<わ>
前話の最後の部分にミスがありました。待ち合わせの場所を『公園』としていましたが、『病院』に変更です。
不眠不休の作業の甲斐あって、夏の忘れ物を全て回収したこの日、僕はあらゆる隙という隙を睡眠に費やした。自転車登校を諦め、バスの中の人混みに揉まれながら眠り、始業式の校長の長たらしい挨拶を寝物語に眠り、新学期初授業のリハビリテーションを頑なに拒みながら眠った。
その結果、米村二年五組担任兼国語教諭に、愛の鞭――悪く言えばちょっとした体罰を喰らう羽目になったが、僕の心には一寸の後悔もなかった。いや後悔どころか、四十二・一九五キロを完走した時にも匹敵する達成感と清々しさが胸の内を席巻した。無論、実際にフルマラソンを完走したことなど一度もないので、あくまで想像の話である――。
慣れない徹夜の影響は午前中一杯尾を引き、朝家を出てから昼休み開始のチャイムが鳴るまでの間、僕は半分以上意識を失った状態で活動していた。
そして四時間目終了のチャイムが鳴り、よし昼休みなら寝てしまって何の問題もなかろうと、上げた頭を再び腕の中に埋めようとした時だった。
「おい伊瀬。昼だぞ。弁当食べないのか?」
前の席に座る女子生徒が、僕に声を掛けた。
「いや、今日は弁当も用意する時間なかったし、眠いし、寝る……」
いくら体力が底上げされているとは言っても、睡眠欲求には勝てないようだった。返事をするのも面倒で、頭を働かすのも難儀だった。
半睡眠状態の頭の上をクラスメイト達の話声や机や椅子を動かす音が通過する。僕はその雑音を何となしに聞き流し、ぼんやりと浮かんでくる思考の数々を頭の隅にそのまま浮かべっぱなしにして微睡んだ。
何やら今日は教室が騒がしい。昼休みに入ったのだから当たり前かもしれないが、いつにも増してうるさいような気がする。それに、頭のあたりでガサゴソと人が動く気配がする。前の席の犬上が、僕の机の片隅で弁当でも広げているのだろうか……。
――ん? ……前の席……の、女子生徒……?
脳が急激に活動を再開した。
凄まじい違和感である。僕に話しかける女子生徒とは一体何ぞや。我が校の女子生徒が僕に話しかけるはずがない。そもそも僕の前の席には、男子生徒犬上祐が威風堂々鎮座ましましていたはずだが……。
「ん? 結局起きるのか」
僕は腕に抱いていた自らの頭を持ち上げた。持ち上げたその目の前に、彼女の顔があった。
「……伏見。何故お前がその席に」
――お前の席は、教室の真ん中辺りだったはずだろう。
「どうやら寝ぼけているようだな。一度周りを見てみろ」
「周りって……ぇっ!?」
ざわつく左側に顔を向けて、しかし僕はすぐに目を背けた。
身の毛もよだつ光景だった。犬上と友人関係を結び始めた時期にも感じたことのある、戦慄に近しい感覚だった。
どうしてか、クラス全員の視線が、こちらに向けられていたのである。そして何かひそひそと囁き合っている。
とてつもなく嫌な予感がした。彼ら彼女らが噂しているのは、多分、僕に関することだ。決して自意識過剰ではない。それは訝しむようにこちらを瞥見する彼らの様子からも、時折耳に入ってくるひそひそ話の内容からも明らかだった。
『氷の女王が幻のクラスメイトに慈悲を……』
『ついに雪解けか!?』
『ああああああ、俺の伏見様がぁ~!!』
『何か弱みを握られてるんじゃ……』
『と言うかあいつ誰だっけ』
『夏休み長すぎて忘れた』
『ほら、犬上の……』
等々。一部からは悲鳴か呻きのような声もちらほらと漏れ聞こえたが、それは聞かなかったことにした。ついでに僕への不条理な発言も無視することにした。何か毎回僕のことを頑なに忘却の彼方に消し去っている人間がいる気がしないでもなかったが、そこは敢えて華麗にスルーした――。
クラスがいつも以上に騒がしい理由はこうして明らかになった。
前の席に座る我がクラスの女スポーツ番長、一部のマニアから絶大な支持を集め、教室では孤高のクールキャラで通ってきた伏見空が、教室の隅の住人、幻のクラスメイトこと僕、伊瀬丙に声を掛けたのである。それも敵対的にではなく、極めて好意的な態度で……。
二年五組のクラス内ヒエラルキーに於いて、その類稀な率直さ、刺々しさ、実力(物理)故に独特の地位を築いてきた彼女が、ついに栄光ある孤立から脱し同盟を結んだ。その相手はどこの馬の骨とも知れぬヒエラルキー最下層、どころか一学期が終わる直前まで存在すら認知されていなかった男が、彼女のお眼鏡にかなったとあっては、我がクラスの面々が騒がないでいられるはずがなかった。全知全能の完璧超人である犬上祐だけは優雅に昼飯を食っているらしいが、それ以外のクラス全員が度肝を抜かれている。
犬上祐と関係を結んだ正体不明が、今度は伏見空まで篭絡した。これは一種の革命であった。いや彼らの心情を察して代弁するならば、天変地異とさえ言えた――。
「どうしてお前がその席に」
僕は声を潜めた。
「いやだから、気付かないのか? 周りを見ろと言ったのに」
そんなことを言われても、視線が痛すぎて微動だに出来ない。
「思い出しみろ。一時間目、始業式が終わって、教室に戻ってきた後のことを」
「教室に戻ってきた後の事……」
――全く思い出せない。どうやって教室に戻ってきたのかすら定かではない。帰巣本能って凄い。
「二時間目は……」
「ホームルームだな。本当に思い出せないのか?」
「ああ、うん。からっきし」
「っはあ」
伏見は酷くがっかりしたように、大きく溜息を吐いた。
「お前は無意識のうちにくじを引き、無意識のうちに席を移動したのか」
「くじ? 席移動?」
顔は動かさずに、視野だけを広げるといつもとは違った景色が見えた。つまり、窓際の最後列という絶好のポジション、人を見ることは出来ても人に見られることはまずない最高のぼっちポジションからではない、新鮮な角度からの景色だった。
僕は廊下側の列の、前から二番目の席に座っていた。
「席替え……したの? いつ」
「だから、二時間目」
二時間目はおろか、三時間目も四時間目も何をしていたか全く思い出せない。まるで時間を跳躍したかのようである。
「……僕、タイムリープしてね?」
「理科準備室で胡桃でも踏ん付けたのか?」
……かもしれなかった。
――しかし席替えか。確かに新学期と言えば……、というイメージはある。
「で、お前が僕の前の席に座ることになったと」
「全く、私の喜びを返してほしいものだな。危うく教室でいきなり、ヒャッフー! と叫んでしまうほど嬉しかったというのに」
「それはキャラ崩壊通り越して、もう狂人の域だよ」
――良かった。本当に良かった。皆の伏見空に対するイメージが損なわれずに済んで。
「時に伊瀬よ。お前は先ほど、今日は弁当を用意していないと言ったが」
「ああ、ちょっと朝はドタバタしてて」
全宿題を制覇したのが、家を出る十分前だった。お蔭で今日の縁の昼食はカップ麺である。
「購買へ行って何か買ってくれば良いのでは?」
「それもそうだな」
クラスメイト達の視線に戦慄したお蔭で、目もすっかり覚めてしまっている。午後の授業中に寝ながら腹が鳴ることなどないよう、ここは予定を変更し腹ごしらえをしておくべきか。
僕は学生鞄から二つ折りの財布を取り出して、残金を確認した。
「……うーん、四十二円」
――十円ガムが四つ買えるね。
財布の小銭入れの中に、十円玉三枚、五円玉二枚、一円玉三枚。札入れの中には一万円札、五千円札、千円札がそれぞれゼロ枚入っていた。二千円札に至っては言わずもがなである。
バス通学用のICカードには、まだ二千円ほど電子マネーが残っていたと思うが、ここは一般の公立高校。残念なことにIT化の波は、まだ我が校の購買部にまでは押し寄せていない。
ついでに言えば、我が校の購買部で十円ガムは販売されていない。あの狭い販売所で、四十二円以内で買えるものと言えば鉛筆一本くらいのものである。因みにこれは最大限値切った場合の価格であって、学校の購買で値切っている生徒など見たことも聞いたこともないので、本当は何も買えない。と言うか鉛筆は食えないのでこの考察には何の意味もない。
朝までのドタバタで、財布に金を卸すのをすっかり忘れていた。
「私が貸そうか?」
「いや。金の貸し借りはしない主義なので、我慢する」
「律儀な奴だな」
と言うと、伏見は俄かに僕の耳元へ顔を近づけた。その光景を見ていたどこかの男子生徒がまたぞろ悲鳴を上げ、それ以外の生徒たちの間にも少なからずどよめきが起こった。……もう、早く帰りたい気分だった。
「借りる相手が自分の恋人であっても、か?」
伏見は僕の耳元で囁いた。同級生女子に耳元で囁かれることなど人生で一度たりとてなかったものだから、危うく悶え死ぬところだった。
伏見は何食わぬ顔をしているが、台詞のチョイスがまた質が悪い。こんなことを耳元で囁かれてぐっと来ない男子高校生などいるものか。いたとすればその人物は逆説的に考えて男子高校生ではない――。
どこかで嫉妬と羨望の声が上がっている。
「自分の恋人に金をせびるような男はろくな人間じゃないから気を付けろよ」
僕は伏見同様声を潜めて言った。
「しかし、育ち盛りの男子高校生が昼食を抜きにする、というのも些か不健康に過ぎる。そんなことでは帰宅部のエースにはなれないぞ?」
相変わらず思考が体育会系である。
「心配しなくても僕は今だって、帰宅部の知られざる影の秘密兵器として、どこにも勇名を馳せてないから大丈夫だよ」
秘匿され過ぎて、夏休みが明けるとクラスメイトから存在を忘れられていることもしばしばだ。生粋のエリート帰宅部員と自称しても差し支えなかろう。
「果たしてお前に出番が回って来る日は来るのだろうか」
「学校に通ってる限り、帰宅部に出番じゃない日はないんだけど」
「果たしてお前は本当に学校に通っているのだろうか?」
「怖い話か!?」
――あと、『果たして』と『本当に』で日本語が重複してる。
「お前はそれで本当に、学校に通学していると言えるのかな?」
「厳しい話だ……」
――あと、『学校』に『通学』する、も微妙に重複表現だ。
「昼休みに何も食べず寝て過ごすなんて、それでは六時間目の体育の授業で、マッスルすることが出来ないぞ?」
「僕はたとえ体育の授業であっても、『筋肉』するつもりはねーよ。どういう日本語なんだよ。多分正しくはハッスルだから、それ」
――あと、『マッスル』と『する』も意味が重なって……ない!? こいつ! 表のボケに隠して、三段落ちを仕掛けてきていやがった!
「そういうわけだから、伊瀬。これを食べると良い」
伏見はコンビニのレジ袋から、厳重に包装された巻物を取り出した。無論、秘伝の奥義書とかではない。
手巻き寿司である。手巻きと言っても、コンビニの大量生産品。どう考えても手で巻かれた形跡はない。明らかにベルトコンベヤーの生産性を追求した、機能美とさえ言える機械たちの働きによって巻かれている。手巻きというより、機械巻きだ。途端に美味しくなさそうである。……云々。まあ、余談はさておき。
「食べると良い。納豆巻きだ」
「お前っ、高校の平和な昼休みの教室になんてものを!」
――臭いとかきにしないのかな、この現役女子高生。……いや、実はこいつ、逆説的に考えて女子高生じゃないんじゃ……。
「何だ気に入らないのか? 美味しいのに」
伏見は拗ねたように言った。
「確かに、納豆巻きの美味しさについては議論の余地もないけど……」
何故か時々無性に食べたくなる気持ちは分かる。が、学校で食べようとは全く思わない。
「うーん。これが嫌というなら、後は吐瀉物風味のプロテインくらいしかないのだが……」
「そんなフレーバーの商品がこの世に存在するものか!」
――と言うかお前は、プロテインを常備しているのか!?
「いやまあ、吐瀉物風味はあくまで私の感想でしかないのだが。触れ込みにはバナナ味、となっている。しかしあれはどう考えても吐瀉物だ。さあ伊瀬よ。どちらを選ぶ? 納豆巻き味の納豆巻きか、バナナ風味の吐瀉物か?」
「バナナの要素が薄くなってるんだけど」
……と言うか、食事時にあんまり吐瀉物吐瀉物言うなや。
「ならば言い換えよう。納豆巻きか、バナナ風味のもんじゃ焼きか、どちらが良い?」
「吐瀉物をもんじゃ焼きで置換するな! そんな等式は成立しない。お前は今すぐもんじゃ焼き業界に謝罪しろ」
「あちらを立てればこちらが立たず、とはこのことか」
「吐瀉物風味とか言ってる時点で、どっちも立てる気ゼロだろうが。ついでにプロテイン業界にも謝っとけよ、今のうちに」
――どうしてお前は、毎度毎度無駄に敵を作ろうとするんだよ……。
「いやあ、それを言うならお前だって、納豆巻き業界を敵に回している気がするのだが……。女子高生の昼食に納豆巻きは相応しくない、というのは納豆巻きに対する差別、偏見ではないのか? もしお前が、業界を敵に回し、今後一切納豆巻きを食べられなくなりたくないのなら、お前はこの納豆巻きを言われるがまま、食べるしかないのだ」
「ないのだ、って」
――強引にも程があるだろ、その理論。
「……分かった。ありがたく頂くよ。どうもありがとう」
僕は伏見に手渡された納豆巻きを開封し、もっしゃもっしゃと食った。
無理のある理屈をこねられたが、僕が思うに、これは一応、彼女の優しさなのである。窮地に陥った友人、もとい恋人へのささやかな奉仕。そう思えば、教室に漂う納豆の得も言われぬ発酵臭もさほど気にはならなかった。
油断すると、頬が綻んでしまいそうになったのは、果たして単に納豆巻きが美味かったからなのか、それとも彼女の愛情が込められていたからなのか、判断に困るところだった。
「まあ実のところを言えば、ツナマヨ味と間違えて買ってしまって、困っていただけなのだがな」
僕が完食したところで、伏見空、僕の彼女はそう告白した。
「僕の恥ずかしいモノローグを返せ!」
「ん? モノローグ? 何をわけのわからないことを言っているのだ。そんなことより伊瀬、あまり大きく口を空けるな。納豆臭いぞ」
喜色満面の伏見さんだった。
まさかあの伏見に騙されるとは。僕の献身的指導が、どうやら実ってきているらしかった。一生実らなければ良かったのに……――。
「そう言えば、伊瀬」
納豆菌を周囲に飛散させながらの昼食も無事に済ませ、昼休みももうすぐ終わりに差し掛かった頃、伏見は思い出したように切り出した。
「今ニュースになってる病院って、お前の家の近くじゃないか? 何と言ったか……。えっと……。ああ、そうそう。樫木総合病院」
「うん。そうだけど……」
樫木総合病院は僕の住むアパートから自転車で二十分ほどの隣町に位置している。そして伏見の自宅は、僕の家から病院とはほぼ反対方向に二十分ほどの隣町にある。
つまり、彼女の言う今ニュースになっている病院は、伏見の家からもそう遠くはない。駅にしてたった二つ隣である。彼女が彼の病院を知っているのも、昼休みの雑談として、その話題を持ち出すのも無理からぬこと、どころか酷く自然なことだった。
「見つかった女の子は、例の、三年前に行方不明になった子だそうだな」
――例の?
気になる言い回しである。
「知ってるのか?」
――彼女のことを。隠善鏡花のことを。
「ん? ……ああ、そうか。お前があの家に引っ越したのは、確か去年の事だったものな。忘れてしまうのも無理はない」
「忘れる? 僕が何を忘れてるってんだ?」
「彼女の行方不明事件のことだ。伊瀬は、毎日ニュースを見るだろう?」
「うんまあ、基本的には、毎日見るけど」
溜め込んだ夏休みの宿題を、猛烈な速度と集中力で消化している最中にさえ、一日に一度はテレビを点け、最新のニュースをチェックするくらいには、僕の時事に対する関心は高い。
「ならば見ているはずだ。当時はかなり騒ぎになったのだぞ、あの事件は。ショッキングな内容だったこともあって、全国的にも大きく報じられて。……まあ悲しいことに、児童の失踪事件というのは数年に一度はあることだからな。地元の住民でもなければ、忘れてしまうのも仕方のないことかもしれない」
「ああ」
――そうか。そうだよな。子供の失踪事件なんて起きたら、普通は騒ぎになるものだ。全国ニュースにだって取り上げられる。実際今も、彼女の発見が大々的に取り上げられているではないか。
僕は、彼女に関する事件を三年前の時点で既に知っていたはずだ。知っていて、忘れていた。三年前、違う町で中学生をしていた僕は、毎日更新されるニュースの一つとして彼女の事件を捉え、そうして記憶は風化していった。
他人事と見做していたから。情報の更新が激しい現代に於いては、それは確かに仕方のない事ではある。
しかし伏見は違った。伏見のみならず、近隣に住む子供たちとその家族、学校にとって、隠然鏡花の失踪事件は決して他人事ではなかった。他人事ではなく、自分たちの安全に関わることだった。だから、覚えている――。
「伏見。そのことについて、詳しく――」
――教えてくれないか。
続く僕の言葉を、五時間目開始のチャイムが遮った――。
五時間目が終了すると教室から我がクラス二十名弱の全女子生徒が立ち退いた。その代りとして二年六組の男子生徒、こちらも二十名弱が流入し、我がクラスは女人禁制の巷と化した。
六時間目の授業は体育である。新学期初日の六時間目なのに体育である。この時間割を組んだ教師はきっと頭がおかしいか、このクラス若しくは隣の二年六組の中の誰かしらに恨みがあるに違いない。
週に二回しかない体育の授業を、何故一日の最後、最も疲労の溜まった時間に突っ込むのか。それはまだ許すとして、始業式と新学期オリエンテーションのある今日という日に、どうして特別日程を組むなり、何らかの措置を講じなかったのか。担当者を呼び出して問い質してやりたい気分だった。
お蔭で、伏見からの話を聞きそびれてしまった。三年前の失踪事件を客観的な立場で語ることの出来る彼女からの情報は、魔女に報告する上で、補足的な役割を果たすかもしれぬと些か期待していたのだが、どうやら今日のうちに伏見に事情を聞くのは無理そうだった。
最終時限に体育の授業が設けられている月曜日。特別な事情がない限り、この日は帰りのホームルームを行わずに解散となる。部活動に入っている者は概ね、鞄その他荷物を活動先へ持って行き、そのまま各々の部室へと流れてゆく。勿論、バスケ部の新エースたる彼女、伏見空もまたそうだった。
ならば犬上ならどうだ。あの記憶力の化仏たる犬上祐ならば、三年前の出来事であろうと明確に記憶しているのではないか。そうであれば体育の授業中に隙を見て話を聞けるのではないか、とも目論んだが、二学期から犬上は伏見同様テニス、僕はバレーボールを選択していたために、計画はあえなく頓挫した。
これがもし、人命救助のために絶対に必要な情報であったなら、強引な手段を使ってでも話を聞きに行くところだったが、今回はそうではない。あくまで少年悛の不安を払拭するための補助的な情報収集である。学校のルールを破ってまで行うべきことではないように思われた。
無論、そんな取って付けたような予備知識がなくとも、魔女ならば正しい解答を導き出せるという身勝手で一方的な信用もそこにはあった――。
久々に準備体操の相手がいない絶望的な体育の授業をどうにか無事に終え、僕は教室へ戻った。戻ったところで、狙いすましたかのように校内放送がかかった。
『二年五組伊瀬丙。授業が終わり次第職員室に来なさい。至急話があります』
まるで公開処刑である。高らかに僕を呼び立てたのは、他でもない、我がクラスの担任、米村奏国語教諭であった。
至急の話があると誤魔化してはいたが、要件は明らかである。本日僕が提出した、現代文の課題。先日の夕方から今朝方にかけ、練りに練り、捩じ切れんばかりの捻りを加え、丹精と憎しみを込めまくった、皮肉交じり、いや皮肉まみれの和歌に、たった今しがた彼女は目を通したのだ。そのウィットに富んだ皮肉が的確過ぎて、詠み手を呼び出さずにはいられなかった。大方、そんなところだろう。
「さて……行くか」
体操着から制服に着替え、僕は大きく息を吸い、そして吐き出した。
――何をしに行くかって? それは勿論、ボコされに行くのだ――。




