<伍>
豚バラは偉大だ。ほとんど手間をかけずとも、取り敢えず焼いておけば最高に美味しくいただけてしまう。塩、胡椒を振っても良し、醤油をかけても良し、レモンを絞っても良し、ネギ塩だれでもキムチと一緒に食べても、美味い。ご飯との相性も抜群だ。
昨今では肉と言えば牛、という風潮がどうも定着してきているようだが、豚が牛に劣るなんて僕にはとても思えない。いや低価格帯での勝負なら寧ろ豚の方が上回っているとさえ僕には思えてならないのである。
当然好みの問題もあるだろうが、どうだろう、値段も安く、味でも引けを取らないはずの豚肉が、牛肉に比べてぞんざいに扱われているのは、牛肉というある種のブランドイメージに世の中が誘導されてしまっている所為なのではないだろうか。
――風潮も、言葉を換えれば流行だ。
いや別に、僕は牛肉が嫌いなわけでも、牛肉に対して何か恨みを持っているわけでもない。僕が言いたかったのは、やはり庶民の味方をしてくれるのは牛肉よりも豚肉だ、ということなのだ。
「焼き肉をします」
僕は高らかに宣言する。
――今日のメニューは焼き肉だ。焼き肉。思いがけずのことではあったが、しかし口にしてみると、いやはや何と素晴らしい響きであろう。もしかすると僕は、この日のために生まれてきたのだろうか。今日という日に、焼き肉を食べるために……。
――準備完了。ご飯は既に用意済み。野菜の下ごしらえと、付け合わせのもやしの和え物を卓に並べれば、後は鉄板を熱して食材を焼くだけである。
換気は縁の精霊術に任せておけば大丈夫ということだし、さてさていよいよ、僕も一年に一度あるかないかの、ご馳走を、それでは思う存分堪能するとしよう。……と、言ってしまいたいところだが、ここはまだ我慢の時間だ。鉄板が温まるまで、ピーマン、玉葱、ナス、ジャガイモ、ニンジンだけ先に乗っけておいて暫し歓談を。
「そうそう」
――初めの話題提供者は本日も僕だった。
縁に比べ外出の機会が多い僕が、その日あった出来事を話すという流れは、既に我が家の恒例行事になっている。
そして今日、僕の身の回りであった出来事と言えば勿論、犬上祐からあの祠の噂について聞き及び、実際の現場へと調査へ赴いたこと、またその調査の結果、何もおかしな点は認められなかったこと、なのである。
「へえ。お兄さんなんかに、噂を流してくれる心優しい人間もいるんだね。吃驚したあ」
――吃驚したと言いつつも、無表情を崩さない魔女である。
見逃してくれないなあ。いや、突っ込まれるとは思ってたけども。
「開口一番そこに食いつくな。確かに犬上は心優しい奴だけど、僕がそんなお情けで話しかけてもらってるみたいな言い方をするな」
「まあ、そうだろうね。あれだけの経験をしたのだから、その影響で仲良くなってしまっても無理はないか」
「えっ」
……あれだけの経験? あれだけの経験とは、あの経験のことを指して言っているのか?
その口振りでは、七月の初めに起きた犬神に関する出来事を、僕と縁と犬上だけがその全容を知るあの事件のことを、まるで知っているかのようではないか。
「何でお前が、そのことを」
――いつもいつもさらっと、何でもないかのように重大発言しやがって。
「そりゃあ知っているさ。あれだけの異常事態、魔女であるボクが察知しないとでも?」
「そうか。そういうもんなのか」
しかし魔女から見ても、やはりあれは異常だったのか。流石は犬上と言うべきか。
「ボクも今はこの辺りを拠点にしているんだ。変わったことが起これば、すぐに耳に入るようになっているさ。ただでさえ、伝説のドラゴンが復活したことによって、ここいらはバランスが崩れやすくなっているわけだから、当然の警戒だろ」
そういうものか、としか素人の僕には言えないけど、骨の折れることだ。彼女は、一体どれだけ勤勉なのだろう。頭が下がる。
「いやでも、じゃあ何で、察知していたにも関わらず、お前は事態に介入しなかったんだよ」
――正義の味方の魔女ならば、そうしていてもおかしくない状況だったはずだ。一人の善良な人間が、犬神という化物に食い殺されそうになっていることを、知っていたのなら、僕の時にしてくれたように、魔女はどうしてあの場に現れなかったのだろう。
「言っておくけど、ボクは別に何にでも首を突っ込んでいるわけではないんだよ。何でもかんでも無条件に割って入って回っているわけじゃない。そんなことをしていたら、財政が破綻してしまう」
魔法の行使にはそれ相応のお金、厳密にいえば食料代がかかる。あれだけの、尋常ではない異形の業を行使しようというのだから、当たり前と言えなくもない。無から有は生まれないらしいのだから。
「だからちょっかいを出す案件はちゃんと選別している。それにあのケースは、ボクが手を出すまでもなく、お兄さんがどうにか対処してくれるだろうと思っていたからね」
「へえ」
僕も随分と信用されたものだ。こいつに信じてもらえるとは甚だ光栄なことだ。
「しかし、素人の僕が下手に手を出しちまって良かったのか?」
「それは場合にもよるけど。まあ、あの場合は問題なかっただろうぜ。もし君が失敗して、あの少年が死んでしまっても、別にボクは構わなかったし」
「……そこは案外シビアなんだな」
僕は犬上が死なずに済んで、良かったと切実に思うけど。
「そうかな。あれは一種の自殺みたいなものだったんだぜ。その手段が犬神だったというだけで、方法だけが異常だったというだけで。そんな自己完結型の事案にまで一々立ち入ってはいられないよ。人なんて毎日いくらでも死んでいるんだから。犬神が悲願を叶える結果、周囲に影響が波及するというのなら、ボクも介入したかもしれないけど、あれはそういう心配もなかった。いや寧ろ、君があの少年の救助に成功した結果、影響が出ているようだけれど。どちらかと言えば、そっちの方は、確かに問題なのかもしれないね」
そっちの方、とはつまり後始末のことだろう。また影響とは、今しがた僕の話した噂のことだろう。――学校で起こった一連の事件の犯人を、内密にした結果、オカルトが流行し始め、あらぬ噂を生み出した。それがまずかったのだと、多分魔女は言っている。
だけど僕には、他に方法がなかった。
「あの方法しか思い浮かばなかったんだよ、僕には」
プロではない、素人の僕には。
「ああいう事態に関しては、プロフェッショナルであるところのお前だったらどうしてた? 参考までに」
「思い浮かばなかった、ね。――そうだな。僕だったら真っ先に、犯人を公表してたかな。そうすれば溜まりに溜まった生徒たちの不安は綺麗さっぱり解消できただろうし、変な噂が立てられることもまたなかっただろう」
「ああ。確かにその選択肢はあったけど」
それは真っ先に思い浮かんだことだが、すぐに却下した意見だ。犬上には、『お前が犯人だと、余計に皆が不安がるから』と言い包めたし、実際その懸念が全くないとも言い切れなかったが、本当のところは犬上の立場を守るための措置だった。
そしてどうやら魔女はそんな僕のお節介な老婆心さえも看破しているようである。
「ま、大丈夫だとは思うけど。たかだか噂だ。そう滅多なことでは、あの犬神みたいなことにはならない。殊勝なことに、お兄さんの目で現場を見てきたということらしいから、少なくとも今のところは大したことにはなっていないはずだ。安心してくれて良い。但し――」
――この先も安心だとは限らない、と魔女は忠告する。
「もしこの先何かあったら、いや、君の周囲の人間に、何か良くないことが起こったら、そんなことを起こしたくないのなら、それは君が責任を持って対処すべきなんだろうぜ」
犬上に対する態度同様、魔女の言葉は僕にとって中々辛辣なものではあったが、言われてみれば尤も過ぎるくらいに尤もな意見ではあるし、そもそもそういうつもりがあったからこそ、僕は今日の昼間、あの祠へと赴いたのだ。
積極的にとは言い難いが、自らの意思で犬神に関わった責任を、僕は最後まで果たすべきなのだ。
――言動には責任を。
僕が長らく、鎖国を続けてきた理由の一つだ。人に対して働きかけをしたからには、途中で放棄してはならない。それはきっと、何も働きかけないことよりも、見て見ぬふりをするよりも残酷なことだから……。
「――とは言っても、注意を払っておくことは良い心がけだとは思うけど、警戒し過ぎも禁物だよ。お兄さんは、中途半端に目が良くなってしまっているから、よく見えてしまうんだろうけど、見えなくて良いものまで、見えてしまうんだろうけど、おかしなこと、お化けや神様なんて、はっきり言ってよくあることだ。特に精神が不安定な時期の若者にはね。口外しないだけで、本当は誰にでもあるとさえ言って良い。いや、それが全くない人間の方が、ちょっと尋常じゃないのかな」
「誰にでもあるって、いや、そりゃ流石に言い過ぎじゃねえか? そんなことになってたら、騒ぎになるとか、オカルトが社会でそれなりの力を持つようになるはずだろ」
「言ったじゃないか。口外しないんだよ。普通は。だから広まらない。お兄さんだって、現在進行形でそういう対処をしているんじゃないのかな」
「うん。それはまあ、そうだけど」
だけど、人の口に戸は立てられぬ、とも言うわけだし……。
「確かに、人の口に戸は立たないんだろうけど、自分のことについては別の話だ。人間、他人の噂は楽しめても、自分の噂を楽しもうとは思えないものさ。普通は誰にも言わない。内に秘めるものだ。そういうことは、往々にして、人間の、自分自身の核心的な部分を表してしまうものなんだからね。自分の核心に後ろ暗いこととか、後ろめたいことがあったら、いや、神聖で尊いものがあったとしても、それをひけらかすのはあまりに危険だ。自分が本当はどんな人間なのか、ばらしているようなものなんだから。誰だってそりゃあ隠そうとするだろうさ。ひた隠しにしようとするさ。誰も彼もがお兄さんみたいに、自分の恥部を晒して外を出歩けるわけじゃない。」
「人を露出狂みたいに言うな! 僕にはそんな犯罪行為を働いた覚えは全くない」
「そう。……じゃあ、無意識なんだね」
伏し目がちに、とんでもないことを宣う魔女。
「悲しそうに言うなあっ!」
――それじゃあまるで、僕が本当に、無意識のうちに何か良からぬことをしているみたいじゃないか。
「そりゃあ気付かないだろうさ。何せ、無意識なんだからね」
その論法だと、どんな濡れ衣も成立してしまう気がするのだが。
「自分の異常性を自覚してない奴が一番質が悪いんだぜ」
――何故お前が、さっき僕が伏見に対して放った暴言を知っている!?
「お前、自分のことを魔女とか言っているけど、実はただのエスパーだったのか?」
魔女だ魔女だと信じていたのに、どこにでもいるただのエスパーだったなんて、お前にはがっかりだよ。
「ふっ。お兄さん。どうして君は、ボクが魔女であり、そして同時にエスパーでもある可能性を、初めから排除しているのかな」
「そ、そんな! そんな馬鹿な、設定盛り過ぎなキャラがこの現実世界に存在するものか! そりゃあカロリーオーバーってもんだろう」
「まあ実際、魔女もエスパーもほとんど同じみたいなものなんだけどね」
――うわぁ、身も蓋もないことを言うなぁ。
しかし、それを魔女であるお前が言うのかよ。プライドとかはないのだろうか。
「まあ、」
と、ここで突然、脈絡を全く無視して話題を戻そうとする魔女。
――相変わらず、コミュニケーションが雑な奴だ。
「とは言っても程度の違いはある」
――いや、どこに戻った? 何が、とは言ってもなんだ? こいつ、よくこういうことするけど、ただでさえ僕にとっては分かりにくい話なのに、困るんだよなあ。
――まあ、察するに、おふざけに入る前なんだろうけど。
「実際は、本人ですら気付いていないことが多い。それらは現実にはほとんど影響しない。ただ、空中を彷徨うだけの、か弱い非存在だ。ボクやお兄さんには見えるだけで、本当は存在すらしていない」
――そういえば、縁も似たようなことを言ってたっけ。幽霊なんてありふれている、だとか。そんなものに現を抜かして、うっかり足元を掬われるな、とか。
「例えば、実体を得たりでもしなければ、余計な手出しはしないことだ。触らぬ神に祟りなしとも言うしね」
触らぬ神に祟りなし。人が想起しなければ、神などそもそも生まれない。オカルトはいつだって、人の思い込みから力を得る。それは僕もついこの間、犬神のことから十分過ぎるくらいに学んだことである。
「分かった。気を付けておくよ――」
話が一段落ついたところで、丁度良く、十分に鉄板が温まってきたらしい。ジュージューという、野菜の水分が蒸発する音と共に、玉葱の焼ける香ばしい匂いがしてきた。
「じゃあ、やるとするか」
頃合いも頃合い、焼き肉の主役、肉を焼き始める時がついにきたようである。
――一応牛肉も少々用意したが、メイン食材は贔屓の精肉店から安く大量に仕入れてきた豚のばら肉だ。値段の割に臭みもなく、脂は乗っているがしつこくもないという、パーフェクトなバランスの三枚肉。この食材にはいつもお世話になっている。
「焼き肉。……甘美な響きじゃ」
はしたなくも、よだれを口いっぱいにため込む縁。今にも溢れてきそうである。
「ま、お前は初めてだもんな」
僕と暮らし始めてからは、初めてだ。と言うか僕も初めてかもしれない。こんな贅沢、未だ嘗てしたことがない。ホットプレートなんて代物は、今日に至るまでホットケーキを焼くための装置だと思っていた。ホットプレートのホットは、ホットケーキのホットだと思っていた。
「初めは僕が適当に並べるけど、後は自分で好きなの焼いてくれ」
――では、尋常に。ここからは、肉を巡って血で血を洗う、情け無用の戦争の時間だ。
魔女と竜と人の三つ巴。敵は精鋭揃いではあるが、僕も僕とて、負けられぬ。
――いざ、決戦。