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それは明らかに、隠善鏡花に関するニュースだった。実名こそ伏せられていたが、二日前の早朝、あの場所で救助されたと言うのなら間違いない。報道にあった少女は、僕の知り合いの小学生、隠善悛の妹、そして他ならぬ僕が心肺蘇生を施した、隠然鏡花だ。
同日同時刻同地点で、彼女の他に救急搬送された者がいるというのなら話は別だが、それはあり得ない。僕は彼女が倒れ、搬送されるまでの成り行きを全てこの目で見ている。無論、彼女以外に倒れている少女などいなかった。
しかし、今しがたニュースに流れた少女が隠然鏡花だとすると、明らかに不可解な点が一つある。
病院に搬送された少女は、三年間行方不明だったということである。
そんなことを、悛は一言も言わなかった。
報じられたことが事実ならば、何故悛は僕に何の相談もしなかったのか。三年もの間、隠然鏡花はどこで何をして、そして何故、二日前あの場所に突如として現れたのか。彼女の行方不明と、急激な衰弱は関連しているのか。
悛が嘘を吐いているようには見えなかったが、何か言えないでいることは明らかだった。
明け透けに人には話せない何か。俄かには信じ難く、人に言うには憚られる秘密。
僕はこれまで、幾度となくそういった事柄に直面してきた。だから彼の気持ちが分かるのだ、――なんて烏滸がましいことは言えないが、大人びてはいても、それでもまだ小学生でしかないあの器量の良い少年を、放っておくことも出来なかった。先日呑み込んだ台詞を、彼が自ら言いに来ないのなら、こちらから出向くまでである。
僕は筆記用具とメモ帳だけを鞄に詰めアパートを出た。縁にも付いて来てもらおうかとも考えたが、年不相応に賢い彼に無用な警戒を持たれぬよう、今回は単独での行動となった――。
樫木総合病院の病棟の外には数台のテレビカメラや記者らしき人々が詰めかけ、警察関係の人間も複数待機しているようだった。
周囲の人間の一挙手に鋭く目を光らせ、アンテナを張っている記者たちの間を掻い潜り、僕は院内に侵入した。
総合病院の名に違わぬ広い待合室は、外の喧騒と無縁である代わりに、絶え間なく電話が鳴り響き、職員が慌ただしく対応に追われている。人工照明によって白く照らされた病棟内部には、むせ返るような薬剤の臭気と、只ならぬ雰囲気が漂っていた――。
待合室の長椅子に、少年は一人座り込み、項垂れていた。
「悛」
「……兄ちゃん」
隠善悛は憔悴し切った顔を上げ、絞り出したような声を発した。そうして僕の姿を確認すると、またすぐに俯いた。
「こんなところで何してんだよ、お前」
「兄ちゃんこそ、何でここに? 病気でもしたのか?」
「僕は……、僕はお前の話を聴きに来たんだよ」
「わけ分かんねーな。どうして兄ちゃんがおれの話なんか聞きに来るんだよ」
「お前、僕に話してないことがあるんじゃないのか?」
「そりゃあるよ。あるけどさ、それを兄ちゃんに話してどうなるんだ」
――言ったところで、どうせ信じてもらえないさ。
悛は呟いた。
「……どうにかしてやれるかは分からないけど、少なくとも、話は聞いてやれる。お前がどんな突拍子もないことを言っても、信じてやれる。そのために僕は来たんだ」
「どうして? どうしてそんなことが言えるんだよ。おれたちに何があったのかも知らないのに、どうして信じられるなんて、簡単に言えるんだ?」
俯いたまま発せられた悛の言葉には、彼らに何かがあったという意味が確かに込められていた。
「僕も似たような経験をしたことがある。人に言っても信じてもらえないような、尋常じゃない経験を、何度も……」
僕は専門家ではないが、竜や犬神や稲荷神を目の当たりにしてきた。魔女のように解決してやることは出来なくとも、わけのわからないことに巻き込まれ、困惑しているであろう少年の話を聞くくらいのことは出来るし、必要ならば、魔女に取り次ぐことだって出来る。
たったそれだけのことしか出来ないが、それで救われることもある。嘗て犬上はそう言った。
「何なら、僕の方から話そうか?」
四月の終わりに僕の身に起きたことを。僕の体に起きた、常軌を逸した変化を……。
「……いや、良い。兄ちゃんがそこまで言うなら、おれも信じることにする」
ここは人が多いからと言って、少年は立ち上がり僕の手を引いて歩いた。小さく冷たい掌が、僕の指をぎゅっと握って、引っ張ってゆく。
完全な部外者である僕が人に見られることを憚ってか、悛はエレベーターを避け、階段を上へ上へと上った。
途中数人の看護師とすれ違ったが、通常の業務に加え、隠善鏡花のことがあるために多忙なのだろう、特に咎められることもなく、すれ違った入院患者らしき人々は、行方不明になっていた少女が三年ぶりに発見され、この病院に搬送されたというセンセーショナルな話題に退屈を紛らわせ、院内に侵入した不審者などに目を向けている暇はないようだった――。
悛に案内されたのは屋上だった。夕方五時過ぎにもなると、干していた洗濯物も既に取り込み終え、広い屋上には、何も掛けられていない物干し竿とその台が等間隔に並んでいる。
普段から開放されているようだが、隅に設置された二台の自動販売機と、プラスチック製の粗悪なベンチが備え付けられただけの、味気ない屋上だった。
日差しを遮るものが何もないところを見ると、夏場の屋上での活動は推奨されていないらしい。確かにここならば、人の寄り付く気配はない――。
ぬるい風が吹いている。日は大きく傾いて昼の刺すような日射は衰えているが、足元のコンクリートが溜め込んだ熱を放っていて決して心地良いとは言えない。
しかし眺望は見事である。遥か遠くに山々の稜線が見え、眼下からは延々と雑多な街並みが続いている。遮るものも分断するものもない青空は、どこまでも広がっていて清々しい――。
ベンチに腰を下ろし、悛もその隣に座った。
「妹はどうなんだ? 意識は回復したって話だったけど」
「今は寝てる。昨日の真夜中に一旦目を覚ましたらしいんだけど、すぐにまた眠って、それからはずっと目を瞑ったままだ」
「そっか」
――まあ、あれだけの飢餓状態に陥ってたんだもんな。そう簡単に回復はしないか。
「……それで、早速だけど」
隠善悛と隠然鏡花。彼ら兄妹に一体何があったのか。何があって、今に至ったのか。僕は早々に本題へと切り込んだ。
「うん――」
――事態の発端はやはり、三年前に遡る。
三年前の夏、隠善兄妹は夏休みの恒例行事、朝のラジオ体操に参加した帰り道、交通事故に遭った。事故に遭ったのは兄の悛の方であり、正確には遭ったのではなく、遭いかけたというのが悛の言い方である。
状況は、先日僕が介入した時と同じ。横断歩道を渡ろうとする悛に向かって、信号無視の車が猛スピードで突っ込んだ。
事故に遭いかけたと、悛は表現した。それはただ単に、寸でのところで車を避けたということでも、或いは二日前がそうだったように、誰かに救助されたということでもない。
衝突の寸前、時間が止まり、気が付くといつものように、自宅のベッドの上で目を覚ました。
目を覚ますと車に轢かれかけたという記憶はなくなっていて、嫌な夢を見たという感覚だけが残っていた。初めのうちは違和感こそあったが、異常が起きているとは気付かなかったそうである。
夏休み終盤に差し掛かっていた悛と鏡花は、その日も普段のように朝のラジオ体操に出掛けた。その帰り道、悛は車に轢かれかけ、そこで記憶が途切れ、次に気付いた時には自宅のベッドの上だった。
次の日も、次の日も、次の日も、次の日も……永遠に……。
そうしていつしか気付いたそうだ。自分は、自分たちは同じ時間を繰り返している。昨日も、その前も、その前もその前もその前も、もうずっと、何十日も、何百日も同じ日を繰り返している。朝目が覚めてから、悛が車に轢かれる直前までの時間を、延々と延々と……。
そのことに思い至っていながら、二人がループから抜け出せなかったのは何故か。
目が覚めてから暫くの間は繰り返しているという自覚がなく、家を出て、近所の神社に行き、体操をし、帰路に就くという活動をしていくうちに、次第に既視感を覚えるようになった。完全に繰り返しを確信するのは、車に轢かれる寸前、巻き戻りが発生するほとんどその瞬間だったのだそうである。
時間が巻き戻る直前になって思い出す。――ああ、また繰り返している、と。
余りにも短く、回避行動など取りようがなかった。そうしてまた、彼はベッドの上で目を覚ます。
ループしていたのは、八月二十四日の朝七時から七時半の間。言い換えれば、彼らはそのたった三十分の世界に、閉じ込められていた。恐らくは、三年間も……。
「流石に、三年も経ってるなんて思いもしなかったけどな。浦島太郎かよって話だ……」
三年という子供にとっては余りにも長い時間の経過を認識したのは、この騒動が大きくなってからだったそうだ。
「だけど兄ちゃんが、それを終わらせてくれた。あの日兄ちゃんが助けに入ってくれたから、おれたちはループから抜け出せた」
隠善鏡花が、涙も枯れ尽したように呆然と立ち尽くしていた理由が、今となって明確に理解出来た。彼女もまた、兄同様、巻き戻しの瞬間になって気付いたのである。もう何度も、同じ光景を、愛する兄が轢き殺されようとする瞬間を、目の当たりにしてきたことに……。
悛はほろりと笑みを零した――。
「おれはまだ良かったんだ。でも、あいつは優しいし、気の弱い奴だから……」
優しい人間であるからこそ、目の前で血を分けた兄、それも自分の半身とさえ言える、双子の兄の命が風前の塵となっていることに、耐え難いショックを受け、そのショックは無限に繰り返された。そうして繰り返していくうちに、自分が何もしてやれないという絶望に打ちひしがれ、涙も枯れた。
「おれだって耐えられないよ。もし目の前で妹が死にかけたら、それを自分が助けてやれないって分かったら、どうなるか想像もつかない」
妹が倒れた時、悛は、『せっかく助かったのに』と言った。『お前がこんなことになったら……』と言って、涙を流した。
悛の実感としては、あの時助かったのは、悲惨な無限ループに囚われた鏡花の方だったのだ。
「だから、兄ちゃんには本当に感謝してるんだぜ。兄ちゃんのお蔭で、あいつはもう、辛い思いをせずに済む」
「そっか。……辛かった、よな」
辛かった。そんなありきたりな言葉では表現しきれないほどの辛苦。
「そうでもないさ。戻る直前までは、繰り返しには気付けなかったわけだし。……でも、気付いた瞬間は、頭がおかしくなりそうだった。あいつが泣くのを見るたびに、胸が張り裂けそうだった」
悛は拳をぎゅっと握った。
「それを辛かったって言うんだよ」
頭に手を乗せ軽く叩くと、悛は――うん、とだけ呟いた。
東の空がうっすらと夜に色付き始めていた。日中の活動を終えた烏たちが、カアカア鳴き交わしながら寝床へと帰ってゆく。
「……これは僕の、あくまで素人の見立てなんだけど」
という前置きをして、僕は仮説を立てた。
素人の見立てではあるが、しかしそれは竜や犬神や稲荷神を、夜に潜む者たちを、この四か月間否応なく見続け、感じてきた人間の経験則でもある。そして専門家たる魔女と、異形そのものである縁のレクチャーを、嫌と言うほど受けてきた僕の見解でもあった。
「お前たち二人は、あっち側に閉じ込められたんじゃねえかな」
「あっち側?」
「そう。まあ、僕も人から聞いた話なんだけどな。この世界は、多層構造になってるんだってさ。僕たちがいつも見てる世界とは別な、普通じゃあ見ることも触ることも出来ない世界がこの世には幾つも重なってて……」
悛が僕を訝しそうに見上げていた。
「何だその目は。胡散臭いとでも言いたげだな」
「胡散臭い」
「素直なのは良い事だけど!」
――いきなりそんなことを言われても……、という感じなのだろう。男子小学生隠善悛は、その年齢に見合わぬ洞察力で僕の立てた仮説を真っ向から疑った。
まあ、僕とて初めてこの話を聞いたときには、似たような感想を持ったものだ。縁が竜であることを信じるまでにだって、かなりの時間と労力を必要とした。僕が今彼に話して聞かせているのは、それこそ世界観、人生観を覆すような、仮説なのである。世間擦れをしていない純粋な子供だからと言って、そう易々と信じられるものではないだろう。
「僕だって絶対にこうだ、って思ってるわけじゃないけどさ……」
それでも、今のところは有力な説である。
「視界が違えば世界も違うって話だよ。たまに霊感が強い人っているだろう? まあ、僕はそんなことを公言してる人間は、あんまり信用しないことにしてるけど」
「何だか矛盾してないか? 兄ちゃんは今、自分は霊感の強い人間ですって、公言してるみたいなもんなんだろう?」
「お前との会話なんて公然でもなんでもないね。寧ろ私然とさえ言える」
「そんな日本語は存在しない」
「……とにかく、お前たちはそういう、普通の人間じゃあ感知できない層に隔離されたんじゃねえかな」
俗に言う、神隠し。
縁に聞いた話では、そういう例は実際にある。肉体ごと向こう側に閉じ込められるという事例は、古来より多く語られてきたことだ。勿論その多くは、人間による拐しが原因なのだが、中にはあちら側に引き込まれ、取り込まれ、そのまま囚われてしまうこともあるそうだ。そして一度囚われた人間は、そう簡単には、戻ってこられない――。
「いや、兄ちゃん。胡散臭さ問題が一向に解決されてねーよ?」
「そりゃあ、そもそも突拍子もないことを説明しようってんだから、胡散臭くもなるだろ。世間の人たちから見たら、お前たちに起こったこと自体、既に胡散臭いんだから。そう思って、誰にも言えなかったんでしょうが、お前は」
「ま、そうだけど」
「別に僕を全面的に信じろとは言わないよ。僕の考えが正しいなんて保証はどこにもない。ただ、常識じゃ語れないことが、世の中にはあるってことを知ってほしい」
そしてそれを経験しているのは自分だけではないと分かってほしい。それこそが、僕がここへやってきた目的である。
「分かった。……でも。兄ちゃんの説がもし正しかったとして、じゃあ何で、鏡はあんな風になっちまったんだ? 今兄ちゃんが言ったことだけじゃ、そのことに説明がつかないだろ?」
悛は指摘した。頭の切り替えの早い子供である。それとも子供だからこそ、こんなにも迅速に切り替えられるのか。
「それは僕にも分からんところだ。お前からしたら、そこが一番知りたいところなんだろうけど」
悛が最も不安に思っているのは、恐らく妹のことだ。何故妹があのような変貌を遂げたのか。肉体の異常な衰退という現象が、再発することはないのか。そうして妹が再び命の危機に瀕することはないのか。
この妹思いの兄の関心は、寧ろそちらにこそある。彼は賢い小学生だ。終わったことよりも、この先起こり得る危機について、排除しきれぬ可能性について、既に考察し始めているのだ。
「そのことについては、プロに聞いてみなきゃ確かなことは言えないな」
「プロなんているの? いよいよ怪しくなってきた」
「……うん。確かに怪しい奴だよ、あいつは。見るからに怪しい」
――一見ただの魔女コスの女子高生だもんなあ、あいつって。
「だも、実力は折り紙付きだ。その点は信用してくれて良い」
何より、あの表情のない魔女は、言動や態度に反してお人好しだ。何やかやと文句を垂れながらかもしれないが、何だかんだ面倒を見てくれるのが彼女という人間である。勿論、僕自身の事で彼女の善意に付け込むわけにはいかないが、今回は寄る辺なき子供の代理依頼である。
「今日は忙しいらしいけど、明日の内には話を聞いてくれると思うぜ? それまでに何かあったら、僕の携帯に連絡してくれ。すぐに行く」
僕は鞄からメモ帳の切れ端を取り出し、電話番号を書いて渡した。悛は携帯を所有していないらしいが、家の電話或いは病院備え付けの公衆電話からかけてもらえば良いだろう。尤も、何の連絡もない方が望ましい。悛はその紙切れを右ポケットに突っ込み、ありがとうと呟いた。
「じゃあ、また明日」
「うん、兄ちゃん」
明日の十八時に、今日と同じ場所で落ち合う約束を交わしてから、待合室まで引き返し、僕たちは別れた。集合時間を十八時に設定したのは、魔女の活動時間を慮った結果である。
あの魔女を以ってすれば、鬼退治には今日中にけりがつく。かと言って、鬼退治後の魔女を叩き起こすのも忍びない。幼気な小学生を夕方の街角に呼び出すのは本意ではないが、そこはこちらが譲歩しなければならなかった――。
それに、明日からは学校だ。新学期が始まる。無論、授業のある間は小学生と公園で落ち合うことなど出来ない。
嫌な現実を思い出しながら、日没と競うように、僕は急ぎ自転車を駆った。




