<拾參>
祠に願いを奉げたのは伏見だった。伏見の変貌は、伏見空の、願いの結果だった。
先輩と呼ばれたあの人物の一言と、残酷な決選投票の末、不屈かに思われた伏見空の精神はついにその時を以て、折れてしまった。彼女は努力することを、いよいよ止めた。
努力を止め、結果を求め、神様に縋った。自らが神になることを願った。
何故か。その理由は未だに分からない。どうして神に為り代わることを、彼女が望んだのかは、正確には不明だ。
ただ事実として、現実として、彼女は、肉体を奉げ、神の座を得たのだ。昨日の夕方、僕が出会い、不覚にも言葉を交わしたあの神と名乗る女こそ、伏見空その人だったのである。より厳密な言い方をすれば、伏見空の人格をベースにして生まれた超自然的な何か、ということになるのだろうか。
どうりで、話し易いはずである――。
要らないものを供物として奉げると、願いを叶えてくれる神様。彼女にとって要らないものとは、彼女自身の肉体だった。いや、伏見空という人間そのものだったのだろう。
伏見は神に為り代わり、神の座の主は人に為り代わった。単純な話だ。彼女たちは、入れ替わったのである。存在をすり替えたのである。だから、伏見空の体の中には、伏見の精神が入っていなかった。
思い返せば、彼女は、伏見の体を得た何かは、一度だって伏見空の人格が『消滅した』とは言わなかった――。
午後の授業を抜け出し、我が家に一時帰宅した僕は、縁に昼休みにあった出来事の全てを話した。彼女の発言を一言一句違わず、反復した。縁ならば、あらゆる希望的観測を排除して、中立で公平な意見を示してくれると思ったからである。
縁は期待通り、一つの推測を立てた。
伏見空が神の座を欲したという推測を、である。そしてその推測は僕の希望的観測とも、概ね合致していた――。
伏見が僕との会話によって噂を知ったのは月曜日の放課後。噂に美しい女性の姿が登場したのは火曜日。噂の勢力が一気に拡大したのも、伏見の様子がおかしくなったのも同じ日である。
翌日には、神と呼ばれる存在は、噂の中で更に強力になっていた。また、伏見空は普段の自主的なランニングメニューの中に、自宅と学校を往復する、というメニューを取り入れている。
これだけの要因が揃えば、後は難しくない。伏見は恐らく、月曜日の夕方以降、僕と別れた後に学校へ舞い戻り、祠に参拝した。神に為り代わりたいという願いを携えて――。
噂の神様が急激に力を増したのは、伏見空という人物の、強烈で切実な願いがあったからだ。元々の信仰に、伏見の桁違いの信仰が上乗せされた結果、そして伏見の願望が成就し、彼女の精神が神の座に就いたことで、いよいよ祠の主は本物になった。供物もなしに人の願いを叶えてしまえるほどに、強力な存在へと昇華した――。
縁の解説によると、元々人間の体に入っていた精神なのだから、強力なのは当たり前、なのだそうだ。実体を持っているというのはそれだけで、比較にならないほど優位なのだとか――。
彼女が何故そんな願い事をしたのかは分からない。憶測は出来るが、僕が分かると言って良いものではない。
ただ、犬上から聞いた話では、彼女は月曜日、言ったそうだ。
ポジションを争っていた先輩の一言―――あなたには、誰よりも努力出来る才能がある。
このたった一言で彼女のリミッターは破壊された。彼女の場合、解除された、ではなく破壊されたという表現がまさに正しいのである。
伏見は叫んだ。
『……何だ、それは。……何だそれは何だそれは何だそれはっ! ふざけるなっ!! 努力出来る才能だと? そんなのただの言い訳だろうがっ! 頑張れない奴のただの負け惜しみだろっ! あなたがただ頑張れないだけだろ! 弱いだけだろ! 頑張っても駄目だったら、努力が足りなかったんだって、そう思うしかないじゃないか。そう思って、また走るしかないだろうが。
才能なんて言葉に逃げるなよ。才能なんて言葉で片づけるなよ! 私はあなたの苦しみなんて知らないけど、私の苦しみだけは良く知ってるんだ。もう無理ならやめてしまえ! 頑張れないなら黙って負けを認めろよ! あなたが弱いのは私の所為じゃない。あなただけの所為だ! あなただけの責任だ! 私が努力出来るのは、私が強いからだろっ! 私が凄いからだろっ! 才能なんかのお蔭にしないでくれ!!』
そして怒りと憤りに満ちたこの発言の直後に投票は行われた。
どうすべきかは自分たちで決めろ、という、良く言えば部員の自主性を尊重する、悪く言えば無責任な方法を彼女たちが所属する部活動の顧問は採用した。
バスケットボールはチームスポーツである。だから、チームの雰囲気を著しく損ねる発言をした人物を、そのままレギュラーメンバーに入れておくわけにはいかない、という理屈が一応はあったらしい――。
「そんなことをされたら堪ったものではない。私にとってあの結末は、努力の一切を否定されるのと同じだった。努力しても無意味なのだと、私はあの時、そう悟った。全てを奉げてきた、バスケットボールでも、私は決して認められないのだと」
人間だった頃の記憶を、彼女はまだ残している。
彼女が怒りという感情を露わにした時点で、その可能性は考えられた。神は感情に従って行動しない。彼女も言っていたように、ただあるべき姿としてあるだけだ。期待され、人に望まれたようにしか振る舞えない。
彼女が完全に神と呼ばれるものに為り切ってしまっていたのなら、人のように怒って、切り付けるなんてことは出来ないはずなのである。
だって祠の神様は、ただ、願いを叶えるだけの神様なのだから。何でも願いを叶えてくれるかもしれないが、それ以外のことは何も出来ないはずだ。
ただそれも、時間の問題である。伏見が祠の主に為り代わり、今までとは比較にならないほどの影響力を得たことで、これから益々噂が広まり、我が学友たちの信仰がより強力になれば、その信仰の中に伏見空の自我は埋没してしまう。
そうなればもう、手立てはない。彼女はこちら側に戻れなくなる――。
「私はこんなだからな。仲の良い友人も、慕ってくれる後輩も、甘やかしてくれる先輩もいなかった。お前も知っているだろう? 私はいつも一人だった。誰からも認められていないかった」
伏見は、嘗て伏見空の中にあった彼女の魂は語る。神の身でありながら、神に為り切れていない彼女は、人間のように振る舞う。
人間だった頃の思いを、知られざる内心を、彼女は告白している。
それは僕にとって、意外な告白だった。
僕には彼女が孤高な人物に見えていた。気高く、何ものにも流されず、人の評判など意にも介さず我が道を行き、その結果他人との間に軋轢が生じたり自分が孤立したりすることに何かを感じるような人間ではないのだと思っていた。
しかしそうではなかったのだ。考えてみれば当たり前である。孤立や孤独に対して何も感じない人間なんているはずがない。事実彼女は孤独を感じる人間であったし、それを甘んじて受け入れている人間ではなかった。他人からの評価を気にし、孤立を孤独として、寂しいものだと、感じていた。
「そんなことは――」
だけど実際は、そんなことはない。伏見を支持する人間を、僕は僕以外にも知っている。
そう言おうとしたが、女は僕の言葉を遮って平坦な口調で続ける。
「お前も私と同類だと思っていた。いつも一人で黙っているお前を見て、こいつもありのままの自分で生きて、孤立しているのだと。そう期待した。自分より情けない奴を見て、私はどこかで安心していた。――だけど違った。お前は私とは違った。私とは違って、お前は人を思い遣ることの出来る人間だった。お前は人を気遣うことの出来る人間だった。人の気持ちが分かる奴だった」
「そんなことねえよ! 僕には人の気持ちなんて分からない。そんなのは、誰にも分からないもののはずだろ」
――僕にお前の気持ちが分かっていたら、きっとこんな状況にはならなかったはずだろ。お前が追い詰められてるって、分かっていたら、あの帰り道で、もっと他に掛けてやれる言葉があったはずだ。
僕には何も見えていなかった。何も聞こえていなかった。そのことに責任を感じるのは間違いであり、傲慢でもあると縁は言ったが、言ってくれたが、分かっていても後悔してしまう。
あの時、いち早く異変に気付き行動を起こしていれば、伏見の精神体とでも呼ぶべきものが、つまり伏見空という人格が危険に晒され、危機に陥ることはなかったのではないか。
だから、人の気持ちが分かる、なんて言われると、苦しいのだ――。
「お前は私と話す時、言葉を選んでくれたじゃないか。私はお前から、本当に言われたくないことは一度も言われなかった。ただの一度もだ。そういうのを指して、人の気持ちが分かるって言うんだよ。人の気持ちが分かって、安易な言葉で人を傷付けないようにしてくれる。それを優しいって言うんだよ。見下していたお前との会話に、私は安らぎさえ感じていたんだ」
――情けなくて死にそうだった。
女は言った。
「――お前は、人に優しく出来る奴だった。認められないんじゃなくて、認められようとしていないだけだった。怠っていただけで、本当は人と関係を築ける奴だった。私とお前は同じ状態だったけど、同じ能力なわけでも、同じだけ惨めなわけでもなかった。それが堪らなく、堪らなく堪らなく堪らなく、苦しかった。お前はバスケと同じで、実力を出していなかっただけなんだと気付いた時、お前の優しさに安らぎを感じながら、私はとてつもなく惨めな気持ちになった」
彼女はきっとあの勝負のことを言っている。あの、僕が何の努力もせずに手に入れた力で勝利した試合のことを、彼女は例に挙げている。
立場としては、彼女も今や僕と同じである。僕が竜の力を譲り受けたように、彼女は神となり、その力を継承している――。
「私はお前を羨んでいた。羨んで、嫉妬すらしていた」
彼女の苦しみの元凶は、何もあの先輩だけではなく、部活の人間関係だけでなく、僕でもあったのだ。それは僕の所為とは言えないのだろうが、僕が原因ではある。そう思うとどうしても頭に血が上ってしまう。自分自身に苛立ちを感じずにはいられない。そんなことを感じても、何の意味もないと言うのに……。
「――私はお前のようには出来ない。自分以外の誰かの気持ちに思いを巡らせて、行動を、言葉を選択するなんてことは出来ない――。」
抱え込んできた思い悩みを、全て吐き出すかのように、止めどなく話し続ける。
無口な人間ほど、裏で何を考えているか分からないと言うが、まさにその通りである。
彼女は承認欲求の塊だ。それも、ちょっとやそっとの、思春期にありがちな浅はかで、ありふれた強度のものではない。神様になってしまうくらいに、強く深い欲求である。
人と関係を構築して解消することも出来ずに、溜まりに溜まり続けた欲求である。
「――だけどそれは良かったんだよ。寂しかったけど、情けなかったけど、嘘を吐いて、人に嫌われないようにするなんて、私には無理だった。だから、それは諦めた。だから、バスケットボールで認めてもらえばそれで良いと思ったんだ。大好きなバスケで、誰よりも努力して結果を残せば、少なくともコートの上だけでは私も認められるはずだと」
決して語ることのなかった自らの弱さを、尚も女は独白する。
「――私は名前の通り空っぽだったんだ。人とまともに接することも出来ず、高く跳ぶことも出来ず、シュートが上手いわけでもなかった。私には何もなかった。だから、空の器を努力で満たそうとした。ありのままの自分を、弱いままの自分を認めてもらうなんて贅沢な話だ。傲慢な話だ。それを知っていたから、学んでいたから、強くなって、上手くなって、変わって、そうすれば周りも私を認めてくれるだろうと思って、がむしゃらに走った」
そうして走る姿を、僕は犬神事件の最中に目撃していたのだ。そんな思いがあるなんて、露とも知らず、ただその必死さに僕は見惚れていた。
「……でも違った。コートの外で認められない私は、結局コートの上に立つことさえ認められなかった。私のしてきたことは全部無駄だったんだ。満ちたと感じたものは、全て錯覚だった」
女はより一層表情を崩した。苦しみに喘ぐような、苦々しい、或いは、今にも泣きだしてしまいそうな悲しい顔を、絶望に打ちひしがれたかのような、いやまさに打ちひしがれた表情だった。
「――ああ。絶望したさ。そんなコートの外から手を出すみたいな方法があるなんて思いもよらなかった。だったら、私が認めてもらえる場所なんか、初めからなかったんじゃないか」
伏見の面影を僅かに残した美しい女性は沈痛な面持ちのまま、月曜日の夜に何があったのかをいよいよ打ち明ける。
「――私は神に頼った。努力する意味がないのなら、後はそうするくらいしか、私には思いつかなかった。私を満たすには、そんなものにまで縋るしかなかった」
僕が噂を教えなくとも、遅かれ早かれそうなっていたと女は付け加えて――
「私は祠に赴き、願いをかけた」
噂に登場する神は、我が校の多くの人々、生徒たちから承認を受けていた。信仰されていた。
彼女の言葉を借りるならば、信仰とは即ち肯定だ。
存在そのものを否定されたように感じていた伏見にとって、その席はさぞ居心地が良さそうに見えただろう。
当然だ。神に願いに行くのは、神を信じる人間だけなのだから。そうでないものは、端から参拝などしない。わざわざ、あんな薄暗い袋小路の奥地にまで冷やかしに行くような酔狂な人間などいない。
何よりも、人からの承認を得たかった伏見からしてみれば、無条件に頼り縋られる神の椅子は理想的な位である――。
『私の全てをあげるから、あなたの全てを私に下さい。この体はもう要らないから、どうかその場所を、譲って下さい』
祠の前に跪いた伏見は、そう述べた。伏見空はそうして神の座に登り詰め、神に為り代わった――。
たったそれだけのことで、部活動でポジションを不当に奪われただけのことで、伏見は人であることを止め、人間を捨てた。人としての生を、まさしく人生を贄としたのである。
彼女にとっては、たったそれだけのこと、ではなかったということなのだろう。月曜日に起きたことは、彼女にとって自分という人間が必要でないと思えてしまえるだけの出来事だったのだ。
彼女の欲求不満は、唯一拠り所としていた、当てにしていたバスケットボール競技に於いて否定されることによって一気に限界を迎えた。
ありのままの自分は隣人として認められない。努力して強くなった自分は、選手として認められない。
そう気付いた伏見は、全てを放棄した。
何をしても無駄ならば、何かをする意味なんてないのだと。人のまま生きる意味などもうないのだと。ならば、何も努力せず、それでも周囲から承認される存在になってしまおうと、彼女は思い至ったのだ。人であることよりも、人に認められることに、彼女は固執した――。
僕などには理解できない話である。伏見にはバスケットボールで認められること以外に、大切なものはなかったのだろうか。それらと比べても、多くの人々から崇められる神の座は魅力的に見えたのだろうか。
彼女を抑止するものは、本当に何もなかったのか。
――そんなのは悲し過ぎる。
「そんなにそこは居心地がいいのかよ、伏見」
「ああ、居心地はいいさ。人として生きていた頃などより、余程良い。神として当然の振る舞いをすれば、それだけで感謝され、認められるんだ。人でいた頃には得られなかったものが、こうして簡単に手に入る。居心地が悪いわけがない。私は今までで一番、満足している。私はずっとこうされたかったんだ」
そんなことを言う女の口元は、薄い笑みを浮かべている。見ていて薄ら寒くなるような、不吉な笑みである。
本当に下らない。そんな一時の快楽に身をやつして、人生を捨てるなんて馬鹿げた話だ。犬上も伏見も、命を舐めている。この世には自分の命より大切なものなど、ありはしないというのに――。
それに、彼女は気付いているはずだ。
「そんなお前を認めてもらって、何の意味がある。お前が認めてほしかったのは、頑張ってるお前じゃねえのかよ。自分じゃ何もしないで、人の力を使って悦に入ってる、怠惰でずるい自分を認めてほしかったのかよ。お前自身の努力でも、ありのままのお前でもないお前を認めてもらうことに、一体何の意味があるんだ」
今の彼女を満たしているのは、刹那的な快楽だ。人からの承認などではない。認められているのは、彼女ではなく、伏見空ではなく、願いを叶えてくれる都合の良い神様であり、その力である。
「これはもう、私の力だ! 今はもう、私だけの力だ!」
存在が不安定になっている影響なのか、女の情緒は限りなく不安定になっている。喩えるならヒステリックに近いのだろうか。但し、危険度で言えば人のそれと比べるべくもない。ヒステリーを起こした神など、全く冗談にもならない――。
「そうかもしれないな。今はもうお前の力だ。お前が何の努力もしないで、お零れに与って手に入れた力だ。嬉しいかよ、伏見。それで人から褒められて、本当に満足か」
「嬉しいさ! 頑張って拒絶されることより、頑張らずに受け入れられることの方がずっとましに決まっている! だから! ……だから、もう邪魔をしないでくれよ。私のことなんか、放っておいてくれよ。私の邪魔をするな。もう私はこれで良いんだ。殺されてくれないのなら、どこかへ行ってくれよ」
――涙を流しながらの懇願。感情の起伏がまともではない。
伏見らしくも、ましてや神らしくもなく女は縋るような目で僕を見た。
「嫌だよ。絶対に嫌だ」
僕は彼女の願いを払いのけた。懇願を、請願をにべもなく無慈悲に、却下した。胸が痛むが、もっと痛いことがあると僕は知っている。
――そんな風に泣けるのなら、お前はまだこちら側に戻れるはずだから。
彼女にとって神の座に君臨することは、現実より『まし』なだけなのだ。彼女は、辛い現実から目を背けるために、神という信仰を利用しているに過ぎない――。
「お前のやってることは、お前の言ってることは、お前の努力を認めなかった先輩が言ったことと同じじゃないのか?」
「違う」
「お前だって諦めたんだろ?」
――人と関係するということを。
「人付き合い出来ないのは才能の所為だって、諦めたんじゃねえのかよ」
「違う! 私は才能の所為になんてしていない」
「でも、諦めた。お前はきっと、努力の仕方を間違えたんだ。ただがむしゃらに走るのは凄いことだし、美しいようにも見えるけど、方法を間違っていたら、ゴールに向かって走っていなければ、目標には届かねえよ。お前は少しだけ、方向を間違えたんだ」
――どちらに走っているのか分からないほど必死に走って、盲目になってしまっていたのかもしれない。
だけどそれでは駄目なのだ。努力して駄目なら、努力が足りなかったと思ってまた走るしかないと伏見は言ったが、考えるべき道筋はもう一つあるはずだ。いや、道筋こそを考えるべきなのだ。
どう努力すれば良いか。伏見はそれを誤った。
「寂しいと感じたなら、お前は諦めるべきじゃなかった。嘘を吐かなくて良い相手を探すべきだった」
――結局人間なんていうものは、今の世の中他の人間と関わらずに生きていくことなんて出来ないのだから。
「コートの上だけで認められれば良いなんて、体の良い言い訳だろ」
「違う! 違う。違う違う違う。……違う。……もう嫌だ。うるさい。お前の話なんて聞きたくない。私を認めてくれないお前の話なんて、私を否定するお前の話なんて、私はもう聞かない!!」
残酷な台詞に、女は哀れなほどに悲痛な表情を浮かべ、嗚咽すら漏らしながら、再び体に力を籠める。そして、間を置かず、隙を逃さず、一直線に僕へと切り掛かる。
その姿がまた、悲痛なのである。これがあの伏見空の為れの果てかと思うと、目を塞ぎたくなった。
しかしそうもいかない。彼女の弱く悲痛な姿からも、速すぎる攻撃の連続からも、目を背けるわけにはいかない。
責任感など関係なく、僕が彼女を失わないために、正面から彼女を見据える必要がある――。
「どうしてだっ! どうしてお前は、邪魔をする! どうしてそんな苦しいことを言うんだ!」
恐ろしさも、厳めしさも、最早どこにも残されていない。
「どうしていなくなってくれないんだよ! どうして殺されてくれないんだよ! うるさいんだよ! もう考えたくも、感じたくもないんだよ! この生温い幸福に私は浸っていたいんだ」
ただ単純に、彼女は壊れている。
人ならざるものに為ったことで、おかしくなっているのか、おかしくなったことで人ではなくなったのか、出来れば前者であってほしいものだが、何にせよ非理の前に道理なし。狂気に対抗できる理論は存在しない。
当初の計画では、伏見空の精神を、その依代たる神を否定し、人間に戻りたいと思い至らせ、僕が『伏見空を以前の状態に戻してください』と神である彼女に願うことになっていたが、現状ではその願いは受け付けられないだろう。まだ人間の部分を残しているだけに、それは勿論救いでもあるが、彼女は願いを選別することが出来る。
そして今の彼女を否定するような願いを、きっと彼女は否定する。
結局は、伏見本人が人に戻りたいと思えるかどうかなのである――。
「死んでくれよ。お願いだから。私を拒絶しないでくれよ。私を認めてくれよ」
打ちのめされ、泣きじゃくりながらも、女の速度は衰えない。彼女の本質はその攻撃性にある。内に秘めたる絶大な活力の全てを、彼女は今遺憾なく発揮している。
人間の時でさえ、三十分もの間パフォーマンスを落とさずプレーし続けた女である。速さだけで言うならば、寧ろ最初の一太刀より、増している気さえした。
埒が明かない。攻撃を躱すだけでは、負けはないかもしれないが、勝ちもまたあり得ない。いや、人間の肉体を使っている僕には、いくら強化されているとは言え、体力の限界というものがある。それがいつくるのかは未だに不明だが、永遠ではない。
登校時間というタイムリミットも一応は考慮すべきだろう。祠の主としての彼女が、これ以上信仰を集めてしまえば、彼女の魂は押し潰されてしまう――。
ふと、視界の端に、校庭の脇にかけられた時計が見えた。女が怒涛のような攻撃を開始してから、もう数十分が経過している。
「――いっ!」
切っ先が右太腿を僅かに掠めた。数十分間、一度たりとも掠りもしなかった攻撃が、ここにきて初めてヒットした。
時間に気を取られて隙が出来ていた、というのもあっただろうが、それよりも彼女のスピードが更に増加し、反対に僕の集中力が落ちてきている。
動きの先が予測できると言っても、一手でも間違えれば、少しでも手順を誤れば、僕の命はそれまでなのである。そんなストレスに晒されれば、普段に増して精神に、脳の活動に負荷がかかるのは当たり前だ――。
痛みはさして問題ではない。傷は皮一枚を削がれた程度であるし、散々動き回って全身が興奮状態にある今、痛覚の感度は限りなく低下している。それに僕には、竜から受け継いだ治癒能力がある。皮一枚の傷ならば、十秒もかからずに完治してしまうだろう。
問題なのは、目算が甘過ぎたということだ。
僕の見立ては甘かった。このままではタイムリミットより、寿命の方が先にきてしまう。僕は精神的負荷が肉体に与える影響を、あまりにも軽く見積もっていたのである。クラスメイトの女の子と、ワン・オン・ワンをするのとは、わけが違うのだ。
死地に身を置きながら、打開策を模索しながら動き続けるというのは、それも人の限界を超えて動作し続けるというのは、想像以上に肉体にダメージを与える。極度の緊張は体力を奪う。僕の予測には、その思考が抜けていた――。
久々に、息が切れる。思えば懐かしいとさえ言える感覚だが、そんな感慨に浸っている時間はない――。
僕には見えない刀の先端が、今度は左の頬を撫でて、女の瞳が歓喜に光る。
彼女は僕の敵ではないなどと言ったが、それはあくまで僕がベストコンディションにある場合だ。
所詮僕は人間でしかない。魔女から忠告されたように、どんなに人間離れしようとも、僕は根幹が人間なのである。だから、神に為り代わった彼女とは違って、コンディションなどという不安定なものは、容易く、たった数十分死線を潜っただけでも崩れてしまう――。
いよいよ劣勢。猶予はほとんど残されていない。人である僕が神に対抗出来る時間は、もう直に終わるだろう。
そうなってしまう前に、自然崩壊するより先に、この姑息的な均衡状態を、こちらの側から打破しなければならない。失敗すれば、彼女を現実に引き戻す機会は永遠に失われる――。
まともに話を聞いてもらうには、殺意に満ち満ちた斬撃の波を凍結するには、彼女がこちら側の世界でどれだけ必要とされているかを伝えるには、どうすれば良いか。
左右前後に間断なく動き続け、それでも傷とささやかな痛みが増していく中、僕の中の下の頭で考え付く方法は、たった一つしかなかった――。
体に七つ目の裂傷が刻まれた頃、五つ目の傷が塞がった頃、僕は回避動作を放棄した。自らの動きを止め、猛然たる彼女の突撃を、その刃を、正面から受け止めた。
当然のことながら両手で刃を挟んで、ではない。僕の動体視力と身体能力では、たとえ相手の動きをある程度予測出来たのだとしても、そこまで精密に対応することは出来ない。僕に予測出来るのは、精々、次にどの方向からどの種類の攻撃がくるか、くらいのものなのだ。
だから僕は、最も読み易く、受け止め易く、リスクの少ない攻撃を選んだ。選択し、それを左脇腹のあたりで受けたのである。
一瞬、鈍い痛みが走る――。
――『切る』攻撃、所謂のかどうかは知らないが、斬撃を体で受け止めるのは、ダメージが大き過ぎる。あの刃の薄さと、彼女の常軌を逸した速度で切られては、受け止めるどころか、そのまま真っ二つに両断されるかもしれない。『刺突』ならば、損傷個所を線ではなく、一点に絞ることが出来るだろう。
そんな馬鹿みたいな、ごく単純な思考が働いた。
と言っても、刺される方が斬られるよりはいくらかまし、というだけである。体を貫かれる痛みというのを、僕は嫌というほどに思い知っていたが、それでも、何度経験しようとも慣れるものではないし、慣れてしまって良いものではない――。
彼女の鋭い刀は、存外すんなりと、肉体の内部へと侵入した。体の前面の皮膚を、筋肉をいともたやすく破り、背面へと抜けた。腸や骨の組織をも断ち切っている可能性もある。
勿論、そんな感覚があったわけではない。そんな悠長なことを感じる時間があったわけではない。ただ現状から推理して、起こったことを順序立てて説明すれば、そういうことになるのである――。
「……ぐっ、ぁあ」
痛み、と言うより体に異物が、それも左脇腹という入口でも出口でもない部分から侵入したことに対する、強烈な嫌悪感、気持ちの悪さをやっと感じられるようになったのは、左側の腹部に当たる彼女の右手を、僕の両手で包むように掴んだ頃だった――。
もしもの時に備えていた縁も、意図を汲んでくれているらしい。剣呑な顔をしているが、足を一歩踏み出すだけで止まってくれている。
ふと手元を見てみると、刀の鍔からは、ぽとぽとと、冗談のように鮮やかな血液が滴り落ち、乾き始めた地面に更に濃く新しい染みを作っている。
じわりと嫌な汗が湧く。
再三言ってきたことを、ここでも敢えて繰り返し言うが、僕は痛いのも、グロテスクなことも大の苦手なのだ。だから僕は、ゆっくりと血の滲んできている傷口から顔を背け、意識を腹部から外した。
気が狂いそうになるのも、叫び声をあげるのも堪えて、今度は僕を刺し貫いた女へと顔を向けると、女はその攻撃的な瞳で、真っ直ぐと僕の顔を見つめていた――。
こうして間近で見てみると、改めてその美しさに気付かされる。乱れた髪ですら、彼女の神秘的な美の一部として機能している。人にあるべき欠落というものが、彼女には一つもない。
これもまた彼女の密かな願いだったのだろうか。この容姿が彼女の理想だったのだろうか。
透き通るように白く滑らかな肌に、長く艶やかな黒髪、背丈は一・八メートルほどあるだろう。女性としては相当に大柄だ。
伏見は、身長にコンプレックスを持っていた。バスケットボールの世界で背が低いということは、それだけで重大なハンディキャップなのである。背の低い選手が、背の高い選手たちの間を掻い潜ってシュートを決めるのは非常に難しい。一応平均身長には達していた僕でさえそうだったのだから、彼女の苦労は並大抵のものではなかっただろう。
だけど僕は、そんな彼女のプレーを見るのが好きだったのだ。縦二十八メートル、横十五メートルのコートを無尽に駆けずり回り、全員を振り切ってレイアップシュートを決めてくる彼女に、同じく身長という才能に恵まれなかった者として憧れていた。壁のように高いプレーヤーを前にしても、物怖じせず活路を切り開いて行く彼女の姿は、あらゆる劣等感を跳ね飛ばさんとする彼女の姿勢は、見ているだけで心地が良くて、爽快だった――。
だから僕は彼女を否定するのだ。僕が好きだったのは、尊敬し憧憬していたのは、無遠慮で協調性の欠片もない、あの正直者の彼女だからである。
勝手な押し付けかもしれないが、それを伝えるために、僕はここへやってきた――。
「殺されて、くれるのか?」
女は僕の目から視線を外さない。そんな狂気に満ちた瞳まで、神憑り的に綺麗だ。
「いいや、殺されないよ。お前の為に僕は死ねない」
出来るだけ落ち着いた素振りで、諭すように、嘘でも優しく、徐々にリアルになっていく腹部の痛みを無視して言う。
――僕は誰の為にも死ぬことが出来ない。
「だけどな、伏見。僕はお前のために命を捨てることは出来ないけど、お前の為に命を懸けるくらいのことはいくらでも出来るんだぜ」
これは自己犠牲ではない。だって僕は犠牲になんてならないのだから。
少しだけ痛いのは、きっと生みの苦しみという奴だ。新しい関係を築く、これはそのための最初の痛みだ。
「なあ伏見。神様に願うことなんて、大金持ちになるとか、世界平和とか、そういう下らないもんで我慢しとけよ。本当に大事なものを、簡単に願ったりなんかするなよ。お前だって分かってんだろ? そんなことをしたって、大切なものは手に入らないって。――だからお前は、レギュラーにして下さいって、願わなかったんだ」
「なっ……」
認められたいだけならば、ただそうとだけ彼女は願えば良かった。そうしなかったのは、これまでの努力を、彼女の青春の全てを、彼女自身、完全に否定することが出来なかったからだ。
最後の最後で、伏見は踏み止まっている。彼女がまだ人間の意識を辛うじて保っているのは、そういう理由があってのことなのかもしれない――。
女は僕の目を見る。
「承認が欲しいんなら、取り敢えず僕ので我慢しといてくれないか」
どうしても、意識の中に痛みが入ってきて、震えてしまう。息を吸うと苦しくて、情けない声が漏れてしまう。
「……どうして? どうしてお前にはそこまで出来るんだ? 私なんかのために、どうしてそこまでするんだよ。どうして、放っといてくれないの?」
女は本当に不思議そうな顔をした。
僕と同じに、その声は震えていた。
振り絞って、歯を食いしばって僕はどうにか彼女の質問に答える。
「分かり切ったこと言ってんじゃねえよ。言ったはずだぜ? 伏見。健全な男子高校生ってのは、クラスメイトの女子を常にいやらしい目で見てる生き物なんだ。僕だってそうだ。お前のことをそういう下卑た目で見てる。――つまりな、僕はクラスメイトであるところのお前に、いやらしくも、見返りを期待してるんだよ」
僕は神を崇拝しない。僕は神に願わない。
だから祠の主としての彼女ではなく、人としての、伏見空としての彼女に告白する。
「伏見。こんな状況で言うのもなんだけど――」
――こんな状況だからこそ言うけれど――
「僕と友達になってほしい」
僕が彼女に願うのは、望むのはそれだけだ――。
要望と了承によって築かれる関係など契約だと僕は嘗て犬上に対して言った。そんな機械的な手続きを踏んで築かれたものなど、本物の友人関係ではない、などと。
だけど、契約だろうが何だろうが、それで彼女が戻るなら、彼女が人間でいてくれるなら、またあの走る姿を見られるのなら、どんなに不平等な内容でも僕はそれを受け入れる。対等な関係でなくとも構わない。
僕は彼女に憧れる謂わばファンのようなものなのだ。一介のファン風情が、彼女と友達になろうなんて、そもそも分不相応な話なのである。
或いは片想いとでも言おうか。僕が彼女に抱いている、決して恋ではない感情は、想いは、思慕は、そういう一方的なものでしかないのだ。
そんな身勝手な気持ちを押し付けようというのだから、高望みはできない。だって相手は、何でも願いを叶えてくれる都合の良い神様などではなく、一人の人間なのだ。
「……それだけのために、お前はそんな下らない見返りのために、こんなことをしているのか。そんなことのために、自分の命を懸けているのか?」
「そんなことでも、下らなくもねえよ。お前と友達になるってことは、僕にとってはとてつもなく重要なことだ。人生の最大目標と言っても良い。僕からしてみたら、お前みたいな奴は高嶺の花なんだよ」
何に、どれだけの価値を見出すかなんて、人それぞれだ。それぞれに自由であるはずだ。例えば伏見空にとって、月曜日に起きた出来事が『それだけのこと』ではなかったように、僕にとってこの願いは何よりも切実なのである。
「このくらい当たり前だ。自分の命を懸けられない奴のことを、僕は友達なんて呼ばないよ――」
柄を固く握りしめる女の血に濡れた手から徐々に力が抜けてゆく。
「……でも、……でも私は、お前を傷付けた。お前に酷いことを言った。酷いことをした。今だってしている。こんな私が、お前を殺そうとした私が、人間に戻れるはずがない。私はとっくに、人間失格だ」
確かに、よく自分の体を見てみると、それなりに、街中を歩いていれば好奇の目で見られるくらいには出血している。制服も破け、非行少年と見紛われても仕方のない風体だ――。
「そうか? いや、人間だった頃と大して変わらないような気がするけど。お前だって思春期の女の子なんだから、隠し持ってた刃物で同級生に切りつけたところで、別に不思議じゃないだろう? ――と言うか、僕に切り掛かった時点で、お前は人間より、神様として失格なんだよ」
――そう言えば、刺すぞと脅されたことがあったけど、本当に刺されるとは思わなかったな。
「それにお前が友達になってくれるなら、僕はお前を許せるしな」
「――そんなの、そんなのはただの脅迫だ」
伏見は、人を傷付けやすい人物だったが、そのことで負い目を感じない人間ではなかった。精神的にではなく、実質的に、肉体的に傷を付けたとあっては尚更だろう。
先程の彼女の独白を聞いた今となっては、その苦しみは容易に想像できる。人間に戻ったとしても、彼女が自分を責めるだろうということは最早明白だ。
これは間違いなく、彼女にとっては脅迫なのだ。
「そうだよ。僕はお前を脅してんだ。お前と友達になれるんなら、きっかけは負い目だって良い。僕は自分の願いを叶えるためなら、何だってするんだよ。脅迫もする。腹を刺されもする。全人類だって敵に回すよ。そのためにならどんな努力も惜しまない」
――本当に叶えるべき願いってのは、そういうもんだろ。そうやって、手に入れるもんだろ。
「なあ、伏見。お前のことなんて、僕はとっくに認めてんだよ。神様になんかならなくたって、人間のお前を僕は誰よりも認めてた。じゃなきゃわざわざこんな馬鹿みたいなことしないよ。こんな痛いことはしない。いくらお前だってそんくらい分かるだろ?」
――僕が今のお前を否定するのは、お前を人に戻して、お前と友達になるためだ。
「それに、お前を認めてたのは僕だけじゃない」
「何を――」
「あの投票、お前は確かに負けたけど、お前を支持した人間もちゃんといたんだ」
有効票全二十六票の内、先輩、谷代火波に投ぜられたのは、二十一票。つまり、本人を除いて、四人の部員が、伏見空に票を入れている――。
僕は、犬上が苦心して統計したその結果を女に伝えた。
「確かに惨敗だよ。たった四票だ。だけど、お前に票を入れた奴の中には、お前のレギュラー入りを神様にまで願っちゃうような奴もいたんだぜ」
谷代火波は月曜日、投票が行われたまさにその日、突風に煽られ転倒し、足首に怪我を負った。直後、体育科の教師に言われるがまま、保健室まで彼女に肩を貸したのは、他ならぬ僕である。
あの不自然な転び方、彼女だけを狙ったかのように吹いた突風。僕の見たあれは、祠の主、伏見に取って代わられる前の彼だか彼女だかが、ある人物の願いを聞き届けたことによって生じた現象だった。
神としての力が今ほど強力ではなかったために、足首の負傷という形で願いが叶えられたらしいが、この場合重要なのは、微弱な存在であった神に、願いを聞き届けさせるだけの、切実な願望を持った人物がいたということなのである。
良識ある犬上は、それが誰とは言わなかったが、伏見に投票した四人の内の一人であることは、どうやら間違いないらしい。
それがどれだけのことなのか、同じく神に願い、願いを叶えられた彼女ならば分かるはずだ――。
「伏見。お前僕との約束を反故にするつもりか」
「約束……」
「ああ。お前の練習に付き合うって、約束したじゃねえか」
彼女には人の気持ちが分からないらしい。僕にだってそんなことは分からないが、ならば僕は言葉にしよう。彼女のように臆面もなく嘘偽りなく、柄にもなく、正直に気持ちを伝えよう。伝える相手が生身の人でないのなら、羞恥心もいくらか紛れるはずだろう。
「僕は結構楽しみにしてたんだぜ? お前とまた、バスケするのを。連絡が来るのを待ってんだ。だからそんなところで、人の願いなんか叶えてないで、早く戻って来てくれよ」
――お願いだから。
「……伊瀬。私は人の気持ちが分からない人間だ。空気も読めない。自分勝手で、我が儘で、協調性の欠片もない。口が悪くて、簡単に人を傷付ける。そういう人間だ。人間だった。お前だって言ったじゃないか。私は質の悪い女だって。どうしてそんなどうしようもない私と、友達になんてなりたいんだよ。趣味が悪いだろ、そんなのは」
「そういうお前だからだよ。強くて、格好良くて、人に迎合しないお前だから。そんな孤高なお前が、ただ孤独なだけだった僕には羨ましかったんだ」
――まあ、お前はそんな風に思ってなかったらしいけど。
「私はただ、独りでしかいられないだけだった。人と一緒にいることも出来ずに、結果として独りになっただけだ」
「だけど、そんなお前も良いって思ったよ。そんな弱くて脆くて、悩んでるお前も良いと思った。結局僕は、いつも強がって、凛としてる女の子が、弱ってるのを見て放っておけなくなっただけなのかもしれない」
身も蓋もない本音に、僕は苦笑した。
僕には本当は崇高な理由などないのだ。高尚な大義名分などないのだ。可愛いクラスメイトが悩んでいるから、ちょっと声をかけた。僕の行為はきっとそのくらい、浅はかで愚かしい。人の弱みに付け込んだ、スケベな下心丸出しのナンパみたいなものだ。
だけど、それでも良い。僕が彼女と友達になりたいというのが本当であるなら、それ以上に理由など必要ない。そもそも理由なんてものは、いつだって後付けだ。感情や行動を正当化するための言い訳に過ぎない。
「……伊瀬。私は神様だ。人の願いを叶えるのが仕事だ」
女はとうとう刀の柄から手を放す。
不思議と重みは感じなかった。見えているだけで、そこにはもう、刀など存在していないかのように僕には感じられた。
「伏見、お前、何を――」
「私には掛けられた願いの全てを叶える義務がある。今の私はそういう装置だ。神として、私は例外なく、願いを叶えなければならない。――だから、お前にそんな風に願われたら、私はそれを叶えずにはいられない。こんなことをされたら、戻らないわけにはいかないよ。戻ってちゃんと謝らなきゃ、ちゃんと言わなきゃ――ああ、叶えよう。叶えようとも。そしてこれが、私が神として叶える最後の願いだ」
――僕の願いはこうして通じた。神の耳に、彼女の精神体、安い言葉で言うところの、心にどうやら届いてくれたらしい。
彼女を人たらしめるには、こんなちっぽけな、僕如きの紙一重の承認でも良かったのだ。たったそれだけで、彼女は人として生きて行けた。
全く、痛い思いをした甲斐があったというものである。まあ、見返りが彼女との繋がりだと言うのなら、こんな代償は些細なものと思って見過ごすことも出来よう。
「償いは戻ってからする。負い目は私が、伏見空としての私が一生感じることにする。そんなことで償えるなんて思わないけど」
伏見は泣いていた。何故泣いているのか、僕には分かるべくもないが、きっと僕を切ろうとしていた頃とは別な涙だろう。
大粒で、月の灯りに仄かに輝いて、ぽろぽろと零れ落ちる。鼻を赤くし、声が掠れるのを堪えて泣くその姿は、神などとは程遠い。
「償いなんていらないよ。こんな傷は大したことじゃないんだ」
――僕の体の傷はすぐに治るから。
「だから、負い目なんて感じる必要ない」
――お前が僕の願いを叶えてくれるってことは、僕たちはもう……
いや、その先は良いだろう。世の中には言わぬが花という言葉もある。今更だが、そう何度も繰り返すのは無粋というものだ。
「じゃあ、伊瀬。すぐに行くから、ちょっと待ってて」
そう言って、俄かに、忽然と女は姿を消した。
伏見空の魂は、神の座を離れ、伏見空の肉体へとそうして戻って行った。