3:切られた糸は
一生、結婚できない。
近衛の声音は重々しかった。十六の娘にとって、結婚や恋愛は憧れのもので、将来の夢のひとつ、と思っているのだろう。その気遣いが感じられた。
憧れている少女たちにとって、それは死刑宣告にも似たものなのだ、きっと。
だが、しかし。
「はあ──そうですか」
そうか、そうなのか、程度にしか思えなかった。
『そうですか、っておまえ──』
「だって、そうとしか返せません。私、結婚したいとは思いませんし、そもそも恋愛への憧れもありませんから」
『──はあ!?』
今度は、近衛が間抜け面になる番だった。いや、美形は間抜け面も美しい。全く間が抜けたようには見えないから、矢張り美形は得だなとそんなことを考えていた。
「毎日のように、別れたいだの縁を切りたいだのお参りに来ているんです。結婚や恋愛が幸せだとは思いません」
惚れた腫れたと言って付き合ってみても、はたまた結婚しても、思っていた通りの人間など居ない。些細なことが引っかかる。言い合いになる。そのうち、嫌になる。
皆、熱心に拝殿に手を合わせては、そんな負の感情を吐き出しているのだ。絵馬には、ずらりと別れたい、縁を切りたいという願い事が書かれている。
ならばもう、初めから考えなければ良いのだ。
結子が結婚しないことで生じる問題といえば、少子化問題に拍車をかけることと、神社の跡継ぎをどうするか、か。
少子化問題には、税金を納めることで目を瞑ってもらうこととする。
そして、もうひとつは。
「安心して下さい。神職の資格を取って、神社は私が継ぎます。私の次も、しかるべき筋に相談をしてしっかりと用意しますから」
出来れば代々続く家系が継いだ方が良いのだろう。結婚は結婚、と割り切ってでも跡継ぎを作った方が良いのかもしれない。
神社のために。
だが、そんな相手と喧嘩をしない自信はない。喧嘩をする所を見せられた子供はどう思うか。
ならばいっそ、割り切ってしまった方が良いだろう。十六歳の浅慮かもしれないが、今の結子はそれが正しいと思っている。
『……その、神社が続かないかもしれないとなったら?』
結子の眉根が寄った。何を言い出すのだろう。次から次に、よく出てくるものだと感心してしまう。
「神社は、ずっとあるものでしょう?」
そう、神社はずっとある。結子が産まれる前から、そして死んでからも。
『神社は、神様を祀る社だ』
「そう、ですけれど」
『結木様が神でなくなれば、どうなる』
そんなことがあるものか。そう思ったが、近衛は至極真面目な様子で冗談を言っているようには見えなかった。
『神議りに来ないように言われたのだ』
神議り──陰暦の十月、神無月、出雲での神在月に行われる神々の話し合いだ。そこで縁結びも決められるのだという。
それは、つまり──つまり?
「何か、問題でも?」
『問題だらけだ!』
近衛は声を荒げて詰め寄る。美形の迫力は満天で、一歩、二歩と後じさる。逃げ道はなく、背に扉が触れた。
『神として認められていないということなのだぞ。結木様が、長年努めてこられたことが無に帰するのだ。お前の趣味のせいで』
「趣味じゃありません」
『だったらなぜ、糸を切る』
「……皆が、別れたいって言うから」
『だからって、普通は──』
近衛の言葉は最期まで続かなかった。ため息をついて、白い髪を乱暴に掻く。
『……普通は、見えないのか』
「……切れて欲しいと願うなら、元々結ばない方が良いんです。だから、私は──……」
糸を切ってきたのだ。
初めて糸を切ったときのことが蘇る。今でもしっかりと思い出せる。喧嘩をする両親の声。結子の中に、リアルに残っている。
──出て行け!
──ええ、出ていきますとも!
何が原因で喧嘩をしていたのかは、結子には分からなかった。だが、一緒に居るのが辛いのだろうとは伝わってきた。泣いている母を慰めるには、言葉を知らなかった。結子の顔を見ると、無理をして笑顔になる母を見ていられなかった。
出て行きたいと言った母の小指にはしっかりと赤い糸が結ばれていた。それが、母を縛り付ける鎖のように見えたのだ。
──チョキン!
神社にお参りに来た人も、そうだったのだろうか。ひどい喧嘩をして、怒りが治まらないから、吐き出してしまいたかったのだろうか。
──チョキン!
『赤い糸を無理矢理切られてしまったら、どうなると思う』
切れてしまった赤い糸は、切れ端をたなびかせながら小指に巻き付いている。それがその後でどうなるのかまでは見たことがなかった。
「また、別の人を見付けて……糸を結ぶのでしょう?」
どうせまた、結び付くのだ。そうしてまた、別れたいと願いに来るに決まっている。
『同じ人間がお参りに来たことがあったか?』
「え? それは──」
少し嫌なことを見付ければ、また別れたいと願いに来る。──いや、来ただろうか。
参拝客は多いが、最初の頃に切った人のことは覚えている。だが、いずれも一度きりだ。二度、見たことはない。
『当人同士が切った糸は、また別の糸と結ばれる。ただし、無理矢理切られた糸は──』
そこで、近衛は勿体をつけるように黙り込んだ。これはきっと、あまり好ましい答えではないのだ。
『どの糸とも結ばれない』
ぽかんとする結子に、近衛が説明を加える。
『切られた糸は、そのまま誰も見付けられぬまま小指に纏わりついたままだ』
自然に切れた糸と切られた糸は、切り口が違うのだという。
確かに、縫い糸もそうだ。ハサミで切られた糸は切り口がすっぱりとしている。
「でも……でも、良いじゃないですか。もう別れたい、縁を切りたいと悩まずに済むんですから」
もう二度と、そんな煩わしい人間関係で悩まずに済むのなら、それも良いだろう。
これまで行ってきたことを正当化したかった。神様に迷惑を掛けたかもしれない。だから、今後は糸を切らないでおこう。それで万事解決だ。
『そう簡単な話ならば、結木様も神議りに来るなとは言われない』
良い話が聞けるとは思えなかった。それなのに、分かっているのに、どうして問い掛けが出てしまうのだろう。自分のことが制御できず、戸惑う。
「……どうなるんですか」
訊ねられると分かっていたのだろう。近衛は用意していたらしい言葉で告げる。
『糸は切られたが恋愛をしたいという気持ちは残っている。それなのに、誰とも結ばれない』
そういう場合は、片思いで連戦連敗、となるのだろうか。それはそれで辛い部分もあるだろうけれど、縁がなかったと諦めもつくだろう。別れたい、という相手と一緒に居るよりは遥かに良いと思うのだ。
だが、近衛から告げられたのは、結子の想像を裏切るものだった。
『そういうのは、不倫だのと面倒なことに手を出す』
ふりん。耳障りの悪い言葉に、顔をしかめる。意図せずとはいえ結子が手を貸していたのだ。それが良くないことだとは結子も知っていた。
ここにお参りに来た皆が、そんな表立っては言えないようなことをしているのか。もしかすると、母も。そう思うと、ぞっと鳥肌が立った。
人助けどころか、不幸にしていたのか。皆、嬉しそうに帰っていたのに。その先に、新しい運命の相手は居なかったのだ。
足の力が抜けていく。ずるずるとその場にへたり込んでしまった。
「わたし──……」
結子自身が結婚できなかろうと、初恋の味を知らずに終えようと、それはもう受け入れていることだから構わない。
知らぬ間に不幸にしていたことが怖かった。震える手で顔を覆う。この手で、これまで何本の糸を切ってきただろうか。
『何をしてきたか、分かったか』
慰めるような優しい声音だった。頭上から降ってくる声に、頷くことしかできない。頭を撫でる手に、ささくれた心がじんわりと温まるのを感じた。
『だったら、責任を取れるな』
恐る恐る、顔を上げた。近衛がにっこりと笑っている。その笑顔に鳥肌が立った。美しいからこそ、恐ろしさが際立つ。
「責任……?」
背筋が凍る。責任のとり方とは、何をするのだろう。神様を貶めたのだ、人間一人の命で片がつくのだろうか。
「でも、わたしは──」
『これまで切ってきたんだ、できるな』
近衛は袖から何かを取り出す。それは、白い何か。
ばさっと音を立てて床の上に置かれて、何かの正体が分かる。
それは紙の束。紐で綴られており、何かが記されているようだった。
『出雲は寛大だ。子供のしたことだから、元に戻せば今回の件はお咎めなしとしてくれるという』
「こども……」
いや、子供か。まだ十六なのだ。神々にとっては、ほんのついさっき産まれたばかりの存在だろう。
『切った糸は、切った者しか結べない』
つまり──つまり?
床の上に置かれた紙の束をちらりと見る。あれは、あの厚い紙の束は何だろうか。
『責任を持って、切った糸を結び直そうな』
紙の束に書かれているのは、これまで十年かけて結子が糸を切った人の情報。何件あるのかと思うと、先程とはまた違った意味の鳥肌が立った。