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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
五章 ある少女の解放
83/92

<り>


 午前二時を過ぎていた。


 うつらうつらと舟を漕いでいた縁が、B4用紙の対角線上に本日五本目の直線を引いた。最近は生活習慣が乱れ気味になっていたとは言え、基本的には早寝早起き、健康優良児の縁である。深夜二時を回って限界が来てしまうのも無理からぬことだった。


 斯く言う僕もそろそろ危うい。夏休みだからと言って堕落した生活を送らぬよう、努めて規則正しく活動してきたことがここにきて仇となっている。


 今日も(既に昨日になっているが)朝は六時に起床したため、いい加減眠い。普段縁が使っているふかふかのベッドが、背後で手ぐすねを引きながら舌なめずりをし、蠱惑的に僕を誘っている。


 不退転の決意を固めて夏の忘れ物を消化してきた僕も、第一の難敵、読書感想文を始末した頃には、既に満身創痍の有様になっていた。


 「思ったより時間使っちゃったな」


 ――題材が悪かった。


 と言うか、民話伝承の説話集という、感想文を書くには難度の高いジャンルの作品をセレクトした僕が悪かった。いやもっと言えば、この時期にまで宿題を溜め込んでいた僕が全面的に圧倒的に悪かった。

脳機能が低下し始めた所為なのか、この世に自分以外の悪など存在しないのではないか、とすら思われた。


 ――駄目だ。ネガティブな方向にしか頭が働かん。無駄なことを考えている場合ではないというのに……。


 「無駄は駄目。略して無駄目……」


 ――くそう! 果てしなく無駄な独り言だあ!


 自分という人間の底知れぬ下らなさに愕然として、下らないのに底知れないとはどういうことか、などと無為なことを考えながら僕は席を立った。


 無事深い眠りに落ちた縁を抱え上げベッドの上に寝かせると、何かむにゃむにゃと言って可愛い。ちょっと可愛い過ぎたのでそのまま添い寝しようかとも思ったが、そこは我ながら強烈な自制心を発揮して、頬にかかった繊細な髪の毛を避けてやるだけにとどまった。


 プリントの束はまだ半分を残しているが、これ以上彼女に頼るのも忍びない。今や、すやすやと健やかな寝息を立てている彼女も、日付が変わる頃までは一生懸命に目を凝らし、頭を捻り、慣れない作業に四苦八苦しながらも手を貸してくれていたのである。何より、この尊くも愛おしい寝顔は、是が非でも守ってやらなければならなかった。


 眠気覚ましのつもりで、自分の頬に横一閃ビンタを放ち今後の予定について思いを馳せた。が、気の抜けたビンタ一発では毛ほども目が覚めなかったので、気分転換を兼ねてドーピング薬の取引きをしに出かけることにした。


 「コンビニ行こ」


 法令遵守を人生の第一目標とする高校生として、深夜に外出することには僅かばかりの後ろめたさがあったが、我が家には徹夜の供、栄養ドリンクを常備するという風習がないため致し方なかった――。


 外へ出ると、一瞬にしてむっとした湿気に襲われ、自分が如何に快適な環境で活動していたのかを痛感させられた。


 月が出ていない。今日は新月だった。


 街は静けさと夜の臭気に呑まれ、闇に蠢くは異形ばかりである。


 影も形もない、形もなければ存在もない、常夜の国の住人たち。夜はまさしく彼らの時間であり、街灯の光の届かない真っ黒な暗がりは専ら彼らの領域である。


 うじゃうじゃ、と言うほどではないが、昼には影を潜めていたおかしな奴らが、こうして夜になると、特に今夜のような暗い夜には一段と勢力を増す。日の出ているうちと比べると、動きも些か活発であるような気がする。尤も、闇夜に紛れてしまっているので、本当に動いているかどうかはいまいち判然としない。


 危険な影にうっかり足を踏み入れてしまわぬよう注意を払いつつ、それでいて意識の中心からは外して歩いた。


 近頃は、鼻歌を歌いながらでも歩けるようになったが、最初期には震えが止まらなかった。怯えるなと言われても、正体の分からないものが陰の中で蠢いていると言うのだから、恐ろしくないわけがない。


 見えないことは恐ろしい。相手がどこにいるのかさえ分かっていれば、精神的にも肉体的にも準備出来るが、そうでなければ常に感覚を研ぎ澄ませ、精神を張り詰めておかなければならない。当然体も緊張しっぱなしなものだから、後になってどっと疲れが出る。


 とは言え、夜になっても依然として彼らの多くは無害である。いくら活動を強めると言っても、無力なことには変わりない。たとえこちらから足を突っ込もうと、ほとんどの奴らは何の抵抗も出来ないだろう。ましてや、襲い掛かってくることなどまずあり得ない。だからそう身構える必要もない。


 嘗て縁はそう言って、僕の夜に対する怯えを払拭した。犬神や稲荷神を経験した今となっては、過度に怯えることの方が余程危険だったのだと分かる――。


 それにしても今日はいつにも増して静かな夜だった。


 草木も眠る丑三つ時。この時間帯に幽霊の目撃情報が多いのも頷ける。見える見えないは別にしても、不気味なほどに静寂で、嫌な夜である。


 時間をずらすべきだったと後悔したが、時既に遅し。流石にこのまま夜明けまで何の対策も講じず、残った作業に没頭するには無理がある。


 僕は五分先のところにあるコンビニへ向かって、ぐんぐん歩を進めた。歩を進めるほどに、全身に嫌な重みが圧し掛かっていくような気がして、歩調は次第に速まっていった。


 暑さや湿気によるものではない汗が額に浮く。嫌な予感と言うよりも、嫌な気配、嫌な圧迫感だった。


 今日の昼間、偶然知り合った小学生と親睦を深め、和気藹々と語り合った公園の前を通りかかる頃になると、圧迫感は異様に、最早無視出来ぬほどに高まっていた。


 いよいよまずいと、引き返そうとしたその時、僕はふと無人の公園に目を奪われた。


 誰もいない公園。二人掛けのベンチを照らす電燈が一つ寂しく灯っている。その青白い光が照らす範囲からは遠く外れた暗闇の中。


 風も吹かない静かな夜だというのに、キシキシと音を立て、ブランコが揺れている。二つの座板のうちの、片方だけが、たった今まで誰かが乗って、遊んでいたかのようにゆらゆらと大きく、前後に揺れていた――。


 暗闇の中に何かが紛れて、こちらを窺っている。そんな感覚があった。


 恐れていると知られてはいけない。見られていると悟らせてはならない。僕の恐怖心が、彼らを助長する。


 そう自分に言い聞かせ、極力平静を崩さずにゆっくりと踵を返した。


 ここまではっきりと人ならざるものの気配、存在を感じるのは伏見の時以来だが、稲荷神や犬神のような神々しさを孕んだ気配とは、全く異質である。寧ろ真逆の、完全体の竜に近い純粋な禍々しさ。悍ましさ。おどろおどろしさ。ただひとえに醜く恐ろしい。


 足音が聞こえる。呼吸音が聞こえる。低い唸り声が聞こえる。


 「――!」


 ――隣に、誰か、いる。


 人ではない、生き物ではない誰かが、顔を覗き込み、耳元で息をしている。


 背筋がぞくりとした。体が固まりかけ、息も止まりかけたが、それにも構わず歩き続けようとした。視線を変えず、ただ前方だけを凝視して……。


 そうして脇目も振らず逃げ去ろうとする行く手に、闇の中から二つの眼がぬっと現れ、まっすぐにこちらを凝視した。


 「っ!」


 思わず声が漏れた。


 ――気付かれた。


 目と鼻の先数十センチのところから、じっと品定めするように僕を睨みつける顔と、その剽悍な体躯は、揺れ動く黒いもやの中に隠され、眼球だけが宙に浮いているように見える。まるで人の形をした何かが、夜そのものを纏っているかのようだった。


 ぎょろりとした瞳は妖しく光り、そして揺らめく靄の隙間から時折覗く額からは――二本の奇怪な角が突き出ている。


 ――鬼。


 これは、僕が認識していることを悟ったこの異形は、鬼だ。それも悪鬼の類。人に害を及ぼすことを唯一の存在目的とする、異形である。


 姿は夜に紛れ全容を明らかとしないが、その瞳は憤怒に燃え、怨嗟に暗く光っている――。


 僕は魔女のような専門家ではないが、瞬時に直感した。そしてその直感は、概ね正しかった。


 こいつは、暗闇の中で蠢き、わだかまっているだけの奴らと根本は同じでも、実力が全く違う。もっとはっきりとした実力を有する、邪悪な鬼。


 無力どころか、無害ですらない。有力にして強力にして有害な、化物。恨み、嫉妬、怒り、憤り、嘆き、そして憎悪。人の後ろ暗い感情の全てを一つ所に寄せ集め、無理矢理人型に押し込めたかのような、そんな途方もなく哀れな怪物である。


 身の丈はさほど高くない。背だけで比べるならば、僕と変わらないか、やや低いくらいである。


 姿を目に捉えた瞬間、そこまでを把握して、逃げなければ。そう思った。そう思った頃には遅かった。

人に害為すことを存在目的とする異形が、己を認識する人間に出会ったとき、己が干渉出来る人間に出会ったとき、次にすることと言えば何か……。


 『みつけた、みつけた』


 奇怪な声に肌が粟立ち、咄嗟に飛び退った。


 それを追って、鬼の黒い手が伸びる。


 縁に心臓を分け与えられた僕の身体能力は、人間の域を脱している。その化物染みた身体能力を以って、相手が動き出す前に地を蹴り、一挙に三メートル近くもの距離を作った。


 回避出来ないはずがなかった。相手が人間や、全うな生物であったならば……。


 追い縋る腕が、元の長さを超えて更に伸びた。


 「えっ!?」


 鬼は体の大きさに不釣り合いに発達した掌で、僕の首を掴み、体格に不釣り合いな腕力を以って、僕の体を宙に浮かせた。


 「……ぃ……」


 息が出来ない。声が出ない。悲鳴も上げられない。


 足をばたつかせて拘束を解こうとするが、攻撃すべき鬼の本体は腕だけを伸ばして三メートルも離れた場所にある。手を引き剥がそうとしても、自分の首を掻き毟るばかりでびくともしない。反動を付けて鬼の腕に絡み付こうとしたが、首だけが空中にがっちりと固定されていて、無理に回転などしようものなら頸椎がへし折れる。


 ――殺される。


 首に鬼の爪が食い込んでいく。万力のように、と言うより、真綿で首を絞めるように、徐々に徐々に握力を強め、ぞっとする低速で、鬼は僕の首を刎ねようとしている。


 手を伸ばせば触れてしまえそうなほど明確な憎悪があった。この鬼は、生きている人間全てが許せないのだ。だからこんな、残酷な殺し方を選んでいる。僕が死を実感するための時間を、わざと作っている。そう思われた。


 酸素の欠乏の所為だろうか、視界がすっと暗くなる。


 首で血流が止まっているのが分かる。目尻から温かい液体が流れたが、これは恐らく涙ではなく血液だろう。顔面も、溜まった血で破裂しそうなほど張り詰めている。骨が軋み、筋肉がぶちぶちと切断されていく。


 最早手足も微動だに出来ない。僅かに稼働しているのは、頭だけだった。


 鬼の思惑通りの死の実感。懐かしくもトラウマスティックな、ここ数か月で数度目かの、死にゆく感覚だった。


 このままでは死ぬ。


 消滅しかける意識の中で、酸素の欠乏した脳内を過ったのは、長らく抱えてきた疑問だった。


 ――僕はどこまで死なない? どこまでなら死なず、どこまで行くと死ぬのか?


 ――どこまで行っても、死ねないのではないか?


 そこまで考えて、思考が途切れた。


 どこか遠くで、ぶちっ、という何かが切れる音がした。




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