<玖>
水曜日。僕が伏見を呼び出したこの日。ついに噂は、犬上を介さずとも僕の耳に自然と、自分の席で寝た振りをしているだけでも入ってくるようになった。
大袈裟な物言いをすれば、我が校はついにパンデミックに陥った。昨日から今日にかけて、噂は、いよいよ爆発的に広まった――。
話す人によって内容に多少の違いこそあるが、本筋はどれも同じ。誰も彼も口を揃えて、こう言うのである。
祠の神様にお願いをすると、何でも願いを叶えてくれるのだ、と。
昨日までに犬上から聞いた話とは、根幹は同じなれど、かなり様相が変わってきている。少なくとも月曜日の昼時点では、祠の神様は何でも、どんな願いでも叶えてくれるほど寛大で強大な存在ではなかった。『叶えてくれることがある』程度に、表現は抑えられていた。
また、昨日はまだ推測の域を出ていなかった、神様は女性の姿をしている、という説が一般的になった。実際に目撃したという者の話によれば、それはそれは美しい、女の人の姿をしているそうな。これに付随して、柏手を打つとその御姿を現してくれるとも言われるようになった。
更に、重大なルール変更がもう一つ。この噂の特徴的な部分であった、供物として『要らないもの』を奉げる、というルールが撤廃されたのである。神様とやらは、とうとう、唯一のアイデンティティーを捨て、見返りもなしに、無条件に願いを聞き届けてくれるようになったようである。
叶えられたという願いの実例を挙げれば、切りがない。恋愛成就、学業成就、友人との関係改善、家族トラブルの解決、怪我の治癒、寝坊体質の改善などなど、ポジティブなものからネガティブなものまで、件の神様は手広くやっているらしい。わらしべ長者時代があったことを考えれば大躍進と言えよう。上場も狙えるくらいの、急成長である――。
祠に祀られた神様は、人の願いのことごとくを叶えてくれる。良い願いも、悪い願いも。時には、人の不幸を願ったものまでをも……。
魔女によれば、警戒のし過ぎに警戒せよ、とのことだったが、しかしここまでくると、どうやら僕は、もう一度あの祠を訪問する必要があるようだった。こうなってしまった以上、もう一度、安全を、何も起こっていないことを確認しなければなるまい。この騒動の責任の一端は僕にもあるのだ――。
それに何より、伏見のことがある。
彼女の変調が、あの祠と関係している可能性は十分にあるはずだ。いや、僕はどこかでそう期待しているのかもしれない。伏見が変わってしまったのは、他の誰かの所為であってくれ、などと、酷い期待を……。
――いや、そんな期待は捨てよう。魔女にも注意されたではないか。ここはもう一度冷静に、フラットな気持ちで臨まなければなるまい。
僕はこの日、授業が終わってから、暫く学校に残った。祠に人が寄り付かなくなるのを待ってのことである――。
時刻は六時。一般の生徒は残っていない。運動部もほとんど日の落ちかけたこの時間ならば、ランニングコースを使用しないはずだ。もう少ししてしまうと、部活後に祠へ立ち寄ろうという輩も出てきてしまうかもしれないので、まさに今が好機だろう――。
裏門を出て右へ。月曜日に辿ったルートを僕は再び歩いた。
……歩いて一分少々。何人かの通行人とすれ違ったが、しかし学校の人間とは誰とも出くわさず、平穏無事に僕は袋小路へと辿り着いた――。
当たり前かもしれないが、昼に来た時とは随分雰囲気が違う。日が傾いた分、小路の中は一層暗く、一層涼しい。地面からの湿った冷気が心地良く全身を包む。
僕は更に、祠のある路の最奥へと歩を進めた。
ここまでくると、もうほとんど真っ暗だ。太陽の最後の光も、全くと言って良いほど届かない。
少し経つと目も慣れ始め、薄暗闇の中に祠の輪郭が朧気に見えるようになる。詳細は灯りをつけて確認しなければ分からないが、特段変わった様子はない。
但し、月曜には二つあった供え物が、一つもなくなっている。
これは確かに、妙と言えば妙だ。週末に管理者だかが清掃にくる、という僕の説とは合致しない。まあ、そんな説は口から出まかせの、よく考えもしないででっち上げた適当な推理だったわけではあるから、大した驚きでもない。
それが否定されただけで、人為的なものであるという可能性が消滅したわけではないのだ。他にも考えれば、もっと有力な仮説がいくらでも立つだろう――。
さて。いやさておき、検証に入るとしよう。神の不在を証明する時間だ。今のところ、僕の目で見ただけでは異常はないが、柏手を打つと神様とやらが顕現するというルールが付け加えられているからには、これも一応試しておくべきだ。
――えっと。柏手、柏手……。
…………柏手って、……どう打つんだっけ? 打ったことがないから分からん。僕って神様信じてないからなあ。信じてないって言うか、神様に本気で願い事をしたことなんてなかったからなあ。正式な柏手の打ち方なんて、知る由もない。
まあ、いっか。取り敢えず、目を閉じて、手を合わせて、……お手々の皺と皺を合わせて、拝んどこ。
「南ー無ー。」
「――はせがわかっ! ……それは仏に手を合わせる時の作法だ! 第一、打つという動詞が後に来るのだから、どう考えても叩く動作は入れるべきだろう。もしかしてお前は頭が悪いのか?」
唐突な事態だった。四月の終わり、あの身の毛もよだつ恐ろしい勇者が我が家に押しかけ、ドアチェーンを破壊した場面にも匹敵する、唐突な展開だった――。
「えっ……。」
威勢の良い声に驚いてふと目を開けると、目の前に、一人の女性が立っていた。そしてその女性、噂の神と思しきその女性、驚くべきことに、僕の無知に見事なツッコミを入れていた。
色々な意味で、僕は驚愕した。
「全く。最近の若者は、正しい参拝の仕方も知らないのか。言っておくが、拍手と書いて『かしわで』と読むのだぞ? 元々は。……まあ正直なところ、それは私も最近知ったのだがな。」
「最近って! あなた神様なんじゃないんですか!? そこは昔から知ってなきゃ駄目でしょ!」
――ああ。成り行きで会話をしてしまった。またしても、人以外と。
これは、僕に語り掛けるこれは、絶対に人ではない。人でなしの、何かだ。
状況からもそれは、すぐに分かった。僕は狭い袋小路の一番奥で突っ立っていたのである。だから僕の目の前に立つには、どうしても体の横をすり抜けて、正面に回り込まなければならない。当然そんなことをされれば、たとえ目を瞑っていようとも、どれほど鈍い人間であろうとも気配や音で気付くはずだ。
……それに、理屈を抜きに、姿を見れば分かる。思考するまでもなく、一目瞭然だ。
確か、浄衣だか狩衣だかいう、白を基調とした装束に冠、そして一番奇怪なのは、顔の上半分、上顎までを隠す狐のお面。
こんな時間、こんな場所にそんな格好で現れるのは、とてつもない不審者か、後は神様くらいのものだ。そして彼女の放つ異様な空気感を目の当たりにしてしまえば、前者である可能性は簡単に排除できるのである。
――この感じは知っている。人ではないものにだけが放つ独特の空気。存在感。この数か月で、何度も味わっている。つい最近も、犬神のことで経験した。間近な距離で、あと少しで首に牙が突き刺さるような至近距離で体感している。
同じ神に分類されるものだから、だろうか。今回は人の形を模しているものの、どことなく犬神と対峙した際に受けた印象と似ている。
ただ、犬神の時には痛切に感じた、禍々しさは全くない。こいつはどこまでも、神聖なだけだ。ただただ美しいだけだ。顔が見えなくとも、美しい人であることが分かる。そこが犬神とは違っている。
当然と言えば当然だろう。犬神は神でもあるが、同時に呪いでもある。純粋な神様とでは、そもそもの出自が、人の持つイメージがまるで異なるのだ――。
僕はまたしても、神様に出会った。世間一般では神様と呼ばれ、崇め奉られている『何か』に遭遇してしまった。
僕の目で見て何もなければ大丈夫。しかしそれは僕の目で見て、何かあれば、大丈夫ではないということだ。
魔女に、触らぬ神に祟りなしと忠告されていたにも拘らず、精神的に不安定な若者たちから、熱狂的に、厚く厚く信仰されている祠の前で、柏手を打つという行為に及んだことは、まあ実際には打ててはいなかったらしいが、些か軽率に過ぎる行いだったろうか。
――そんな、自ら神様を呼び出すようなことをして……。
いや、過剰な警戒に留意していたのは、僕自身が信仰の発生源になってしまうのを危惧してのことだったはずだ。しかし実際、僕は今の今まで、目の前にこの狐面の女性が現れるまで、捨てきれずにいた期待が少しはあったかもしれないが、基本的には噂を信用していなかった。ただの質の悪い流行だと思っていた。正直なことを言えば、手を合わせて拝んでいた時も、本当は早く家に帰りたいと考えていた。
そんな失礼な心構えで、しかも間違った作法で噂の真相を暴こうとしていたにも拘らず、こうしてオカルトは出現した。故に、恐らくこれは僕が生み出してしまった幻想ではないはずだ。
僕が生み出したのではない。つまりこれは、僕の行動とは直接的には無関係に生まれた。僕が信じなくても、生まれていた。
――まあ、間接的には関係しているということには、なるのだろうけれど……。
「おや、何やら思案しているようだが、お前はあまり驚かないのだな。」
見透かしたような台詞。
――神通力でも使っているのだろうか。なんて、これを相手にしては洒落にもならない。
「十分驚いてますよ。油断したら今にも腰が抜けそうです。まあ、それでも何とか堪えられてるのは、僕もこういうことは、初めてじゃないからってだけですよ。」
経験が今の僕を支えている。竜や勇者や魔女や犬神と、相対した経験があるからこそ、僕は今、明らかに人ではないものに問いかけられても、一応の平静を装うことが出来ている――。
慣れてしまったわけではない。慣れることなど、あってはならない。その思想はきっと危険だ。これは僕たちの全く知らない世界の話なのだ。僕はそこに片足を、いや、つま先の更に先端程度で触れているに過ぎない。油断は禁物だ。怯え過ぎるのもいけないのだろうが、いつ足を引きずり込まれるか分かったものではない。僕は常に細心の注意を払う必要がある――。
しかしそうは言っても、こうなってしまったからには可能な限り情報が欲しい。相手が対話を許してくれている間に、出来るだけ状況を把握したいところである。対処すべきかどうか、僕などが対処して良いものなのか、そもそもこれの原因は何なのか、突き止め、判断したい。
伏見のあれは、この現象によって引き起こされたものなのか、知る必要が僕にはある――。
探りを入れるなんて、神様相手に無礼かもしれないが、これが神様であるとまだ決定したわけではない。僕は元々、神様なんて信じない派、なのである――。
「僕以外にもあなたの姿を見た人がいるんですか?」
僕は質問をする。
「勿論いるとも。しかし、お前のような反応をした者は一人もいなかったな。私の姿を見た者は、大抵、つまりお前を除いて、二パターンの反応しか示さなかった。」
「へえ。それは、どんな。」
「一つは悲鳴を上げるなりして逃げ出す、という反応だ。」
――それはまあ、まともだろう。こんなものが突然現れたら、叫びたくもなるし逃げたくもなる。平静を装っているつもりの僕とて内心では怯えている。平静は装われているに過ぎない。
「それで、もう一つのパターンは?」
「一しきり驚きの表情を浮かべた後、急に神妙になって願い事をする、だな。」
――これを見て、逃げ出さない人間がいたのか。それはかなり、まともじゃないな。
こんな人間離れした存在を目の当たりにして逃げ出さず、あまつさえこれに対して願いを伝えるなんて、尋常なことではない。その切実さは、怖いくらいだ。
「願いを叶えてくれるんですってね。」
「ああ。今までも沢山の願いを叶えてきた。お前も何なりと申すが良い。今の私なら、大抵のことは叶えてやれるはずだ。」
――大抵? 何でも、じゃなかったのか? 叶えられる願いと、そうでない願いがあるということだろうか。
「いえ。すみません。僕は願い事があってあなたを呼んだわけじゃないんです。」
「何だ。冷やかしか? まあ今時珍しくもない。肝の据わった態度に免じて、その不敬、赦してやろう。」
――何様なのだろう。偉そうなことを言って、お殿様とかなのだろうか?
「いや、神様だから。正真正銘。」
……それにしてはノリが軽い。
――自分で神様だ、とか言う割には、パターンなんて横文字を使っちゃってるし。そもそもの出会いからして、ツッコミから始まったしな、この神様。凄えフレンドリー。
まあ、僕の同居人も人間に対しては同じような態度をとっているから、その点については不思議とも思わないけれど……。けれど、こんなことを言ってはいけないのだろうが、どうも緊張感が削がれる。油断すると、普通に同級生と話しているような感覚になってしまう――。
しかし前述の通りそんな油断は当然、捨て去らなければならない。僕が相手取っているのは、人々から、神としての信仰を受けている存在なのだ。そして、その神としての力量で、人々の、我が校の生徒たちの願い事を叶えているらしい存在なのだ。人である僕が、人でしかない僕が、そんなものを前に油断するなんて絶対にあってはならない。
たとえ、この何かが、人の願望を成就させるだけの、人間に従順な神様なのだとしても、僕という相対的に劣った存在を抹消してしまえるだけの力を持っているのだとしたら、それだけで、僕はこの相手を警戒すべきだ。力は所詮力なのだから。高い攻撃性を有しているかもしれない相手が、好戦的ではないからと言って、それは油断して良いということにはならない。もしも、命が惜しいのなら――。
「伏見空。」
僕は質問をする。僕が唯一、今この時この場所で絶対にしなければならないことは、それだけだからだ。
「ん?」
「伏見空、という人物に、心当たりはありませんか?」
伏見空が、ああなってしまったことに心当たりはないのか。伏見空を変貌させてしまうような願い事をした人物はいなかったか、僕は思い切って問うてみることにした。
「んんー? どうだろうな。聞き覚えがあるような気もするが……いや、覚えていないな。そもそも願い事をする人間の名前など、いちいち確かめてもない。」
「適当、なんですね。」
「適切の適に妥当の当と書いて、適当か。うん。良い言葉だな。」
――良いように取りやがる。
「……まあ、本来の意味はそっちで正解なんでしょうけど。」
「お前、本当にそんなことを聞くためだけにここへ来たのか?」
「ええ。まあ、あなたみたいなのが現れるなんて、予想していませんでしたけどね。あなたは一体、何なんですか。」
「だから言っただろ。私は神様だ!」
仮面の所為で、表情は見えないが、やけに自信満々だ。自信満々に自分は神様だ、なんて言ってしまう辺り、どこぞの竜と似たところがある――。
「でも、神様と言っても、色々あるでしょう。土地神だとか氏神だとか、八百万だとか、唯一絶対だとか。」
「そんなこと、私は知らん。」
「知らんて、あなた。神様なんでしょう?」
「ああ。そうだな。いや、逆にそこから推察すると、少なくとも私は、全知全能の神、ではないらしい。」
――いまいち自己認識が曖昧な神様だ。頼りがいがないなあ。
「私は人々の願いを叶えるタイプの、そう、謂わばステレオタイプの神様だ。それだけ分かっていれば十分なのではないか? と言うわけだから、そら、お前も何か一つ願ってみろ。質問のついでだ。」
「いや、僕は結構です。神様とか、そういうのあんまり信じてないんで。」
「何だその、宗教の勧誘を断るみたいな反応は。その台詞、この私を前にして、言うのか!? どうして信じない。どうして信じられない。どうして認められない。私を見ろ! ほら、遠慮せずよく見てみろ! 触ってみろ! 本物の、紛うことなき神様だぞ?!」
「いや、そう言われても。無宗教なんです、僕は。申し訳ありませんが仏教も神道も、信奉してないんですよ。まあ、僕が願うことで世界が平和になるってんなら、已むをえず已むに已まれず、我が身を犠牲にして、信条を曲げてそうしますけど、でもそんなことあなたには出来ないんでしょう?」
「でしょうって、出来るかもしれないじゃないか! 私にだってやろうと思えば。何故お前は、初めから私にはそんな力がないと決めつける。」
「いやだって、今現在世界は平和じゃないじゃないですか。今まで沢山の願いを、あなたは聞いてきたんでしょう? 世界平和なんて、高校生なら真っ先に思いつく願い事ですよ。あなたがこの祠、学校の裏手にあるこの祠の神様である以上、これまでに世界平和が願われた可能性は極めて高い。しかしそれなのに、その願いは未だ以て成就してはいない。ということは、つまりあなたには叶えられない、荷が重い願いだった、ということになるのでは?」
「て、的確な推理ありがとう。」
女は皮肉っぽく言った。図星だったらしい。
「確かに私にも限界はある。限界はあるが、お前の個人的な願いくらいなら、何でも叶えてやれるはずだ。私も宗教とか、気にしない寛大な神様だから、細かいことは気にせず、言ってみろって。」
――宗教を気にしない神様って存在するのか!?
どうしてこの神様は、こうも人の願いを叶えたがるのだろうか。逞しい奉仕精神だな。
「願いません。僕個人のことなら、尚更願えませんよ。」
「どうして、そうも強情に。お前には、懸命に取り組んでいることとか、絶対に欲しいものとか、そういう大切な何かがないのか? 私に願いさえすれば」
「願いさえすれば、叶ってしまうんでしょう? だから僕は、本物の神様になんて願えないんですよ。あなたに願って、ずるをして、自分だけは楽をして手に入れたものなんて、そんなの胸を張って大切だと、誇れませんからね。」
僕にだって大切はあるけれど、大切ならば尚更、神頼みなんてすべきではない。それはきっと、本末転倒なのだ。神様にお願いして手にしたものに、価値なんてない。努力して手に入れたからこそ、価値は生まれるはずだ。
「……ずる、か。そうか。……お前は変な男だ。――うん。分かった。ならば私とて、願わぬ者に用はない。早々に立ち去れ。」
――しまった。機嫌を損ねたか。情報の収集が最優先事項だったはずなのに、売り言葉に買い言葉で、つい口を滑らせてしまった。思いがけず異常なものに遭遇して、僕も冷静さを欠いていただろうか。失着だ。
「待って下さい。まだ聞きたいことが」
聞きたいことも、言いたいことも――
「立ち去るが良い。それとも何か。私に待ってもらうことが、お前の願いなのか? ならばその願い、私が見事成就させてやるが。」
そんなことを言われては、言い返す言葉もなかった。
「……いえ。分かりました。今日はもう帰ります。」
「気が変わったら、また来ると良い。その時には、今度こそ私の力を認めさせてやる。」