<拾壹>
犬上の行動は早かった。僕がメールを送った翌日の昼休みには、犬上は必要な情報の全てを集め終えていた。
情報収集の詳細な手段については聞いていないが、どうやら朝から色々と駆け回ってくれていたらしい。本当にありがたいことである――。
さておき、犬上から聞き及んだ事実だけを簡潔にまとめると、あの後、伏見と先輩が口論になった後、とある投票があったらしい。
女子バスケットボール部顧問が問うたのは、――誰が次の試合のスターティングメンバーになるべきか――ということだった。勿論候補者は、伏見と、例の先輩である。
投票自体の是非はともかくとして、結果は既に、僕も知っていた。昨日の昼休み、伏見空本人から、その報告を僕は受けている。
――彼女のスタメン入りは白紙になった。
投票の内訳は公にされなかったらしい。だから、実際どれくらいの差で伏見が落選したのかは定かではない。だが、犬上の調査によると、かなりの差であったそうだ。ほとんどの部員が、先輩の方を支持した。実力で勝る伏見空は、しかし結果として惨敗を喫した。
内部事情を知らない僕には、何故そのような結果になったのか皆目見当がつかないが、犬上曰く、伏見と争った先輩というのは、部内ではかなりの有力者だったのだそうだ。
練習中、誰よりも声を出し、チームメイトへのアドバイスなども率先して行い、主力の最上級生でありながら雑用もこなす、謂わばチームの精神的支柱であったとか。当然、僕が伏見から聞いたような暴言は、一度たりとも吐いたことはなかったし、文句など、一言も発したことはなかったということらしい。
そんな彼女への投票は、それまで表出することのなかった、彼女の弱さへの同情や哀れみであったのかもしれない。或いは同族愛護だったのだろうか。
何を言うかより、誰が言うか。どこかから借りてきたような言葉だが、成程、それはある種の真理かもしれない。
伏見に対しては酷い言い方になってしまうが、投票結果には、普段の行いが反映されたのだ。どちらの意見が正しいか、ではなく、どちらがより好ましいか、が結果を左右する基準になっていた。
数の持つ力は絶大だ。時に愚かな選択でさえ、正しいことにできてしまう――。
状況は想定していたより悪い。結果だけでも相当にショッキングな内容であるのに、過程が、方法が更に衝撃的で破壊的だ。
部活動顧問という、絶対的な権力によって否定されたのなら、伏見もまだ我慢できたかもしれない。納得はしなくとも、甘受していたかもしれない。どんな理不尽も、不条理も、権力に裏付けされれば受け入れるしかないのだから。
だが今回はそうではない。伏見を否定したのは、彼女と対等の立場であるはずの、チームメイトたちだ。
伏見の正当な怒りは、叫びは素直過ぎた。正しくて、正し過ぎて、真理を突き過ぎていた。僕が犬上から伝え聞いた伏見の発言は、周囲の人間に受け入れられないほど、大人によって問題視されるほど、正直で、本音で、過剰で、過激だった――。
彼女らの先輩への投票は、その先輩への支持の表れだったのだろうが、一方の伏見はどう感じただろうか。自分への不支持だと、受け取ってしまったのではないのか。
そう簡単に想像出来てしまうからこそ、事態は深刻なのだ。
――だって、そんな事実があったなら、二十六人の部員の中で、誰よりも神に何かを願いたくなってしまうのは、彼女ということになるではないか。最も切実に苦しいのは、彼女のはずだろう――。
全てを知った今、改めて考えてみると、伏見の異変はやはり月曜日から始まっていた。
――どうして僕は気付かなかったのだろう。夏の暑さに浮かされていたのだろうか。
いや、そんな言い訳は許されない。伏見があの時間に僕と肩を並べて帰るなんて、あり得ないことではないか。不自然過ぎるほどに不自然だ。
伏見空は休むということを知らない。手を抜くことが出来ない。さぼるという言葉と相容れない。そんな彼女が、放課後、部活動の練習があるはずの時間に帰宅しているという矛盾に、僕は遅くとも、翌日犬上と話した時点で気付くべきだった。
『男子は体育館後で先にランニングだった。』
犬上のこの言葉を裏返せばこうなる。
『女子は先に体育館練習をしていた。』
そう。あの日、僕と伏見が下らない話をしながら一緒に帰ったあの日にも、女子バスケットボール部の練習はあったのだ。そもそも強豪と呼ばれる我が校のバスケットボール部には、完全な休日というものは年に数回しかない。
にも拘らず伏見は自転車に乗って、自宅へ向かっていた。練習をさぼらないはずの伏見空が練習をさぼって……。
その事実だけで、伏見空があの時間あの場所にいるというだけで、もうどうしようもないくらいに異常だ――。
だから僕は再び、伏見と話をする場を設けた。
照明の点かない薄暗い階段を登り切ると、伏見空はそこで待っていた。昨日と同じ、屋上前の踊り場である。
「要件は何か。」
僕が到着するや否や、彼女は昨日と全く同じ台詞を、全く同じ口調で再生した。表情も声のトーンも、何もかもが微塵のずれもなく、昨日と同じなのである。
犬上の調査結果を聞いた後では、それは鳥肌が立つくらいに、ぞっとしない光景だった――。
「お前、本当に伏見なのか。」
僕は質問をする。
今や僕は、伏見空を疑わなければならない。彼女以外の部員ではなく、彼女をこそ、彼女が今の状態になってしまった事件の、被害者ならぬ、被疑者として疑わなければならない。
伏見空が何かに縋ったという認め難い事実を、認める必要がある。
「昨日も答えたはず。ワタシの名前は伏見空。それが正しい。それ以外は間違っている。」
「そういう意味で質問したんじゃない。」
「では、どういう意味?」
「……月曜日までのお前と、火曜からのお前じゃまるで人格が変わってる。その間に一体何があった。お前は、何をした。」
一昨日の放課後、伏見は僕の、『何かの為り切りか?』という問いに、『そうかもしれない』と答えている。それを僕はもっと、重要視すべきだった。
――為り切り。為り代わり。
これに似た事例を、僕はごく最近知ったばかりではなかっただろうか。
犬神は犬上に取り憑き、体の自由を奪った。人の皮を被り、人を装った。それもまた一つの為り切りだ。人ではないものが、人にとって代わる。偽って、人に為る。
荒唐無稽でおかしな話だが、古典的な話でもある。魔女の言葉を借りれば、そういった話はきっと、ありふれているのだ。
動機は分からないが、伏見が肉体を人ではない他の何かに預けているか、乗っ取られているか、委ねてでもいるのなら、現状に一応の説明がついてしまう。いや、僕にはそれ以外、最早考えられないのである。伏見の異常な態度は、異常な理論によってのみ説明付けられる――。
だから僕は伏見に質問をする。
「お前は、そうなる前の伏見空は、あの祠に、何か願ったのか?」
そして伏見は予想通りの返答をする。
「――ああ。私は確かに神に願った。」
――ならば、それは言い逃れの余地もなく、間接的になどではなく、直接的に僕の責任だ。伏見がこうなったのは、僕の軽率な発言の影響だ。
伏見の様子がおかしくなったのは、火曜日。僕が異変に気付いたのはその放課後、犬上は朝の時点で気付いていた。
火曜日。それは女子バスケットボール部で騒動があった次の日――ではない。僕が伏見に祠の噂を流した次の日、と僕は考えるべきだった。
さぼったことのない部活をさぼってしまうほど、精神的に不安定な状態にあった伏見に対して、願いを叶えてくれる神の噂話を流したのは、他ならぬ僕だった。僕が話すまで、伏見は噂を知らなかった。だから、伏見は僕の話を聞いて祠に願ったのだ。神様に頼ったのだ。
――最悪、だ。
僕は最悪のタイミングで最悪な話をしてしまっていたらしい。人の気も知らないで、人を思いやろうともしないで、独りよがりな会話をしてしまった。
――また、後悔。自己嫌悪に陥りたくなる。
でも、今はそんな無意味なことをしている時ではない。反省は後でも出来る。
今は伏見のことを、考えるべきだ。今度こそ、人の気を知るべき時だ。
伏見が何を思って、何を願ったのか。自分が今、何と相対しているのか。対策を立てるには、まずそれを知ることからだ。
「お前は、今のお前は、僕の知っている、月曜日までの伏見とは違うよな?」
「それはある意味では間違っているが、ある意味では正しい。」
「ある意味って。」
「ワタシのこの体は、これまでと大きく変わってはいない。正常に稼働し、正常に動的均衡を保っている。」
「ああ。そうだろうな。僕が聞きたいのは『中身』の話だ。」
或いは精神、或いは心、或いは魂。
「そう。月曜日までの私と、火曜日からのワタシでは、あなたの言う通り、肉体の内包する魂が異なっている。」
そうだろう。そう予想していた。だけど、それはさして重要ではない。
「それで、お前は今、どうなってるんだ。伏見はお前の中に、いるのか。」
犬神の場合は、犬上祐の体の内に、犬神と犬上二つの主体が同居し、犬神の方が一時支配的な立場を得、肉体の主導権を奪った。しかし犬上は、自らの意思によってその支配から抜け出し、肉体から引き剥がした。
――それと同じパターンなら、伏見は助かるはずだ。
そんなあまりにも淡い期待を僕はしていた。
しかしその期待は、彼女の正直すぎる言葉によってすぐに裏切られる。
――可能性は十分考えられたはずなのに、僕はどこかでそれを否定していた。伏見空という人格が、彼女の体から既に消失している可能性を……。
「――ワタシの中に、最早彼女はいない。嘗てここにあった魂は、この肉体から既に失われた。ここに残っているのはワタシだけ。だから今はワタシが、ワタシだけが、伏見空。あなたの知っている伏見空という人格は、この肉体を離れた。」
「……。」
――僕は言葉を失った。
彼女の発言は、つまり、伏見空の、あの気高い僕の大好きなクラスメイトの精神はもうどこにもないということを、示しているのではないのか。
――そんな……、そんなの、それって、
それは人の死と同義ではないか。外側だけが同じで、中身が、精神が、心が、魂が違っているのなら、それは果たして伏見空本人だと言えるのか。
――言えるわけがない。そんなものは、伏見ではない。
そう思い至った瞬間、僕の脳は思考を放棄した。真っ白になって、何も考えられなくなった。
頭の天辺から黒く重い澱が降ってくる。腹の底からも何か暗いものが湧き出して、息が苦しい。ただただ、気持ちが悪い。
――嫌だ。その事実は、どうしても受け付けられない。考えたくない。考えたら、何が原因でこうなったのかが、分かってしまうから……。
――誰の所為で……。
「……僕は……僕は、……何をっ。どうしたら……」
どうしたら救える。取り戻せる。
――パニックに陥っている場合ではない。思考しなければ、考えなければ。……僕にはその責任があるはずだろう。
「彼女の魂は、こちら側には存在しない。」
「存在、しない。……あいつはもう、いないのか。……どうして」
――どうしてこんなことに……。
「彼女がそう、願ったから。」
「……。ついこないだまで、話してたのに……。連絡先も交換したばかりだったのに……。僕の……僕の、所為だ……。僕があんなことを教えたから。」
あんな話をしたから。
「願ったのはあなたではない。あなたは切っ掛けではあったかもしれないけれど、原因ではない。あなたが今すべきは、多分、罪悪感に苛まれることではない。」
透き通るように冷徹で、公平な事実だけを述べる彼女の残酷な台詞は、混濁しかけた僕の意識を強引に明瞭にした。僕を悪夢のような現実へと引き戻し、厳しくも再稼働を促した。
「慰めるのかよ、お前が。伏見じゃない、お前が。」
怒鳴りつけてしまいたい。そうして誰かの所為にしてしまいたい。
だけどこれは、どうしようもなく、僕の所為だ。
「ワタシは事実だけを言っている。この魂は偽物かもしれないけれど、偽りは言っていない。」
「……お前は、お前は一体何なんだよ。本物じゃないってんなら。」
「今はワタシが伏見空。だけど以前のワタシは、そうではなかった。人ですらなかった。人ではなく、神として、小さな祠に祀られていた。」
学校裏の小さな祠に祀られた神様。噂の根源。何でも願いを叶えてくれる。
「だったら僕の願いを叶えてくれよ。――伏見を、あいつを返してくれ……。」
何だってするから、頼むから……。
「無理。今のワタシには、人間に出来る以上のことは出来ない。私は今、人間でしかない。」
「だったら! ……だったら、僕は、どうすれば良いんだよ。」
どうすれば良いか、なんて傲慢な疑問だ。それではまるで、どうにかなる、みたいではないか。
世の中にはどうすることも出来ないことが沢山ある。正解は常に用意されているわけではない。何をしても、何を選んでも不正解という問題だってこの世にはある。
だってこれは現実なのだ。どんなに現実離れしていても、受け止めなければならない。受け入れ難くとも、耐え難くとも、見据えなければならない――。
受け入れ難いけれど、耐え難いけれど、見るに堪えないけれど、それでも思考のリスタートは、いつだってそこから始まる。
――混乱している時間はない。涙を流す資格なんて、そもそも僕にはない。そんな暇があるのなら、もう一度、考えろ。
彼女の言葉を疑え。僕の認識を疑え。状況を正確に認知せよ。何が起こり、どうなっているのか、全ての発言を、全ての行動を精査して、理論の網を構築しろ。今何をすべきなのか、どこへ行くべきなのか、或いは誰かに頼るべきなのか、見極めろ。
答はないかもしれない。伏見空はもういないのかもしれない。永遠に、元には戻らないかもしれない。
――それでもまだ、かもしれないだけだ。諦めるのは、精一杯の努力をした後だ。だから僕は絶対に諦めてはならない。
だってこの世界には、精一杯の努力、なんてものはないのだから。
彼女の走る姿を目撃した僕は、それを知っている。
精一杯の努力の先には、また更なる努力が待っているだけなのだ。結果を得たいのなら、足掻いて、もがいて、しがみついて、模索するしかない。本当はないかもしれない道を、探し続けなければならない。
そうして拓ける道もあると、妄信して――。