<拾肆>
「痛てええええええええええ!!」
ずっと我慢していたことをようやく叫ぶことが出来た。
「超痛い超痛い超痛いっ!!」
痛むのは勿論、左脇腹、先ほどまで自称神様によって錬成された長大な刀で貫かれた部分である。
「おいおい、何じゃ何じゃ。終わった途端その体たらくは。『負い目なんて感じなくて良い』とか言って格好つけておったくせに、お主どんだけ強がっておったんじゃ」
「僕の物真似で言うな。んなこと言ったって、こんなもん痛いに決まってんだろ!? 腹に穴空いてんだぞ!」
こんなことをされて叫び声をあげないのは、悲惨な訓練を受けた特殊工作員か、漫画やアニメの無敵主人公くらいのものだろう。勿論僕は、そのどちらでもない。
「帰宅部の秘密兵器でしかないお主には、荷が勝ちすぎる仕打ちじゃろうな」
「帰宅部の秘密兵器って、最早実在してるのかも定かではないくらい影の薄い称号だな。秘匿され過ぎだろ!」
――と言うか、重傷患者に余計なツッコミ入れさせんなや。
「はっはっ、顔が真っ青じゃ」
グロテスク過ぎて、血の気の引いた僕の顔面を見て、何故かご満悦の縁。
さっきまで心配そうな、焦った顔で見てたくせに、後数十秒だか数分もすれば回復してしまうの知っているからといって、何とか無事に終結したからといって、暢気なものだ。僕がまだ、こんなに痛がっているというのに。気を抜くと、そのまま気絶してしまいそうな状態にあるというのに。このドラゴンには労いの精神とかはないのだろうか――。
「まあ、人としては健康な反応なのじゃろうがな」
「腹に穴空いてる奴捕まえて、健康ってどういうことだよ!?」
「まあまあ、そう喚くでない。塞がるものも塞がらなくなるぞ」
――半分はお前の所為で喚いてんだけどね。
「どれ、私に見せてみよ」
「何だ。お前ってもしかして回復魔法とかも使えちゃったりするのか?」
正確には回復精霊術なんだろうけど、それではあまりにも語呂が悪い。
「私は全生命最強のドラゴンじゃ。やって出来んことはないじゃろうが、どうにも私は細かい操作が苦手じゃからのう。体の小さな人間相手に、無理矢理術を発動して、うっかり人体錬成失敗しちゃいました、みたいなことになってしまわんとも限らん」
「大惨事じゃねえかっ!」
捲りかけたシャツの裾を、僕は咄嗟に下ろした。
――失敗しちゃいました、って、そんな卵焼き失敗しちゃった、みたいな軽いノリで言われても!
「安心せよ。精霊術は使わん」
「じゃあ、何をしようってんだよ。お前には、精霊術以外の何が出来るってんだ?」
「私が精霊術以外に何もできないポンコツドラゴンみたいな言い方をするな。と言うか、精霊術出来る時点で相当凄いんじゃけど!?」
「自分で言ってる時点で、その凄味も半減だということに、いい加減お前は気付くべきだ」
――こいつって、やたら自分の強大さをアピールしたがるんだよなぁ。ほんと残念。
「で、どうするんだ。お前に生々しい生傷を見せることで、一体僕にどんな良いことが起こるんだ」
「良いから、まずは見せよ。話はそこからじゃ」
「これから重要な交渉でも始まりそうな台詞だなあ」
と言いつつ、僕は再び裾を捲り上げた。いくら縁とは言え、この状況で無意味な提案をするはずもない。彼女がそうしろと言うからには、何かしら僕にとって有益な状況をもたらしてくれるに決まっているのだ。そういう点では、僕は彼女を信頼している。
「ふむふむ」
しゃがみ込んで、食い入るように傷口を観察する。
――あー、ちょっと気分が落ち着いてきた分、余計痛くなってきた気がする。
心臓が脈打つ度に、穴がジンジンと痛む。当たり前だが、それなりに出血もしているらしい。怖くてそちらを見られないが、ベルトのあたりが嫌に生温かいのだけは感じられる。恐らく、穴の入り口から血液がどろどろと滴っているのだ。
そんなことを想像すると、尚の事血の気が引いてしまう。このまま体中の血液が漏れ出して、死んでしまうのではないかという荒唐無稽な不安が、しかしある程度のリアルさを持って募ってゆく。
それも縁の言葉通り、人としては健康的な反応なのだろう。刃物で体を貫通されるなんて、普通なら死んでもおかしくはない状況なのだ。だからこの恐怖は、人間として酷く全うであるはずだ。
「ど、どんな感じ?」
恐る恐る尋ねる。
「そうじゃのう。それは見事な切り口じゃ。刀身が薄かった分、それほど幅の広い穴が空いておるわけではないが、鮮やかなピンク色の肉が確認できる」
「どんな感じとは聞いたけど、人が目を背けているものをわざわざ描写をするな!」
――肉見えてんのかぁ。……くそうっ、想像しちゃったよ!
僕が聞きたかったのは、この状況を改善させられそうか、ということだったのだが……。
「即席とは言え、お主を貫いたのは一応、神の創造物たる神器ということになるのじゃろうからのう。魔女にやられた時よりは、してやられた時よりは、時間がかかるやもしれん。まあ、万が一にも死ぬようなことにはならんじゃろうが、このままじゃと暫くの間、お主は苦痛と恐怖に苛まれることになる」
「暫くって、具体的にはどれくらい?」
「まあ察するに、最低でも数分から数十分というところじゃな」
「数十分……」
――ちょっとそれは、精神が耐えられないなあ。
「……なあ、縁。僕はこれから一旦気絶するから、治った頃に起こしてくれないか」
「いや、そんな昼寝感覚で気絶されても……。しかしお主よ、今しがた述べたように、私の精霊術を以って回復を試みるのはあまりお勧めせんが、精霊術以外にもお主の傷の回復を早める方法はあるのじゃぞ?」
「そうなのか? だったら早く」
「方法と言うのは、その痛々しい傷口を私が舐める、という方法なのじゃが」
唐突に提示された縁の意味の分からない、と言うより、意図の分からない発言の意図を掴むために、僕はその内容を受け止め、頭の中で丁寧に咀嚼し吟味した。
しかし結果として、理解不能だった。縁が僕の傷を舐めることで、一体なぜ状況が改善されるのか、この場面でどうしてそんなふざけたような発言をしたのか、僕には全く分からない――。
考えられるとすれば……
「まさかお前、人の傷口を見ると舐めたくなる、癖の持ち主だったのか?」
「そんな特殊な性癖など持ち合わせておらんわ。じゃから、お主よ。つまり私の唾液には治癒能力を高める作用があると言っておる。いや勿論、人間の唾液にも治癒力を高める効果はあるのじゃろうが、まあそこはそれ、血の一滴が不老長寿の秘薬として持てはやされる竜たる私の唾液じゃ。効用は比べ物にならん。お主のその栄誉の傷も、痛みも私が一舐めすれば一瞬の内に消えてなくなるじゃろうて。実際お主があの勇者に殺されかけた時も使った手じゃしの」
――この激痛が一瞬で!? 元々数十分かかるものが、たったの一瞬で!?
通販の限定値引きという見え透いた販売戦略に引っ掛かってしまう人間の気持ちが、何だか分かったような気がした――。
「縁! 僕の傷口を一刻も早く! 早く舐めてくれ!」
「変態かっ!」
「唐突に無礼なことを言うな。違う。僕はただこの苦痛から解放されたいだけなんだよ」
「いや、すまん。言い方があまりにも必死じゃったから、特殊な癖の人なのかと……」
「馬鹿を言え。僕は至ってまともな感性の持ち主だ。だから僕が舐められたいと思うのなんて、精々、爪と指の皮膚の間くらいのものなんだぜ?」
「――間違いない。お主は特殊な癖の人じゃ」
不思議なことを断言する縁である。
「いやいやいや。健康な心を持った男子なら、そりゃあ口にこそ出さないだろうけど、爪と皮膚の間を女子にぺろぺろされたいっていう願望は、誰しもが普通に抱いているものなんじゃないのか?」
「駄目じゃ。お主の感性は最早手遅れらしい」
……まあ、冗談はさておき。
と言うか、体に穴が空いた状態で、こんなかなりどうでも良い冗談話をしていられる自分に、少なからぬ驚きと、薄気味悪さを感じるばかりではあるが、ともあれ――
「じゃあ、まかせた」
僕は再びシャツの裾を捲った。
「お主よ、人にものを頼む時には、それに相応しい態度というものがあるのではないか? ほれ、申してみよ、申してみよ。僕の汚い傷口をぺろぺろ舐めて下さい、と情けなく懇願してみよ」
――うわあ、すげえ楽しそうだなあ……。
しかし、この痛みと気持ちの悪さが一瞬で解消されると言うのなら、それしきのこと、僕にとっては造作もないことだ。
「僕の汚い傷口を、縁様の神聖なベロでぺろぺろ舐めて下さい!!」
一片の羞恥も見せず、いや寧ろ誇らしげに、満天の星空を見上げながら僕は言い切った。
「ふんっ。侮ったなあ、縁! 僕が今更こんなことに恥じらいを感じるような、高潔な羞恥心の持ち主だとでも思ったか! ハッ八ッハッ。僕は苦痛から解放されるためなら、自分のプライドなんて一顧だにせず捨てられる冷静な男なんだぜ?」
一瞬の静寂の後――
「……いやあ、流石の私もそこまで自信満々に、そんな恥ずかしい台詞を言われると、正直引くの。それは冷静というより、恥知らずと言うのでは……」
「引くのだけはやめて!」
――傷口に手を突っ込んで死にたくなるから!
「あれ。何じゃろう。ちょっとからかったらちゃんと治療してやろうと思っておったが、何か、お主の肌を舐めることに強烈な抵抗が……」
「ちょ、ちょっとぉ?」
「と言うかもう、お主に触りたくないかも……」
恐れをなしたかのように、嫌悪感を示すかのようにじりじりと三歩後退さる縁。
「……お前、実は僕に止め刺す気なのか?」
――死にかけの僕を精神的にも殺す気か。
「嘘じゃ嘘じゃ。私はお主に言われさえすれば、足の裏でも肩甲骨でも眼球でも爪と皮膚の間でも喜んで舐めるぞ」
「僕が異常な性癖の持ち主であるかのように言わないで。誤解されるから」
――僕の品位が疑われるから――。
限りなく無駄な遠回り、紆余曲折を経てようやく、縁は治療に取り掛かった。
「お前ちゃんと歯磨いたんだろうなあ」
「器の小さい男じゃのう。お主は黙って、うっとり顔で舐められておれば良いのじゃ」
――ああ、こいつ、磨いてねえな。
「これでお主を舐めるのは二度目じゃ」
「あたかも僕たちが不健全な関係にあるかのような物言いだな」
――まあ、これが二度目であることは紛れもない事実なんだけど……。
一度目は、僕たちが出会ったその日のことだ。当時初対面だった僕の頬を、涙を舌で舐め取るという、人間離れしたスキンシップをこいつは既にしてのけている。
後に縁が竜であることが明らかになり、あれはちょっとしたカルチャーギャップのようなものだったのだと今では納得しているが、余りの衝撃に声を荒げて叱責したのは、別に良いわけではないが、思い出ではある――。
「うっ……」
縁は傷を撫でるように舐めた。痛みこそしないが、傷口という極めてデリケートになっている部分を他人に、それも舌で触れられるというのは、中々心地の悪いものである。
生温かく、ざらざらとした舌先が、傷口含めその近辺の皮膚を滑って、何と言うか、背筋がぞわぞわする。
「私のような愛らしい女子に傷口を舐めてもらえるということは、ある種のご褒美なのじゃぞ」
「自惚れんな。怪我が治るっていう効果がなければ、僕にとっては罰ゲームでしかねえよ、こんなもん」
「そうか? ではお主よ、もし傷がない状態で、体の好きな部分を舐めてもらえるのだとしたら、それでもお主は罰ゲームじゃと言うのかの」
「それは……」
――まあ、正直言ってご褒美でしかないな。
「今も言ったが、私はお主に頼まれさえすれば、いついかなる時でも、その要望に応える準備があるのじゃぞ?」
「……お前、僕の貞操をどうする気なんだよ……」
――僕の倫理観が試されていた。
さておき、そんな他愛ないやり取りをしている間にも、傷は見る間に塞がってゆく。体の前後の穴が、舐められたその場所から閉じ、と同時に尋常ではなかった痛みが、嘘のように、急速に引いていった。
甚大な傷を負った人体が急激に修復される光景。今となっては見慣れたものではあるが、ふと冷静になって考えてみると、やはり異様な映像である。
「中の方はもう暫し時間がかかるじゃろうが、ひとまずこれで問題なかろう。お主の同輩、あの狐の娘がここに到着する頃には、完治するはずじゃ」
「ああ。サンキュー」
――傷を治してくれたことも、この場に立ち会ってくれたことも。
「礼には及ばんわい。お主を助けるのは、私にとっては当たり前のことじゃ。お主が言ったのであろう? 私たちは家族みたいなものじゃと。パートナーじゃと」
「そうだった」
多分にやけ顔で僕は言った。
「さて、私は少しの間離れるとするかの。そろそろお主の約束の相手が来ても、おかしくない頃合いじゃろう」
「別に、お前が席を外さなくても良いだろ。変なところで気を遣うなよ」
「いやいや。私はお主とは家族であり、パートナーであるかもしれんが、しかし同時に人間ではない。あの者も、部外者の私がいては出来ぬ話もあるじゃろうしのう。お主も知っておるじゃろう? 私はこう見えて空気の読めるドラゴンなのじゃ。上で見ておるから、終わったら合図でもせい」
「分かったよ」
僕は縁の左頬に触れた。当然のことながら、縁の頬がもちもちすべすべで、ストラップにしてしまいたいくらい触り心地が良い、からではない。縁に翼を生やすためには、彼女の体の一部に触らなければならないのだ。その一部というのが頬っぺたなのは、他ならぬ縁の要望なのである。
「お主」
僕を見つめる縁の表情は、どうしてかとても穏やかで、優しかった。
「今回お主のしたことで、あの娘は確かに救われたのじゃろうが、これも私が口を挟むようなことではないのかもしれんが、あまり無茶をするなよ。お主は他人の為に、いや、人間であるかどうかに関わらず、他者の為に多くをし過ぎる。犬神の時も、今日も、私の時もそうじゃった……。確かにそれはお主にとって正しいことなのじゃろうし、そういうお主であることを私は期待しておる。そういうお主に惚れ込んでおる。……じゃが、分かるじゃろう。傍から見ていると、お主のその善意は、献身は酷く危うく見える。危うくて、怖いのじゃ。人の命は、弱く脆く短く、すぐになくなってしまうから……」
縁の赤の入った美しい瞳に月明りが反射して、僕を見る。幾星霜の時を生きる偉大なる竜の、それは恐らく、人間の言葉ではとても表すことの出来ない感情を秘めた眼差しだった――。
「善意でも献身でもねえよ。僕のやってることは。犬神の時も、今日も、お前の時だって。僕はこれを誰かの為だなんて思ってない。僕がこうするのは、僕の為なんだよ。友達を作ったり、家族を作ったりして、幸せに暮らせるように、誰よりも僕の為に、僕は動いてるに過ぎないんだぜ」
――心配はかけるだろうけどさ。
「もしまた、犬上や伏見や、僕の家族に同じようなことが起きたら、僕は同じようにするよ。自分が死んでも良いなんて全然思わないけど、死ぬ思いをして解決するなら、僕は躊躇わない」
僕は期待に応える僕でありたい。
「それでまた、お前を不安な気持ちにさせちまうかもしれない。だけどさ、縁。お前には悪いけど、心配して待っててくれよ。死んでも戻ってくるから、待っていてほしい。空気なんて読まないで、口うるさく注意してほしい。僕が困った時には、また力を貸してほしい」
――なんて、我が儘だろうか。迷惑だろうか。自分勝手だろうか。
「勝手じゃの。全く、都合の良いことばかり言いおって。便利に使ってくれおって。――まあしかし、しょうがない。パートナーじゃとか、家族じゃとか言われては、そういうものとして受け入れるほかあるまい」
――っはあ、と一つわざとらしい大きな溜息を吐いて――
「本当に、迷惑なしがらみじゃわい」
翼を得た竜は、どこか満足気に、勢い良く天上へ舞い上がり、やがて見えなくなった。
大気だか水分だかを操作して姿を隠しているのだろう。
快晴の星空に、時折歪みが現れて、上機嫌に動き回っているのをのんびりと眺めながら、僕は彼女の到着を待った。