11:深更、結木神社本殿
夜の本殿は静寂に満ちていた。
差し込む月の光が闇を藍色に染めている。
世の中が眠りに落ちたそんな深い頃である。ふわりと柔らかな声音が静寂の中に響いた。空気を震わせる音とは少し異なる。意識の奥に聞こえるような、そんな声音。
『良かったねえ、近衛。安心したろう』
穏やかで、柔らかで、おっとりとした声音は、しかし紛うことなく男の──いや、正しくは男神の──この社の主のものであった。本殿に祀られた御神体である鏡の中には、青年の姿が映っている。目尻の下がった細い双眸が辛うじて印象に残る程度、美丈夫とは到底言えないのだが、穏やかなのだろうという印象を与える容貌であった。鏡の前には、白い蛇。それが、神使である近衛の本来の姿である。
『ですが、まだ一組の糸を結んだだけで』
みなまで言わせず、少し揶揄混じりの主に遮られた。
『でも、安心していたじゃないか。見ているんだからね』
主は得意気であった。
『……結木様がしっかりして下されば、わたしの気苦労も減るのですが』
『しっかりしてしまうと、近衛の仕事が減るだろう? 丁度いいんだよ』
何が丁度いいのだろう。喉元まで出かかった言葉を飲み込んだが、きっと主には伝わっている。情けなかろうと何だろうと、神なのだ。使いの考えることなど手に取るように分かるのだろうから。
『これで、彼女の考えも改まると良いね』
『考え、ですか』
『矢張り、神崎の血を継いでもらいたいだろう?』
『……それは、まあ』
返事は求めていたものだったらしい。鏡の中で嬉しそうに微笑む。細い目がそのまま消えてしまうのではないかと心配になるくらいに。
『近衛は一途だね』
『そういう言い方は』
『執念深い、という方が良い? 蛇らしく』
『……』
主はどこまで面倒なのだろう。ぎりぎりのところで溜息を飲み込んだ。
『彼女は良い縁を知らないだけです』
あの娘は、花も盛りの十代だというのに色恋に全く興味を持っていない。そういうものに対して希望が持てず、諦めているのかもしれない。色恋だけならまだしも、友人に対してもそうだった。恐らくは心を許せる人というものを持っていないだろう。
『大丈夫、彼女にも良い縁があるよ』
『そうであれば良いのですが』
『……そのためにも、神議りに出られるようにして貰いたいなあ』
『善処いたします』
『あ、近衛、善処って言葉の意味をちゃんと分かって言っているんだろうね?』
『勿論です。伊達に長く結木様の神使を務めてはおりませんから』
ひどいな、と鏡の中の青年が抗議をするも、白蛇はつんと澄ました様子であった。
いつもの、この主従のやり取りである。重要な話であるのに、どこかふざけたものになってしまうのはそれぞれの性格のせいだろう。
『でも、近衛。分かっていると思うけれど』
そこで少し言葉を切り、白蛇の表情を覗き込む仕草が鏡に映った。白蛇はといえば、表情らしい表情もなく相変わらず澄ました様子であったけれど。
そんな白蛇に、忠告するのだ。真面目な声音で、表情で。
『好意を持っても──持たれても、辛くなるだけだからね』
そんなことは分かっている。人と神使との間に何があるというのか。
『承知しております』
主は、それ以上念を押すようなことはなかった。会話はそこで終わり、後には夜の静寂があるのみだった。