<拾貳>
夜はもうすっかり更けている。足元を照らすのは薄い月明りと、遠くで光る幹線道路の照明だけだった。
牛蛙の鳴き声と、せせらぎが空気の重い夏の夜に響く。
高校生が外出して許される時間ではない。そのことについては一抹の罪悪感が拭いきれないが、物事には優先順位というものがある。
今夜、僕には法律だか条令だかを破ってでも成し遂げなければならない、最優先事項がある。
「僕が話をしてくるから、お前はそこで、待っていてくれ」
降り立った場所に待機するよう、僕は縁に頼んだ。
本来なら今回のことに縁を巻き込むのは、筋違いなのかもしれないが、だから僕は協力を遠慮したのだが、それに対する縁の返答は『今更そんな水臭いことを言われることの方が、傷付く』だった――。
「良いのか?」
縁が、恐らく僕の身を案じて尋ねる。
「ああ」
――あいつに話を付けるのは、僕の役目だ。
「用心せよ。恐らく、今の奴は不安定じゃ。神の身でありながら、人のように振る舞うやもしれん。ルールは通用せんかもしれん。或いは、お主に危害が及ぶことも……」
「大丈夫だよ」
――僕はただ、落ち込んでいる同級生を、励ましに行くだけなのだから――。
不安気な縁を残し、湿った土の匂いのする真っ暗な小路の奥に進んで、僕は今日こそ正式な作法に則って、柏手を打った。
柏手を打つと祠の主が姿を現す、という噂は真実である。それは既に実証済みだ。
「――ああ、何だ。お前か。どうした、こんな夜遅くに。人に聞かれたくない願いでも出来たか」
ルールに準じて、噂通りに、どこからともなく祠の主が姿を現す。
昨日と同じ美しさのまま、昨日と同じ高い目線から、女は僕を見下ろしている。
長く艶やかな黒髪に、滑らかな曲線を描く女性らしい体、仮面の下から覗く白くきめの細かい肌。
本当に美しい。人間離れした造形の美しさである。人は美の中に神秘的なものを見出すと言うが、成程この人形が、神として崇め奉られるのも頷ける――。
「随分あっさり出てくるんだな、神様って言う割には」
「そりゃあそうだろう、神様なんだから。人の呼び掛けには応えるさ。せっかく必要とされているのだからな」
――必要、か。
「お前は何のためにそんなことをしているんだ? どうして人の願いなんかを叶えている。見返りも要求せず、一体、どうして」
「また問答か。理由などないさ。そういうものだから、そうしているだけだ。そうすることで存在を保っている。私は人間の需要に応えているに過ぎない」
「応え過ぎだ」
ふと、そんな声が漏れた。
――こいつは力を持ち過ぎた。願いのことごとくを叶えてくれる神様なんて、そんなものは逸脱している。度が過ぎている。
「良いじゃないか。それだけ私を認めてくれているということだ。お前はどうなんだ。お前だって私のことを認めているのではないか? だからここへ来たのだろう? 願いに、来たのだろう?」
それを期待しているかのような言い方だ。
「――願わないよ。僕はお前には願わない。僕はお前を認めない」
昨日も言った言葉だが、昨日とは別な理由で、僕は神を認められない。
「何だ。気が変わったわけじゃなかったのか」
とここで、俄かに女は態度を変えた。気さくさや親しみやすさが消え、昨日の別れ際のように厳粛で排他的な態度へと明らかに変化した。
僕の言うことに不服でもあるかのように。
「――何故だ。お前の学校の生徒たちは、皆私に願ったぞ。皆私を認めてくれたぞ。ここへ来る誰しもが、私を信仰したぞ。私を、私の力を。なのに、どうしてお前は私を認めない。私を承認しない。お前だけが……」
苦々しいような、憎々しいような、はっきりと感情の読める口調で女は言う。
「そうか。ああ、そうだな。僕は、僕だけは、例えば、世界の全てを敵に回しても僕はお前を認めないよ。僕以外の全人類が、お前を認めて、お前の味方をしたって、僕だけは敵対する」
こいつの正体が明らかになった時、僕はそう決めた。
「それに、皆がやってるからやるってのは、ロックの魂を受け継いだ僕の中じゃあ、格好の悪い台詞として登録されているからな」
「ふざけたことを。……何故だ。どうしてだ。どうしてそうまでして、お前は私を拒絶する。願いもないくせに、どうしてお前は、わざわざ私の前に現れて、私を積極的に否定しようとする。お前の行動は理解不能だ。お前は私に、神である私に、嫌がらせでもしたいのか? 弱く、脆い、人間の身で」
「嫌なのか? 否定されるのが、拒絶されるのが、そんなに嫌か」
――そんなに怖いか。
……神様のくせに。
「……ああ。嫌だよ。嫌に決まっている。信仰とは即ち肯定だ。私はその力によって、この世に顕現している。人に認められなければ、私は存在を失ってしまう。私は神だからな。神だからこそ、否定されるのが怖い」
「神様ね」
僕は、神を信じない。
「……いや、ほんっと、下らねえよ。神様なんて」
「なっ」
反論を許さず僕は続ける。
「お前も、学校の奴らも、神だ何だって、馬鹿じゃねえのか? いるわけないだろ、んなもん。言っておくけどな、可哀想だから今まで言わないでやってたけどな、僕はお前が神様だなんて一ミリも思ってねえからな。願いを叶える? はっ。馬鹿馬鹿しい。お前なんかにそんなこと出来るわけないだろうが。お前なんて、ただの痛々しい、若気の至りの化身みたいなもんだろ。そんな奴が、何の力もないお前みたいな奴が、人の願いを叶えるなんて、そんな話を信じるなんて、全く世も末だな」
「やめろ」
僕は女の制止を無視した。
意にも介さず、彼女の声など聞こえていないかのように、言葉を連ねる。
「あー、恥ずかしい。同じ高校に通う生徒として、こんな妄言に付き合っちまうお人好しがいると思うと、恥ずかしい限りだ」
「やめろ」
「いや、どうだろうな。実際お前にお願いした奴らも、陰じゃお前のこと、馬鹿にして、笑ってるのかもしれないな」
「やめろ!」
「だってそうだろ? 常識的に考えて、神様なんているわけない。神様が人の願いを叶えてくれるなんて、あり得ない。」
――人の願いを本当に叶えられるのは、人だけだ。
「やめろっ!」
「夢物語にも程がある。お前は人の願望を成就させる力なんか持ってない。お前には何も出来やしない。お前じゃ何も成し遂げられない。非力で、弱くて脆くて、本当は皆からも必要とされてない、惨めな存在でしかないんだよ、今のお前って奴は」
「――やめろっ!! ……やめろ。私を否定するな。私を拒絶するな、それ以上言えば……」
「それ以上言えばなんだ。神通力か何かで裁きでも下すってか? はっはっ。だから、お前にはそんな力ないって、言ってんだろ――」
――うがっ!!
強烈な腹部圧迫。
刹那、僕の体は宙を舞った。言葉を言い切るより前に、得体の知れない力によって、僕は遥か上空に吹っ飛ばされていた。
五階ある校舎を優に越えるほどの高さまで――。
――街の灯り、欠けた月、暗い袋小路、また夜空、回る世界。
柔道の有段者に投げ技を打たれたかのような、喩えるならそんな具合に、目まぐるしく、視界がぐるぐると回転する。勿論、実際に回転しているのは僕の体である。
何をされたのか、理解できなかった。何かをされたと気付くのにも、数舜か、数秒の時間がかかった。それくらい、突然で、一瞬の出来事だった。
予備動作も何もあったものではない。完全に不意を突かれた形である。とは言っても、不意を突かれていなければ、それを防ぐことが出来たかと問われれば、正直に無理だったと僕は答えなければならない――。
僕は重力に逆らって飛んだ。否、飛ばされた。
そして重力に従って落下する。最高到達点に達し、運動エネルギーがゼロになった頃、運動の方向が上下逆転してようやく、僕は遅ればせながら事実を理解した。
神の怒りを買ったのだ、と。
身の程を弁えない人間に、人間風情に、彼女は罰を下したのだ。人間を超えた存在としての力を示し、裁きを下した――。
そう理解したところで、急激に速度が増していく。体が大気の層を切り裂いて、断続的にけたたましい衝突音が発生する。
――さて、ところでこれは、……大丈夫なのだろうか?
……大丈夫なわけがない。
人間が高校の校舎を上回る高さから落下すれば結果は明らか、打ちどころに関わらず、まず間違いなく死に至る。全身の骨が砕け、内臓は破裂し、脳も潰れてしまう。全うな人間ならば、ほぼ即死だ。
全うではない治癒能力を得ている今の僕でも助かるかどうかは定かではない。助かるのだとしても、一時的に即死級のダメージを肉体に負う。回復までには数十秒から数分の時間を要するだろう。
きっと、と言うか絶対に、それは痛い。多分、いっそ殺してくれと叫びたくなるくらいには痛い。
――受け身っ! 受け身取らなきゃっ!
僕は落下する。それも、頭を下にして。
――前回り受け身っ。
いやまあ、受け身を取ったところで、という話なのだが……。
――死ぬ死ぬ死ぬっ!
迫り来る大地。落下の速度によって、重心を上手くコントロール出来ない。空に投げ出された人間の、何と無力なこと……。また一つ、僕は人生の厳しさを知ったのだった。
為す術もなく、体が大質量の大地に吸い寄せられていく。
手を上に、いや、下に伸ばして力を籠める。焼け石に水だろうし、両腕は壊滅するだろうが、頭をそのままぶつけるよりはいくらかましかに思われた。
速度と同時に、加速度的に恐怖の感情が心の中を席巻して、気が狂いそうになるが、そんな猶予さえ最早残されていない。
僕は覚悟を決め、目を閉じた。衝突は、衝撃は今や避け得まい、という覚悟を決めて、である……。
「――集えっ!!」
……落下の寸前、激しい風切り音の中に、不思議と明瞭に、彼女の叫ぶ声が聞こえた。
と、ほぼ同時、体に衝撃が走り、鼓膜を破かんばかりの大音量で、衝撃音が鳴り響く――。
僕は恐らく着地した。……高く飛沫を上げながら。
……にしては。
地上数十メートルの高さから落ちた割には、痛くない。いや、痛いには痛いのだが、それも相当に激痛なのだが、何故だろう、思っていたほどではない。死ぬほどではない。例えば、肩を巨大な氷柱で貫かれるよりは、余程ましである。
それに……
「ぶべっ――」
咄嗟に『冷たい』と叫びたかったのだが、何かが邪魔をして発音できなかった。
――ゴボゴボという音を立てて、気管に気体ではないものが入り込んで、息が苦しい。
驚きのあまり僕は瞑っていた目を開いた。そしてまたしてもようやく、自分が何に受け止められたのかに気付いたのであった――。
水である。僕を衝突から守ったのは、不自然なほどに巨大な水の粒、だったのである。
不思議な景色だった。二十五メートルプール一杯分はあろうかという大量の水が、一粒の滴のように球形を形成していて、僕はその球の内側から、屈折した世界を見ていた。
水に頭を冷やされて、急速に冷静さが戻ってくる。僕の思考は再び活動をし始めた。
――外から見たことは何度もあったけど、内側に入るのは初めてだな。いや、そもそもこの規模は見たことないか……。
だが、そんな不思議な、ともすれば幻想的な状態はすぐに解除される。その不可思議を生み出した張本人によって、僕は間もなく水のクッションから解放された。
術を解かれた水の塊が、着地地点、いや着水地点である我が県立東柳童高校の校庭を、見る間に水浸しにする――。
「お主、無事か」
遅れること数秒、術者である縁ことドラゴンが姿を現す。
「ゲホッ、ゲホッ、ケホッ……。あ、ああ。うん、何とか。お前のお蔭で、肋の二、三本で済んだかな」
――一度は言ってみたかった台詞だ。
「たわけが。それはリアルな人間基準なら重傷じゃ。しかし、そんなことを言っておられるということは、まあ、一応は無事なのじゃろうが」
胸を撫で下ろした様子の縁。
「まさかお前の水芸がこんなところで役に立つとはな」
「針の筵を用意すれば良かった! そんなことを言われるのなら」
――針の筵って! 比喩表現以外で使われることもあるんだ。
「うそ、うそ。ホントに、助かったよ。正直死を覚悟した。もう駄目かと思った」
――今更だけど……あー、怖かったぁ、紐なしバンジー!
「全く、じゃから用心せよと申したではないか」
縁が不満気に言う。
「いやあ、あれは用心したところで防げるもんでもなかった気がするんだけど。と言うか、僕は具体的には何をされたんだ?」
「私はお主が尋常ではない速度で吹っ飛ばされておるところしか見とらんからの、何がどうなってそうなったのかまでは知らん」
――まあ、神様の不条理な力であることには間違いなさそうだが、理屈の通用しない相手というのは、どうにもならない。
「にしても何で水よ。別に空気でも良かったんじゃないのか?」
――お蔭で上から下までびっしゃびしゃだ。
「仕方がないじゃろう。この姿では出力が落ちておるのじゃ。せめて羽だけでも戻しておれば、大気操作で衝撃を吸収しきれたかもしれんが、今回は水の方が都合が良かったのじゃ。たまたま大量の水が予め近くに用意されておったしのう」
――この近くで、大量の水がある場所と言えば、……まさか、川! ……あぁ、いや、流石にそれはないか。この臭いは――
「プールの水か。お前、あれ一杯でいくら水道代かかるか知ってる?」
因みに僕は知らない。昔、有名な青春映画で、生徒がプールの水をパアにして、学校から高額請求されていたのを覚えているだけだ。
「お主、それは今、果たして重要な問題か?」
「重要だろ! 我が家の家計に関わる」
「何じゃけち臭いのう。安心せい。後でちゃんと元に戻しておくわい」
「なら良いけどさ」
話しながらも、縁が自慢の精霊術で心地の良い温風を作り出し、濡れた衣服や頭髪から急激に水分が抜けてゆく。
最近ようやく加減が分かってきたらしい――。
「――どうして無事なんだ。何だ、今の水は。誰だ、その女は」
その冷たい声に思わずぎょっとして僕は振り向いた。
僕と縁の再開の無駄話を、忌々しそうな声で遮ったのは、祠に住まうあの女だった。
住居であるあの神域から出てまで、追ってくるなど考えてもいなかったが、確かに、住んでいるからといってその場所から出られないという道理もない。
彼女の噂が流行しているのは、他ならぬこの学校なのだ。神域の定義を拡大して解釈すれば、ここもまた、彼女のテリトリーと言える――。
冷静を装いながら、慎重に質問に答える。
「……こいつは僕の、家族、っていうか、相棒? みたいなものだよ」
――犬上の時もそうだったけが、他人に僕たちの関係を伝えるは中々難しい。
僕自身、どういう関係なのか実はよく分かっていない。力関係から見て、保護者というのも違うのだろうし、強いて言えば命の恩人、とかだろうか。
何にしろ、今考えるべきことではないようだ。
「――そうか。やはりお前には窮地に陥った時、助けてくれる人間がいるのだな」
「僕を窮地に追いやったのは、お前だろうが。お前、本気で僕を殺そうとしたな」
僕は女を咎めた。
彼女は僕を殺そうとしていた。僕のバックに偶然、伝説のドラゴンが控えていたから助かったが、しかしその事実を彼女は知らなかったはずだ。
だから、彼女は僕という人間が死ぬことを見越して、大いに期待して引き金を引いたのだ。
縁のお蔭で助かったが、縁から引き継いだ治癒能力で死にまでは至らなかったかもしれないが、これは言い逃れの余地もなく、殺人未遂に他ならない。
「ああ、殺そうとしたさ。私はお前をこの世から消そうとした。どうやら失敗したらしいがな」
悪びれる風もない。
「お前それでも……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
「それでも人か、と言いたかったのか。それとも、それでも神か、と言いたかったのかな。いづれにせよ、答えは同じこと。残念ながら、私はこれでも神だ。人々の信仰を集める超越的な存在だ。――そして人ではない」
決然とした態度で、きっぱりと、女は言った――。
「人を殺す神なんてもの、認められるわけがないだろ。気に入らない人間を、不条理な力で存在ごと抹消するなんて、そんなの、独裁者と同じだ」
そんなもの、僕は神とは呼ばない。崇めたりも、奉ったりもしない。
「だから何だ。独裁の何が悪い。皆で決めることが絶対に正しいのか。民主主義は間違いを犯さないのか? そんなことはないだろう。今の一見平和な世の中にも、不条理なことは沢山あるじゃないか。ならば、愚かな群衆より、秀でた一人が尊重されない理由がどこにある」
そう言ってしまいたくなる気持ちは、推し量れるが、賛同はできない――。
「それに、お前がいなくなれば、お前さえいなければ、そんなことを私に意見する人間も、いなくなる」
――ああ、本当にこいつはもう、少なくとも今現在、人間ではないらしい。
そんなことを簡単に言えてしまうなんて、どうかしている。人間でも、ましてや神でもない。
「私だってこんなことはしたくないさ。だけど仕方がないだろう? お前がどうしても、私を認めてくれないから、お前が私を拒絶しようとするから、だから殺してしまうしか、他に方法がないじゃないか――」
言って、女は一振りの刀を引き抜いた。何もない空間から、僕の身の丈ほどはあろうかという、見ているだけで切れてしまいそうな、美しい刀身の太刀を抜き放った。
物質の創造。確かに、世間一般で知られているところの、神の御業に相違ない。
「これくらいのことならいくらでも出来る。これならば、今度は失敗しないだろう。本当に、お前の命を奪うことなど容易いことだ。――これが私の得た力だ。少しは気が変わったか。私を、承認する気にはなったか、人間」
ここで退かなければ、今度こそ僕は殺されるかもしれない。
いや、かもしれない、などと希望的な観測をするのはよそう。これ以上続ければ、彼女は間違いなく、あの薄い刃でもって僕を切り捨てる。事実、彼女はつい先ほども、僕を上空に打ち上げ、落下させ、殺害しようとしたのだ。
人の命を奪うことに、彼女はもう、躊躇いを持っていない――。
しかし僕はどうしても、ここで折れるわけにはいかないのだ。命は惜しいが、毎度のことながら逃げてしまいたい気持ちで一杯だが、ここで彼女を見捨てれば、僕はそのことを一生悔いるだろう。僕はこの先、誰にも顔向けできなくなる。
自分の命を軽視しているわけではない。ここで死ぬつもりなど毛頭ない。縁から貰ったこの命は、そう簡単に手放せる代物ではないのだ。
僕は自分を犠牲にしない。僕も、誰も何も犠牲にせず、事態を鎮静化する。僕に叶えたい望みがあるとすれば、それは、そういう都合の良い結末だ。
そしてその結末は、やはり僕自身の努力によって掴み取るべきだ――。
「そんなのが何だよ。そんな偽物に、借り物に、一体何の価値があるってんだ。何の意味もない。今のお前には、何の価値も、ない」
僕は言った。真っ直ぐと、相手の目を見据えて、取り繕うことも誤魔化すこともせず、ただひたすら正直に。人との軋轢や争闘を恐れない、嘗ての彼女がそうしたように――。
「そうか……。相分かった。ならば――次は逃さん」
長い刀の鋭利な切っ先をこちらに向けて、女は正面に構える。
月光に照らされ、ぼんやりと輪郭を広げる女の立ち姿は、その切れんばかりの殺気を含めて、見惚れるほどに美しかった。
「お主」
優美さすら感じさせる女の突撃体制に、僕の隣に立つ縁が気遣うような視線を送る。
心配するのも尤もだ。大丈夫だと言っておきながら、僕は今しがた殺されかけたばかりなのだ。縁の助けがなければ、致命傷を負っていた。信用されなくて当たり前である。
だけど、これ以上進むことがどれだけ危険でも、僕に退くという選択肢は用意されていないし、縁の力を当てにする気もない。
これは僕こそが、どうにかしなければならない。
「悪い。お前は手を出さないでくれるか。あいつは僕が……」
――僕が元に戻す。
きっかけを作ってしまったのだから。僕でどうにかなるのなら、そうすべきだ。
「お主がそう言うのであれば、手出しはせんが、お主の命が危うくなれば――」
しかし縁の言葉は、突如として、ここで遮られた。
作戦会議を待ってくれる敵など、やはりリアルでは存在しないのである。
「――お前など、消えてしまえ」
物騒な台詞を吐きながら、神を名乗る女が人間離れした速度で、僕目掛けて袈裟懸けに切り掛かる。
「っと!」
十メートルの間合いを一挙に詰めた女のまっすぐな斬り下ろしを、ほとんど無意識に、左足を蹴って躱す。
鋭い何かが、空を切り裂く音がした――。
直撃すれば、僕の体は斜めに分断されていただろう――。
だがそれは言い換えれば、直撃はしなかった、ということである。いや、直撃どころか女の刃は僕の纏っている衣服にさえ、掠りもしなかった。
人間離れしているのは、やはり僕も同じなのである。僕の肉体の強度は、今現在、常人のそれを逸脱している。竜の心臓を受け継いだことで、僕の体は、まともではなくなった。
化物染みている。以前の彼女でさえ、そう感嘆した。
そして、少なくとも彼女を相手にする限りに於いて、彼女が人間の作法に則って僕を殺そうとする限りに於いて、攻撃を回避するという行為は、化物並みの運動能力を得た今の僕にとってはさして難しいものではないらしい。
銀色の閃光が走ったのは、僕の体から三十センチは離れた空間だった。
「忌々しいっ」
苛立たし気に言いながらも、女はすぐに切り返し、振り下ろした刃を翻す――。
剣先が見えない。それほどまでに、攻撃は速い。強化された僕の目で見ても、はっきりと捉えることは不可能だ。狐の面が邪魔をして、視線から動きを読むことも儘ならない。
殺気だけが痛いほどに伝わる。僕という人間を、切り殺し、この世界から消してしまいたいという直線的で攻撃的で、強固な意志。
人はここまで壊れてしまえるのか。
二太刀目をバックステップで避けながら、暢気にも僕はそんなことを思った。そしてまたしても思い知る。
――こいつはもう、とことん人間ではないのだ。
仮面の下で、歯を食いしばっているのが見える。
形振り構わず、猛り狂った獣のように、女は立て続けに刀を振るう。
振り下ろしては振り上げ、突き、薙ぎ、あらゆる方法を以て、僕の体を全力で破壊しようとする。型も何もあったものではないが、そんなものは彼女の人間の範疇を超えた身体能力があれば問題ではない。洗練されてきた形など度外視して、ただ振り回すだけでも、十二分に殺人的だ。
どの切込みも一様に鋭く、速く、目で追うことはやはり難しい。殺気の乗った攻撃というのを、遺憾ながら僕はこれまでにも経験したことがあるが、彼女のそれは、あの勇者にも引けを取らない、そんな威力を有している。
「殺してやる殺してやる殺してやる!」
攻撃を避けるたびに、彼女はまるで理性を失っていくかのようだった。
しかしそれは僕の思い違いなのだろう。何故なら、彼女の理性は、もうとっくに、この姿になった時点で吹き飛んでしまっているのだ。
彼女は、そもそも神に何かを乞うような人物ではない。だから、神様にお願いをした時には、彼女は既に理性的ではなくなっていたはずだ。
――いや、もっと前か。
縁との会話を思い出しながら、僕は後方へ跳んだ。
後ろの次は右に、左に、建物や校庭の縁に追い込まれぬよう、方向付けしつつ、時にはこちらから間合いを詰めて、僕は女の切込みを回避し続けた。
凶刃を目の前にしながら、僕には、考え、それを実行するだけの余裕のようなものがあった。刃の先が見えなくとも、彼女の体の動きに反応して、体が勝手に回避動作をしてくれるのである。
だから、眼前に迫る凶器への恐怖が消え去ったわけではなかったが、不思議な安心感の中で、僕は彼女と相対していた。落ち着いている、というのが適当だろうか。
その余裕を感じ取ってか、女は益々気色ばんだ。
無論、狐の面によって依然表情は窺えないままだが、彼女の怒りは明らかに太刀筋に表れているのである――。
元々単調な攻撃から無駄や緩慢さが一切排除され、更に速度を増すが、それがかえって一層動きの先を読み易くさせる。
視線が分からなくとも、いや寧ろ、視線が読み取れない分余計に、彼女の動きは読み易い。
緩急や遊びがなく、小賢しいフェイクもない。直線的に、超攻撃的に、最短距離で僕の体へと切り込んでくる。
本来ならば、それでも反応出来ないはずだった。彼女の、文字通り神速の連撃は、分かっていても止められない、という相手にしてみれば絶望的なまでの殺傷能力を持っているはずだった。
しかし僕の体に彼女の殺人的な攻撃が届くことは決してなかった。
それには、僕が現在異常な運動能力を獲得しているから、というのも勿論あったが、何より、僕が以前にも彼女とこうして、命懸けの、互いの生命を削り合うかのような決闘を、真剣勝負をしたことがあった、という要因が支配的な地位を占めてあるのだろう。
僕は彼女の動きを知っている。三十分にも及ぶ激闘によって、肉体に刻み込まれている――。
彼女は僕を殺すのに一番確実な方法を選んだつもりらしいが、しかし彼女が人間の動きをするならば、常識的な人の動作の延長上にある動きをするならば、多分彼女は、神である彼女は、人間でしかない僕の敵ではない――。
刀が空を切る。
「――どうしてっ!」
幾ばくかの時間が経った頃、女はとうとう当たらない攻撃を繰り出すのを止めた――。
その声からは、暴力的な怒りよりも、歯痒さや悲痛さが感じられる。
「どうして当たらない……。どうして、お前は……」
「当たらねえよ。お前とは散々やりあったからな。お前のプレースタイルはとっくに知ってんだ。体が覚えてる」
そして僕は彼女の名を呼ぶ。神の座に就く以前の、彼女だった頃の名前を――。
「伏見」
無防備になった女の顔へと手を伸ばし、朱で彩られた狐の面を、僕は剥ぎ取った。
――伏見空。僕が密かに尊敬してやまない、愛すべきクラスメイトはそこにいた。