<ほ>
「報告があります」
伏見を自宅近くまで送り届け、自宅に帰ってすぐのことである。僕は改まってそう切り出した。勿論正座である。
今日の信じ難い出来事を是非とも縁に報告しなければならなかった。
「何じゃ? 無駄に良い声色で」
読みかけの漫画を閉じ、縁は座卓を挟んで正面に胡坐をかいた。僕はふうっと息を吸い、あらん限りの真剣さを以って言った。
「……彼女が、出来ました」
「なんじゃい」
縁は呆気なく寝ころび、読書を再開した。
「なんじゃいとは何だい! 僕に生まれて初めて彼女が出来たというのに、お前はこの喜びを共有してくれないのかよ。寿いではくれないのかよお!」
「相手はどうせあの、狐の娘であろう? この前遊びにきた」
「な、何故それを!? お前は名探偵だったのか?」
「お主も探偵の立場になって考えてみよ。こんな謎は、ベーカー街の下宿から一歩たりとも出なくとも、いやもう、椅子に深く腰掛けたまま、うたた寝をしながらでも解けるじゃろ」
「そんな離れ業、流石のホームズでも無理だ」
「ホームズどころかワトスン君でも余裕じゃわい」
――馬鹿な!? あの元軍医は、ただの常識人だったはずだ。
「お前は何を根拠にそんな推理をしたと言うんだ。僕はまだ、彼女が出来たとしか言っていなかったのに」
「いや、じゃってお主の周り、ほとんど女子おらんじゃろ」
――成程。
「消去法なんだな?」
「ただの一択問題じゃ。消去するほど、候補がおらん」
空しい解決編である。
盛大に驚かせてやろうと目論んでいた僕の報告会は、こうしてあえなく終了した――。
「ところでお前、今日はどうしたんだよ。ずっと待ってたのに」
結局、せっかく用意した弁当も食べそびれてしまった。
――暑かったし、もうやめといた方が良いだろうなあ。勿体ない。
「すまんすまん。行き掛けにちょっと、犬的なものと戯れておっての。すっかり失念しておったと言うか、心憎い気配りをしてやったと言うか、そんな感じじゃ」
「何だよそれ。犬的なものって、そりゃ犬でしかないだろ」
この辺りに狸や狐がいるわけあるまいし。
「お前って、動物とか好きな方だったっけ?」
「私は無類の人間好きじゃが?」
――ああ、そうだった。こいつにとっては人間も動物と同じなんだった。ほんと、感覚が人間離れしてるよ。
「まあ何じゃ。私としても、お主に連れ合いが出来たということは喜ばしい限りなのじゃがな」
「そうは全く見えないんだが? 焼き餅を焼く、くらいの可愛げはないのか? お前には」
「ふんっ。食えん餅を焼いたところで仕方がないからの。それに、あからさまな自慢顔じゃったから、祝福する気も失せたのじゃ。そんなことより腹が減ったわい。今日の晩御飯は何なのじゃ?」
「そんなことって……。もう良いよ。お前が祝ってくれないなら、ひたすら一人でにやにやしてるから。日がな一日にやついてやる。覚悟しておけよ」
――虚しくなるのが目に見えてる気もするけど……。
そうは言っても、腹が減ったのは僕とて同じである。縁と比べれば僕の卑しさなんてあるかないかのものだが、朝食を取ったきり何も食べていない。空腹度は限界に迫ってきている。
今日は早めの夕食にしよう――。
「今日は赤飯かの?」
夕食の準備を手伝いながら、縁は出し抜けに言った。
「何だ? 今になって、やっぱり僕をお祝いしたくなったのか?」
「いや。単純にお赤飯食べたい」
「……」
――何故か無性に赤飯を食べたくなることってあるけど!
しかし残念ながら今日のメニューは赤飯ではない。
僕の手際と、処理している食材を見ていれば、それくらいのこと分かりそうなものなのに……。
午後五時五十分。丁度夕飯の支度が整った頃、インターホンが鳴った。
――はて、誰だろうか。来客の予定はなかったはずだが。
配膳を縁に任せて僕は玄関へ向かった。こちらは腹が減っているというのに、間の悪い客である。
「どこぞの勇者じゃないだろうな」
などと一人で冗談を呟いてみたが、もし本当にそうだとしたら冗談ではない。せっかく渾身の夕食の準備が出来たというのに、せっかく初めての彼女が出来たというのに、ここで再びあの男に殺されるようなことになってしまったら、とんだ喜劇だ。笑えない冗談である。
――そう言えば、似たようなシチュエーションだったよな。
僕は慎重に慎重を期して、音も立てずそっとドアの覗き窓を覗いた――。
「……なんだ」
――お前か。
ふっと肩の力が抜けた。玄関前で待ち呆けていたのは、奇抜な装束を身に纏った少女だった。黒いローブに、つば広の三角帽。左手に持つ、身の丈ほどもある重厚な木製杖の先端には赤黒い宝石が嵌め込まれている。
最近ではゴミ箱から登場することはめっきり少なくなって、こうして全うに玄関から訪ねて来ることが多くなった。だったらワームホールなどというSFは可及的速やかに我が家から撤去してくれと頼んでみたのだが、緊急用のラインは残しておきたい、とのことで、相変わらず我が家のゴミ箱と魔女の根城は直結したままになっているらしい――。
僕はドアを開いてやった。
「とりっく・オア・とりーとめんとー?」
開門一番、魔女はおかしな調子で言った。右手には何故か、空の茶碗と使い古しの割り箸が握られている。凄まじい生活臭だった。
「じゃあ、トリートメントの方で」
髪のお手入れとかをしてくれるのだろうか?
「残念。トリートメントの方は、とっとと施しやがれい、の意味でした」
「トリートメントにそんな訳はない」
――残念なのはお前だよ。
あまりにも残念過ぎたので、ドアを閉めようかとも思った。しかしその気配を察したのか、魔女が矢継ぎ早に言葉を放ち、それを阻害する。
「待ちたまえよ、お兄さん。そうせかせかしなさんな。何を生き急いでいるんだい、君って奴は。どうせ長い人生だろう? 何でもかんでも簡単に見切りをつけてしまうのは、君の悪い癖だ。決断を急くなよ。判断を下すには時期尚早だぜ。まずは状況を理解することから始めたらどうかな」
――状況、ね。
「お前こそ状況が見えてないんじゃないのか? ハロウィーンにはまだ二か月以上早いぞ、魔女コスの人。それと、仮装した子供が本来持つべきは、空のご飯茶碗じゃなくて、ファンシーなバスケットとかだ」
僕は呆れた。
「と言うか、たとえ今日がハロウィンだったとしても、お前はもう人様の家に菓子をせびりに来て良い年齢じゃないだろ。ここが日本じゃなかったら、通報じゃ済まないぞ?」
「ここが日本で良かったよ。訪ねた先が心優しきお兄さんの家で助かった。さあ早く、あげておくれ」
そそくさと不法侵入を繰り出そうとする魔女。その行く手を体で塞いで言う。
「おいちょっと待て。それだけの賛辞で、僕がお前の侵入を許すとでも? 確かに、お前なら、いつ飯を食いに来てもらっても構わないとは言ったけど、いくら何でもタイミングが良すぎる」
彼女が我が家の戸を叩いたのは、夕食の準備が整った、まさにその時だった。
「お前まさか、うちに盗聴器でも仕掛けてるんじゃないだろうなあ?」
「そそそそそそそそ、そんなわけないじゃないか」
いつもの張り付いたような無表情。口調も普段と変わらず極端にフラットである。その仕草、所作、顔色から感情を読み解くことは出来ない。
ただ、
「そが八つ多い」
前代未聞の『そ』の多さだった。
「なに。軽いジョークさ。ボクだってたまには冗談を言いたくなることもある」
「じゃあその空の茶碗も冗談なんだな」
「これは本気」
――本気と書いて『まじ』と読ませやがった。
こんな残念な女が、嘗て僕と縁を追い詰め、凶悪な竜の生命をも脅かした偉大なる魔女だなんて、認め難い事実だった。
「……今日はカレーなんだ」
二日目のことも見越して、我が家で一番大きな鍋一杯に作ってしまった。いやもっと言えば、三日目の昼のカレーうどんのことまで念頭に置いて作ってあるので、当然人様に恵んでやれるだけの余剰は十分にある。
「ほう。夏にカレーとは分かっているね、お兄さん。成程。つまり、二日分の食料確保というわけか」
「明日も来るつもりなのか……」
――まあ、毎度のことながらそれくらいの恩はあるんだけど……。
魔女には恩がある。それも、一生をかけてでも返済しきれぬ程の大恩である。彼女が窮地に陥ったというのなら、僕はどんな方法を使ってでもそこに駆け付け、どんな手段になろうとも彼女に味方する。たとえそれを彼女が望んでいなくとも、彼女がそれを拒絶しても、だ。
勿論、何やかやと文句は言ってみたが、一杯のカレーをご馳走するくらいのことなど、全くやぶさかではない。ただ少しタイミングが良すぎたので、挨拶がてらに訝しんでみただけなのである。
僕は魔女を部屋に通した――。
座卓の南側に腰を落ち着けた魔女、テレビの前に陣取る縁、ベッドと卓の隙間に挟まる僕。魔女と竜と一般人。一人を除いて錚錚たるメンバーが集まった三者会談は和やかな空気のもと開始された。
この季節には不釣り合いな、僅かに青色の入った外套を脇に畳んで、まずは魔女が切り出した。
暑そうな外套とバランスを取っているのか、中はノースリーブの白いシャツをタイトに着こなしている。単にお気に入りなのか、服を買う金が惜しいのかは分からないが、これまでにも幾度か見たことのある衣装だった。
「すまないね。今日は少し疲れたんだ。東奔西走させられて、疲労困憊という感じだったんだよ。魔力も体力もからっからだ。パンの耳、百グラムでは流石に回復しきれない」
魔女の悲しい食糧事情が垣間見えてしまった。服装の問題は、どうやら後者の説が有力らしい。
「またこの辺で何かあったのか?」
魔女が東奔西走し、疲労困憊してしまうだけの、パンの耳では到底贖いきれない尋常ではない事態が。
「いや、何てことはない。少し野良犬的なものとじゃれていただけだ。ちょっと御板が過ぎたもんだから、お灸を据えてやったまでさ」
「野良犬的なものって、じゃれる相手としては危険過ぎるだろう」
――ん? そう言えば、さっきも縁が似たようなことを言っていた気が……。
「お前も動物とか好きなのか?」
「どうだろうね。まあ嫌いということはない。あちらはボクのことを寄って集って、と言うか、寄らず集らずとことん毛嫌いするけれど、ボクの方は別に嫌っちゃいない」
「毛嫌いする? 動物がお前を?」
「そういう体質なんだ。生まれつき。猫の子一匹寄らない。魔女という立場からしてみればこれは中々厄介な性質でね。使い魔の一つも作れない」
「使い魔、ね。確かに魔女とか魔法使いと言えば、使い魔もその一つだよな。黒猫とか、梟とか、烏とか、蛇とか、後は鼠なんかも」
この数か月間、散々あちら側に首を突っ込んできた僕である。ファンタジーへの耐性がないと言っても、この程度の軽い雑談なら対応できるようになっている。
「この国風に言うと、式が近いのかな」
――式……。式神のこと、だよな。よしよし、僕も昔のままの僕ではない。
「細かい話をすれば全くの別物なんだろうけど、細かい話をしてもつまらない。要するに、使い走りさ。それも絶対服従の。いればさぞ便利だろう」
「ふーん。年の近い弟、みたいなもんか」
「お主の年の近い弟に対するイメージはどうなっておるのじゃ」
黙々とカレーを貪り食い、三杯目を完食した縁がようやく匙を止め、口を挟んだ。
「いや、噂を聞いたことがあって。弟は兄に下僕のように扱われるとか」
仲の良い兄弟とは幻想の賜物である。そんな噂を耳にしたことがある。
「この国だと、心霊の類、所謂荒魂だとか鬼だとか呼ばれてる奴らを、そのまま使役することの方が多いみたいだね」
――カレーの匂いで誤魔化されてるけど、食卓が益々胡散臭くなってきたな。動物が好きか嫌いか、というほのぼのとした話題を提供したつもりだったのに、やっぱり相手は竜と魔女だもんな。当然と言えば当然か。
「ボクもこちらの方法を覚えてみようかな。郷に入っては郷に従えとも言うし、何しろ無理矢理従わせるなら、相性も何もないだろう」
そう言うと、魔女は一点黙々と、どことなく優雅な所作で、それでも僕に倍するスピードでカレーを食べ進めた。余程の空腹であったらしい。うまいうまいと頬をとろけさせて、恍惚の表情を浮かべている縁とは対照的に、動作に一切の無駄がない。エネルギーを吸収することに全精力を傾けているかのようである。
精魂込めて、ぐつぐつ煮込んだ甲斐があったというものだった。