<七>
二日続けて、案の定の寝坊である。
少女漫画やラブコメなどでは、主人公とヒロインの出会い方として、遅刻寸前の両者が曲がり角で激突するというエピソードが度々用いられている。特にヒロインの方は、往々にして、イチゴジャムを塗りたくった食パンを加えているケースが多いと聞く。
そんな馬鹿な、漫画みたいなことが実際にあるはずないと指摘する、諸姉諸兄もいるかと思う。しかしあれは経験者の立場から言わせてもらえば十分に現実味のある描写なのだ。
カレーライスを貪りながら走って登校するというのなら、それは僕としても甘口と辛口とどっちなんだよ、と自信を持ってツッコミを入れることが出来るが、パンを咥えて通学するというのは実際理に適った行動である。
斯く言う僕も、今日はパンを口に詰め込んでの通学だった。固形物のパンは走りながらでも、僕のように自転車に乗りながらでも比較的食べやすいのである。
栄養摂取を怠って午前の授業中にお腹が鳴ってしまったら、それは世の終わりを意味する。だから少々はしたないかもしれないが、僕はたまに食事をしながら登校することがある。
尤も僕の様な自転車通学者の場合、例えヒロインと激突したところで、恋に発展することは決してないのだ。どころか、裁判沙汰に発展すること請け合いである。恋愛とは事故のようなものだ、なんて下らない名言は何の言い訳にもならない。もし被害者に与えた損害が甚大なものだったら、僕には重い罰と暗い未来が待っていて、きっと耐え切れないほどの罪の意識が心身を蝕むのだろう。
朝っぱらからそんな根も葉もない持ち前のネガティブシンキングで僕は自転車を漕いでいた。
遅刻ぎりぎりの時間に目を覚ました僕は、可能な限りの迅速さで、洗顔、歯磨き、着替えを終え、最後に何の味もしない食パンを口に放り込んで自転車を駆った。
自己ベストを更新しなければ朝礼に遅れてしまう時間だ。神社脇の階段も自転車からは降りずに、激しい衝撃を主に臀部に受けながらクリアする。まだ形の残るパンをごくりと飲み込んで、加速。最大出力を以て下の大通りへと直進しようかという時、ふと何となく気になって、僕は神社の方へと目を向けた。
そしてそのまま釘付けにされる。
「……えーーーーー」
目が視線の先に釘付けにされて、驚きの声を残して自転車は進み、首が一点を見つめるために回転した。ドップラー効果を生み出すレベルの高速走行の結果として、相棒のママチャリ号が僕の指令を聞いてくれたのは石段の前を二十メートル程過ぎてからのことだ。
キィーという耳障りな摩擦音を発生させて、自転車はようやく動きを止めた。所謂緊急停止というやつである。
僕は自転車に跨ったまま、オーバーランした約二十メートルをバックした。本来ならそんなことをしている時間的余裕なんて全くないはずなのだが、戻らざるを得なかった。止むに止まれぬ事情があって引き返したのである。
「……おい、お前。何をしている」
「何って、見てわからぬのか? 人間。そんなはずはあるまい。私は今、見るだけではわからぬようなことはしておらぬ。それともお主は、他の一般的な人間と比べて察しが悪い部類に入るのかのう」
「分かった。質問を変える。お前、何でそんなことをしている。何で、石段の上に座って、何もしていないをしている。お前はプーさんなのか? それともプー太郎さんなのか? さあ、二者択一にしてやったぞ。答えるんだ」
「お主の心遣いには毎度毎度感謝の言葉もないが、残念ながらその二択には正解は含まれておらぬようじゃ。いやこの場合、解なしというのが正解ということになるのかのう」
「誤魔化すな。こんな時間にこんなところで、お前、学校はどうしたんだよ」
仮にこの女の通学先が近場の公立中学校だったとしても、この時間はもう登校していなければいけない時間だ。ここから一番近い市立本城中学は、この場所から歩いて十五分ほどの距離にある。
つまり、ここから自転車で三十分の距離にある高校へ通っている僕は、この女以上のピンチという意味だ。
「学校のう。私とて一度くらいは通ってみたいものじゃ」
「何言ってる。日本には義務教育という制度があるんだよ」
「曰く、義務とは権利を有するものに付与されるものじゃ」
「何だよそれ。誰曰くだよ」
「無論、我曰くじゃ」
「……」
正直、もう止めようかとも思う。一人称に曰くを付けてしまうような、曰く付きの女に構ってやる義務なんて、僕には付与されていないのだ。それこそ、女曰く、義務とは権利を有する者に付与されるのだったら、僕はこの女に何の権利も与えられていないのだから、義務を果たす必要もまたない。
「……お前、昨日からずっとここに居たのか?」
丸きり昨日と同じ姿を、女はしている。同じ服を着て、同じサンダルを履いている。髪の毛のはねた位置まで、同じだ。昨日と同じ、深紅地に金の刺繍が施されたローブ、僕が与えてやったパーカー、シャツ、ジャージの短パン、サンダル、何もかもが昨日と一緒で、昨日と変わっていない。
「一晩中、そこで座ってたのか」
「そうじゃ」
これまで僕のどんな問にも、屁理屈や御託や皮肉で応答し続けてきた彼女が、こんな短く、面白みのない返答をしたのは初めてのことだった。こんな面白くない会話を彼女としたのは初めてのことだった。
「何でだよ。ここがお前の家なんだろ? どうして帰らなかった」
「確かにここが私の生家だとは言ったが、ここが私の帰るべき場所だとは言っておらんかったがのう」
「何だそれ。意味わかんねーよ。ちゃんと分かるように言え。じゃあお前の帰るべき場所って、一体どこにあるんだ?」
「そんなものはない。……どこにもの」
女は言う。平坦に淡々と堂々と、現実を、客観的なただの事実だけを述べる。何かを否定するように。何かに否定されたように。
感情の籠らない口振りは、寧ろ悲痛さを感じさせた。
「……っはぁー。分かった。じゃあ分かった。だったら……これをお前に預ける」
昨日初めて会って少し話しただけの女が、そんなことを言うのが多分、嫌だったのだろう。二度と関わるまいなどと誓っていたはずだったのに、彼女の言いたいことが分かる気がして、嫌な気がしたのだ。
だから僕は、行動を起こした。
「これは、……鍵じゃのう」
ポケットから取り出したそれは
「ああ、僕の部屋の鍵だ」
部屋の鍵。僕の城の鍵。命と同格に大切な、守りの要。僕はそれを名前も知らない女子中学生に預ける。
「昨日の部屋の場所、覚えてるよな?」
「そりゃ覚えておるが、それがどうしたと言うのじゃ?」
「察しが悪いな、人外。いいか? 僕は今から学校に行かなくちゃならない」
「うむ、その様子じゃのう。それも急ぎの様子じゃ」
「ああ。だからその間、僕はお前の相手をすることができない」
「うむ、当然じゃ」
「だから、僕が学校に行ってる間、お前は僕の部屋で待ってろ」
何か計画があるわけではない。神社の石段の上で待たせるより、僕の部屋で待ってもらった方が安全というだけのことだ。この女のことである。またぞろ道行く人に誰彼構わず声を掛けて、今度こそ危険な人物に巡り合ってしまわないとも限らない。
何より、彼女は長く寒い一夜をこの場所で過ごしたのだ。初期装備を考えれば、昨日の晩から何も食べていないだろう。僕の家には非常用の食べ物も備蓄してあるし、シャワーだってある。ひとまずの措置として、我が家で体を温めてもらう、というのが僕の考え得る最良の対処法だった。
「うむぅ? 何故そうなる。理論が滅茶苦茶じゃ。そもそもお主に私の相手をする理由なぞ、ないであろう? お主が私に構う理由はないし、私もそのようなこと頼んでおらぬ。それではお主に何の得もないではないか」
確かに、理論は滅茶苦茶だろう。無理もない。僕は考えていないのだから。
――だって、そうだろう。よく考えてしまえば、僕の今の行動が異常行動だということがばれてしまうじゃないか。他ならぬ僕に気付かれてしまうじゃないか。
「僕にとっても得はある」
「ほう、人間。私に構うことで、お主に一体どんな得があると言うのじゃ? まさか、得ではなく、徳を積むことが出来る、などと、歯痒いことを言ってくれるわけでもあるまいの?」
「……お前の話は煩悩を積み上げる一方だからそんなことは言わねえよ」
「では何だと言うのじゃ、人間」
何かと問われれば、答えは決まっている。
「……僕はお前と話すのが楽しい。お前と食べるのが楽しい。その方が飯も美味い。泣く程美味い。僕にとってはそれだけでお得だ。お徳用と言って良い」
異常行動ついでの、異常発言だ。決して嘘ではないけれど、僕からすれば暴言にも等しい。他人を傷つける類のものではなく、言った本人を痛く傷付けるそういう類の暴言だ。
何で僕がこんな恥ずかしい本音を、この女のために漏らさなければならないのだろうか。甚だ納得がいかない。
しかし白状すれば、昨日の夕食が特別美味しく感じられた理由も、つい今しがたまで食べていた食パンに味がしなかった理由も、僕はすっかり分かってしまっているのだ。それに気付かないほど、僕は朴念仁じゃない。
納得はいかないが、理解は出来る。
「お主、それでは昨日と言ってることがまるで違うではないか?」
彼女の言う通り、僕は昨日とは真逆のことを言っている。彼女の次を求める声を、僕は昨日すげなく断った。今までの作法に則って、困った女子中学生を拒絶した。昨日の時点ではそれが最も自然な成り行きだったように思う。
彼女の言っていることは何もかもが妄言で、帰るべき家も頼るべき家族もちゃんと居るものと思っていた。そのような突飛な事情を持った人間が身近にいるはずはないと、高を括っていた。
だがこうなっては仕方がない。僕でなくとも、家出少女を警察に連れて行くまで保護しておこうというのは当たり前の行いだ。それが少しでも関わりを持ってしまった相手ならば尚の事である。
社会の一員として、果たさなければならない当然の義務として、僕はこの女に手を差し伸べるのだ。言わば社会的責任というやつである。CSRというやつだ。
――いや別に僕は企業じゃないんだけど。
「お前がこんな馬鹿げた状況にあるなんて知らなかったからな。家出中ならそう言えよ。女子中学生が一人で野宿とか、まさかお前本物の馬鹿なのか? 神待ちなのか?」
ああいうのはこんな都会の田舎みたいな土地ではなく、東京のどこかの駅前だかでやるものだ。神社の前で神待ちって、まさか本物の神を待っているわけでもないだろうに。
それとも本当に待っていたのだろうか。この女に限っては有り得なくもなさそうな話である。
「おい、お主。責任を私に押し付けるでない。私は昨日ちゃんと申したではないか。私には帰るべき場所がないと、言ったはずじゃあ。あの団欒の時を過ごしたせせこましい部屋こそが、私の居たいと思う場所じゃと」
「そんなこと、はいそうですか、って信じられるわけないだろ。お前が襲来してくるまで、この町は平和だったんだぞ? 家出少女がそんじょそこらに居るなんて思わねーよ、普通は。ただでさえお前の行動は常軌を逸してるんだから、困ってるなら困ってるって誠心誠意三つ指つけて事情を説明しろってんだ。困り顔の一つでも見せて、情けなく縋れよ」
困っているのなら、困っていると言わなければ、明確な救難信号を出してくれなければ、僕は正義のヒーローでもないのだから、分からないだろ。
「おい、人間。私は言ったぞ。困った時はお互いさまじゃと。そしたらお主、何と言ったと思う。ええ? お主、何と言ったと思う? 何と言ったか答えてみよ!」
「さあな。それは余り覚えていないけど、人間の本質を見事に言い当てた、言い得て妙な、軽妙な受け答えだったことだけは覚えている」
確か、人間苦難の最中に在る時は、周囲の人間に構っている余裕などないという世の真理を教えてやったはずだ。
「困った時はお互い邪魔、などと言いおったのじゃ! お主は。人間の本質はそんな醜いものではないわい。これじゃから全く。これじゃから全く!」
「ほう。じゃあ人間の本質とは一体何だと言うんだ、家出少女。お前如き下等生物が、人間の本質などという哲学めいた問に答えられるとは、僕には到底思えないんだが」
「ふんっ。そんな問いは簡単じゃ。つまり人間というのは、如何なる苦境にあっても困窮に喘いでいても、互いに支え合って、身を寄せ合って生きる、それは素晴らしい生き物なのじゃ!」
まさに屈託のないというのが正しいような馬鹿みたいな顔でそんなことを口にする彼女に、僕は引いた。ドン引いた。昨日からずっと引いていたが、更に引いた。精神的にも物理的にも退いた。距離にして二メートルは後退した。
「はあぁ? 何だその空想上の生物は。エルフとかペガサスとか麒麟とかビッグフットさんとかの類だろ、それ。実在の人物、団体等とは一切関係ありません」
しかしまさかこの女からそんな台詞が飛び出すとは思わなんだ。ではお前はどうなんだと、よすがもなく一人で居たお前は、誰に支えられて誰と身を寄せ合っているんだと、喉まで出かかったが、そこは繊細な問題が潜んでいるかもしれないので控える。
事情を聴くにしても、それは今ではないだろう。物事には潮時というものがある。
「これ。人間を馬鹿にするでない。お主は、人の大切にしているものを馬鹿にするような外道なのか?」
「外道って、それは流石に言い過ぎじゃないか。人間には僕も含まれてるんだから、自虐みたいなもんだろ。それとも何か? 僕は自虐をもしちゃいけないのか? もしそうだとしたら、僕のアイデンティティが消滅しそうなんだけど」
「そんな、腐ったゴミみたいなもので自己形成をするのはやめい。少なくとも私の前ではのう」
意味を分かって言っているのか、それじゃあまるで僕自身が腐ったゴミみたいだ。
「くそう、僕のメインアームが封じられた。……って、こんな下らん井戸端会議を繰り広げてる場合じゃないんだった」
朝礼はもう諦めるにしても、一時限目には何としても間に合わなければならない。授業中の教室に遅れて現れるなんて、そんな漫画の主人公みたいな目立つ真似は僕には出来ない。
朝礼の開始から授業開始まで二十分。それだけあればまだ十分に間に合う。急がねば。
「もう行くからお前は家で大人しくしてろよな。後で厳正な処分を喰らわせてやるから、そのつもりでいろ。後、お前風呂に入ってないだろうから、シャワーも使っていいからな。お湯張って、肩まで浸かって百数えるんだぞ。それから、冷蔵庫に沢庵と梅干がある。ご飯は釜で保温してあるから、適当に食べろ。鍵は閉めること、僕以外が呼んでも返事はしないこと。もしご近所さんに遭遇したらちゃんと挨拶して、親戚のものですと誤魔化すこと。」
何だかお母さんになった気分である。
「良いな? 大人しくだからな? 僕が言った以外のものは一切触るなよ?」
「テレビは?」
「よし」
「うむ、分かった」
「何か感想は?」
「何と言うか、至れり尽くせりじゃの」
VIP待遇も良い所だった。
まあそれくらいのことは良い。身体を冷やして体調を崩されてもかえって厄介だし、朝に食べられなかったご飯はどうせ余るだろうし、テレビでも見ていれば暇を持て余して他のものに目移りする可能性も減るだろう。
「くれぐれも、くれぐれもだぞ? 分かるよな?」
「うむ、心得ておる。お主が嫌がるようなことを、私はせぬ。ここに誓おう」
「――なら良いけど」
いや、本当は何も良くはない。何せ素性の分からない不審者を、よりにもよって僕の居ない僕の部屋に招くと言うのだから心配も並々ならない。
全く以って度し難い。何故僕はこんな尋常じゃないことをしているのだろうと、油断すると考えてしまう。
しかし一度決めたことだ。死なばもろとも、毒を食らわば皿まで、ええいままよ、と僕は意を決して、そして自転車を漕ぎだす。
神社前からなだらかに下る坂道は、次第に傾斜を増して加速度運動を助長する。後ろ髪を鷲掴みにされたような気分だが、重力には及ばないようだった。
「おーい。お主ぃーー!! ありがとのぅー!」
あっと言う間に下の道へと到達した僕に、手を振る女は大声で叫ぶ。
そんな人目を憚らない真っ正直な女の言葉と笑顔に、もしかすると、僕の不安はほんの少しだけ和らいだのかもしれない。