<捌>
部活という彼女にとっては絶対の最優先事項のために、昨日はほとんど話を聞けぬまま別れてしまったが、伏見のあの態度、あの雰囲気はやはりどう考えても、ただ事ではなかった。そして今日もまた彼女は、昨日と同じく、いつもとは違っていた。うっかりすると、見過ごしてしまうくらい、存在を忘れてしまうくらいに、である――。
僕はあれほど存在感のない伏見を、いや人類を嘗て見たことがない。今日一日注意していたが、普段はどちらかと言えばクラスで悪目立ちする方の伏見空が、まるで誰にも存在を認識されていないかのようだった。
斯く言う僕だって昨日は、帰りに偶然会うまで、その異変に気付いていなかった。その偶然がなければ、今に至っても気付いていなかったかもしれない――。
更なる噂の更新があったことを知った僕は、まさかとは思いつつ、一信九疑くらいの気持ちで、念のため、事情を聴くために彼女を呼び出した――。
昼休み。場所は東棟の最上階。屋上手前の踊り場である――。
我が校の屋上は解放されていない。故に、屋上へと続く階段を登ろうとする輩もそうはいない。ここならば、誰かに話しを聞かれる心配もないだろう。
我ながら大胆なことをしたとは思う。来るかどうか、不安でもあった。何せ、初めてのメールのやり取りが、校舎最上階への呼び出しだったのである。しかも呼び出したのは僕。正常な防衛本能を持った女子ならば、無視を決め込むところだ。
しかしそこは予想通りと言うか、流石伏見と言うか、指定した時刻ぴったりに彼女は姿を現した。
「要件は何か。」
現れて早々、伏見はそう切り出した。
凡そ普段の彼女からは想像もつかない、事務的で抑揚のない、感情が抜け落ちてしまったかのような、――人ではないかのような声。短い台詞ではあるが、それだけでも今の伏見が健康な精神状態ではないことが窺える。
「伏見。お前、悩んでんじゃないのか? 部活のことで。」
まずはそちらを、僕は尋ねるべきだだった。単純に、部活のことで落ち込んでいるだけだという可能性を、僕は何より先に考慮すべきなのだ。
「部活のこと、とは。」
「犬上から、少しだけど、話は聞いた。今度の試合スタメンに抜擢されたんだってな。そのことで、先輩と揉めた、って。」
「前の月曜日にワタシと部活動の先輩との間で、論争があったことは事実。そのことで、ワタシのレギュラー入りが白紙になったことも事実。」
「白紙になった?」
一度決まった伏見のスタメン起用が、撤回されたということか。
――そりゃあ確かに、精神的に堪えることではあるだろうけど……。
「それは……聞いてなかった。何でそんなことになったんだ?」
「どうして? どうしてあなたは、そんなことを聞きたいの? あなたはそれを聞いてどうしたいの?」
返答に窮する質問だった。だって僕は、そんなこと考えていなかったのだ。聞いて、その後どうするか、なんて先のことは微塵も想定していなかった。
――僕はそれを聞いて、どうしたいのだろう。
「……別に。別に聞きたいだけだよ。聞いて、ただ、聞くだけ。それだけだ。単純に好奇心を満たしたいだけなんだよ、僕は。」
「他人の個人的なことに好奇心を抱くなんて、あまり良い趣味とは思えないけれど。……そう。分かった。あなたがそう願うのなら――。」
そして、伏見は違和感たっぷりの口調のまま、部内で何があったのかを語り始めた。
月曜日、朝練習後、次の試合のスターティングメンバ―が発表された早朝練習の後、女子バスケットボール部の部室前で、こんなやり取りがあったそうである。
僕のクラスメイトであるところの伏見空と、彼女の部活動の先輩は激しく言い争った――。
『どうしてあなたが、スタメンなのよ。どうして私じゃなくて、あなたなんかが。……あなたはまだ、二年生なのに。』
『スターティングメンバ―を決めたのは私ではない。文句があるなら、顧問に言えば良い。……まあ、そんなことを尋ねるまでもなく、試合に勝つためなのだろうが。』
『私より、あなたが試合に出た方が勝てるって言いたいの?』
『そうだ。先輩が出るより私が出た方が、勝率が高くなる。少なくとも先生は、そう判断したはずだ。』
『っ! どうしてそんなこと、簡単に言えるのよ。私がどれだけ努力してきたか、頑張ってきたか、あなたは知らないでしょ! あなたより一年も長く、私はこの部で頑張ってきたのに!』
『先輩がどれだけ頑張ってきたかなんて、私は知らない。そんなことは、自分にしか分からないことだ。そもそも、努力している期間が長ければ偉いのか。努力すれば絶対に試合に出られるのか。それで試合に勝てるのか。そうじゃないはずだろう。そうじゃないから、私たちは競い合ってきたのだろう。』
『……何よ。何よ、何よ何よ! 生意気なのよ。後輩のくせに、チームメイトともまともに話せないくせに、分かったようなこと、言わないで!』
『話にならない。あなたの言っていることは滅茶苦茶だ。私は勝つためにバスケットボールをやっている。そのために努力してきた。この部に入ったのはあなたより一年も遅かったかもしれないけれど、その差を縮めるために必死でやってきた。あなたと競って、勝つために。そして私は勝ったんだ。先輩も後輩もなく正々堂々勝負して、私がポジションを勝ち取ったんだ。そこに何の文句がある。
――先輩は、先輩がどれだけ努力してきたか私は分かっていないと言ったが、じゃああなたは私がどれだけ努力してきたか、分かっているのか? 知っているのか? 私は知っているぞ。先輩の努力は知らないけど、私の努力は、誰よりも良く知っている。こんなところで誇るためじゃない。全て勝つための、私の存在を認めてもらうための努力をしてきたって、私は知っている。』
『……知ってるわよ。……あなたがこの部活で誰よりも走ってることくらい、分かってるわよ。そんなこと、私にだってプレーを見れば、分かる。……そうよね。あなた頑張ってたわよね。部活の後も走ったりなんかして、弱音一つ吐かずに練習してたわよね。私より、ずっとずっと集中してたし、きっと何倍も努力してた。認めるわ。私の負けよ。私が悪いのよ。分かってる。全部分かってる。……でも、……でもこんな風に思っちゃうのよ。頭では分かってても、私の三年間が無駄になると思うと、こんな八つ当たりをせずにはいられなくなる。』
『……無駄になんて、しなければ良い。諦めなければ良い。試合までまだ日数はある。勝ち進めば、試合数も増える。それまで、最後まで、また頑張れば良いじゃないか。終わる前に、また私を追い抜けば良いじゃないか。』
『そんなの無理よ。』
『なっ! 無理って、……そうするしかないだろう。負けたくないのなら、悔しいのなら、また努力するしかっ!』
『無理だって! ……言ってるのよ。私がどんなに頑張っても、あなたには届かないもの。あなたの努力には絶対に、及ばないもの。……だってあなたにはあるじゃない。誰よりも、――努力出来る、才能が――。』
伏見の回想をまとめ、些か不足する部分を推測で補完すると、概ねそんなやり取りだったそうだ。
そこから先のことは、よく覚えていないのだと、彼女は言った。ただその後、更に酷い口論、いや、最早議論や言い争いなどではなく、伏見が一方的に先輩を責め立てるだけになったというのは間違いないのだとか。
端的に言って、伏見は切れたのだ。より感情的になった。それも尋常じゃないほどに――。
そして重要なのは、彼女のあまりにも過激で感情的な発言を、部を取り仕切る顧問に聞かれていた、ということなのである。
伏見の発言は、顧問の先生に少なからず問題視された。だからその結果、彼女は次の試合、先輩たちの引退のかかった試合のスターティングメンバ―から外された――。
「そんなのって……」
――そんなのって、ない。
中立な立場から、贔屓なしに見ても、それはどう考えても、伏見は悪くない。伏見も言っていたようだが、その先輩の言っていることは滅茶苦茶で、ただの子供の我が儘とさえ言える。駄々をこねているようにしか、聞こえない。伏見の言い分が百パーセント正しいと、僕は断固として思う――。
その先輩の気持ちを推し量ることも出来る。彼女もそれだけ、部活動に熱心に取り組んできたということなのだろう。彼女の怒りは、憤りは、きっと努力の裏返しなのだ。
――僕には分からない領域ではあるけど……。
だけどそれは、絶対に口に出してはならないことのはずだ。ましてやそれを、負けた相手にぶつけるなんて、そんなことは自らを貶めるだけの行いだ。
しかも彼女は、伏見に対して自分が一体どれだけ残酷なことを言っているのか、多分自覚していない。いや、自覚していたのだとしたら、それは最悪だ。そんな残虐な人間がいるなどとは、想像したくもない――。
確かに伏見は誰よりも努力出来る才能を持っているのかもしれない。バスケットボールの才能ではなく、バスケットボールで勝つために、自らのプレーを向上させるために、或いはそう、存在を認めてもらうために、どこまでも努力することの出来る才能、という点に於いて、彼女は傑出している。
裏を返せば、彼女はバスケットボールの才能に恵まれているわけではない。背は低いし線も細い。体格を見ただけでも彼女がこの競技に向いていないことは分かる。その上、彼女は中長距離のシュートがあまり得意ではない。彼女のように身長の低い選手にとってそれは、致命的な弱点である。はっきり言ってしまうと、伏見空にはセンスがない。元々の運動能力が決して高くはないのである。
それでも彼女が強豪と呼ばれるチームで戦ってこられたのは、そして一度は勝利を収めることができたのは、化物染みた走力という武器を、彼女が培ってきたからだ。
不器用に、直線的に、しかしコート上の全員を振り切って、彼女は疾走する。あの小さな体で、それをするということが、どれだけのことなのか、そちらの世界からはとっくに引退してしまった僕でも知っている。僕でも知っているということは、当然、伏見を責めた先輩にも、分かっているはずだ。
――それなのに、どうして……。どうしてそれを、否定出来るのだろう。
僕には本当に分からない。一体どれだけ、悔しかったのか……。そんなことを言わせてしまうだけの悔しさが、苦しさが、この世にはあるというのか……。
――だけど、たとえそんなものがあったとしても、伏見を否定するのは間違っているはずだ。
先輩に対する物言いじゃないだとか、彼女の言動はチームの輪を乱すだとか、そういう言い分を考慮したとしても、それでも伏見が罰を受けるのは、不当だ。理不尽だ。
あの活力に満ちた伏見が、今のような有様になってしまうのも、無理はない。こんな残酷な仕打ちをされれば、誰だって打ちのめされるに決まっている。伏見は間違いを正されたのではない。間違いを通されたのだ。犠牲になったと言っても良い。
――しかし、本当にそれだけなのか?
疑問が拭えない。犬上ではないが、嫌な予感がする。いや、犬上なら、これだけの情報が揃っていれば、事態を掌握していたのだろうか――。
「恐らく、そのことで私が動揺していたことは事実。だけど、今は違う。ワタシはもう、以前の私ではない。今はもう、思い悩んでなどいない。今はこれが、正常なワタシ。」
僕の知っている伏見は、こんな話し方をしない。僕の期待する伏見は、こんなことは言わない。
――勝手な期待だろうとは思うけれど……。
人はある二つ以上の事象が発生した時、それらの間に何らかの関連性を見出そうとする生き物なのだとか。
場合によっては危険な思考パターンだ。偽りの相関関係を見出して、間違った結論を導き出してしまうことも考えられる。本来無関係なものに対してまで、関係があると判断してしまうのは、危うい行為だ。
だが僕は、危ういと分かっていても、こんな風に考えずにはいられない。伏見の非常識な変貌振りと、急速に拡大する噂の猛威を目の当たりにしてしまうと、どうしても余計な邪推をしてしまう――。
例えば、今の伏見の現状にあの祠が関わっているのだとしたら、例えば誰かが伏見に対してネガティブな感情を抱き、あの祠に願ったのだとしたら、例えばあの祠が、人格に影響を及ぼしてしまうだけの力を、既に得ているのだとしたら、などと……。
伏見空は元々、敵を作りやすい性格の持ち主だ。その強さ故、人に疎まれやすい。特に彼女に近い人物、離れたくても離れられない立場にいるような人物なら、神様に良からぬ願いを奉げる、くらいのことをしていたとしても不思議ではない――。
何の根拠もない。何の証拠もない。何もかも憶測でしかないが、しかしもしそうであったなら、僕は動かなければならない。
僕に命を授けてくれた竜に見損なわれない為にも、そして何より自分の為にも、僕は僕の憧憬の対象を、取り戻すべきだ。