<ぬ>
夢を見た。
――一つの小さな村が炎々と燃え上がっていた。辺りは木材と生き物の焼ける臭いで充満し、むせ返るようだった。
その炎の中で、少女が一人泣き尽していた。やがて雨が降り、火が消えると、沢山の人間が集まり少女を取り囲んだ。少女はそれでも泣き続け、武器を持った人間たちは、次々に少女を刺し貫いた。少女は何の抵抗もしなかった――。
「やあ、お兄さん。今日も元気そうだね」
闇の中で誰かが呟いた。聴き馴染みのある声である。僕は重い瞼を開いた。
戦闘装束に身を包んだ魔女が、横たわる僕の傍らにしゃがみ込んで、いつものじっとりとした目つきでこちらを見下ろしていた。首を傾げたり視線を動かしたりしているのは、僕の怪我の修復具合を確認しているらしい。
「お前それ本気で言ってる?」
「ボクはいつだって本気だよ。死体よりは元気そうだって意味で言ったのさ」
「何と比べてくれてんだよ。人を死体と比べるな。縁起でもない」
「いやだって、お兄さん。ほとんど死にかけ、みたいな顔をしていたからさ。実際、縁起でもないことに巻き込まれちゃってんじゃないの?」
魔女は平然と言った。
「ああ――」
記憶の欠落がある。奇怪な鬼に首を掴まれたことまでははっきりと覚えているし、残念なことに、死にかけたことも覚えているが……。
僕は、そしてあの鬼はどうなったのか。何故ここに魔女がいるのか、等々、欠けた部分を補わなければならない。
固いアスファルトから身を起こした。頭はまだふらついているが、外傷はないか、若しくはもう既に塞がったようである。そのまま立ち上がり周囲を見回した。場所は記憶が飛んだところからほとんど変わっていない。自宅からコンビニへ行く途中に通る、近所の公園の前である。
人の気配はなく、鬼のいた痕跡も残っていなかった。
「僕はどれくらい意識を失っていたんだろう」
「君がいつ意識を失ったかをボクは知らないから定かではないけど、それほど長い時間ではないと思うよ」
空はまだ暗い。少なくとも、数時間単位で意識を喪失していたわけではなさそうだ。携帯で正確な時間を確認すると、時刻は深夜二時十分を過ぎたところだった。
「僕はあのまま、死んだのか?」
――勇者の時のように、死んで、殺されて、そしてまた生き返ったのか?
「さあ、どうだろう。それも定かじゃないな。ボクが横槍を入れたのは、君があの鬼と組んづ解れつしてたところだけど」
――いや、組んづ解れつと言うか、組まれてそのまま解けなかったんだけどね。
解けないまま、結局意識を失った。
「そうなるより前に、何度も殺されて、その度に復活していたのかもしれない」
「いや。だったら多分、死んではない、のかな。首を切断される前に、お前が助けに入ってくれたってことだろうから」
意識を失ってから復活し、復活しても意識を失ったままだったなら、魔女の説もなきにしもあらずだが、その説についてはあまりにもぞっとしないので検証しないことにした。
「でも……」
――あれは何の音だったのか?
恐る恐るではあったが、尋ねずにはいられなかった。
「何か、ぶちって、切れる音がしたんだけど……」
――あれはもしかして、僕の首が刎ねられた音だったのでは……?
「その辺に、僕の首とか落ちてなかった?」
我ながら凄い質問だった。
自分の首が路傍に転がっている光景が脳裏に浮かんで、僕は戦慄した。
「何だい? お兄さんはドジっ子デュラハンにでもなったのかい? そのネタ、デュラハン界隈ではさぞかし流行しているんだろうね」
「デュラハン界隈なんてものが存在するのか!?」
「存在しないよ」
「しないのかよ……」
――じゃあこのラリー無意味じゃん……。
完全武装の魔女姿、しかも無表情で言われると不思議な説得力があって本気にして良いのか悪いのか毎度毎度、判断に困る。
「まあ、心配せずとも大丈夫だ」
「?」
「君が聞いたのは、恐らく君の首がもげる音じゃない。もげたのは、君の首ではなく、鬼の腕だ。勿論、もいだのはボク」
「お前が鬼の腕を……」
僕が何をしても解けなかった、あの異形の腕。
別に不思議な話ではない。彼女は魔女。自称最強の竜である縁を追い詰めたほどの実力の持ち主なのだ。彼女にかかれば鬼の腕の一本や二本、どうと言うことはないだろう。どころか、鬼の一人や二人を従えていてもおかしくなさそうである。
「と言っても正確には、もいだんじゃなくて、叩き切ったんだけど。つまりはお兄さん、君の首は一度も千切られずに済んだってことだ。良かったね。おめでとう」
「そりゃあ……どうも、と言うかありがとう。助かったぜ。しかし、お前が鬼の腕を切ったのが、僕が気絶する前だってんなら、何で僕は気を失ったんだ?」
――腕が切られれば、自然首を掴んでいた手の力も抜けるだろうに。
「それがあの鬼、あの鬼の手、腕をすっぱり断ち切った後も、君の首を強く握り絞めていてね。余程の執念があったんだろう。剥がすのに苦労したんだぜ」
「重ね重ね、お手数をおかけして」
「全くだ。お蔭で、取り逃がしてしまった。まあ、とは言っても、あれの強襲を防げなかったのは、こちらの不手際でもある。今回に関しては、責任を問われるべきは、ボクの方だ」
――これでも一応、プロフェッショナルだからね。
魔女は言った。
「……大丈夫なのかよ。あんなのを野放しにしておいて。僕の看病なんかしてる場合じゃないんじゃねーか?」
「なに。手は打ってある。じゃなきゃほとんど不死身人間の介抱なんて無意味なことはしない。今晩のうちは、あれは人に手を出せるような状態にはないよ。今日のところは痛み分けってところだ」
「しておいたって……」
――簡単に言うなあ。
「早々にけりをつけるさ。あんなものが街を跋扈していたら、うかうか夜道も歩けないだろう」
理から外れ、境界を越え、均衡を破ったものたちに対処する。それが魔女たる彼女の仕事であり、使命である。
「あれは、普通の人間にも害を及ぼそうとするよな……」
「及ぼそうとするだけじゃなく、実際に害を及ぼすだろうね。いや、正直な話、襲われたのがお兄さんで良かった」
「聞き捨てならない台詞だな。流石に赤裸々過ぎるだろ。僕だって死ぬ思いをしたんだからな」
責めるわけではないが、襲われたのがお前で良かった、などと言われては、抗議しなければならない。何度も言うようだが、僕は死ぬ思いをするのも、痛い思いをするのも、大嫌いなのである。
「でも、君じゃなかったら死んでいたよ。そう思えば、君は許せてしまう人間だろう?」
「僕をあんまり買い被るな。実は結構最低な人間なんだから」
具体的に言えば、無意識の女子小学生との粘膜接触を試みたり、無意識の女子中学生風ドラゴンに添い寝しようとしたり、ここ数日だけでも相当の悪事を働いてきている。
「そう言えば、お前、今日はどうしてたんだよ」
「どうしてたとは? 何でお兄さんはそんなことを尋ねるのかな? もしかしてお兄さんはボクの彼氏だったのかな」
「いやいや……。昼間お前を呼んだんだよ」
知り合いの小学生の妹に起きた不可解な出来事について、専門家の意見を聞きたくために、僕は夕方、魔女の住処と繋がっているという自宅のゴミ箱に向かって思い切り叫んだ。これは以前にも何度か、魔女の呼び出しに成功したことのある方法であり、失敗したことのない方法だったので、僕は安心してゴミ箱に顔を突っ込み、魔女を呼んだ。
しかし今日に限って、彼女は呼びかけに応じなかった。何も反応がなかった所為で、凄くストレスが溜まっている人、みたいな格好になってしまったのが堪らなく悔しく、虚しかった。
「ボクがいつでも暇してるなんて思ってもらっちゃあ困る。いくら夜を主戦場としているボクだって、昼に外出することくらいあるさ。と言うか、探していたんだよ」
「探していた?」
「いや、探っていた、と言うべきか。君が遭遇した鬼のことだよ。あれの出現は数日前からボクも察知していたんだ。だから、探っていた。鵜の目鷹の目を更に血眼にして、捜索していた」
「ちょっとしたホラー表現だよな、それ」
――しかし、彼女がそれだけ力を入れて捜索に当たっていて、何故もっと早急に対処出来なかったのだろう。魔女ほどの能力を以ってして先手を奪われたということは、あの鬼、あの悪鬼は相当の手練れ、とうことになる。
「如何せん隠れ方が巧妙でね。人に紛れてしまって、居場所を特定できなかった」
「お前でもそんなことがあるのか」
――魔女ならば、人とそうでないものの区別など容易だと思っていたが。
「尋常じゃないくらい精巧に人を模していれば、ボクや君にだって見抜けないことはあり得るさ。実際あの鬼が怨霊としての本性を表すまで、ボクはまるで見当違いなところを探していた」
「怨霊、か……」
この世に恨みを残して死んだ者の霊。しかし実際はこれも、生ある誰かしらが生み出した幻想だ。死者の魂などではない。人は死んだら消えるだけ。幽霊を作るのはいつだって、生き残った者たちである。
「お前はこれからどうするんだ?」
「さて、どうしようか。弱体化には成功したけど、その分また居場所が特定できなくなくなっているんだよね。痛し痒しというところだ。それに正直、今日は昼も働き詰めでもう眠い」
「早々にけりをつけるとか言っておきながら、結構悠長なんだな」
「ボクの過酷な労働環境を知れば、君もそんな残酷なことを言わなくなるだろうさ」
「あっそ。……そんなに忙しいなら、僕が何か手伝おうか」
「お気遣いは嬉しいけど、結構だ。それともお兄さん。ボクに助けてもらってばかりで、男としてのプライドが許さないのかな?」
「男としてのプライドは丁度さっき捨ててきたから大丈夫」
夏休みの宿題を終わらせるために、義務教育も受けていない女子に土下座することを潔しとした時点で、僕にプライドを語る資格は残されていない。
「それは世間一般的には、大丈夫じゃないと言うんだろうけど。まあ良い。お兄さんは世捨て人みたいなものだ」
――そこまで言われるほど僕って浮世離れしてたっけ?
「男のプライドなんて、見ていて暑苦しいだけのものだ。一々そんなものを感じていたら、さぞ首が回らないだろう」
耳に痛い台詞を吐いて、魔女はふっと小さく欠伸した。欠伸顔を表情と呼ぶのかは微妙なところだが、表情を変えない魔女にしては珍しく、端的に言って女の子らしい仕草だった。
「お前って時々そうやってギャップを突いてくるよな」
――ゾーンアタックなのかな?
「何のことかな。ボクはバスケットボールについてはあまり詳しくないから分からないよ」
「バスケ用語だって分かってるじゃん! あと、僕の心を普通に読むな」
「はいはい」
と、おざなりに受け流して――
「そんなことより、ボクは早く帰って寝たいんだ。君も早いとこ、お家へ帰りなよ。そうだな。ボクが君に頼みたいことがあるとすれば、それくらいのものだよ。あまり危険な夜道を歩かないでくれ給え。ただでさえ君は、見えやすくなっているんだから」
魔女は歩き出した。どうやら眠いのは本当のようで、足取りがいつになく頼りない。目の下をよく見てみると、不健康そうな隈が深く刻まれている。
「ところで、なんだけど……。どうしてお前は、僕の自宅に向かって歩いているんだ?」
「……」
これもまた、魔女にしては珍しい沈黙だった。
「……うっかりしていた。そうだったそうだった。僕の住処はこっちじゃなかった。どうも頭が働いていない。これは正式に労働環境を見直すべきかもしれない。ボクとしたことがとんだ骨頭だ」
持っていた杖をくるりと回し、跨ると魔女は宙を舞った。最早見慣れた光景である。
「夜道にはくれぐれも気を付けるんだよ。いつまでもボクに甘えてもらってちゃ困るんだ。ボクは別に、君の味方というわけではないし、この先ずっとこの町に滞在し続けるわけでもないんだからね」
そう言い残し、黒衣の魔女は見る間に夜に溶けていく。
「じゃあ、お兄さん。サハラじゃ」
――……どうしてあいつは、アラビア語で砂漠を意味する言葉を残していったのだろう。多分、本当に眠かったんだな。
僕は帰路に着いた。辺りでは虫が鳴きだしていて、先程までの息の詰まるような圧迫感は解消されていた。
死にかけた後遺症なのか、体が鉛のように重く、ずきずきと酷い頭痛もする。一刻も早く布団に倒れ込みたい気分だった――。
自宅に戻ると、縁が相変わらず暢気にも健やかな寝息を立てている。その寝顔を見てようやく、肩に入っていた力が抜けた。
――こいつを残して死ぬかもしれなかった。
そう思うと改めてぞっとした。
僕が帰らなかったら、こいつはきっと泣くだろう。またぞろ孤独に生きてゆかなければならなくなる。或いは、僕という名目上の御し手を失ったドラゴンは、魔女や勇者によって殺処分されてしまうかもしれない。
――まだまだ死ねないよな。
布団を敷くのも億劫だった。僕はそのまま、縁の眠るベッドへと倒れ伏した。肉体の再生に相当体力を使ったのだろう。僕は底なしの沼のように深い眠りへと落ちて行った。