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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
五章 ある少女の解放
82/92

<ち>


 何か重大な見落としをしている気がしてならなかった。重要な事柄を失念しているような、そんな疑念が拭えない。


 夏の忘れ物。どうもこの曖昧模糊とした単語がトリガーとなっていたらしい。縁の口からこの言葉を聞いてからというもの、また近所の小学生と与太話に花を咲かせてからというもの、胸の奥がざわついて止まない。


 公園から帰宅し、昼食を用意し、食べ終え、後片付けをして、魔女の呼び出しに失敗し、そうして午後の時間を消費していくうちに、このもやもやとした疑念は益々濃くなっていった。時が進めば進むほど、もどかしさの原因がより深刻さと重篤さを増していくような気がして、嫌な焦りばかりが募った。


 喉の奥に小骨が刺さったかのような、気持ちの悪いつかえ。その正体は、夜になってようやく明らかになった。


 「なあ、縁。夏と言えば何だと思う?」


 「夏と言えば蕎麦にうどんにそうめんじゃの。あーいや、冷やし中華。あの酸味の利いた心憎いつるつるも中々捨てがたい」


 先日食べた冷やし中華を思い出しているのか、涎を垂らしかけている。


 「明日のお昼の相談をしてるんじゃねーんだよ。何というかこう、もっと……夏休みに関係した何かだったと……」


 ――うーん、もうそこまで出かかっているのに、ああもどかしい。


 「さっきからうんうん唸っておったのはそのことと関係しておるのか?」


 「そう。そうなんだよ。高校生の夏休み、いや、もっと言えば学生の夏休みに関係したもの。夏休みには欠かせない、なくてはならないもの。それでいて、ない方が良いもの。なければ良いもの。面倒くさくて、ついつい後回しにしてしまう、学生の敵」


 ――そんな感じの何か。


 「そりゃ宿題じゃろうの」


 「……………………しゅく、だい……?」


 ――ああ、はいはい。宿題。宿題ね。あるよね。あったよね、夏休みの宿題。懐かしいなあ。小学校低学年時代、自由研究でトカゲの卵が孵化するところを観察してレポートにしたっけ。あれは我ながら中々頑張ったよなあ。三十個くらい卵があって、全部孵るまで夜通し張り込み続けたのは今でも良い思い出だ。孵った子供を親が口に咥えて、ライオンなんかがするみたいに安全地帯に移動させるのかと思いきや、そのまま喰ってしまった、っていう結末には正直驚いたけど、うんうん。あったあった。ありましたありました。そんな時代がありました……。


 「宿題ね」


 ……と言うか、出てたよね。小学校時代でも中学校時代でもなく、高校時代、高校二年生時代、いやもう現在進行形で出てるよね、夏休みの宿題……。


 僕は壁に掛かる何の予定も書き込まれていないカレンダーを前に腕を組んだ。


 今日の日付は八月二十六日。八月二十六日と言えば、皆が知っているようにあの有名な八月二十八日の二日前のことである。言わずもがな、我が校に在籍する全生徒が把握しているように、八月二十八日とは、県立東柳童高校に於いて新学期が開幕する日付である。これは夏休み中旬に学級委員であるところの犬上祐に聞いて得た情報なので間違いはない。確かな事実である。つまり非情な現実である。


 「はっはっはっ」


 笑う門には福来る、という由緒正しき格言に倣い、そのご利益にあやかろうと、僕は笑った。しかしどういうことか。福はどこで何をしているのか。玄関の鍵を閉めていたからここまで入ってこられないのか。一向に事態が好転する気配がしてこない。どころか、時間が刻一刻と進むことで益々悪化の一途を辿っている気さえする。


 「よお、縁さんや」


 「何じゃ? そんな宿題全然終わってないじゃん、みたいな顔で」


 「的外れなことを言うな、縁。これは宿題全然終わってないじゃん『みたいな』顔じゃない。宿題全然終わってないじゃんの顔だ。と言うか僕、宿題全然終わってないじゃん!」


 大した意味もなく類似の台詞を三回繰り返したのは、酷く混乱していたためである。


 つい先ほどの小学生との談笑の中で、僕は夏休みあるあるとして、宿題は最終日まで残してしまいがちである、などとさも他人事のように言ったが、まさに今現在の僕が、そんな妙味もへったくれもあったものではない、散々語り尽されてきたであろうありふれたあるあるを、実行していた。


 夏の忘れ物。その正体がここに明らかになった。


 残された夏休みは、今日を含めてあと二日。よりシビアな見方をすれば、今日を含めずあと一日。いや、最終日を徹夜すれば更に七時間ほど追加出来る。正確を期すと、三十四時間二十一分と十五秒。今十四秒になった。


 一方残された宿題と言えば、伏見との特訓中に片付けた数学の二科目以外の全て。英語、現代文、古文、世界史、生物、美術等々、多種多様、より取り見取りである。


 ――まあ、より取り見取りと言うか、全部やらなきゃいけないんだけど……。


 「はっはっはっ」


 僕は再び笑い声をあげたが、時間とカロリーを僅かに消費したのと、ただただ空しくなるだけだった。


 何故こんなことになってしまったのか。原因はどこにあるのか。まずはそれを究明せねばなるまい。


 始まりはやはり、伏見との会合だろう。夏休み前に交わされた僕たちの密約。バスケ部の活動が午前中で終わる日に限り、地区センターに集合し、勉強、バスケについてお互い教え合う。それが条約の内容だった。


 伏見は人に物事を教わることには全く不向きであるが、逆に教えることについては無類である。彼女から数学を教わる際に、僕は一度たりとて不満を感じなかった。質問には的確に答え、質問をする前にこちらの弱点を察知し、指摘することさえあった。


 そんな伏見先生のスパルタ指導の甲斐あって、実のところ、数学の宿題は夏休みに入ったかなり早い段階で消化し終えていた。


 最も苦手な科目を、いち早く済ませてしまったことによる安心感が、僕の駄目人間化に拍車を掛けたことはまず疑いの余地がないだろう。


 責任転嫁は僕の十八番だ。


 ――さて、頃合いも頃合い。時は満ちた。


 「そろそろ寝るかな」


 「待てい、お主よ! 何を悠長に布団を広げようとしておるのじゃ? そこは早速取り掛かるべきじゃろうが!」


 珍しく興奮気味のツッコミである。一体この竜は何を慌てているのだろう。


 「まあ落ち着けって縁。何事も慌てないことが肝心だぜ? 諺にもあるだろ。急がば回れ、ってさ」


 「いや急がば急げよ!」


 ――うわあ、含蓄ねえ。


 「王道を行く時間的猶予は、お主には最早残されておらんじゃろうが」


 縁がいつもより手厳しい。こいつは僕のお母さんなのだろうか。


 「……そもそもだよ? 夏休みに宿題があること自体おかしくないか? だって夏休みって、休暇期間なんだぜ? 休暇期間中にまでノルマを強いるような企業がこの世に果たして存在するか? 仮にあったとして、そんな真っ黒な労働環境を認めてしまって良いものなのかよ。僕は断固抗議するね! 超実定法的抵抗権を発動するね!」


 たとえ世間が僕を批判しようと、僕は断じて体制に屈することを潔しとしない。この身がやがて水底に沈む一石となろうとも、抗い続けてみせる!


 そう。今日から僕は、真の確信犯だ。誉れ高き糾弾者、誇り高き闘争者である。断じて逃走者ではない。


 「宿題を敢えてやらないという手段を以って、僕は意思を表明する」


 「現実逃避をするのも良いが、程々にしておくのじゃな。お主の為を思って敢えて言うが、今日このまま眠ってしまえば、明日のお主は今日にも増して酷く後悔することになる。数学以外のあらゆる科目で成績を落としたくないのなら、即刻活動を開始すべきじゃ」


 「……」


 ご尤も過ぎて返す言葉がない。どうやら、方針の変更が必要のようである。


 面舵一杯。


 「だったら、縁。いや、縁様」


 「こら。露骨に媚びを売ろうとするでない。行動が見え透いておるわ」


 「見え透いてるなら手を貸してくれよ。お前の正体って確か、未来からやってきた猫型ロボットだったろう? 何か便利な秘密道具はないのかよ」


 「もし私が未来から来た猫型ロボットじゃとするならば、私は愚かなのび太君の性根を叩きなおさねばならんから協力は出来んが?」


 「そんなこと言うなよ、ドラえにし」


 「何じゃその、ドライ田螺たにしみたいな語感は! ……ちょっと食べてみたくはあるが……いくら何でも無理矢理過ぎじゃろ!」


 ――食べてみたくはあるんだ、ドライ田螺。


 「さては、ロリえの仕返じゃな?」


 「いや、そのことについては今の今まで忘れてたけど」


 仕方あるまい。こうなってしまった以上、禁忌を犯してでも縁に協力を仰ぐしかない。僕は宿題を終わらせるためならば、女の子相手にだって土下座の出来る男だ。


 男としての誇り? そんな無用の長物はどぶにでも捨ててしまえ。誇りなど持っていたところで、大概悲惨な結末しか生まないものだ。それは歴史が証明している。


 それに、男女平等の叫ばれるこの世の中で今更、男としての誇りとか言われても、現代っ子の僕にはピンと来ない話である。


 「まあ、実のところ、お主を手伝うこと自体はやぶさかではないのじゃがな」


 「え? そうなの?」


 「以前から言っておろう? 私は人間の文化をこよなく愛しておる。お主は漫画を読んでいると、怠けじゃ何じゃと言ってくれるが、私にとっては漫画を読むことにしても、一種の文化体験なのじゃ。そして許されるのなら、出来うる限り多様な体験をしてみたいとも思うておる。無論、夏休みの宿題とやらも、私が三度の飯の次に好む、興味深い文化の一つじゃ」


 「そうか。今日ほどお前がいてくれて良かったと思う日はないよ」


 「それはそれで私も、これまでの在り方と、これからの在り方について今一度熟考せねばならん気もするが……まあ、良い。今は時間が惜しいのじゃろうし。して、何から手を付けるのじゃ?」


 「そうだな。効率化を図るためにも、役割分担を決めないと。いやその前に、どんな宿題が出てたかすら覚えてないや」


 「おいおい」


 僕は数か月ぶりに開かずの学生鞄と机の引き出しをひっくり返して、プリント類のまとめられているクリアファイルと全教科の教科書、ノート一式を取り出した。


 「あったあった」


 英語。ノートの走り書きによると、夏休み明け最初の授業に単語テストがあるらしい。加えて一学期分の復習として、教科書の指定範囲内の文法問題を全て解くようにと書いてある。因みに英語の授業は夏休み明け初日に予定されている。


 ――何故始業式の日に授業があるのか?


 そのことについては全世論を巻き込んで喧々諤々の議論を繰り広げたいところだったが、急がば急げ、衝動をぐっと堪え、僕は次なる教科へ目を向けた。


 現代文。あの米村担任にしてはベタな課題が出ている。読書感想文である。原稿用紙三枚以内にまとめよ、とのこと。高校二年生に読書感想文を書かせるとは、あの人らしからぬ工夫のなさである。


 ――ん? いや待てよ。まだ何か書いてある。恨みがましいような筆跡で、何か小さく……。


 夏をテーマにした短歌を十首、所定の用紙に毛筆か筆ペンでしたためるように。追記、二学期の学級通信にて一人一首ずつ掲載する……。


 ――短歌って! 十首って!


 流石は職員室界隈で、曲者の異名をほしいままにしている米村国語教諭。現代文担当のくせに短歌とはこれ如何に。


 言わずもがな、現代文の授業で短歌の創作方法について学んだ記憶はない。十首という重いノルマを課すあたりが更に難儀だ。夏休みを謳歌する若者への嫌がらせとしか思えない。謳歌してるなら、短歌だって詠めるよな? と、邪悪にほくそ笑む彼女の顔が目に浮かぶ。僕は謳歌していないから免除して欲しい。


 しかも一人一首は二学期初めの学級通信に掲載するとは何事か。手を抜いた生徒を晒し者にする気満々ではないか。


 ――まだ若いのに、魂がすり減ってしまっておられるんだなあ、きっと。


 僕は担任の顔を頭から無理矢理振り払って、残りの確認作業に取り掛かった。


 古文は英語同様、休み明けに単語テストが実施されるらしいが、それ以外には特に何も課されていない。非常に好ましい。


 世界史と生物については、それぞれ穴埋めのプリントが出ている。かなりボリューミーな分厚さを誇っているが、まあ、現代文の変な重さに比べればさほどでもない。


 残りは美術。九月の下旬に我が校にて開催される文化祭用のポスターを作製せよ、優秀作品はそのまま採用される可能性あり、とのこと。提出期限はこれもまた休み明け最初の授業である。


 初回授業が金曜日の美術はひとまず後回しで良かろう。初日に授業があり、且つ課題提出の義務付けられている科目は、英語、現代文、世界史の三つ。


 状況を整理したことで、僅かに光明が見えてきた。今日明日と、不休で作業し続ければ、どうにか済みそうである。


 「問題はやっぱり、現代文、だよな」


 読書感想文は先日読んだ遠野物語でも書くとして、短歌をどうするか。担当教諭が米村先生である以上おざなりなことは出来ない。少なくとも、学級通信に掲載される一首分は真剣にセンスを研ぎ澄まさなければならないだろう。


 「ていうか短歌ってホント何だよ! 一首たりとて詠んだことねーよ!」


 短歌について知っていることと言えば、一首、二首と数えること、五七五七七の形式で詠むこと、以上だ。万葉集にすらまともに目を通したことがないのは、現代を生きる今時の高校生としては寧ろまともだろう。


 ――取り敢えず一首は、斯くの如き難解且つ挑戦的な課題を突き付けた、うら若き女性担任を、センスの限りを尽くして鋭く皮肉った歌を紛れ込ませてやろう。その作業には恐らく六、七時間は要すであろうから、実質的に残された時間は凡そ二十七時間。二十七時間のうちに、五つの課題をクリアすれば良い。


 ――いける! いけるんだ!        


 俄かに希望が湧いてきた。睡眠時間と食事時間が一切計算に含まれていないことには、この際である。目を瞑ろう。与えられた課題に対し、真摯な態度で取り組むことで、本来得られるべきだった知識やノウハウを諦めなければならないことについても然りだ。


 僕はやると決めたからには、本末を転倒させてでも戦う男である。高等教育はおろか、初等教育すら全く受けていない、ましてや人間ですらない竜に助力を乞うてでも、である。


 猫の手ならぬ竜の手も借りたい状況だった。


 「縁」


 「ほいほい」


 僕は二十枚ほどの束になった、B4サイズの用紙(両面印刷)を差し出した。


 「お前は世界史を頼む」


 世界史の問題集プリントは主に重要語句、人物等の穴埋めである。内容は概ね復習。長い夏休みで、一学期分の学習を忘れさせないための、本来ならありがたい気遣いであるが、今ではありがた迷惑としか感じられない。


 「教科書と資料集見れば大体分かると思うから」


 「うむ。合点じゃ」


 教科書の該当範囲を指定して、僕は自分の仕事に取り掛かった。


 手始めに、最も難易度の低く、それでいて眠くなってからでは格段に質が低下しそうな、読書感想文を済ませてしまおう。と言っても、これも彼の米村担任が目を通す文章だ。彼女の僕に対する信任を裏切るような、軽薄な文章を提出するわけにもいかない。


 ここが腕の見せどころ。なけなしの、あるかないかも分からないセンスの使いどころ。本文をざっと読み返す時間を含め、三時間だ。三時間でこの課題を終わらせる――。


 八月二十六日。残暑厳しい夏の夜は、苦悶の声と共に更けていった。



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