ある愛の計測<葉>
このお話は『別章 ある少女の希求´』より前のお話です。
朝方から昼間の一番暑い時間帯を、冷房の効いた地区センターで読書をしたりして過ごすというのが、去年に引き続き、僕の夏休みの日課となっている。
昨年は冷房代の節約のための行事であった。しかし、今年は我が家に超性能空調管理システムこと縁ちゃんが配備されたことから、その目的は僕の出不精の是正と、ダメ人間化防止へとシフトしている。
ついで、では全くないが、と言うより寧ろこちらの方が、僕がわざわざ十分も自転車を漕いで隣駅の地区センターに連日通っている主な理由なのである。
今年は伏見がいる。
夏休みに入る少し前、僕と伏見空はある約束をした。バスケットボール部の練習が午前中で終わる日の午後には、お互いの家の丁度中間に位置する地区センターに集まって特訓を行う、という約束を交わしたのである。
この場合の特訓とは、伏見にとっては勿論バスケのことであり、そして僕にとっては以外なことに数学の勉強ということになる。
不肖僕めが僭越ながら、伏見にバスケの技術、人を騙しタイミングを外す、所謂、ずるいスキルを伝授し、その代りとして伏見が僕に数学を教える、という内容の条約を僕たちは締結した。
学業成績の芳しくない伏見。特に国語は壊滅的である、とのことだったが、反対に、なのか数学に関しては僕よりも成績が良い。惜しげも憚りも恥ずかしげもなく赤裸々に開示された彼女の通知表の評価欄、数学Ⅱ、Bの項目には共に、『9』という数字が印字されていた。犬上にこそ及ばないが、僕の7というグレードに比べれば、断然好成績である。
因みに、これは全くの余談であるが、図らずも目に入ってしまったので言っておくと、伏見の国語の成績は『3』である。言わずもがな、十段階評価の下から三番目、という意味だ。
――堂々と見せられたけど、普通に留年ぎりぎりなんだよなあ。
我が校では、通年の評定(こちらは五段階評価で表される)が2を下回ると留年となる。教員陣の温情もあってか、流石に十段階評価で3でも、評定が2になることはほとんどないそうだが、どうやら伏見空の『壊滅的』は本当に、切実な意味での、壊滅的であったようだった――。
さておき、僕たちが通っている地区センターのバスケットボールコートは、三十分交代の予約制である。
この季節、つまり夏休みにもなると近所の子供たちが沢山集まってきて、限られた枠を獲得するための壮絶な争奪戦になるケースがかなり多い。じゃんけんで勝った個人若しくは団体が、優先的にコートを使用できる、というルールがこの場所では公式に適用されているのだ。
伏見は毎回、そのじゃんけん大会に参加している。小学生や中学生の群団に交じって、凄まじい殺気を放ってじゃんけんをする伏見の姿からは、狂気ともとれる凄味が感じられる。
――どんだけバスケしたいんだよ。どんだけ勉強したくないんだよ。
毎度毎度、僕はそんな風な感想を心の中で呟くのである。
……いや、遠慮せずに言えば、僕は毎回、ちょっとだけ引いているのである。
さて、僕たちのこの活動を、デート、などと見做す迂闊な輩もいることだろう。女子高生と二人きりで、運動をしたり勉強をしたりするなんて、羨ましい話じゃないか、と僕を非難し、或いは嫉妬に燃える人間もいるかもしれない。結局お前もそちら側の人間か、などと裏切られたように感じる諸姉諸兄もいるはずだ。
しかし安心してほしい。僕はあなたたちを裏切ってはいない。これはそんな、人に羨まれるような甘い行事では決してないのである。甘いどころか、青春の甘酸っぱさも皆無なのである。
いや、いっそもう激辛なのだ。辛くて辛い。女子と触れ合うことの出来る喜びなどを噛み締めていられる余裕は、全くと言って良いほどない。
伏見空はバスケットボール競技に対して誰よりも誠実で、誇張なしに命を懸けている少女である。その徹底した姿勢は卓絶していて、どこまでも真剣で、常軌を逸脱している。
バスケをしている時の伏見は、はっきり言って怖いのだ。近寄り難いとさえ言える。相手をするこちらも、ふしだらな気持ちや、すけべな感情が顔を覗かせる余地など微塵もない。こちらが少しでもふざけたり手を抜いたりしようものなら、あの鋭い眼差しで、無言の警告を発するのである。自らの専門競技に於いて、彼女は自らに最も厳しく、また僕にも同じだけ厳しい。
勿論、僕はその熱心さを尊いと思うし、そんな彼女のことが友人として大好きなのだが、そしてそういう彼女の練習に付き合えることはこの上ない幸福だとも感じているのだが、だから、彼女が本気でバスケットボールを愛しているからこそ、僕たちの活動に、高校生らしい所謂恋愛の色が添えられることはあり得ないのだ。
伏見空の全精力は、今現在バスケに傾けられている――。
だったら、勉強会の方はどうなんだ、と残る可能性を疑ってしまうのが人情というものである。運動の方は熱心に、真剣に取り組んでいるのだとしても、コートが空くのを待つ時間に赦し難い裏切り行為が発生しているのではないのか、と勘繰ってしまうのも無理はない。
しかしこちらも大丈夫。僕は女子高生との逢瀬を楽しんでなどいない。
楽しんでなどいられない――。
僕がバスケを教え、伏見が数学を教えるという条約は、しかし二回目以降になるとその内容を微妙に変えた。僕が数学の問題を解いている間手持無沙汰であるから、その間に自分は国語、現代文の勉強をすると、彼女が言いだしたのである。
これは、僕が分からないところを伏見に聞く、というスタイルを採用したことがそもそもの原因であるからして、僕としても一向に構わないところだったのだが、ここで問題が発生した。
前述した通り、伏見の現代文の読解能力は壊滅的なのである。殊小説の読解力に於いて、彼女はまるで話にならない。
漢字の読み書きは、まあそれなりなのだが、登場人物の心情を読み解くような問題には手も足も出ないのである。どうしてそんなことになったのか、こちらが頭を抱えたくなるような解答ばかりを、彼女はする。
結果として、互いに自らの強みを教示し合うはずだった条約は、僕が一方的に、つまりバスケットボールのスキルも、また現代文の解き方も、僕が一方的に、(特に現代文に関しては相当悩ましく)教えて差し上げるという内容に変わってしまった。
「うーん。分からん。全く以て分からない」
腕を組んだ伏見は、さも難しいと言う風に、眉間にしわを寄せて唸った。
「今度は何が分からないんだ?」
「ああ。分からないんだ。どうしても分からない。――どうしてクラムボンは笑っていたのだろう。いや、そもそもクラムボンとは何者なのだろう? 分からない。分からない」
「それは誰にも分からねえよ! 何で、小学六年生の教科書で紹介される題材について、現役女子高生であるところのお前が真剣に悩んでるんだよ」
――いや、確かにあの話は小学生には奥が深すぎるとは思うけど!
「お前、バスケへの取り組みとは偉い違いだな」
バスケにかける情熱の百分の一でも、国語の勉強に使ってくれたなら、いくらかまともになるだろうに。
「だって、全然意味が分からないんだもん」
「だもん、って……。お前って、そんなことを言うキャラだったっけ?」
「なに。私のキャラ崩壊は今に始まったことではない」
「……」
伏見のキャラ崩壊は、具体的に言えば夏休みに入る直前くらいに始まったことだ。
「自分のキャラクターが崩壊しているという自覚はあるんだな」
――救い難い。
「まあ、自分でもいまいち安定感に欠けるとは思っている。オフの時間に、いや、どんな時間であろうと、こうして友達と時間を過ごすというのは、私にとっては初めての事だからな。未だに慣れない」
伏見の友達経験の少なさには、心底驚かされたものである。
「僕にだって中学の頃までは一応友達くらいいたのに」
伏見はあろうことか、僕が人生で初めて出来た友達だと言うのである。
その事実を知らされるまで、僕は自分こそが『独りぼっち』の第一人者なのだと思い上がっていたが、その座は彼女にこそ相応しいらしい。世の中、上には上が……、いや、下には下がいるものだ。
「私の中の友達の基準が変わったのだ。お前と出会ったことによって、言葉の定義が変わった」
新しい定義では、友達とは自分の命を懸けられる相手、のことを指して言うそうである。僕はそれを、決して大袈裟とは思わない。
「と言っても、これはお前の受け売りなのだがな」
「僕がそんなこと言ったか?」
照れ臭いので話を流した。
――全く、シリアスパートの話を持ち出してくんなっての。そっちのパートの僕は、実は別人なんだから……。
何にせよ、終わった話だ。彼女との不思議な物語は既に語られたことである――。
「で、どこが分からないって?」
伏見とて、何も本気でクラムボンの正体について思い悩んでいたわけではあるまい。もしそうなのだとしたら、僕は今後、現代文について彼女の面倒を見ることを永久に放棄することになる。
「何が分からないって、そりゃあまあ、全部なのだが」
「またかよ……」
彼女との勉強会が、僕にとって幸福なだけのものではないのは、伏見空の現代文読解の学力が、想像を絶して、教えている方が、頭が痛くなるくらいに低いからなのである。
人に勉強を教えるというだけのことで、絶望を感じることになるなんて、僕は夢にも思わなかった。母国語で書かれているのだから、理解できないなんてことはあり得ないだろう、などと甘い見積もりを僕はしていたのである。
だから僕は初め、伏見が分からないわけが分からなかったし、だから何をどう教えれば良いのかも分からなかった。
「主人公の母親の気持ちなんて、分かるわけないじゃないか。作者でもないのに」
「いや、現代文の問題って、大体そういうもんだから……」
彼女の言うことにも一理はある。
多くの場合、というよりほぼ全ての場合、出題者と本文の著者は別であり、出題者が著者の意図を完全に理解しているとは限らない。著者本人でさえ、登場人物の心情を正確に把握しているかは怪しいところなのである。それを問い、正解などという酷く不確かなものを導き出せ、などというのは確かに無理のある話である。
実際、ある小説家が自分の著作を題材にした問題に挑んだものの、全然解けなかった、なんて皮肉な事例もあるらしいのだ。
「しかしなあ、その辺は割り切るしかないだろ。そういうものだと思って、淡々と答えていくしかないんだよ。大体こういう問題は選択肢が用意されてるんだから、本文と同じことが書いてある選択肢を選べば良いだけだ」
――まあ、言ったところで無意味なことは、既に分かっている。同じ台詞を、僕はもう何度も繰り返して言っているのである。
どんな助言をしたところで、どんな方法を教えたところで完全に苦手を克服することはできない。勉学に於ける苦手というものは、得てしてそんなものなのだろう。
「じゃあもう、消去法で絞れよ。二つ以上残ったら鉛筆を転がせ」
投げやりと言うか、投げ鉛筆な方法だが、まあ、二つまで絞れれば、今回の場合、六つある選択肢を消去法で二つにまで減らせれば、後は確率五十パーセントで当たりを引くことになる。百点満点で四分の一にも満たない点数を獲得する伏見にすれば、五十点も取れれば上出来も上出来。何も不得意科目を得意科目にまで高める必要はない。
――高校生にもなって、馬鹿みたいだけど……。うちの学校で鉛筆転がしてる奴なんて見たことないけど……。
仕方がない。伏見の苦手のレベルはその域に達しているのだ。
「分かった。じゃあこの六角鉛筆に一から六までの数字を書いて――」
「偶数と奇数で分けるんだな」
「いや、一が出たら一を選び、二が出れば二を選ぶ。三が出れば三を選ぶし、……以下略だ」
「消去しろよ! それじゃあ確率六分の一のまんまだよ! お前、そんなんでよく二十点も取れたなあ!」
――本当によく進級出来たよ!
こいつは一度、米村国語教諭の温情に対して深く感謝をするべきだ。
「だって、分からないじゃないか! お母さんが、息子に対して恋愛感情を抱いていないなんて、言いきれないだろう!?」
「それはどう考えても、本文を読むまでもなく一番初めに除外して良い選択肢だよ!」
――どんな設問なんだよ。本当にあんのか? そんな選択肢。
「愛の形は自由だろう」
「愛を語るな。その選択肢を外せないお前だけには愛を語る資格はない。母親が息子に対して恋愛感情を抱いているような狂気的な題材だとしたら、それはお前には解けない超難問だから早々に諦めて、別の問題に時間を使え」
「しかしどうだ? 母親が息子を男性として愛しているのが狂気的と言うが、そういうお前だって人間ではない、竜であるところの縁ちゃんを、愛しているのだろう?」
「あ、愛してるとは言ってねえよ」
――唐突になんてことを口走りやがる、こいつは。
「言ってはないが、思ってはいるのだな」
「だから何を根拠に――」
「見ていれば分かるさ。何せ私は愛の伝道師なのだからな」
気さくに笑う伏見。
――いや、気さくに笑われても! 全然意味分かんないんだけど……。
「と言っても、スカウターを忘れてきてしまったから、今日はただの私なのだが」
「愛ってスカウターで量るものだったの!?」
――スカウターってすげえ。万能かよ。
「と言うか、スカウターさえ持ってたら誰でも愛の伝道師になれるのか。安い称号だな、愛の伝道師」
「馬鹿なことを言うな」
「いや……さっきからずっと馬鹿なことを言っているのはお前だと思うんだけど……」
「スカウターを手に入れるには、フリーザ様の軍団かサイヤ人を倒して奪わなければならないのだぞ? 並々ならぬことだ」
――へえ、じゃあお前は、フリーザ様の手下かサイヤ人を既に一人は倒してるんだ。
「愛の伝道師なのに、人から略奪してきてんじゃん……」
「ふっ。愛は惜しみなく奪うものだ」
「巧いこと言ったみたいな顔すんな。お前が奪ったのはただの計測機器だから!」
――高校二年生の夏休みという貴重な時間を、僕は概ねこんな風に費やしていた。
八月下旬の、あの酷い雷の日までは、僕の夏休みはこんな感じで、消費されていた。