<拾漆>
そもそも何故、祠に不要物を奉げると願いが叶えられる、などという高校生らしからぬ馬鹿げた噂が生まれたのか、という疑問には、後日魔女が答えを明示してくれた。果たしてそれが真実であるのかは、判断し難いところではあるが、しかしそれでもその解釈は、僕たちが十分納得するに足る説得力を有していた。
それは聞いてしまえば取るに足りない、意外性の欠片もない凡庸な解ではあったが、それ以外に説明のしようがないと思えるほどに、僕は魔女の言葉に納得させられたのであった。
「事実は小説より奇なりとは言うけど、そんなことはない。たまに、奇跡的な確率で奇跡のようなことが現実で起こることだって、そりゃああるだろうけどさ、そんなのは本当に稀なケースだ。確率的に考えれば、小説の方が断然奇抜だし、事実なんてものは大概つまらないものだ」
魔女はそう言った。
「まあ、あくまでも推測に過ぎないという前置きはしておくけど、概ね間違いないだろう」
魔女の推理はこうだった――。
一人の生徒が、何の気まぐれか、学校脇にある祠へと足を運んだ。その目的は、暇つぶしだったか、何かの話のタネを求めてだったか、冷やかしか、或いは仲間内での肝試しだったか、定かではないが、とにかく彼が初めの一人、換言するところの噂の発生源であった。
その彼を仮に生徒Aとすると、Aは祠に対して何らかの(これもまた何かは不明ではあるが)お願いをした。我が同輩たる生徒A君が何故そんなことをしたのかは、この場合さして重要ではない。
重要なのは、生徒Aが祠へお願いするのに際して、奉げものをしたということである。
それは当初僕が推理したように、筆箱の中身の整理だったのかもしれない。
彼が供物として、神に奉げたのは、破損し、本来の機能を既に失った一本のシャープペンシルであった。
これは後になって聞いた話だが、僕より前にあの祠の調査を行っていた犬上祐は、僕が見たのと同じ、壊れたシャーペンが供えられているのを目撃していた、ということらしい。
あの時、つまり僕が噂を犬上から聞いた翌日、僕は、古びたぬいぐるみの方ばかりを問題視して、廃棄されたシャーペンのことなど全く以て考慮に入れていなかったし、だから犬上にはぬいぐるみがあったかどうかだけを確認したのだが、しかし真に注目すべきは、その廃棄物の方だったのである。
初めの一人。噂の発端である生徒Aが、恐らくはただ何となくで置いていった一本のシャーペン。それは二人目以降にとって、如何にも『要らない物』に見えたことであろう。
いや実際、Aにとってそのシャーペンは要らない物であったのかもしれないが、しかし彼がそれを選んだのは、他に置き去りにしてしまって良い、適当な物品を持ち合わせていなかったからであって、要らない物を奉げることで、祠の主が願いを叶えてくれると思ってそうしたわけではなかったはずである。何故かと言えば、それは彼が最初の一人だったからだ。
そう考えると、あまり切実な感じがしない、という僕の見立ても間違いではなかったのだろう。間に合わせの品で神に便宜を図ってもらおうとは、やはり人間、特に重大な悩みや願望を抱えている人間ならば尚更に、考えないものだ。
そのことから、彼が祠を訪ねたのには、切羽詰まった理由や用事があって、ではなかったことも推察できる――。
ともあれ、多分Aは、友人だか部活仲間だかクラスメイトだかに、それも何人かの生徒たちに、こうとだけ言ったのである。
――学校脇の祠にお参りすると願いが叶うぞ、と。
Aが何故そんな出鱈目な噂を流す気になったのかは、これもまた真意の分からないところではある。悪戯心にそうしたのかもしれないし、本当に、偶然、彼が祠へ赴いたのと同じタイミングで、彼のかねてからの宿願が叶ってしまったのかもしれない。
前者であれば、Aは相当に悪戯好きで悪意的な人物であるのだろうし、後者であれば、相当に迷信深い人物である。
まあ、ここでAの人間性についてあれこれ推測するのは無意味な試みである。確証の取れないことであるのだし、魔女の推理にも小さな穴はあるはずなのだから――。
とにかく、Aは幾人かの同輩に、或いは先輩か後輩に、もしかするとそのすべての人種に話をしたのだ。拡散具合から察するに、噂を広めるのに効果的な人物に話をしたか、相当数の人間に話をしたかのどちらかであろう。
そして話を聞いたその中から、はたまたそれを又聞きした人物から、二人目が現れた。
祠を訪ねた二人目は、その祠の状況を見て思っただろう。いや、二人目のみならず、三人目も四人目も五人目も、木製の台座に恭しく乗せられた、再起不能のシャープペンシルを見た者の悉くが思ったはずだ。
――不要な物が供えられている。
少なくとも僕はそう思った。尤も僕の場合、噂を知ってから祠を参拝したので、その分の補正があるのかもしれないが、あれを不要物と捉えるのは、至極自然な流れだ。二人目以降が、『要らない物を奉げる』というルールを新たに付け加えてしまうのも、無理からぬことだったろう。
元々、我が校にはオカルト話、下らない噂話を信じ込んでしまう下地があった、というのは先にも述べた通りである。犬神事件(とは言っても、あれを犬神事件と言っているのは僕だけである)があってから、我が校は未曾有の不安感で満たされていた。
そこに現れたのが生徒Aによって発案され、それ以降の人間によって改変された、『要らない物を奉げると願いを叶えてくれる神様』の噂である。
そして後は通常の噂が広まるのと同じプロセスを経て、もしかすると流行りのSNSなどの力も借りて、パンデミック的な流行が形成されたのだ。
その熱狂の温度があまりにも高かったために、途中のどこかで、本物が、それでも微弱な神様が生まれてしまった、と魔女の言うにはそういうことである。
僕が初めて祠を訪ねた時には既に、信仰の化身、いや、信仰そのものとでも言うべき非物質的な存在は生まれ、そして一定の実力、まさに実質的な力を得ていたのだそうだ。
犬上が見たとき、供物は五つであった。僕の時は例のシャーペンとぬいぐるみの二つ。僕はこの事実を、何者かによる清掃と嘗て判断したが、実際はそうではなかった。
供え物が二つしか、なかったのではない。二つ以外の全ての願いが、あの時にはもう既に叶えられていたのだ。金曜日から月曜日までの間に、供物が減ったのは、そういう理由である。
そしていよいよ伏見が神に為り代わった時、一人目の、生徒Aの投げやりな、ほとんど願いですらなかったであろう思いまでもが、叶えられた。
月曜にはあった供え物が一つもなくなっていたのは、元人間の彼女が、その強烈な能力と憤りを以て、全ての願いを成就させてしまったからである。
細かい疑問点はまだ少し残っていた気もするが、僕はその説明で概ね納得した。成程確かに、事実とはつまらないものである。騒動の発端が、一人の人間のおざなりな振る舞いにあったと思うと、そのおざなりに多くの人間が動揺せられ、また彼女が人間を捨てることになったのかと思うと、馬鹿らしくもなった。
しかし良いのだ。何はともあれ、なんて一言で済ませてしまっては今回のことが、大した事件ではなかったと取られてしまうかもしれないが、実際、僕に正式に友達が出来たことなどを勘案すれば、確かにこれは些末な事件だったのかもしれない。
――伏見空。僕の大切な友人が、こちら側に戻った次の日、学校では不思議な現象が起きていた。
僕は今回の事、そしてまた犬神事件の後始末をしなければならない、つまり生徒たちの間で流れる噂を収束させ、同時に、噂が流れる原因となっていた不安感を、何らかの方法で解消しなければならないという、とてつもない難題を前に頭を抱えていたのだが、昨日までそこかしこで話題に上がっていた、祠の神様の噂が、嘘のように、ふつりと立ち消えていたのである。
廊下の隅でのひそひそ話も、教室の一角での内緒話も、授業中の喧しい囁きも、まるで皆が皆一斉に夢から覚めたかのように、誰も、たった一人でも、彼の噂話をする者はいなくなっていた。
不自然とすら言えるほどの、しかしごく平凡なその風景に、薄気味の悪さのようなものを僕は感じざるを得なかった。しかも、その違和を感じていたのは、どうやら僕だけのようだったのである。
試しに、一つ前の座席に腰を下ろす犬上祐に、尋ねてみると――
「ああ。そんな話もあったな」
などと、まるで無関心に言うのである。伏見のことで、僕への協力を惜しみなく引き受け、あれこれ動き回ってくれさえした犬上が、その調子なのだ。
噂の沈静化という一大ミッションが既に完遂されていることへの喜びよりも、寧ろ僕は益々気味が悪くなって、訳が分からなくなった――。
彼女が声をかけてくれたのは、夢を見ていたのは、僕の方だったのではないかと、僕が自分自身を疑い始めた頃だった。
「私という信仰の権化が消失したから、なのだろうか」
その言葉には、心底ほっとさせられたものである。
少なくとも、最も当事者というのに相応しい彼女は、昨日以前の出来事とその異常性を、そしてその異常事態が一夜にして解消されたという異常事態や不気味さにも、気付いているようだった。
「そういうもんかね」
現実がそうであるのだから、そういうものとして、受け入れる他ない。
竜の時も、ゴールデンウィークの時も、犬神の時も、狐の神様の時だって、僕はそうやって乗り越えてきた。所詮は、僕たちの及びもつかぬ、世の中の不思議の話だ。原因や理論を考えたところで、到底解明し得ぬだろう――。
かと言って、その後僕が何も行動しなかったというわけではない。犬神のことを経験し、そして今回の出来事の起点ともなった僕が、そこまで無責任に振る舞えるはずもなかった。
その日の放課後、僕は例の祠、前日の夜にも参詣した噂の中心地へ再び参じた。そこへ行って、何が出来るというわけでもなかったのだが、伏見の去った後の神域がどうなったのか、確認しておく必要があったような気がしたのである――。
袋小路の最奥に構えられた古びた祠は、以前と何ら変わらず僕を待ち受けていたが、しかしどこか、それまでの厳かな雰囲気とは違った、悪く言えば腑抜けたような、一層老け込んだような、そんな有様だった。
当然のことながら、木製の台座には何も供えられていない。信仰を失った、謂わば空の神殿は、こんな風になってしまうのかと、ふと僕は思うのだった。
そこには最早、何も残っていなかった。完全なるもぬけの殻である――。
それでも僕は感謝の念を込めて、柏手を打った。僕が再起し、伏見という友人を得られたのは、自らを偽物と言った、彼女の言葉があってのことだったからである――。
不在の神域には乾いた音が響くだけだった。
「――栄枯盛衰って感じだなあ」
――いや、ただの流行か。
随分と早い流れではあったが、こうして県立東柳童高校の、七月初旬から始まった熱狂的な騒動には、一応の決着がついた――。
所詮噂などという者は水物である。情報の更新が激しい現代であるならば、七十五日を待たずとも、古い情報は見る間に流され、価値の低いものは淘汰され、薄暗くおどろおどろしい輝きもやがては失われる。ゆくゆくは過去の遺物として見做されるようになるだろう。
運が良ければ、誰かが、何年後か何十年後かに、あんな話があった、なんて思い出話として発掘してくれるのかもしれない。
或いは、今回あった不気味で不可解な出来事も、僕たちの後輩によって受け継がれ、いつかは学校の怪談や七不思議の一つとして、語られる日が来るのだろうか――。
流行は移り行くものだ。人々の認識とは変わるものだ。
だとすれば、あの馬鹿正直で、ひた向きな少女への認識もいつかは変わるだろう。彼女の努力も、いつかは報われる日が来るはずだ。
――それも、そう遠くない日に、来るはずだ。
努力は必ず報われるなんて、嘘だ。きっと大人たちが考えた、努力を怠らせないための甘言なのだ。自分の努力は無駄ではなかったと慰めるための言葉なのだ。
報われない努力など現実にはいくらでもある。努力空しく死んでしまうことだって世の中にはあるではないか。どんなに頑張ったところで、才能の一言で片づけられてしまうことだってあるではないか。そんな残酷なことが、この世にはあるのだ。
無責任なことは言うものではない。
だが、だからと言って努力そのものに価値がない、なんてことには決してならないのだと僕は知った。本人は結果だけが欲しいのかもしれないが、周囲の人間には、僕の目には努力そのものが尊く、美しく、気高く見えたのだ。
その尊い活動が実を結ぶ瞬間を肌で感じた時、そこに喜びや嬉しさを感じた時、友達が出来たのだと、僕は改めて思い知らされた――。
夏休み前の最後の三日間。生徒たちにとっては、テスト後のご褒美イベント。校内球技大会。
伏見空は、その小柄な体に不釣り合いな超攻撃的なプレースタイルと得点能力で、コート上の誰をも振り切って、男も女も生徒も教師も、どんな所属も関係なく、会場に集まった全員を、例えば部活動の顧問やチームメイトを、完膚なきまでに黙らせたのであった。
ある竜の転生四章<ある少女の希求>。これにて(多分……)閉幕です。お付き合いいただき有難うございました。