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14:土曜日の昼下がり

 寝起きの目元は少しむくんでいた。泣いたせいに違いない。ただ、腫れなかったのは幸いだった。擦らなかったからだろう。

「おはようございます」

『おはよう』

 目を覚まして最初に挨拶をするのが近衛になって、数日。

『眠れたか』

「多少は……」

 眠りは浅かったと思う。身体は疲れていたけれど、頭は起きていた。疲れは取れたような、取れていないような。何とも形容し難い感覚に支配されていた。

『わたしも一緒に行こうか』

「一人で大丈夫ですよ」

 皆、こういうことは一人で乗り切るものなのだから近衛に頼ってばかりはいられない。

『心細くなった時は、糸を引けばわたしはいつでも行く』

 それでも、案じてくれているのはありがたかった。

「ありがとうございます」


 電車に揺られながら、思い出すのは祖母に言われたことだ。

 祖母は厳しい人だった。手伝いをしろ、勉強をしろ、遊びは二の次。けれど、それは間違っていたのか。考えても、答えは出ないまま。分かっていることといえば、これまで失礼な態度を取ってきたことを謝らなければ。これは間違いなく結子に非があるのだから。

 友里の姿はもう教室にあった。机に鞄を置き、深く息を吸って気合を入れた。

 友里の傍まで向かい、今までごめんなさい、と言うと返ってきたのは一言。

「ふうん。それで?」

 それで、とは。考えても、何を求められているのかが分からなかった。

「それで、どうしたいの? やっぱりお昼は一緒がいいとか──」

「それは……失礼だから、いい」

 これまでちゃんと会話に参加していなかったのに、それをなかったことには出来ない。

「そっか。良かった」

 それで会話は終わり、友里たちのお陰で繋がっていた縁はぷつりと切れたのだった。


 縁を繋ぐのは、並大抵のことではないのだ。一度繋がった縁も、互いの思いがなければ容易に切れてしまう。真心、思いやり、気遣い。

 中庭のベンチに座って一人で弁当を食べながら、礼を言うべきだった、と思った。

 あれほど嫌だった一人は、思っていたよりも楽だった。

 移動教室は一人だが、それも大学での予行練習と思えば何の事はない。大学ではそれぞれが選択した講義を受けると聞いていた。ならば、なおさら友人を作る必要はなくなるように思う。

 昔はもっと大変だった、とは祖母の口癖だった。今の若い人は楽だ、苦労を知らない。

 だから、そう。今だってきっと昔に比べれば楽なのだ。人間関係であれこれ悩むなど、きっと昔から見ればささやかなものなのだ。

 空は薄い和紙を一枚通して見るような青。すっきりと晴れるようになるには、もう少し待たなければならないだろう。

 一人で居るのも、悪くはないのかもしれない。近衛は、だから聞いたのだろうか。一人は、どうして嫌なのか、と。

「一人も、悪くない」

 言葉にしてみると、本当にそう思えてくる。言葉は徐々に馴染んで、事実となるのだ。

「一人も、楽しい」

 事実とするためにもう一度、口にしてみる。楽しいのだ、今は。

 だから、今は決して悪いことではない。

 決して──決して。

 けれど、なぜだろう。寂しいと感じるのは。これまでも、輪の中にあって一人だったのに。


『どうだった、今日は』

 帰宅した結子を迎えた近衛は、挨拶よりも先にそう訊ねた。

「別に……」

 何もない。縁が切れただけで。別に、という一言だけで近衛は察したのだろう、小言がない代わりに慰めもなかった。

 何かを言われるとまた泣いてしまいそうだったから良かったけれど。


 土曜は、雲がかかってはいたが雨もなく外に出るには丁度良い気候だった。

「今日はどこに行きますか?」

 少しでもあの紙束を薄くしなければならない。天気も悪くないから遠出をするかと言われるものだとばかり思っていた。だから、早起きをして洗濯を干し終えたのだったが。

『今日は休みだ』

 きょとんとしてすぐには返事ができなかった。なぜ、早く糸を結んでしまわなければならないのに。そんな問いを投げる前に、近衛が続ける。

『今日は母が来る日だろう』

 なるほど、それで。そう理解はしたが、しかし納得まではできなかった。

「ですが、来るのは昼頃です」

 時計を見ると、まだ九時を指している。時間はあるのだ。それまででも、もしくは多少過ぎてしまっても、夕食までに戻れば良いだろうに。

『グラタンの作り方を教えてもらえ』

 グラタンは結子だって作れる。尤も、市販の素を使ってであったけれど。失敗はしないが、母の味とはやっぱり違う。

 けれど、近衛は単に作り方を学べと言っているのではないのだ。ここしばらく、ずっと一人で過ごしていたのを近衛も知っているのだろう。それで気を遣ってくれているのだ。

 こういう時は、どうするのだったか。

 硬い頬の筋肉を指先で揉みほぐす。口角を上げて、笑顔を作って。

「ありがとう、ございます」

 恐らくはぎこちないものだったろう。けれど、近衛は馬鹿にして笑うようなことはしなかった。

『どういたしまして』

 そう言って、近衛は結子の頭を撫でたのだった。


 母が来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。十年ぶりの家を見渡して、開口一番に言ったことは結子を驚かせた。

「大変だったでしょう、結子」

「え?」

 何が、どう大変なのだろう。意味も分からずにいると、母が一言、言い添える。

「掃除。学校と、神社と、家と。遊ぶ時間もなかったでしょう」

「でも……お父さんもしてくれたから」

 それに、当たり前ではないか。祖母からも常に言われていた。家のことをするのは当たり前。

「ごめんなさいね」

 ごめんなさい、ともう一度母の細い声が紡いだ。母が謝ることではないだろうに。

「じゃあ、今日は結子のリクエストに応えてグラタンを作ろうかしらね」

 腕まくりをする仕草をして、張り切って言うのだ。


 グラタンは時々作っていたけれど、市販の素に頼りきりだった。

「何のグラタンにする?」

「鶏肉と玉ねぎとマカロニ!」

 すぐさま返すと、母は肩を震わせて笑った。

「昔から、結子はそれだったねえ」

「……覚えててくれたの」

「忘れるはずないでしょう」

 バターを量りながら、楽しげに言うのだ。

「鍋も綺麗ね」

 棚から鉄の無水鍋を取り出す。

「この鍋ね、結婚してすぐに買ったの。セットでね。高かったわ」

 ダッチオーブン、フライパン、小さいサイズとシリーズで揃えてある。いつも何気なく使っていたものだ。鉄だから、多少の焦げは金たわしで擦ってしまえるのだ。

「知らなかったな」

「でしょう」

 母が取り出したのは、20センチの鍋。そこに量ったバターを落とし、振るった小麦粉を入れる。火を入れるとバターがじわじわと溶けてゆきミルクの香りを立てる。

「いい匂い」

「ソースを作ってる間、鶏肉とマカロニを用意してもらおうかしら」

 鍋に水を張り、湯を沸かす。マカロニを茹でる支度をしながら、その横で鶏のむね肉を洗う。肉に残る血を洗い流して、まな板の上で一口大に切る。

「お母さんが戻ってきたら、学校休みの日は遊びに出て良いからね」

「え、でも」

「勉強はちゃんとするのよ」

「お母さん、でも──私……」

 遊ぶような友人が居ない。だが、それを言えば心配させるだけだ。だから、最後まで言えはしなかったが。

「なあに? 学校は楽しくない?」

「楽しいよ」

 楽しくない。

「みんな、良くしてくれるから」

 友達も居ないのに。

 皆と居た時も決して楽しくはなかったが、それでも根拠のない安心感があった。それは上辺だけで彼女らを利用した末に得たものだったけれど。

「嘘おっしゃい」

「嘘じゃないよ」

 すぐさまの反論に、母は苦笑を漏らした。

「変わってないのねえ」

「何が?」

「結子、嘘をつく時はすぐに言い返すでしょう。嘘じゃないって」

「……」

 気付かなかった。今の今まで。気付かれていたのだ。子供の頃の嘘ならば、相手は大人なのだしと笑い話で済むけれど、今の言葉も嘘だと気付かれていた。折角、学校に通わせてもらっているのに。

「夕食まで時間もあるし、下ごしらえしたらコーヒーでも飲もうか」


 グラタン皿に盛り付けてチーズを乗せて、あとは焼くばかり。時計の針は三時手前。焼くにはまだ早い。

 母は食器棚からマグカップを取り出すと、コーヒーを淹れてくれた。牛乳の多い、甘いコーヒーを。

 温かなマグカップを両手で包む。母の手には、赤いマグカップがあった。それを見てほっとする。矢張り、母の手元には赤いマグカップが似合うのだ。

「楽しくないなら、学校なんて行かなくて良いのよ」

「え!?」

 気に障ることを言っただろうか。

「違うの、学校は──……」

 楽しい。そう言わなければ。けれど、喉元に引っかかって出てこなかった。

「無理に行くことないわ。そう、休んじゃいなさい」

「でも、学校には行くものだって……」

「誰が言ったの?」

「……おばあちゃん」

 祖母はいつも言っていた。手伝いをしなさい。勉強をしなさい。昔は早起きをして家の手伝いをしてから学校に行ったものだ、学校に行きたくとも行けない子が大勢居たのだから感謝しなさい。それはもう耳が痛くなるほどに聞かされた。

「困った人ね」

「……おばあちゃんが?」

「おばあちゃんも、結子も」

「私も?」

「そうよ。結子が生きているのは今なのに、昔はこうだったっていう言葉に左右されて」

 確かに左右されたのかもしれないけれど、それが正しいとも間違っているとも教えてはくれなかったのだ。

「……誰も、それが間違いって言わなかったもの」

 年長者の言うことは正しいのだと、そう教えられてきたのだから。

「そうね。お母さんもそうだったから。結子はお母さんに似たのかぁ」

 家を出た原因のひとつだと、ぽつりと呟く。

「お母さんね、色々考えたの。例えば江戸時代はこうだったからこうしなさいって言われたら従うかどうかって」

 身を乗り出して言う母に、結子は少し引いて答える。

「それ、極端じゃない?」

「確かに。でも、同じ時代じゃないでしょ? おばあちゃんの若い頃と、お母さんの若い頃。もちろん、今とも違う時代よ」

「でも、日々の積み重ねで……歴史は繋がっていて」

 だから、先人が培ってきた文化は大切にしなければならない。祖母はそう言っていた。

「でも、昔は神職を継ぐのに資格は必要なかったでしょう?」

「それ、むかーしの話じゃない」

「同じよ。昔は必要なかったけど、今は必要になった。だったら、それに合わせて日々を送ったほうが良いでしょう」

「それは──……まあ、確かに……」

 そうかもしれない。だが、結子の返事はどこか歯切れが悪い。

「だからって、文化を蔑ろにしていい訳でもないし、年長者への尊敬を忘れてもいけないわ。そこは、結子なら分かるだろうけれど。今の時代に結子がどう生きるか。どうすれば少しでも楽になるか。それをまず考えなさい」

 母はマグカップを傾けて、残りのコーヒーを飲み干す。

 記憶の中の母は、もっと弱々しくて、自分の意見を言えずに俯いていた。十年の間に様々なことがあったのだろう。

「昔の人は電卓なんてなかったんだ、算盤を使いなさいって言われちゃ困るわ。算盤は使えた方が良いけれど、電卓と同じように使いこなせるまで何年もかかるでしょ?」

「うん」

「だから──……あら? 話がずれちゃったわね」

 最初の話からずれてしまっている。それが可笑しくてくすくすと笑う。

 元々は、学校が楽しくないという話だった。それが、あちこちに寄り道をしたのだった。

「それで、結子はどうして学校が楽しくないの?」

 大きく回り道をして、元の話題に戻る。言うべきか──それとも、誤魔化すべきか。

 どれくらい悩んだろう。時間にしてみればほんの何分かだったろうけれど。

「あの──ね、あのね……」

 両手で包み込んだマグカップには、コーヒーが残り半分ほど。もうすっかりぬるくなっている。

 母は、今の娘に失望するだろうか。夢を見させていた方が良いのではないか。あれこれと悩んだ末に、思い切って言葉にしてみる。

「友達といるのが、ね……楽しくなくて。それで、今……」

 母は急かすことなく、黙って続きを待ってくれていた。コーヒーで乾いた口の中を濡らす。


「友達が、居ないの」


 一人で居るのは、気を遣わなくて気楽で、とても良いはずなのだ。それなのに、言葉にするとぎゅっと心臓を握り締められたような痛みを感じた。

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