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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
五章 ある少女の解放
89/92

<よ>


 三年前、隠然(あらた)と隠善鏡花の身に何が起こったのか。何故妹の鏡花は、あの日――僕が彼らを無限ループから引きずり出したあの時、急激に衰弱することになったのか。三年間の幽閉と彼女の衰弱が連関しているのなら、同じく三年間閉じ込められていた悛は、どうして衰弱しなかったのか。あの利発な少年が、僕を訪ねてきた真の目的は何だったか。


 そして……。


 そして、妹と共にあちら側に閉じ込められ、同じく行方不明になっていたはずの悛について、何の報道もされていないのは何故か。確かめなければならなかった――。


 時刻は午後六時二十分。日は既に没し、街にはぽつりぽつりと、夜の明かりが入り始めている。


 樫木総合病院の屋上に、僕たち以外の人影はない。この場所で待ち合わせをした魔女も、鬼の捜索に当たっているのか、まだ到着していないようだった。


 「その人が兄ちゃんの言ってた、専門家、なのか?」


 縁の姿を見るなり悛は僕の背後に隠れ、屋上へ移動する間も常に距離を取り、僕の服の裾を掴んだままだった。


 「違うよ。こいつは僕の後見人と言うか、付添人だ。別にそんな風に警戒しなくとも、お前を取って食ったりはしねえよ」


 「そっか」


 悛は僕の服から手を離したが、説得には応じても、警戒は解けないでいるようだった。


 「――童よ。主にはまだ、隠していることがあるのではないか。まだ丙に言っておらんことがあるじゃろう?」


 「……」


 縁の率直な追及に、少年は黙ったまま気まずそうに目を逸らす。


 「……兄ちゃん」


 今にも泣きだしそうな表情で、そう言った。


 それを見て悟った。この子供は気付いている。気付いていて言えなかったのだ。分かっていても、どうしても認められなかった。どんなに聡明でも、如何に物分かりが良かろうとも、彼はまだ子供でしかない――。


 僕はこの子に対して、何もしてやることが出来ない。もう何もかもが手遅れで、だから、胸が張り裂けそうだ――。


 昨日さくじつ、僕が悛に言って聞かせた推理が正しければ、彼の妹、隠善鏡花が急激に衰弱したことへの説明はつく。閉じ込められた双子の兄妹として、ではなく、隠善鏡花について別個に考えてしまえば、それは極めて単純な話だった――。


 彼女の衰弱の原因は、報道にもあったように、極度の栄養失調である。それを基礎として考える。


 あちら側に閉じ込められている間、彼女は栄養を摂取出来なかった。八月二十四日の朝、目を覚まし、家を出て、帰り道のあの交差点に差し掛かるまでを、延々延々繰り返した三年間、彼女は何も食べなかった。


 そんな状況でも彼女が生き延びられた理由を、縁はこう説明した。


 肉体ごと時間を遡っていれば、外部からの栄養摂取は必要ではなくなる、と。消化した食べ物も、消費したエネルギーも、時を戻せば元に戻る。ループの作用は、彼女の肉体にまでかかっていた。だから彼女は、繰り返している限り、飢えて死ぬことはなかった。


 しかし、現実世界で三年が経過したある日、つまり四日前の八月二十四日、彼女の無限サイクルは唐突に終わりを迎えた。


 八月二十四日。閉じられた世界、永遠に繰り返す閉鎖系から彼女を引きずり出せたのは、丁度同じ時刻、同じ時間に、人間離れした視力を持った僕という人間が、偶然にもあの場所を通りかかったからである。


 場所に加え、時間という共通点があったからこそ、隔絶された空間にいた彼女の姿が、本来なら見ることも触ることも出来ない場所に閉じ籠っていた彼女の姿が、僕の目には映った。


 そして、僕が隠善悛を突き飛ばし、イレギュラーが発生したことによって、永遠かに思われた彼女のループは終わった。


 終わった瞬間、彼女は倒れた。それは何故か――。


 あの瞬間、彼女の肉体に三年分の時間が流れたのではないか、と縁はかなりの確信を持って言った。同じ時間を繰り返していた彼女の体に、それこそ玉手箱を空けた浦島太郎の如く、現実世界で行方不明になっていた間の『時』が、一気に流入した。


 つまり、『老い』。老化現象であり、成長現象。生きとし生けるものが須らく受容すべき変化。抗えぬはずの自然の法則。彼女を死に追いやったものの正体は、時間だ。


 失った時間を、拒絶し続けてきた変化を、彼女はあの時、一挙に浴びた。実体を持つ生命としてのルールを捻じ曲げ、三年間何も食べずに過ごしてきたつけが、ついに清算された。厳しい言い方をすれば、相応しい報いを受けた。


 隠善鏡花の身に起きた出来事は以上で全てである。きっと彼女が双子でなければ、素人の僕であっても、即座にこの結論へと辿り着いていただろう――。


 そう。彼女に兄がいなければ……。


 妹と同じ境遇にあった兄は、しかし妹と同様に衰弱はしなかった。彼女と同じく、三年間何も飲まず食わず過ごしていたのに、彼はその分の制裁を受けなかった。生きとし生けるものが須らく従うべきルールを無視した。おかしいのが衰弱をした鏡花の方ではなく、しなかった悛の方だったら……。


 二人を分けた差は何だったのか。答えは明白だ――。


 彼らは決して、同じ境遇ではなかった。隠然鏡花と隠善悛の間には、決定的な立場の違いがあった――。


 「悛。僕は別に怒っちゃいない。お前が僕に隠し事をしていたとしても、それを責める権利は僕にはないし、そもそも責めようなんて思わない。お前が何を言っても、言わなくても、僕はお前の味方だ」


 ――味方だから、何だと言うのだ。それが一体、何の慰めになる。僕は何の為にここにいる? 事実を明らかにして、それで何かが変わるのか。僕は今、とてつもなく残酷なことをしているのではないのか……?


 「主が……、主が丙を訪ねたのは、丙の他に、頼れる人間がいなかったから、じゃな?」


 悛は俯いたまま頷いた。


 「主が丙を頼ったのは、丙以外に、見えておらんかったからじゃな?」


 悛は俯いたまま頷いた。


 「丙以外に、主を認識する者がおらんかったから、じゃな?」


 悛は、俯いたまま頷いた――。


 僕たちが反対車線に倒れ込んですぐのこと。車線を妨害された運転手は、心無く言った。


 ――何してんだ?


 少年を暴走車から救った人間に対して、そんな言葉を吐きかけた。しかし実際はどうだったか。彼の目に見えていたものと、僕が見ていたものは、全く違ったのではないか。


 ――何してんだ?


 だとすればこの言葉にも納得がいく。彼からしてみれば、それは心無い言葉などではなく、当然のクレームだ。だって彼には、僕が一人で車線に飛び出して、一人で転んだように見えていたのだから。


 思い返してみれば、鏡花が搬送されたあの時、僕は悛が救急車両に乗り込むところを見ていない。人込みに紛れて見えなかっただけかと思っていたが、そうではなかった。彼は乗り込むことが出来なかったのだ。僕以外の誰にも、勿論、鏡花を病院まで送った救急隊員たちにも、見えていなかったから……。


 彼の両親は息子を放置したのではない。悛が誘いを拒否し、僕の家に上がらなかったのは、小学生なりの防衛本能を働かせたからではない。家に帰りたがらなかったのは、自宅に誰もいなかったからではない。病院で人目を避けたのは、僕という部外者を匿うためではない。


 無人の公園。無人の屋上。彼と話すとき、周りにはいつも人がいなかった。彼はいつだって一人だった。そういう場所を選んでいた。周囲の人間が僕を不審に思わないよう、僕が不審に思わないように――。


 二日間。交差点で彼と別れ、再会を果たすまで二日あった。それだけあれば、利発な彼が自分の置かれた状況を把握するには十分だっただろう。十分過ぎるほどに、十分だったはずだ。


 ――自分は誰にも認識されていない。誰に話しかけても返事がない。反応がない。お母さんも、お父さんも、誰も、気付かない。まるで、自分という人間が、ここにいないみたいに……。この世界の全員が、自分という人間がどこにもいないかのように振る舞った。


 ただ一人を除いて。


 たった一人、自分の声を聞く人間がいた。自分の姿を見る人間がいた。こちら側に戻った時、自分に触れた人間が確かにいた。


 それが僕である。


 悛は賢い小学生である。両親からの信用も厚く、しっかり者として見做されてきたし、本人にもその自負があった。だからこそ、安易に人に頼ることを潔しとしなかった。だからこそ、二日間も考えた。その大人びた性格故に、二日もの間、彼はこの世界を独り彷徨った。


 それだけの判断が出来る彼が、気付いていないはずがない――。


 悛と鏡花は、共に同じ時間を繰り返していたようで、そうではなかった。彼ら兄妹の間には、微妙なずれがある。


 隠善鏡花が繰り返していたのは、朝起きて、兄の悛が車に轢かれる寸前までの時間、ではない。彼女のループの切っ掛けは、隠善悛が車に轢き殺されたことだ。


 殺されかけたのではなく、実際に殺された。寸前ではなく、直後――。


 縁からこの推測を聞いたとき、僕はまず、ネット上のニュースのアーカイブを漁った。最も信憑性が高いと思しきニュースサイトから、時を三年遡り、住所を絞って検索すると、その記事はすぐに発見出来た。


 見出しにはこうあった。


 『小4男児ひき逃げ 双子の妹も行方不明か?』


 そして、そこには轢き逃げの被害に遭い、命を落とした十歳の少年の名が明確に記されていた――。


 隠善悛は、三年前の交通事故で亡くなっている。


 三年前の八月二十四日、十歳の誕生日に、悛は命を失った。ネット上に散乱する記事の中には、そこのことについて、まるでミステリー小説か何かのように、読者の好奇心を掻き立てる文章が多数残されていた――。


 僕は一度死に、生き返ったことで体質を変えた。竜の心臓は、視力にまで作用し、常人に見えざるものを見せた。僕の目は、通常なら感知できないものを感知するようになった。それと似たようなことが悛にも起きたのなら、悛が人間ではない何者かになったのならば、彼が縁に過剰に怯えるのも頷ける話である。どんなに取り繕っていても、縁の正体は竜。あちら側に近ければ近いほど、その恐ろしさ、内に秘めたる悍ましいまでの実力を、敏感に感じ取ってしまうものだからだ――。


 先程伏見は、事件の内容を評して――かなりショッキングな内容だった――と言った。勿論、少女が失踪したというだけでも周囲の人間にとっては十分衝撃的だろうが、彼女がそう言ったのは、双子のいづれもが同時に、それも別々な事件に巻き込まれたからだったのだろう。


 ここまでの全ての事実が彼の死を物語っている。


 「……兄ちゃん。おれは、……死んだのか?」


 「……」


 何と言ってやれば良いのか、分からない。


 だから僕は少年の頭を、強く胸に抱き込んだ。


 こうして胸に抱けば、鼓動も、体温も、息遣いだって感じられるのに、この少年が既にこの世に存在しないだなんて、とても信じられない。信じたくもない。


 ――だって、こいつはちゃんと、ここにいる。ここにいて、泣いている……。


 「もう死んでるってんなら、おれは一体、何なんだ……」


 声が震える。


 自分は何者なのか。少年の疑問に答えたのは、縁だった。


 「主を生み出したのは、恐らく主の妹、じゃろうな」


 そんな縁の口振りもまた重い。


 「大した人間じゃ。私の目から見ても、人間にしか見えん」


 僕の腕の中で震えているこの少年は、隠然鏡花が異常なまでの精神的負荷に耐えかねて生み出した、閉鎖空間の名残だ。


 ラジオ体操の帰り道、鏡花は目の前で兄を轢き殺された。彼女は死にゆく兄の姿を、最も近いところで目撃していた。当時十歳の少女でしかなかった彼女の心には、その経験は余りにも荷が重く、精神の限界を優に超えた。


 彼女の絶望が、ループ現象を呼び起こした。兄の死という受け入れ難い現実を拒絶するための、防衛措置。眼前の現実から目を背けるための姑息的な避難行動。それが彼女の起こしたことの全てであり、今現在、彼がここにいることの説明である。


 「主は一般に、地縛霊と呼ばれるものじゃ。いや、今は正確には違うものになっておるらしいが、平たく言えば幽霊。言葉を選ばず言えば、よく出来た偽物、精巧なコピーじゃ。感情も記憶も再現されておるようじゃがの……。余程の思い入れ、思い残しがあったのじゃろうのう。流石は双子といったところか。二卵性とは言え、母親の胎内にいた頃から、共に生を歩んできただけのことはある」


 縁は淡々と述べた。


 「……それは、本物と何が違うんだ。感情もあって、記憶も同じなら、そんなの……」


 ――本物と同じじゃないか。


 「確かに、何ら変わらんかもしれん。ただ偽物というだけであって、ただこの世に存在せんというだけであって、この童は、既に自我までをも得ている。生きていないということを除けば、こやつはほぼ完全に、隠善悛という名の少年そのものじゃ」


 「あの子には、鏡花にはこいつが見えるだろ?」


 鏡花が別れを拒んだことによって、彼が生まれたのなら、彼を複製した隠善鏡花本人には、見えているはずだ。でなければ意味がない。


 「ま、見えるじゃろうの」


 「だったら……」


 「その童がいることには意義があると?」


 「そうだろ?」


 「しかしお主よ。お主が一番分かっておるじゃろう。人に見えないものが見えるということが、どれだけ生き苦しいことか。人とずれて生きることが、どれだけ大変か」


 「それでも! ……それでも、必要だろ。この子たちには」


 ――せめて、別れるための時間が。それくらいの猶予があっても、良いはずだろう。彼らはまだ、子供なのだから。


 「……そこはまあ、本人たちの問題じゃろう。私たちが口を挟むべきことではない。こやつらがそれで幸せと言うのなら、何も問題は――」


 上空を何かが走って、風が吹いた。


 「――問題おおありだよ」


 十八時三十分。待ち合わせの時刻丁度に、魔女は例の如く、杖に乗ってその姿を現した。身に纏うのは、いつもながらの黒い正装、彼女にとっての戦装束である。


 「やあ、お兄さん」


 無機質なコンクリートの屋上に、魔女は月を背負い、静かに降り立った。


 悛はそれを見るなり、縁に対面した時以上の俊敏さで、僕の影に隠れた。震えはまだ止まっていない。どころか、魔女が登場したことによって、怯えは増しているような気さえする。


 「成程ね。そういうことか。これは確かに異常だ。ボクにでさえ、ただの人間と変わらないように見える」


 「お前、話聞いてたのか?!」


 「聞いてなんかいないさ。ただ状況から察するに、そうとしか考えられない。ボクだって、ここ数日、何もしていなかったわけじゃないんだぜ。お兄さんとは別のルートを辿っていたというだけでね」


 「別のルート?」


 いつものことではあるが、真意の掴めない発言である。


 「いやあ、お兄さん。お手柄だったね。今回のことに関しては、全てお兄さんのお蔭だよ。ありがとう」


 魔女は三角帽子の乗った頭を深々と下げた。


 「だからさ、その人外を早くこちらに寄越しなよ、お兄さん」


 「は? 何を言ってんだよ、お前は。どうしてこいつを、お前に……」


 「お兄さんこそ何を言っているんだい? そんなことは決まっているじゃないか。だって、ボクの仕事は、彼のようなこの世に在るまじき化物を、害悪を、成敗することなんだから」


 「こいつは、こいつは害悪なんかじゃない。こいつはただ在るだけだ。僕やお前に見えてるだけで……」


 ――ただ自分が死んでしまったことを、嘆いているだけで、ただ妹と離れたくないだけだ。


 「おや。まさか気付いていないのかい? それがこの世ならざるものであることまで見破っておきながら、そちらには行き着いていないのか。そりゃあ余りにも間抜けだな。無敵のドラゴンさんが付いていながら、そんな見落としをするなんて、うっかりしているにも程がある」


 「分からないことを言うなよ。分かるように、説明しろ」


 ――こいつは何を知っている。彼らの身に起こったことで、まだ僕たちが知らないことがあるとでも言うのか。あるとして、どうしてそんな風に、悛に対して敵意を表すのか。


 「化物を二人も背後に従えて脅迫とは。お兄さんも中々やるようになったじゃないか。竜の威を借る人間とはお兄さんのことだったんだね。――だからさあ、お兄さん、地縛霊っていうのは、つまりは怨霊ってことなんだよ」


 怨霊。人を怨む霊。或いは悪霊。ごく最近聞いた言葉だ。それもあの晩、二日前の深夜、他ならぬ魔女から聞いた言葉である。


 「そして怨霊は、転じて鬼となる」


 今現在、魔女が鵜の目鷹の目を更に血眼にしてまで追っているのも、鬼だ。黒いもやに包まれた、人に害為すことを存在目的とする悪鬼――。


 「そうだよ、お兄さん。君の後ろに隠れている彼こそが、君を襲った鬼の正体だ――」


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