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32:夕暮れ、結木神社本殿

 神崎結子が去ると、本殿には静寂が満ちた。傾いた日が差し込み、全てを橙に染める。舞い踊る塵のひとつさえも。

 白い狩衣姿の青年が、どこからともなく姿を現す。

『好かれているねえ、近衛』

 その声は、御神体である鏡から聞こえる。揶揄混じりの軽い調子だった。白い青年──近衛はそれを聞き流す。いちいち対応していては話が進まない。

『神崎も、わたしに頼りきりではないでしょう』

『まあ、頑張っていたねえ』

 鏡の中、近衛の主は確かに、というように頷いていた。

 村上夫婦の糸は誤って切られたのではないか。それを確かめるために主の許に戻った近衛は、しばらく留まるようにと言い付けられたのだった。


 ──近衛は、少し甘やかしすぎじゃないか。


 そんなつもりはない。甘やかしてなどいないが、彼女の涙を見ると放っておけないだけで。それが、主の言葉を借りると甘やかしている、ということになるらしい。

 そんなことはない、いや甘やかしている、という言い合いになり、主は、甘やかしていないというのなら彼女が一人で糸を結べるのか試してみようではないかと言い出した。

 彼女が神社に来ても姿を見せるな、話しかけるな、そう命じられては従うしかない。主の命令は絶対なのだ。

『でも、どうしてあの夫婦の糸を結んだんだい。後回しでも良かったろう?』

『たまたま、夫が神社に来た折に、神崎と顔を合わせました。その翌日、村上夫婦の店舗兼住宅を訪れた折に病の話を聞き、急ぎ糸を結ぶということになりました。後回しにするのは──……』

 あの妻女は永くはない。夫婦としての縁が切れたまま、この世を去ることになっていただろう。

『けれど、そうすれば仕事がひとつ減っていたよ』

『……』

 主の言う通りではある。放っておけば、糸を結ぶ務めは一件減っていた。

 糸は、切ってしまった本人でなければ結べない。その人物に何事もないよう、特別に神使と糸を繋いで、病や事故から身を保護する。

 だが、糸を切られた人々までは難しい。そのため、特例がある。


 どちらか片方の死亡が認められた場合、その二人の糸は結ばれたものと見做す。


 村上夫婦の糸は、いずれ結んだものと見做される。だから、乱暴な表現ではあるが、他の糸を結んでいた方が効率は良い。

『あの子は、知っているの?』

 その特例を、であろう。

『……いえ』

 特例について、一切触れていない。

 彼女の周りでは、これまでに幸いにも若くして亡くなった人がなかったのだろう。人の死に触れる機会が少なかった。だから、もし糸を結ぶ前に亡くなった場合、という可能性を万が一にも思いつかなかったようだ。

『話してない? 近衛、それは……どうなんだい』

『もちろん、訊ねられれば伝えます。ですが、病の人間の糸を切ってしまったというだけで、神崎は取り乱していました。すべてを伝えることが正しいとは思えません』

 きっと、彼女は思い悩む。少しずつ人付き合いができるようになってきたのだ。だから、彼女を苦しめるだけの話は伝えたくない。出来る限り守ってやりたかった。

『それは、近衛の判断だから……まあいいか』

 言葉とは裏腹に、鏡の中主は承服しかねると言いたげな表情を浮かべる。

『ところで、結木様。本日の御祈祷の件ですが』

『ああ……健康になりますように、というあれか』

 興味がないのは容易に伝わってきた。覚えていただけでも御の字とすれば良いのかもしれない。

 参拝者が手を合わせて祈る内容は主しか分からないが、御祈祷になれば近衛たち神使にも伝わる。そして、先程も念を押されたばかりなのだ。彼女から。

 今までの近衛ならば、きっと流している。主は縁結びの神なのだ。健康との縁を結びたいとは考えたものだが、結ぶのは人と人との縁。だから、どう頑張ってみたところで叶えられない。

 それが、どうにかしてやりたいと思うのは──彼女が関わっているからだろうか。

『どうしようもないことは、近衛も知っているだろう?』

『ですが……』

 この先、村上千鶴がなくなり、彼女がもしそれを知るようなことがあれば、きっと涙を流すだろう。直接の原因でなくとも、糸を切ったことをくやみ、自分を責めるかもしれない。そんな姿は、見たくはなかった。だが、それを口にしたところで主の力を得られるとは到底思えない。泣かせておけば良い、とでも言われるだけだ。

 引き下がらない近衛に、主が続ける。

『そんなにどうにかしたいのなら、近衛がすれば良いじゃないか』

 それは、いつもの戯言のつもりだったのだろう。その証拠に、どうせできないだろうけれど、という思いが言外から伝わってくる。近衛が引き下がるだろうと見越して。──けれど。

『分かりました。しばらく留守にしますが、宜しくお願い致します』

『え? いや、近衛、どこに──』

『わたしにも伝手はありますので、結木様が仰せの通り、どうにかしたいと思います』

『待て、近衛、その間、糸結びはどうするんだ』

『神使はわたしだけではないでしょう』

 そうと決まれば、善は急げ。主に深々と頭を下げ、本殿を出る。

 人はいずれ死ぬのだ。それを先送りにしたところで何になる。そんな思いもある。

 だが、──彼女が、結子が悲しむのはもう少し先であればいい。そう思うのだ。

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