、その娘に幸せになって欲しかったのだ。願いを叶えてもらった娘は結木様に感謝し、社殿を建て、代々神職として守ってきた──。
近衛から渡されたピースが綺麗に嵌ってゆく。足りない箇所は想像で補うことになるのだが、しかし少しの違和感もなくひとつの線になるのだ。
『……ごめん、結子。言わない方が良かったかな』
黙り込んだままの結子に不安を覚えたのだろう。十夜の声は不安げだった。結子が勝手に落ち込んでいるだけなのだ。十夜に非はない。嫌がらせで話したのではなく、むしろ結子を思ってのことだ。
「ううん、気にしないで。教えてくれてありがとう」
作業のようにスプーンを運びプリンを掬う。口に運んでみたが、味は全くしなかった。柔らかな何かが口の中を滑り、喉を流れる。少しも美味しくない。
「食べていいよ」
皿を押しやると、十夜は諸手を挙げて喜んだ。泣いた結子を、どう相手すれば良いのか分からなかったのかもしれない。プリンを貰って喜ぶふりをして場を持たせているのだ。
『ほんとか? 後から返せって言うなよ!』
そして、皿を手にすると残ったプリンを流し込むように食べる。いや、場を持たせているのではなく、本当にプリンを貰えて嬉しかったのかもしれない。
「美味しい?」
『ウマい! ありがとな、結子』
十夜が喜んでくれるのならば、良かったと思う。
近衛は、結子の気持ちを知っていた。知っていて、調べろと言ったのは、遠回しの“お断り”だったのではないか。これからも糸を結ばなければならない。けれど、どうしたって好意は受け取れない。
立場が違う。
好意を抱いていない。
大切な誰かが居る。
結子は中々告白しないだろうから、それを言い出すこともできない。だから、気になるなら調べてみろと言ったのではないか。
近頃、糸結びのペースを上げていたのは早々に終わらせてしまいたかったからで、距離を感じるようになったのは結子の想いに応えられないからだ。
ひとつ真相が分かれば、あとは何のことはない、次から次に理由が分かる。納得がいく。
このまま放っておけば、結木様の立場が危うくなるだけでなく、結子は結婚しないまま──つまり、跡継ぎがないのだ。ずっと見守っていた、好きだった娘の流れを汲む跡継ぎが。
「十夜くんは、その話、近衛さんから聞いたの?」
『兄者が話すワケないだろ。他の神使から』
何となくでも、皆が知っていることなのか。
「その人は、じゃあ結木様から聞いたのかな」
『さあ。どうだろうなあ。でもさ、なーんとなく分かることってあるだろ』
「なーんとなく……」
『そ。なーんとなく』
結子はそこまで人の機微を察することができないけれど、言わんとすることは分かった。
あの近衛が、何となくであっても周りに悟られるとは落ち込むなり何なりしたのだろう。だから、結木様は釘を差したのかもしれない。
全ては、「かもしれない」や「だろう」ばかりの憶測だが、そう大きく間違ってはいないように思えた。点と点が、線で結べるのだ。
『だからさ、結子。兄者はやめとけ』
それは十夜なりに結子を思っての忠告だったのだろう。だが、結子には取り越し苦労にしか聞こえなかった。
「安心して良いよ。近衛さんが私のこと好きになるなんてないし」
そう言った口元には自嘲のえみが浮かんでいた。
近衛が“神崎結子”を好きになることはない。
『分かんねえだろ、気持ちなんてモンは。現に、兄者は結子をすっげえ気にかけてるじゃねえか』
「絶対、ないよ」
近衛が見ているのは“結子”ではなく“神崎”なのだ。結子の向こうにある、神崎の家を見ている。
気にかけているのは、結子ではなくて“神崎”の家だ。結子が「神崎結子」ではなく、ただの「結子」だったなら──近衛は気にかけることもなかったろうし、何より視界に入っていることにも気付かなかったのではないか。
大勢居る人間の中の一人。
そう思えば、今は恵まれている。結子を「神崎結子」として認識してくれているのだから。
同時に、それは少し寂しくもあったけれど。
『結子はさ、優しいから。絶対いいやつが見つかるよ』
精一杯の、十夜からの慰めだった。
いくら落ち込んでも、時間というものは平等に過ぎる。何事もなかったように日は昇り、また制服に着替えて学校に通うのだ。
近衛とは夕方まで顔を合わせないから、それだけが救いだった。今はまだ、どんな顔をすれば良いのか分からない。いつも通りの学校生活を送り、調子を取り戻したら、どうにか顔を合わせられるだろうから。
だから、いつものように──いや、いつも以上に張り切ったのだった。苦手な体育も。
「なんか、今日キャラ違くない?」
友里にそう言われたのは、体育の時間。今日もバレーの試合だった。雨のために体育館は男子と共用。そのためバレーのコートは一面しか使えず、試合ができるのは半分の生徒だけだった。残りの半分はコートの周りに座って応援するなりささやかに雑談をするなり、のんびりとした雰囲気になっていた。
いつもは厳しい体育教師も今日はもう仕方がないと諦めているようだった。
友里は試合を終えて隅に腰を下ろした結子の隣に来て、身を乗り出しながら訝しげにそう声を掛けたのだった。
「え? そんなことない、と思う……けど」
そう返してはみたが、声に自信はなかった。結子も、いつもと違うなとは思っていたのだ。いつもの自分がどうしていたか思い出せなくて、積極的にボールを拾いに行っては変な方向へと飛ばしてミスばかりをしていた。
「や、違う。いつもはコートの隅でとりあえず構えてるだけだったし」
ホイッスルの音が体育館に響いた。あの昼食のグループに所属している他の三人は、今度は試合をするチームのようだった。
「……なんか、痛々しい」
「…………」
「まーねえ、片想いしてたら色々あるよね。キャラ変わることもあるわ。確かに」
「……ふられたけど」
「は、え? 告ったの?」
黙って首を振る。
「じゃあ、なんで」
「……別に好きな人が居るって聞いて」
友里は、あー、と言って少し黙る。だが驚いた様子はなく、やっぱりな、という雰囲気がある。
「歳上ならね。居ない方がおかしくない?」
「……そっかー……」
遥かに長く生きてきた近衛ならば、そんなことがない方がおかしいのかもしれない。友里の言い分はその通りだと思う。
「で、諦めるの?」
「……諦めた方が良いって言われた」
「誰に」
「共通の知り合い」
「周りはそう言うかもね」
「なんで?」
「相手、社会人だっけ。だったら女子高生とか子供にしか見えないでしょ。望み薄」
望み薄どころか望みがないのは分かっている。頭でそう理解していても、気持ちというものは急に切り替えられない。
まだ嫌いにも、無関心にもなれない。どんな顔をすれば良いのか分からないが、同時に近衛に会いたいと思っている。
「……でも」
「じゃあ諦めないんだ」
「…………でも」
諦めなければならない。ずるずると引きずっていても良いことはない。
「どっちよ」
「………………分からないの」
どうすれば良いのかは分かっている。簡単だ、近衛への想いを捨て、糸を結べばいい。
理屈では分かっているが、それができないから困っている。どうすれば糸を結び始めた頃のような関係に戻れるのか。
そうしなければ、これから先、神職になってからも近衛が傍に居るのではと姿を探すようなことになりはしないだろうか。近衛は神社にずっと居る。結木様に仕えているのだから。それでは、ずっと思いを引きずることにはならないだろうか。
結婚しないというよりも──結婚できない。神崎が跡継ぎでなくなると、近衛は残念に思うだろうか。
「どう頑張っても付き合える相手じゃないから、忘れたいとは思う」
その方法が分からないだけで。
「だったらさ、手っ取り早く彼氏作ってみる?」
「どうやって」
「合コン」
「ご──……!?」
合コン。
結子の生活の対極にあるもの。世の若人たちが集まり、恋人を作ったり、その足がかりにしたりという、あの。
「川端のね、中学の頃の知り合い。紹介してーだって」
こうやって彼氏彼女を作っていくのか。結子にはこれまで縁がなく都市伝説のようなものだった。テレビや雑誌、マンガの中だけの作られたイベントではなく実在していたのだ。それが一番の驚きだった。
「どう?」
「え?」
合コンが実在するイベントなのかと驚いていたが、元は合コンに参加して別の誰かを好きになってはどうかという話だった。
何を話せば良いのか──その前に、結子が座っては確実に浮くのではないか。
「いや、私は無理、無理だから」
「手伝い忙しい?」
「いや、あ──うん、まあ……そう、忙しい」
これまでも、そうやって様々な誘いを断ってきたから諦めてくれるかと思ったが、友里は粘る。
「じゃあ、そんなに遅くならないようにするから」
「でも──……私が居たら、浮くでしょ」
言った後で、だったら浮かない努力をしたらどうかと言われるのではと身構えたが、しかし友里は観念したように頭を下げた。
「……ごめん。白状すると、頭数合わせ。奈緒がさ。あの子、電車の西高生に一目惚れして。合コン行かないって言い出して」
「ああ……」
友里が中々諦めない理由に納得がいった。人数が揃わなければバランスが悪い。それならば、場に馴染めるかの不安があっても結子を座らせていた方が見た目は良い。
「でも、だから誰でも良いって訳でもなくて。悩んでたし、だったら別の人に目を向けてみてもいいんじゃないって思って」
友里の声は次第に小さくなる。言葉にはしないし、実際に頭数合わせに誘った意図もあるのだろうけれど──それだけでなく、結子を気遣ってくれているのも伝わってくる。
「無理に誘ってたらごめん。こういうのもあるんだって、視野を広くするのも良いかなって」
確かに、いつもと違うことに挑戦してみるのも良いかもしれない。いつもなら何を言われても断っていただろうに。
「……うん。行ってみる」
この時は、どうしてだか頷いていた。
「ほんと!?」
「でも、手伝い抜けていくからあんまり長くは居られないかもしれないけど」
「うん、全然いい。ありがと!」
とりあえず、今は友里が喜んでいるから人助けのつもりでいいかと思うのだ。