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竜の心臓移植 (旧題 ある竜の転生)  作者: こげら
五章 ある少女の解放
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 今年の八月の末は相も変わらず暑い日が続いていた。前々日、降りに降った雨の水気は昨日の内にすっかり乾き切り、朝は盛んに鳴き交わしていた鳥たちも、太陽が昇り切る頃には草木の影に隠れて羽を休めている。鳴くのは最後の灯火を煌々と輝かせるアブラゼミばかり。


 夜明け頃のひぐらしの、郷愁を誘う音色ならばまだ風情があると言えるが、ジィジィをひたすら繰り返すだけの単調な音声には、どうも趣を感じられない。どころか聞いているだけで暑くなる気さえする。


 そもそも名前からして暑苦しい。何だアブラゼミとは。そんな如何にも暑さを助長するような名称は、即刻改称すべきである。


 などと、手前勝手ここに極まれりの濡れ衣を、無辜の蝉君たちにお仕着せてしまいたくなったのは、空調の利いた我が家から炎天下に繰り出して僅か三十秒ほどの事であった。


 夏休みの最終盤。週が明ければ長かった休暇もいよいよ終わり、新学期が始まる。


 去年に引き続き、凡そ夏休みの高校生らしい活動を、僕は悉くしてこなかった。いや去年や今年に限らず、僕は小学校時代以来、そういった夢のある活動に全くと言って良いほど精を出していない。


 友達と海に行き、海だー! と叫んでみたり、友達と山へ行って、山だー! と叫んでみたり、友達と川へ行って、川だー! と叫んでみたり、そういう如何にも若々しい、可愛げのある行事に参加したことがない。と言うかそもそもそんなことを一緒にする友達がいない。


 今年になって、二人ほど真に友人と呼ぶべき人々が出来たが、その二人ともがバリバリの現役スポーツマンであり、強豪校のエースであり、故に一日丸々使って遊びに行く余裕などあるはずもなく、あったとしても僕が遊びに誘うかは微妙なところだった。


 長らくぼっち生活、半引き籠り生活を継続していると、夏休みだから遊びに行こう、という、恐らくは小学校低学年までは持っていたであろう健全且つ純粋な感覚を忘失してしまうのである。


 過去の怠惰の弊害はここでもまだ、往生際悪く息をしている。


 今朝方、ふとそんなことを縁に指摘され、言われてみればそうかもしれぬと心を入れ替え、夏の忘れ物を取り戻すため、という曖昧な動機を胸に、僕は灼熱の大地へと繰り出した。


 延々と語ってきたが、つまりはノープランだった。僕はうだるような暑さの中に、財布と携帯だけをウエストポーチに詰め、日よけのキャップを目深に被り、無目的に彷徨い出した。


 頼みの綱の伏見、犬上擁するバスケ部は、夏休み最後の遠征に出ているため、本格的に目的がない。


 ――ひとまず、この辺りを流してみるか。


 縁が来てからというもの、居住地周辺の探索という、ほとんど暇潰しのためだけに行っていたイベントはめっきり開催されなくなった。新しい、それも恰好の暇潰しの手段が出来たために、無理に外出をする理由もなくなったのだ。


 僕は元々、インドア派である。余程気が向かない限り、家からは出たくない。この危うい精神性が、僕が引き籠り予備軍と呼ばれる所以である。


 勿論、一昨日の外出も、今日の無頼の放浪も、そんな汚名を返上せんがための一手でもあった――。


 出会ったばかりの頃は、どこへ行くにも何をするにも後をついて回った縁も、最近では別行動をすることが多くなっている。まだまだ人間社会について学ばせるべきことは多いが、それでも日常生活を送る分には不自由しない程度に彼女も成長してきている。


 僕としても一日中べったりされるよりは、(心配は尽きないが)ある程度自由に羽を伸ばしてくれている方が楽ということもあり、放任している――。


 さておき、まずはどのあたりから探索しようかと町内の地図を頭の中に広げてみる。


 ――最後には久々に天地神社へのお参りをするとして、昼までの数時間を如何にして潰すか。いっそのこと駅の方まで出て、本屋で文庫本を漁り、喫茶店に入ってひたすら読書に耽ってしまおうか。


 それでは夏の忘れ物を取り戻す、という目的にそぐわないかもしれないが、そもそも夏の忘れ物が何なのかも判然としていないのでそこは目を瞑っても良かろう。連日、地区センターに通い詰めるのも芸がないし、それにあそこは午前中だけを過ごす予定の場合には些か遠く、移動時間と活動時間が見合わない。コスパを考えると……。


 等々、頭の中でああでもないこうでもないしながら、あたかも深刻な悩みでもあるかのように腕を組み、虚空を見つめていると、背後から服の裾を引っ張られた。縁が忘れ物でも届けに来たのかと思ったがそうではない。


 こちらを見上げていたのは見ず知らずの少年だった。


 小学四、五年生くらいの、男子。髪の毛は短く、細く柔らかそうな毛質をしていて、無造作にセットされている。利発そうに見えるのは、凛々しい瞳が原因だろうか。十歳やそこいらにしては、態度が堂々としている。


 服装は、膝丈の短パンに、首元に切れ込みの入った無地のTシャツという、良い意味で小学生らしくもあり、かと言って見るからに不細工というわけでもない、絶妙に爽やかな出で立ちである。


 「……ん? と言うかお前、この前の……」


 救急車に運ばれた少女の兄。共に窮地を乗り越えた同志の姿がそこにはあった。


 ――どうしてここに?


 妹は無事なのか。尋ねようとしたが、それは余りにも憚られた。


 言葉を探して様々なことが頭をよぎったが、初めに思い至ったのは、彼女、彼の妹である彼女が、無事ではなかった場合のことだった。人間、特にネガティブシンキングが板にこびりついている僕のような人間の場合、とかく一番嫌な可能性が一番初めに思い浮かんでしまうものである。


 彼女はあの後、無事では済まなかったのでは? もしそうだとすれば、彼は僕に、恨み言を言いに来たのであろうか。


 先入観があるからかもしれないが、少年の顔は、どこか疲弊しているようにも見える。


 「兄ちゃん」


 ――兄ちゃん? 先日は手汗おじさん扱いだったが。


 「鏡花は、妹は助かった。ありがとう」


 「そりゃあ、良かった」


 どうやら、鏡花と言うのが、彼の妹の正式な名称であるらしい。そしてその妹、何某鏡花が一命を取り留めたことを、兄であるこの少年は報告しにきたということらしい。


 「本当に、良かったな」


 先日の少年の必死の形相を思い出して、そして今の少年の安堵の表情を見て、思わず笑みが漏れてしまった。


 嬉しさのあまり、胸が高鳴り、またぞろ頭を撫でてやろうかとも思ったが、紳士としてそこは自重した。


 「兄ちゃんのおかげだ」


 少年は素直に言った。二日前の拒否反応が嘘のようである。打って変わって、今日の彼は、素直さと健気さの権化だった。


 ありがとうが、頭を撫でることを自重したことに対するものでなかったらの話だが……。


 ――まあ、妹の命を救助されたとあっちゃあ、流石に態度を改めるか。


 だったら、暴走車から身を挺して庇った時点で態度を改めてくれても良かったではないか、という話なのだろうが、その心境の変化は分からないでもない。自分が助けられたことよりも、自分の大切な人間が助けられたことに、より深く感謝したくなるのは人情というものだ。


 「それを言うために、わざわざここまで訪ねてきたのか?」


 殊勝な心掛けである。これでまだ小学生という事実を考えれば立派とさえ言える。もし僕が彼と同じ年齢で、同じ立場に立たされたら、同じように、こうして感謝の意を伝えることが出来るだろうか。甚だ怪しいところだ。


 「当たり前だろ。おれも、鏡花も。もう助からないと思ってた。でも兄ちゃんが、助けてくれた」


 「そっか。それはどういたしまして。二人とも無事で何よりだったよ」


 この前と態度が全く違うな、などと、皮肉を垂れてやろうかとも思いかけたが、少年の真摯な態度に、僕は本心だけを述べた。大人の汚い言葉で穢してしまうには、眼前の少年はあまりにも純粋な目をしていた。


 「でも、どうやってこの場所を特定したんだ?」


 ――僕は持ち前の隠密スキルを駆使して、誰にも感知されることなく現場から逃走したはずだが。当てずっぽうでうろうろしていたわけでもないだろうし……。


 「兄ちゃん、見ない顔だったからさ。この辺で最近引っ越してきた人が住むなら、このアパートくらいのもんだ」


 「へえ。お前、賢いんだな」


 彼が町内に住む人々全員の顔を知っているわけがないという指摘や、いくら何でも、この辺りに引っ越してくるのならここだろうという考察は乱暴に過ぎるという指摘もあろう。が、しかし小学生にしてこの推理力は素直に賞賛に値する。乱暴だろうと拙速だろうと、僅かな情報を頼りに正しい方向へ推理を組み立て、何より結果としてここに辿り着いたと言うのだから、その行動力を含め、大したものだ。


 「お前じゃなくて、あらた


 「そうか。ええとー、あらたはこの近くに住んでるのか?」


 「うん。おれたちはこの町で生まれて、この町で育った」


 「妹は、鏡花、だったよな」


 「そう。隠善鏡花」


 ――いんぜん?


 「珍しい苗字だな」


 ――どう書くのだろう。


 「隠れるに善いと書いて隠善だよ。兄ちゃんはものを知らないな」


 「ぐっ」


 小学生に漢字を教わってしまった僕に、最早返す言葉は残されていなかった。


 因みに、あらたは、新太でも新でもなく、あらたと書くのだと少年はやや自慢げに説明した。


 隠善(あらた)に隠善鏡花。字面にしてみると、凄まじい堅苦しさだ。これが今目の前にいる小学生男子と、その妹の小学生女子の名前であるというのだから、全く名が体を表していない。どこかの伝統芸能の継承者だと言われても違和感のない無骨さがある。


 ――概ね苗字の所為だろうけど。


 「もしかして、良いとこのお坊ちゃん?」


 「は? んなわけねーだろ? うちは普通の家だよ。このすぐ近くのマンションに住んでる」


 「ああ。丘の上の」


 ここから三、四分のところにある、三棟の集合住宅。外観や規模からして、住んでいるのは一般的な中流家庭が主流だろうか。僕の住むアパートなどに比べれば高級住宅だが、少なくとも伝統芸能を引き継ぐエリート一家が暮らすには些か不釣り合いだ。


 ――と言うことは、あの時は帰る途中だったのか。


 住宅街、その奥の小学校方面へと続く生活道路と、市街の中央を走るバス通りが合流する交差点。その交差路を北進していたということは、小高い丘の頂上にそびえる集合住宅への帰路の最中であったということになる。


 小学生が早朝に帰宅することなどあるか、と一瞬つかえかけたが、そう言えば夏休みの小学生に特有な事情があった。朝のラジオ体操である。ここから徒歩数分の天地神社でも、八月中旬になると、小学生向けの体操イベントが開催されている。


 「一人で、来たんだよな」


 周囲に保護者らしき人物の影はない。と言うより、この炎天の下に出て活動しようなどというもの好きが、そもそも僕くらいしかいない。暑苦しい蝉の鳴き声で誤魔化されてはいるが、周囲はいつにも増して閑散とし切っている。


 「鏡はまだ病院で寝てるからな。よくなったら、あいつも連れてくる」


 「いいよ、別に。僕は一市民として当然の行いをしたに過ぎないんだから。それに、小学生に何度も頭を下げさせたとあっちゃあ、男子高校生の名折れだ」


 「いや、そうじゃなくて。お前の初めての相手はこの兄ちゃんだぞって、教えてやらなきゃ」


 「それだけは絶対に内緒にしてあげて!!」


 隠善鏡花という純粋無垢な女子小学生の淡い唇、伝説に名高いファーストキスを奪ったのは、通りすがりのもっさり系男子高校生こと伊瀬丙である。しかも実は、見ず知らずの胡乱な男子高校生の唾液を口内に流し込まれているという、弁明の余地のない事実が、その裏には隠されている。


 そんな悲惨な報告をして、一体誰が得をするというのか。いや誰も幸せにならない。一人の少女が、深く傷つき、不幸のどん底に叩き落されるだけだ。せっかく一命を取り留めたというのに、それでは余りにも不憫であろう。泣きっ面に蜂とはこのことである。


 彼の暴挙を許してはならない。彼女は未だ、清い体のままである。それだけが絶対不変の真理である。隠善鏡花という名の少女には、少なくともそう思わせておかなければならない。何よりも、彼女の未来のために。


 「お前は実の妹のメンタルをブレイクする気なのか? ただでさええらい目に遭ったんだ。そんな二次災害みたいな悲劇はひた隠しにして差し上げろよ」


 僕との粘膜接触など、二次災害以外の何ものでもない。それも一時災害を上回るレベルの大厄災だ。


 「別に気にしないと思うけどなあ。あいつ、そういうのに疎いから」


 ――最近の女子小学生はその辺の男子中学生より余程ませているとの噂を聞いたが、だとすれば彼女は昨今に珍しい初心な少女なのだろう。何だか自分の犯した罪が益々重くなっていくような心地がした。


 「とにかくだ、そのことについて妹に話すのは禁止。いや妹と言うか、全人類に対して口外禁止。ああ、分かってる。分かっているとも。ちゃんと口止め料は払うよ」


 僕はウエストポーチから財布を取り出した。


 洋々たる若者の前途は、我々年長者が何としても死守しなければならない。そのための犠牲と思えば、こんなはした金、惜しくはない。


 「いや、金はいらねーよ、兄ちゃん。おれがせびってるみたいな言い方しないでくれよ。あと、前途ある小学生に、何でも金で解決しようとする大人の姿を見せないでくれ」


 あらたと名乗る少年は、呆れ顔で言った。驚愕すべきことに、僕は小学生男子に、呆れられていた。


 「兄ちゃんが黙ってろって言うんなら、言わねーよ」


 「宜しく頼む」


 小学生相手に宜しく頼んでしまった。が、もうその辺りの事は気にしないことにした。


 「そうだ。せっかくだしうち寄ってけよ」


 何がせっかく、なのかは自分でも良く分からないが、この気温と日差しである。ごく近所だとは言え、彼はここまで炎天下を歩いてきたのだ。しっかりしているように見えても、体はまだ未成熟な子供。こまめな水分補給は重要である。今のところ特段汗をかいている様子もないが、こんなところで立ち話をさせるのも気が引けるし、正直言って僕も早く室内に戻りたい――。


 僕は我が下宿先たる二〇二号室を指さした。しかし少年、あらたは、誘いに応じる気はないようだった。


 「何か、あそこには行きたくない」


 当然の防御反応に思われた。いくら相手が恩のある人間だからと言って、ほとんど初対面の、素性も知れぬ男の部屋に、おいそれとついて行くというのは、今のご時世の子供にとってみれば言語道断であろう。のこのこついて行った先に、この世の物とも知れぬ怪物が潜んでいないとも限らない。


 少なくとも我が家には潜んでいる。或いは子供にのみ備わるという鋭敏な直感によって、彼は縁のことまでをも見抜いているのであろうか。


 いづれにせよ、この少年は親からの全うな愛と教育を受け、全うな判断能力を既に身に着けているらしい。


 「そうか。だったら、家まで送るよ。またこの前みたいなことがあってもいけないし」


 「いや。うちに帰っても、どうせ誰もいないから……」


 「誰もいないって……」


 ――ああ。


 彼の妹は病院で眠っている。彼の育った環境が一般家庭であると言うのなら、両親もそれに付き添うか、そうでなかったとしても仕事に出掛けている。


 しかし一般的な親が、いくら非常事態だからと言って、兄妹の片方を放置するだろうか。それともこの子が付き添いの退屈を持て余し、若しくは厚い感謝の念に駆られて勝手に彷徨い出てきてしまっただけなのか。そうだとすれば彼の家族が今頃心配していることだろう。


 「お前は、付き添ってやらないのか? こんなところで一人でいたら、心配をかけるだろ?」


 「大丈夫だよ。おれはしっかりしてるし、信用されてるからな」


 少年はこともなげに言った。


 「いやしっかりしてるって、思いっきり車に轢かれかけてたじゃん」


 「兄ちゃんは人生で一度も失敗したことがないのか? 人生で一度きりの失敗を責められるのか?」


 「……分かった。分かったから、そう睨むなよ」


 確かに、これだけ口が達者ならば、両親からの信頼が厚いのも頷ける。それに二日前のことは、信号を無視した運転手の方が全面的に悪い。交通ルールを厳密に遵守していた彼を責めるのは筋違いだ。


 「なあ、どうせ暇なら、僕の暇潰しに付き合わないか? 昼までは僕も手持無沙汰なんだ」


 何をして暇を潰そうというわけでもなかったが、少年をこのまま誰もいない自宅へと返すのも忍びなくて、僕は提案した。


 「暇潰しって?」


 「特に決めてるわけじゃないけど、希望があれば何だって構わないぜ?」


 「うーん。なら、まあ……」


 暫しの思案の末、少年は警戒を僅かに緩めたようだった。



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