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31:村上千鶴

 村上千鶴は車に揺られながらぼんやりと外を眺めていた。流れる景色が見慣れたものになってようやく、ああ、帰ってきたのだな、と思う。

 入院は、もう何度目になるだろうか。新しい薬での治療になる度に、入院をしている。

 看護師とは顔見知りになった。同じ病棟の患者とも顔見知りになったが──二度と会わない人も居る。

 いや、会わないのではなく、会えないのだ。

 もう、この世には居ないから。


 病になって分かることというものは多々ある。不自由さ、向けられる同情の重さ。

 周りは、きっと良かれと思っているのだ。困ってはいないかとあれこれ手を貸し、若いのに大変だと同情をしてくれる。それまで無関心だった人までもが、大変だと声を掛けてくる。

 最初は素直にありがたいと思っていた。

 だが、一人に話したことが数日後には話していない人にまで伝わっている。

 そのことを、皆が心配してくれているのだとは思えなかった。

 千鶴にとっては病が日常のものだったが、周りにとっては非日常なのだ。

 五年後も自分が生きていると信じて疑っていない人たち。けれど、千鶴には五年後があるか分からないのだ。

 そんな彼らにとって、千鶴は格好の話題になったことだろう。夫の光也にそう言うと否定されたが、しかしそうとしか思えなかったのだ。


 光也は、口数が多い方ではなかった。黙ってお菓子を作る。流行りのパティスリーに並ぶような、女性ウケを狙ったようなものではなく、昔ながらの、子どもがお小遣いで買えるような小さなオムレットやシュークリーム、エクレア。ショートケーキやチョコレートケーキも飾り気のない、できるだけ原価を抑えてたっぷりと食べられるようなものばかりだった。

 特別な日に奮発して購入してもらうようなものではなく、子どもたちが家に帰ると冷蔵庫に入っているような、そんな日常に寄り添うお菓子を作っていた。

 小さな店だが、光也は何よりも大切にしていた。それは幼い頃から傍に居た千鶴も知っていたことだ。


 ──いつか、店を持ちたい。商店街の中にあるような、地元に根付いた店。


 専門学校を出て店で修行をし、そしてあれこれと資金を調達してようやく持つことができたのが、洋菓子ムラカミだった。

 籍を入れたのは、その頃だった。忙しすぎて、式を挙げることもなかった。

 それまで勤めていた会社を辞め、店の仕事を手伝い始めた。

 式を挙げられなかった代わりに、光也が小さなウエディングケーキを作ってくれたのだ。二人で食べるためのものだったから、何段にも重ねられたものではなかったけれど。

 マジパンで作った新郎新婦の人形が乗り、その周りにはクリームで作ったバラの花が添えられていた。

 ロマンチックなことには程遠い光也が、どんな顔をして作ったのだろうかと思うと、礼をいうよりも先に笑ってしまった。

 店は、夫婦の歩みそのものだった。子宝に恵まれなかった分、我が子のようでもあった。

 そんな大切な店を、光也は何のためらいもなく畳んだ。

 小さな店だが、千鶴とアルバイトが居なければ切り盛りは難しい。千鶴の代わりを雇うとしても、光也は常に店に入らなければならない。千鶴は一人で通院しなければならないのだ。

 それは──難しいだろう。次第に体力が落ちてゆく。薬の副作用だって出てくる。一人での行動は、千鶴自身でも不安がある。光也も、仕事は手に付かないだろう。

 だから仕方がない。それしか方法はない。

 分かってはいても、千鶴は考えずにはいられなかった。


 ──もし、自分が居なければ?


 居なければ、光也はまた独りで黙々とお菓子を焼くだろう。

 光也には、好きなことをしてもらいたい。妻の看病などでせっかくの店を畳んでほしくはなかった。

 別れよう、という簡単な一言が切り出せなかった。別れた方が良い、それは分かっているのに。

 だから、縁切り神社をテレビで見た時は、これだと思ったのだ。

 お参りに行きたいというと、光也は頷いてくれた。きっと、病と縁を切るよう願いに行くと思ったのだろう。勘違いは好都合だ。

 これで縁が切れれば、万事うまくいく。そう思ったのだが──。


 縁は、切れなかった。


 光也はいつまで経っても、病院への付き添いの不満を口にしなかった。千鶴が入院すれば、毎日のように着替えを持ってきて洗濯してくれる。食べたいものはないか、あれこれと世話をしてくれる。いい温泉があると聞けば、口コミや効能を調べてくれた。

 いつまで経っても切れないから、とうとう思い切って訊ねたのだ。


 ──ねえ、あなた。私のこと、好き?


 考えてみれば、馬鹿馬鹿しいことだろうと思う。光也は、千鶴の病が分かって初めて不機嫌な表情になった。

光也は自分を犠牲にしてまで尽くしてくれているというのに。

 けれど、これでもう光也も見舞いには来なくなるだろうと思った。週末に予定していた外泊もなくなるだろうと思い、担当医にそれとなく話していたのだが──。


 ──帰ろうか。


 土曜日の朝、光也は迎えに来た。帰り支度などしていなかった千鶴は驚いて、大慌てで鞄に荷物を詰めたのだ。

 迎えに来たことも意外だったが、件の縁切り神社に向かったのも意外だった。


「これで、無事に健康と縁が結べると良いですねえ」

「そうだな」

 返事はいつものように素っ気ない。

 車は、自宅の車庫に納まった。エンジンを止めても、しかし光也は降りようとはしない。だから千鶴も座席に座ったままだった。

 静かな車内では、呼吸の音も聞こえる。不意に、光也が口を開いた。

「おまえは、俺がおまえの犠牲になっていると思っているかもしれないが」

 そこで、少し間があった。光也も薄々感じていたのだろう。日々の何気ないやり取りや所作の端々から。

「今、店よりもおまえの傍に居たいんだ。俺も、おまえと一緒に癌と戦っているつもりでいる。……一人じゃないんだ」

 夫婦というよりも、戦友に向けての言葉だった。

 いや、初めからそうだったのかもしれない。妻であると同時に、店を共に切り盛りする相棒で、戦友。長い長い絆がある。夫婦でなくなっても、相棒としての、戦友としての絆はそう簡単に切れはしないのだ。

 店を畳んだことについて話をするのはこれが初めてだった。負い目を感じていたのだ。光也の夢を潰してしまった、と。気にするな、と言われても気にしてしまう。だからいっそ、話題に上らせない方が良い。

 さらに、光也は続ける。

「それに、朝から晩までの立ち仕事をする体力がなくなってきていたからな」

 そう言って笑った。それが事実かどうか、問い詰めるのは無粋というものだろう。だから、千鶴も頷いて応じる。

「でしたら、丁度良いタイミングだったんでしょうねえ」

 一度でも別れたいと思ったことは、胸の奥に仕舞っておこう。それこそ、墓場まで持っていこう、と──千鶴はそう思ったのだった。

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