2:美形の不審者
どれ程の時間、気を失っていたのだろう。
結子は何度も名を呼ばれようやく目を覚ました。目に飛び込んできたのは、ぼんやりと線を描く人の姿。そして、天井の梁。
「結子? 結子!」
名を呼ぶのは、父。結子が目を覚ますと、不安一色だった表情が明るくなる。
「どうした、何があったんだ」
気を失うなど、どうしたのだろう。倒れる間際のことを思い出そうとして──思い出して、勢い良く身体を起こした。父が慌てて避けてくれたお陰で頭をぶつけることもなく。
「お父さん、不審者! 不審者が──」
そう言いながら周りを見回すが、しかし結子と父の他に人の姿はない。
「不審者!? どんな奴だった」
どんな"奴"だったろう。艶やかな長い髪、白い狩衣、肌も透き通るように白い美丈夫。そう、"イケメン"などという軽い言葉では表現しきれない美形だった。低い声で男だろうと思ったのだが、女でも充分に通用しそうな顔立ちをしていた。
「……とてつもない、美形」
父の問いに、それだけを言うのが精一杯だった。
結局。本殿の中を探し回ったが不審者の姿は見付からなかった。これからは一人でむやみに歩き回らないようにときつく言われ、家に戻る。
部屋着に着替えて少し冷えた夕食を摂りながら、結子は納得できないままだった。
確かに聞いたのだ。空耳ではないと否定もされた。だが、人影はない。結子が気を失っている間に逃げてしまったのか──それならば、目的は何だったのだろう。妙なことをされたような感覚はない。ない──筈だ。白衣の襟元も乱れていなかった。
食事を終えて食器を洗い部屋に戻りながら考えてみたが、一番しっくり来る答えはこれ。
「……やっぱり、気のせいだったのかも」
気のせいで片付けるのが一番良い。
そう、きっとそうだ。春のうららかな陽気にぼんやりとしていたのだ。春は始終眠たいものなのだから。
「夢でも見たんだわ」
わざわざ口に出したのは、言い聞かせる意味もあったのだろう。
『立ったまま眠って、更には夢まで見るのか。器用なことだ』
部屋の扉を開けるのと、独り言への反応が返ってきたのはほぼ同時だった。
六畳程の部屋である。そこに、机とベッド、本棚。クローゼットは造り付け。そして、白い狩衣の白い男が一人、居た。
「…………」
人間、驚いた時には声も出てこないのだと結子は知った。
ぽかんと口を開けた顔はひどい間抜け面だろう。
いつの間にこの不審者は部屋に入ったのだろう。
しかし、改めて見ても美形。
美形の前でアホ面は恥ずかしい。
肌もつやつやとしている。
様々な、纏まらない考えが頭の中に溢れて、誰かに助けを求めるということを忘れていた。いくら美形だろうと、不審者には変わりないのだ。
美形が、人差し指を立てて横に切る。それでようやく、あれこれと慌ただしかった思考が落ち着いた。
今、何をするべきか。考えずとも分かっている。何よりも助けを呼ぶべきなのだ。
「──……!」
何かを叫べそうだと思ったのだ。それなのに、口を開いても声が出てこない。
『今、他人を呼ばれては困るのでね。少し、私と話そうじゃないか』
狩衣の美形は、静かな口調で言った。結子の背後でパタンと扉が閉まる。風もないのに。振り向いて確認することはできなかった。もし、そこに誰も居なかったら、どうすれば良いのか分からないのだ。
『神崎結子、十六歳。結木神社の一人娘。現在の家族構成は父。母は家出中、父方の祖母は去年亡くなった。祖父が亡くなったのは物心をつく前。この春、高校二年生に進級。成績はそこそこ、得意科目は古典、現代文。苦手科目は数学。これまでの交際経験はなし、初恋もまだ──……』
つらつらと語られるのは、結子のプロフィールであった。しかも、訂正するような所はない。
『特技は、赤い糸が見えること。趣味はその赤い糸の切断。六歳の時に両親の糸を切ってからというもの、次から次に糸の切断を繰り返している』
さっと血の気が引いた。
それは母の他には誰にも打ち明けていない秘密なのだ。しかも、赤い糸を切っているのは母すら知らない。
『中々、悪趣味だな』
美形は再び、指を横に切る。先程とは逆に。
「なに──」
それで、ようやく声を発することができた。喉元に触れてみるが、傷も何もない。指に血も付いていない。
『君の番だ。言い返すことがあるなら、どうぞ』
促されて、それに従うのは癪だったが、しかしようやく喋る機会が与えられたのだ。深く息を吸った。
初めに何を訊ねるか、それで全てが決まってしまう。騒がしくまくし立てて良い相手ではない。外に助けを求めるのも、賢い手ではないだろう。何かをするつもりなら、もうとっくに済ませている。その機会は充分にあったのだ。
結子と話をするつもりなのだ、この美形は。
「あなたは、誰」
何よりも訊ねたいのは、それだった。どこから現れたのか。結子の見間違いや記憶違いでなければ、確かにふわりと降ってきたのだ。
美形は眉を動かし、口元で笑う。双眸は爬虫類のような冷ややかさを持っていた。
『ぎゃあぎゃあ騒がないところは、好ましいな』
言葉とは裏腹に、そこに好意は感じられなかった。
『結木神社の一人娘ならば、由来は知っているだろう』
由来を説明する気はなさそうだった。結子に説明をしろと言っているように伝わる。
「……昔、村の娘が木に手ぬぐいを結んで、それが蛇に変わって恋を叶えたんでしょう?」
『間違ってはいないが、巫女の答えとしてはいささか乱暴だな』
「間違っていないのなら、良いでしょう」
強がりだった。基礎のしっかりしていない知識を指摘され、素直に謝れるような状況ではなかったのだ。ここで謝ってしまえば、完全に立場が決まってしまう。
『ならば、わたしが誰か分かるだろう?』
気付けば、眉間に皺が寄っていた。この美形は、何を言い出すのか。有名な俳優か何かなのだろうか。だが、この容姿ならば嫌でも覚えている。
懸命に考える結子に、美形は大仰な溜息をついた。
『神使も知らんとは。──だから、悪趣味なことに励むのか』
神使。神の使い、神の眷属。
──神使?
「…………はい?」
流石に、それまで冷静を努めてきた結子も、そんな言葉しか出てこなかった。
『わたしは、近衛。結木様の神使だ』
近衛と名乗った美形は、紅の双眸を細めて結子を見る。いくら結子が巫女だといっても、受け入れられないこともある。いきなり現れて、神使だと言われてはいそうですかとは言えるはずがないのだ。
結子の学校での成績は調べようと思えばどうとでもなる。彼氏の有無も同様に。初恋となると、少しハードルは上がるが調べられる範疇だろう。
赤い糸とそれを切っていることは、お参りに来た参拝客の小指の傍で糸切りバサミをちょきちょきとさせている所を見て鎌をかけたと思えないこともない。
しかし、何のために。何のメリットも見いだせない。
だが、その目的が分からないことも、神使だとすれば納得がいく。
この神社は、縁結びの神様を祀っているのだ。それが、いつの間にか縁切り神社と呼ばれるようになった。それもこれも、全ては結子が糸を切り続けたために。
結木神社の使いは、白蛇。ならば、あの白い髪も、紅い瞳も納得がいく。きらきらとした肌は、蛇の鱗か。
『意外に、愚かではないのだな』
まるで、心の中を見透かしたようなことを言った。考えていることが正解だと言っているようなものではないか。
「仮に──仮に、よ。あなたの言うことが本当だとして。何をしに来たの」
『何をしにきたのか、とは──自分のしたことも分からないのか』
「縁を切りたい人の願いを聞いていただけだもの」
そう、皆は望んでいたのだ。何も悪いことはしていない。していない──筈だ。だが、じっと向けられる紅い瞳に射すくめられ、声は次第に弱々しくなる。だから、こちらに非はないだろうと言葉を強くする。
「大体、私が悪いことをしていたのならもっと早い段階で来るべきでしょう?」
それは近衛にとって痛いところであったらしい。眉根を寄せるのが見えた。
『……それは、結木様の気の弱い所だ。手際が良いから、止める前に切られてしまう』
何年も切っていると、確かに手際は良くなっただろう。どうにかして止めようとしていたのか。結子の後ろでおろおろとしながら様子を伺う姿を想像して、少し申し訳ない気持ちになる。
参拝客は、結子でなく結木様を頼って来ていたのだ。
『いずれ、気付くだろうと──他人の縁を勝手に切ってはいけないと、分かってくれると思っていたのだ。気の長いことだが。……だが、そうはいかない事情が出てきた』
「どんな事情です」
近衛はたっぷりと間を置いて勿体を付けた後。
『このまま、他人の縁を切り続ければ……一生、結婚ができなくなる』
重々しい口調で、そう告げた。