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「――知らない。……おれは兄ちゃんを、襲ってなんか……」
「そういうことなら、無意識だったんだろうよ。何が切っ掛けで鬼に変化してしまうのかは知らないけど、鬼になっている間、君には自覚がないんだろう。君のような類の化物にはよくある話さ。君を定義づけているのは、君自身ではないんだから、あり得ない話じゃない」
悛は自らの力でこの世に顕現していない。存在を一人の人間、隠善鏡花に頼っている。彼の原形、或いは雛型とでも呼ぶべき隠善悛本人は既にこの世を去っている。
「それでも君は気付いているはずなんだぜ。いくら意識がなくたって、無意識には分かっていたはずだ。自我があったところで、君の本質は結局、人を怨むことにあるんだから。ボクの言っていることの意味、分かるよね。他の誰でもない、君だけには、分かるはずだよね」
魔女は淡々と問い詰めた。
「ボクは別に、意地悪をしたいわけじゃないんだぜ」
冗談で言っているのではないのだろう。冷徹なまでのこの追及は、彼女にとっての平常運転だ。
感情がないわけではない。ただ、感情より優先すべきことを弁えている。彼女は今、人として、力ある魔女として、最善を尽くしているに過ぎない。
僕はそれを非情だとも思わないし、ましてや非道だなんて思わない。人の道から外れているのは、寧ろ僕の方だ。
「悪を長じて悛めずば、従って自ら及ばん。まあ、君には、ボクこそが破滅の使徒に見えているのかもしれないけれど。
本来君は、人を呪うような人間じゃなかったはずだ。人を怨んで、挙句の果てに襲ってしまうような悪い人間じゃなかった。君は善い人間であり、良い兄だった。だからこそ、一方では怨霊でありながら、今の君はそんな無邪気な子供の姿をしている。
せっかく自我を手に入れたんだからさ、無害でいられている今のうちに、人の心を持ったまま穏便に祓われる方が、幸せってもんじゃないのかね」
隠善悛は怨霊であり、鬼である。それは恐らく正しいのだろう。他ならぬ魔女がそう豪語するのなら、まず間違いはあり得ない。彼女は異形そのものより異形を識る、その道の専門家だ。僕を含め、彼女の判断に意見できる者は、少なくともこの場には一人としていない。
僕は魔女を信用している。敵としてでも味方としてでもなく、プロフェッショナルとして、絶大に信じている。
悛の正体は鬼だ。一昨日の晩、僕を襲った悪鬼だ。この先更に人を襲うかもしれない、いや、放置すれば必ず人を殺す悪しき存在だ。ここで止めなければ、彼はこれから多くの人を殺すだろう。隠善悛を殺したこの世界を怨み、災いを振り撒き続け、殺人を犯し続ける。そうしてどんどん、人間から遠ざかっていく。
人間離れした生命力を得た僕でさえ、一度は殺されかけた。僕でなければ死んでいた。あれが普通の人間だったなら、今頃彼は、人殺しだ。
その危険性を知って、彼を見逃すなどあってはならぬことだ。災禍の芽は早々に摘み取らなければならない。それが心優しき彼の為でもある。
――だけど……。……そんなのは余りにも、救われない。
泣いている子供の味方になってやれる大人がいない世界なんて、救う価値がないだろう――。
僕はこれから、人として間違ったことをするのかもしれない。僕のしようとしていることは、きっと正しくない。善ではなく悪であり、裏切りである。人としての道を踏み外すような、愚かしい選択だ。縁の時にした過ちを、僕は再び繰り返そうとしている。僕はそういう生き方をすると、彼女と出遭ったときに、決めたのだ。
「お前は、僕の味方でいてくれるか」
「何を今更。お主が過った道を行くならば、その道の露払いをするのが私の役目じゃ」
「そこは普通、殴ってでも止めるものなんじゃないのか?」
「そんなありふれた役目は、あの狐の娘だか、犬神の小僧だかに任せておけば良いわ。私は竜じゃ。他に出来ぬことをする。お主が望むなら、世界征服とて厭わんわ」
そんな大魔王みたいなことを言って、縁は満足そうに微笑んだ。
僕は縁の右手を掴んだ。そして思い浮かべる。異形の翼に異形の腕、人にあるまじき深紅の尾。
縁は左の半身を、竜へと変えた。
「おいおいお兄さん、本気かい? いや、正気かい?」
悠然と構える魔女に、僕たちは再び対峙した。彼女とこうして向き合うのは、あの四月の晩以来、これで二度目である。
「困ったお兄さんだ。君の善意は、最早狂気だよ。まともじゃない。ほとほと、イカレている。どうして君がそんな化物の味方をする。君がそれに肩入れをする理由なんか、ないんじゃないのか?」
「僕は昔から天邪鬼でな。何だって人とは反対を行きたがる、どうしようもない構ってちゃんなんだよ」
「天邪鬼、ね。とんだ鬼の伏兵がいたものだ。それも天邪鬼とは質が悪い。鬼二匹にドラゴン一匹とは、骨が折れる。全身複雑骨折、でも済まないだろう。あーあ。これは労災認定されるのかな。ボクは甚だ不安だよ」
こちらが戦闘態勢に入って尚、魔女は一切動揺を見せなかった。普段と何ら変わらない、平坦な口調で、軽口をたたくばかり。まるで僕たちなど相手にしていないかのようだった。
「ところでお兄さん。何か策でもあるのかい? ボクからその子を庇って、その後どうするつもりなのかな。分かっているとは思うけど、その鬼はこれから、人を殺すよ? 何人も何人も何人も、止められるまで止まらずに、人を殺め続ける。次の瞬間には、悪鬼に姿を変えて、その衝動の赴くままに、またぞろお兄さんを襲うかもしれないんだぜ?」
「分かっているよ」
「そうか。分かっているのか。流石はお兄さん。全てお見通しというわけか。ただお兄さん、本当に分かっているなら――」
僕と縁をじっとりと見つめていた魔女の視線がほんの僅か動いた。
瞬間、背筋を冷たいものが抜け、僕は振り返った。
「――避けた方が良い」
「にい……ちゃん……』
黒い靄に覆われた醜悪な腕が、人間の限界を超えた速度で迫る。その光景を目に捉えた刹那、僕の左腕の肘から先が、捥ぎ飛ばされた。
「…………あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!!!!」
――痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ぼろぼろに引き裂かれた切断面から、脈動のリズムに合わせ、どっぷどっぷと血液が溢れ出す。激痛に、視界が点滅しながら歪む。
その歪んだ視界の中心に、黒い靄の鬼、自らの影に呑み込まれた隠善悛の姿はあった。揺れ動く靄の切れ間の中で、少年の瞳が涙に光るのが確かに見えた。
次の瞬間には、激昂した竜の殺意に満ちた左腕が、鬼に、悛の首筋にまで迫っていた。
「縁っ!」
――殺すな。
絞り出した叫び声は、酷く掠れてしまったが、猛り狂う竜を諫めるには、それでも十分のようだった。縁は寸でのところで動きを止めた。
飛びかけた理性を無理矢理繋ぎ止めて、コンクリートの上に落下した左腕を、右手で拾い上げた。圧着。切断面同士を密着させ、接合する。
生々しい音を立てながら、皮膚が、筋肉が、骨が、細胞が、異常な速度で修復されていく。神経に直接負荷がかかって、吐き気がする。体の逆側、右目の眼球が痙攣し、瞼が落ちようとする。猛烈な目眩がする。いっそこのまま意識を失えてしまえたら、どんなに楽だろう。そう思ったが、しかしそういうわけにもいかなかった。
「そりゃあ身から出た錆って奴だぜ、お兄さん」
上空に退避していた魔女が暢気に皮肉を垂れている。
「お兄さんが無駄に引き延ばしたりなんてするから、そんなことになる。君も、そしてその鬼だって、無駄に傷付くばかりだ。親切心からの行いなのかもしれないけれど、それじゃあただの綺麗事だよ」
「分かってる」
「そうだよね。分かっているよね。そうなってしまったからには、もう穏便になんて済まないよ。彼を安らかに送り出すことは、君のお蔭で不可能になった。そうなることを承知で、君は彼を庇ったんだものね」
魔女は一層高く飛んで言った。
「ボクの仕事を邪魔したからには、その責任は取ってもらわなくてはね。君がこれからもそういう生き方をするつもりなら、これは君が乗り越えるべき課題だ。さあ、出来るものならやってごらんよ、お兄さん」
そうだ。魔女の言う通りだ。僕は一生、この体質と付き合ってゆかなければならないのだ。今回のことだけではない。人間に、或いは人間ではないものたちに、この先も関わっていこうと言うのなら、少なくとも関わると決めたことに対し、責任を持たなければならない。
面倒で仕方がないが、多分生きるということは、面倒くさいものなのだ――。
僕は魔女の邪魔をした。専門家の、プロフェッショナルの仕事を妨害した。人間と、人間以外のものたちの均衡を保ち、バランスを取ってきた彼女を阻み、あろうことか敵対した。
そんな分不相応な真似をしてまで、自分の願望を通そうと言うのだ。腕が捥がれたくらいのことで、倒れるわけにはいかない――。
魔女は上空で何か呪文染みた言葉を呟きながら旋回している。恐らく、屋上から鬼が一歩でも出れば、仕留める気なのだろう。
鬼による被害をここで食い止めるべく、魔女は予防線を張り、不測の事態に備えている。彼女は人間の為の最終防衛ラインだ。
この世の守護者たる魔女が見守ってくれているというのだから、それは全く、ありがたい話だった。彼女の面倒見の良さには毎度のことながら頭が下がる。
大恩人に対して、不義理にも楯突いた僕が如き愚か者に、彼女はチャンスを与えてくれている。そんな必要もないのに、責任を全て押し付けて、立ち去ってしまっても良いものなのに……。
皮肉ではなく、本当に良い性格をしている――。
「縁、あいつを外に出さないでくれ」
「分かった」
「左半分と尻尾だけでいけるか?」
「あれをこの屋上に留めるだけならば、無論じゃ。こちらには精霊術もある。先程は反応が遅れたが、二度と遅れは取らん」
日は既に落ちた。真っ黒な靄を纏った鬼の姿は、背後の闇に紛れて人間の目には益々捉え難い。
左手の指先はまだ痺れ、思うように動かないが、完治を待つ時間的猶予はない。
先程の攻防で、竜との力量差を思い知ったのか、鬼は数メートル先の位置から動かず、そのぎょろりとした双眸で、様子を窺うよう、隙を探るようにじっとこちらを睨みつけている。
あれはもう、隠善悛の目ではない。殺人鬼としての、怨霊としての、怨みに満ちた視線である。
彼の鬼は、この世の全てを憎んでいる――。
「来るぞ!」
縁が叫んだのとほぼ同時、鬼の黒い腕がこちらに向かって伸びる。瞬きすら間に合わない。
警戒を怠っていたわけではなかったが、警戒していようといまいと、僕に避けられる速度ではなかった。鬼の指先は、一瞬より更に短い時間で、眼球の数センチか、或いは数ミリのところにまで伸びていた。
「お主下がれっ」
目では捉えきれぬ何かが眼前を過った。直後、激しい衝撃音が鳴る。
僕の顔面を標的にした鬼の先制攻撃は、縁の歪に肥大化した左腕によって弾かれ、屋上に叩きつけられた。
「あやつ、お主をターゲットに絞り込んだようじゃぞ」
当然と言えば当然の判断だった。僕と縁、人間と竜ならば、力量差を考慮せずとも、鬼は僕の方を真っ先に襲うだろう。
鬼はすぐに追撃を開始した。標的は僕。人間である僕の命である。
『どうしてどうしてどうして』
――どうして、自分が死ななければならなかったのか。どうして自分は死んだのに、お前は生きているのか。赦せない。人間を、この世界を、赦せない。だから、殺してやる。
悍ましい鬼の悲鳴が不気味に脳内に鳴り響く。
胸が締め付けられる。
彼の怨みは当然だ。彼には、何の落ち度もなかった。ただただ被害者で、だから、人を怨んでしまっても仕方がない。
どうして彼のような人間が死ななければならなかったのか。どうして彼を助けてやれなかったのか。僕にさえそんな憤りがある――。
鬼は縁を避けるように影を伸ばし、縁もそれに対抗して、鬼を捕獲すべく大気の腕を伸ばしている。竜の肉体を盾に、精霊術を矛にして戦うのが、この姿の縁の戦闘スタイルであるらしい。
僕はその人外たちの攻防の中で脳を働かせた。縁の腕と翼の届く範囲、鬼の死角へと体を滑らせながら、焼き切れんばかりに思考した。
僕のことは、縁が必ず守ってくれる。だから――
――考えろ。
人間でしかない僕には考えることしか出来ない。考えることだけが、僕がここにいる理由だ。
――どうすれば良い?
まずは目的を明確に。この争いのゴールはどこか。
――悛を少年の姿に戻すことだ。
悪鬼と化した彼をまずは無害化する。
――考えろ。
魔女は言った。何が切っ掛けで鬼に変化してしまうのかは分からない。
――悛は何故、唐突に人から鬼へと姿を変えた? 切っ掛けは何だったか。
魔女も突き止めていないそこにこそ、手掛かりはあるはずだ。
彼を鬼たらしめているものは何か。彼を鬼にしたものは何か。
彼について考えるならば、まずは死んだはずの隠善悛を複製し、この世に呼び寄せた人物について考えるべきだ。
その人物とは無論、彼の妹、隠然鏡花である。彼の鬼の怨みは、そもそも鏡花のものだ。この世を怨んでいるのは、隠然鏡花だ。彼女の怨みが形となったものが、鬼だ――。
遣る瀬無い憤り、行き場のない怒り。彼を突き動かしているのは、彼女のそんな思いである。これは兄を奪った世界への復讐だ。
だが彼女は今現在、意識を失っている。悛の話によれば一度目を覚ましてから、再び昏睡状態に入ったそうだ――。
――考えろ考えろ考えろ。
何かが繋がりかけて、あと僅かのところで寸断される。もどかしく苛立たしいが、もどかしさや苛立ちに神経と時間を費やしている場合ではない。
――集中を切らすな。思考を緩めるな。
――悛は何故鬼になったのか。切っ掛けは、トリガーは……?
悛が鬼へと転化したのは、これで二度目。二日前、夜の公園に現れ僕を襲ったのと、これで二度目。
――前回との共通点は? 同じ条件は何だ?
時刻は関係ない。場所もバラバラ。
――違う。
見るべきところはそこではない。焦点を当てるべきは、時間や場所ではなく、人だ。彼を生み出した隠然鏡花の状況。
――彼は何と言った?
『昨日の真夜中に一旦目を覚ましたらしいんだけど、すぐにまた眠って、それからはずっと目を瞑ったままだ』
今や壮絶な防戦一方が繰り広げられているこの屋上で、昨日の彼は僕にそう打ち明けた。
『昨日の真夜中』。今から二日前の深夜。それは、僕が鬼に襲われていた時間帯だ。
そして、『らしい』。『目を覚ましたらしい』。彼は確かにそう言った。つまり、悛は鏡花が意識を取り戻した瞬間に立ち会っていない。肉体を持たず、睡眠を必要としないはずの悛が、妹に付き添うために病院へ戻っていたはずの彼が、そんな重要な場面に限って席を外していたのは何故か……。
――……鬼になっていたから……?
だとすれば、彼が鬼に変わる条件は……。
……隠善鏡花が目を覚ますことだ――。
「縁。あれを止めたい」
――時間が欲しい。彼女を鎮めるための時間が。
「そうは言うてもの、っと!」
鬼の影が頭上を僅かに掠めた。
「あの軟体、弾くだけならば容易いが、捕獲となるとハードルが一段と上がるぞ。お主が標的にされておるからには、私が自由に動くわけにもいかん」
僕が邪魔で縁が自由に動けていない。大気操作の精霊術も、変幻自在に形を変え闇に姿を晦ます鬼を、未だ捉えきれない。縁を完全な竜の状態に戻せば、十中八九捕縛することは可能だろうが、ここが病院の屋上という開かれた場所である以上、それは余りにリスクが高い。
鬼は人間である僕を狙っている。僕は縁の枷となっている。その条件で有効な作戦は一つ――。
「自由に動ければ、どれくらいで捕まえられる?」
「一秒といったところかの」
「じゃあ――」
僕は左足を蹴り、竜の庇護の下を脱した。
「任せたっ」
一寸眉を上げた縁が、それでも即座に意図を察し、逆方向にダッシュをかけた。
鬼の左目がぎょろりと回り、無防備になった僕を凝視した。
竜がこちらについている状況では、鬼は人を殺すことに時間をかけないだろう。掴まれれば、急所を僅かにでも掠められれば、即座に殺される。
一秒間。それは人間が化物から逃げ続けるには余りにも長い時間である。
二本の鬼の腕がうねるように伸びる。黒く、暗い鋭利な指先に意識を集中して、反射的に本能的に身を翻し、その腕の切っ先を躱す。が、そこから鬼の腕は、あり得ない角度に曲がった。
標的を外した両腕が、急カーブを描きそのままぐるぐると僕の周囲を封鎖した。
三百六十度。視界一面が鬼の靄に覆われる。
――死ぬ死ぬっ!
一秒はまだ経過していない。この包囲網が閉じられれば、このまま締め付けられてしまえば、僕の肉体は恐らく一瞬たりとて持たないだろう。
そんな判断があったわけではないし、判断出来るほどの時間があったわけではない。暗闇に囲まれてから、締め付けが始まり、そうして僕のいた空間が黒い靄に呑み込まれるまでは、たった一瞬の出来事だった。
ただ咄嗟に、屋上のコンクリートと靄の間に隙間が見えて、気付けば僕はそこを目指していた――。
片腕に比べれば軽微な損傷だった。爪先に絞られたような激痛が走り、右足の甲から先が消滅した。
再び絶叫を上げそうになったが、靄の出口で待ち構えていた鬼の本体が、にっと口角を上げ牙を剥き出しにしたのを見て、その声も引っ込んだ。
背筋も凍る、悍ましいまでの恐ろしさ。そこには人の死そのものがあった。
目を瞑るところだった。鬼の奥に、縁の姿が見えなければ――。
縁が行動を開始してから一秒が経過した。
瞳に異形の光を宿した竜が、空中数メートルのところで巨大な腕を振り上げ、いよいよ悪鬼を捕らえようとしていた。
――捕った!
急造の囮作戦は、それでも成功した…………かに思われた。
「なっ!」
縁が驚愕の声を発する。
無防備な鬼の背中から、三本目の腕が伸び、続けて四本目の腕が伸び、縁の人間部分、胴体をがっちりと掴んだ。
鬼の纏う靄は変幻自在。変形自在。背中から腕が生えてはならぬ道理など、どこにもない。
二秒が経った。
鬼は絡まっていた腕を解き、その指先を再びこちらへ向けた。
作戦失敗。少なくとも僕は、もう一度死ぬ思いをしなければならない。だからせめて最後に、負け犬に相応しく、往生際の悪い捨て台詞でも吐こう――。
鬼の腕が迫る。容赦のない死の感覚に襲われる中で、僕は鬼を正面から見据えた。
届かなくても良い。これはただの、宣言だ。僕が死んでしまわないための気休めであり、呪いだ。
「僕はお前を諦めないよ、悛」
――一度死んでも甦って、お前をそこから引きずり出してやる。
鬼の動きが、僅かに緩んだ――その一瞬。間隙とさえ言えないような、ほんの僅かなたわみを縁は逃さなかった。
第三、第四の腕を大気の牙で喰い千切り拘束を脱した縁が、背後の強靭な翼を羽ばたき、加速した。
鬼と竜では格が違う。両者の間には、埋めようのない絶対的な力の差がある。たとえ完全体ではなくとも、僕という制約さえなければ縁は鬼など苦にしない――。
猛烈な突風が吹いて目を閉じた。
次に目を開くと、長大な竜の尾がとぐろを巻き、きつく鬼を縛り上げていた。