13:からっぽ
後悔先に立たず。覆水盆に返らず。後の祭り。
食堂内の賑やかな場にあって、このテーブルだけがカプセルに詰められたように切り離されている。喧騒が遠くになっていた。
「明日から無理して一緒に食べなくて良いよ」
「友里ちゃん……ね、やめよう」
美幸が、友里の袖を引きながら必死に諌める。だが、それも効果はなく、むしろ逆効果だった。
「美幸も言ってたじゃない」
結子の居ない所で、不満を口にしていたのだ。きっと、皆が。それを責めようとは思わなかった。言われても仕方がないようなことをしてきたのだから、と思う。
「でも、こういうのは……」
「こういうのって、何? これまで私たち我慢してたよねえ?」
刺々しい友里の声は、ざわざわとした食堂の中にあってもはっきりと聞こえた。
「ま、そういう訳だからさ。別に子供じゃないし苛めとかしないから。それは安心して」
「内申に響いても困るもん。進学したいし」
奈緒と友里はあっさりとしたものだった。麻衣子我関せずといった様子で黙ってカレーを食べている。
「……ごめん」
絞り出すような声でそれだけを言うのが精一杯。
「ま、ここはそう言っておくのが正解だろうね」
皮肉たっぷりの奈緒の言葉に友里も笑う。話の主導権は、奈緒と友里の間で行き来していた。
「ひとつ聞いていい?」
何、と言う前に友里が続ける。
「結子には恋愛とか放課後どこに行くとか話してるのが馬鹿馬鹿しく聞こえたかもしれないけど、私はそれが楽しいんだよね」
「うん……」
「結子は、何が楽しいの? これまで、何か楽しいことってあった?」
「え──……」
不意の問い掛けに、言葉が浮かんでこない。
何か、楽しいこと。これまで心から楽しかったことはあったのだろうか。答えられないでいる結子に、友里は箸を手にしてどんぶりに残ったうどんの出汁を掻き混ぜた。残った葱が琥珀色の海で泳いでいる。
「出てこないって、逆にすごいね。それとも、私には話したくないのか」
そりゃそうか、ただのクラスメイトだもんね、と箸の先に葱を引っ掛けながら言う。
テーブルから離れるに離れられず、予鈴が鳴った時は天の助けに思えたのだった。
放課後、四人はいつも寄り道をして帰っているようだった。家の手伝いがあるから、と結子は混ざったことはなかったが、それでも毎日声を掛けてくれていた。断ることを分かっていて、付き合いだったのだろうけれど──今日はそれもなかった。
学校から家までの道は体に染み付いていた。何も考えぬまま帰路につく。
部屋に戻って真っ先にしたのは、机の上に置かれた紙の束を手繰ることだった。
川端雅史
大倉友里
「これか……」
友里の名を見付けて、溜息混じりの声が漏れた。せめて、この束を見ておけば良かったのか。そんなことを今更言っても遅いのだけれど。
『お帰り。──どうした?』
帰宅したのが糸で伝わったようだった。近衛が背後から手元を覗き込む。これは結子だけの問題としてしまって良いのだろうか。糸を結ぶ時に小さいながらも影響を与えはしないだろうか。
しかし、近衛は何と言うだろう。追い打ちをかけるようなことを言うのではないか。同時に、この件が近衛に迷惑をかけてしまっては、とも思う。
「ちょっと、失敗してしまって……」
結局、そう切り出すのだ。
『失敗?』
「ええ、まあ……」
近衛の表情が強張る。白い肌が青ざめる。
『まさか、糸を結び間違えた訳じゃないだろうな』
「いえ、そうではなくて──……」
かくかくしかじか、これこれこう。
昼休みの一件を伝える間、近衛は腕を組んで黙って聞いていた。話し終えても、何の反応もない。
「という訳で、食事の輪に居づらくなりました」
これまで怠けていた結果だ、と呆れられるか、それとも自業自得だと笑われるか。構えていたのだが、そのどちらでもなかった。
『良かったのではないのか、お互いに』
「良かった、って……近衛さんは、学校のあの独特の雰囲気を知らないから言えるんです」
『そうだろうな。わたしは人間でもないから、よく分かっていないのだろう』
「学校で一人というのは、中々居心地が悪いものなんです」
学校というものは、集団行動を是とする場だ。一人はどうしても浮いてしまう。だから、早く謝らなければならない。もっと心を込めて、上っ面だけの謝罪ではだめだ。どう言えば良いだろうか。
『神崎は、どうしたい?』
「どう、とは──」
『また、その四人と食事をしたいのか?』
その問い掛けに、どうしようか何と言って謝ろうかと考えていた思考が止まった。
また、あの輪に入って昼食を摂りたいのだろうか。
昼休みは苦痛でしかなく、興味の持てない会話はただ形だけの相槌を打って内容は右から左へ抜けていた。謝って、これまでのことを詫びて、今度はもっと真剣に興味のない話を聞くのだろうか。
それは果たして、望んでいることなのだろうか。そして、それはあの四人に対して失礼なことではないのか。
答えられない結子に、近衛はもうひとつ問い掛けを投げる。
『一人は、どうして嫌なんだ?』
「え、っと……」
無視されるから? けれど、今まで結子がしてきたことも、遠回しな無視ではなかったか。
苛められるから? だが、苛めはしないと言っていた。彼女らの言うことを信じるならば、だけれど。
ならば、なぜ一人は嫌なのだろう。
「……分かりません」
今までなぜ、頑なにどこかに所属しようとしていたのだろう。正体不明の不安を抱いていた。
『良い機会じゃないか。ゆっくりと考えてみろ』
「はい……」
頷いて、あれ、と気付く。こんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
「……怒らないんですか」
『怒られたいのか?』
すぐさま首を振る。
「まさか。でも、怠けていたろう、とか……言われると思っていたので」
だから、拍子抜けしてしまうのだ。
『分かっていることをくどくど言われても頭には入らないものだ。神崎が他人との縁と向き合うことを怠けていたのは事実だが──元の鞘に収まるのが正解とは限らない』
それは、つまりどうしろということなのだろう。結子の眉間に皺が寄る。
『答えは考えて出すものだ。正解も不正解も、誰に決められるものでもない』
「でしたら、今までの関係も私が正解と思えば──」
正解になるのだろうか。だが、最後まで言う前に近衛が遮る。
『相手に失礼な態度を取っていたから、不正解』
人間関係とは何と面倒──と、慌てて思い直す。難しいのだろう、と。
夕食を終えて、浴室へと向かった。湯船に浸かりながら考えるのは、昼間に言われたことだ。
──結子は、何が楽しいの? これまで、何か楽しいことってあった?
楽しいこと。何かあっただろうか。
神社の手伝いは嫌いではないけれど、特に楽しいと思ったことはなかった。家業なのだからそういうものだと思っていた。
恋愛というものは、誰かのことで一喜一憂し、挙げ句の果てには別れたいと神頼みをしなければならないもので、とても面倒に思えた。
読書は、多少。映画も、少々。旅行は修学旅行くらいで、団体行動は楽しいとは思えなかった。
今まで行ってきたことといえば。
「縁切り……」
縁を切り続けてきた。他人に迷惑をかけるだけ、嫌な思いをさせるだけ。誰かに好かれたことはあったのだろうか。
小指を見てみる。赤い糸と白い糸が絡む小指を。白い糸は近衛と繋がっているけれど、それは結子が逃げないようにという枷だ。赤い糸は、まだ誰とも結ばれていない。
ぶくぶくと湯の中に浸かりながら思う。
何と、自分は空っぽなのだろう──と。
湯に浸かりすぎて、気分が悪い。心配する父に大丈夫と伝え、湯上がりの水を一杯飲んで、部屋に戻る。
机の上に置いたスマートフォンが着信を告げるランプを点していた。
履歴を見ると、母からだ。時間は、ほんの五分前。かけ直しても良いだろう、と画面を操作する。
呼び出し音の後、母の声が聞こえた。
「ごめん、お風呂に入ってた」
そうだろうと思った、と優しい声が返ってきた。どうして、母は優しく話しかけてくれるのだろう。誤解だったとはいえ、十年の間、嫌われていると思っていた相手に。
用件は、週末は何が食べたいか、ということだった。土曜の昼に着くだろうから、夕食は何か用意をしてくれる、というのだ。
なぜ、そんなにも優しいのだろう。
もっと、恨み言のひとつでも言われても仕方がないというのに。これまで、不誠実だっただろうに。こんな、何もない娘をつまらないとは思わないのだろうか。
どうしたの、と母が伺う。
「私は──……」
こんなに、つまらないのに。こんなに、空っぽなのに。
けれど、言葉は喉元に引っかかって出てこなかった。その代わりに、視界がゆらりと揺れる。輪郭がぼやけて、鼻がつんと痛い。
結子? と母の心配そうな声が聞こえた。
「私、グラタンが食べたい」
震える声で答えると、明るい声でよし分かった、と返ってきた。泣いているのは、もしかしたら伝わっているかもしれないけれど、触れないでいてくれるのは母の優しさだろう。
電話を切ると、電話の間に姿を見せていた近衛が口を開く。
『どうした』
その声が優しくて、それまで堪えていた涙が溢れてきた。
「なんでもないです……」
『なんでもないか』
なんでもない訳がない。理由は山とある。これまで不満を抱えながらも付き合ってくれた人たちへの不義理。空っぽの自分自身。そんな自分に優しくしてくれる人たち。
それらが感情を刺激して、涙という形に変えるのだ。神使であれば、そんなことは手に取るように分かるだろう。だが、近衛は優しい。
『理由もなく涙が出てくるのは、困ってしまうな』
袖を押し付けて拭こうとすると、そっと止められる。
『赤くなる』
そう言って、指先がそっと頬に触れた。ひやりとした指が、溢れる涙を拭う。
『難しいなあ。人付き合いも、自分の感情も』
こくりと頷く。何かを喋れば、まだ涙がつられて溢れてしまいそうだったのだ。
母も、父も、近衛も。こんな空っぽの人間にどうしてこんなにも優しくしてくれるのだろうか。
『空っぽなのは、産まれたての赤子も同じだろう。赤子に冷たい者が居るか?』
「わたし……もう。高校生です……」
『わたしから見れば一歳も十六歳も変わらんさ。きっと、両親も。子というものは特別なものだ』
どんな娘でも、そうだろうか。特別に思ってくれているのだろうか。分からないけれど、そうであれば良いと思った。
『これからだ。これから、好きなことを見付ければ良い』
好きなことを、楽しいことを見付けて、隙間を埋めていけば良いのだと言う。
「こ──このえ、さん……」
『どうした?』
「このえさんの、ゆび……つめたい」
『蛇だから当然だろう』
何を言い出すのかと近衛がからからと笑う。
その冷たい指は、次第に結子の涙で暖かくなっていった。