<肆>
この日、我が家には来客があった。
放課後、噂の祠を見学し、クラスメイトの女子に散々セクハラ紛いの発言を繰り返し、猛暑猛暑の通学路を、えっちらおっちら漕ぎ続け、ようやく自宅に戻ってみれば、どうやら我が家に、魔女が来ているらしい――。
家に帰ると、ほぼ同年代くらいの女子二人が待っていた、という状況は、しかし少し前の僕には、中々考えられない事態ではある。見る人によっては、相当に羨ましいシチュエーションであるのかもしれない。いや、この状況を冷静に受け入れてしまっている僕に対して、反感を覚える者も中にはいるだろうか。年頃の女の子が自分の部屋に、それも二人もいるのだからもっと喜べよ! 神の慈悲に感謝しろよ! なんて、僻むようなことを言う者もいるかもしれない。
しかし実際はそんな生易しい状況ではないのである。多少喜ぶくらいなら、しょうがないかもしれないが、喜んでばかりではいられない。存在さえ認めていない神様に感謝している余裕はない。
見た目には二人とも、ごく普通の少女なれど、いや少なくとも一人は見た目もかなり奇抜ではあるのだが、その正体はと言えば一人は魔女、そしてもう一人は一人ですらなく、人ですらなく、一匹の、若しくは一頭の竜、数々の伝説に登場する彼の有名なドラゴンなのである――。
魔女とドラゴンが待ち受ける部屋。RPGなら、部屋の前で装備を整え、HPを全快にしてから、セーブをする場面だ。何なら、お菓子を食べたり、シャワーを浴びたりと、リアルで一旦休憩を挟んで、決戦に備えても良い――。
中ボスからラスボス級のイベントが、自室で発生しているのだから、あまり暢気なことはしていられない。ドラゴンの方は、そろそろ慣れてきたが、魔女の方は依然として不明な点が多いのだ。恩人である彼女には途方もなく感謝しているし絶大に信頼もしているが、彼女は僕にとって未だ得体の知れない相手なのである。
だから帰ってきて魔女が家にいたら、僕は普通に身構えてしまう。考えてしまう。またぞろ何かあったのではないか、などと――。
「やあお兄さん。お邪魔しているよ」
「よ、よお。久しぶり、……でもないか。どうしたんだよ。お前ら、何話してたんだ?」
魔女と縁は僕が帰ってきた時点で、座卓の前で膝を突き合わせていた。何かの相談だか雑談だかをしていた様子である。
「何だい? お兄さんもボクたちのガールズトークに交じりたいのかい?」
――ガールズトーク!?
「いやお前ら、ガールズって感じ全然しないんだよなあ。どちらかと言えば、カースドトークっていう感じなんだよなあ。」
カースドトークなんて言葉知らないけど。
「――って、こらこら縁さん。駄目じゃないか。お客様が来てるってのに、お茶請けの一つも出さないなんて。」
「あ、ああ。それもそうじゃ。いやはや、うっちゃりしておった。」
……へえ、土俵際で逆転したんだな。
しかしあの縁が、何かにつけては食料を摂取しようとする縁が、来客という絶好のチャンスを見逃すとは、本当にうっかりしていたらしい。……うっかりをうっちゃりと言い間違うくらいには、うっかりしていたらしい。
「何せ緊急事態だったものだからね。ドラゴンさんがうっかりうかうかしてしまっても仕方なかっただろうさ。」
「緊急事態?」
まあ、夜型の魔女がこの時間に活動しているからには、それ相応の理由があるはずなのである。その理由が、魔女の言う緊急事態。
緊に急くと書いて緊急。あまりぞっとしない言葉だ。――竜のことを、勇者のことを、魔女のことを、つい最近では犬神のことまでをも経験した僕にとっては、たった数か月で、常人の一生分の緊急事態に遭遇したであろう僕にとっては、あまりにぞっとしない言葉だ。
「どんな緊急事態が発生したんだ?」
勇者の再来か、或いは何か新たな面倒事、もとい脅威でも発生したのかと、俄かに緊張しつつも、しかしここは男らしく、覚悟を決めて腹を括って、僕は魔女に事態の詳細についた尋ねた。
「何と、我が家の電気がついに止められた」
…………。
「それは確かに、今の季節緊急事態だけど!」
この猛暑の中、特に日中は冷房が使えないのは確かに死活問題だろうけど、……身構えた甲斐がない。
あの偉大なる魔女も夏の暑さには弱いということか。我が家は縁の精霊術で、快適に冷やされてるから、避暑地としては打って付けなのだろうが、それにしても竜との闘いで猛威を振るい、僕を恐怖のどん底に叩き落した大賢者様が、家の電気を止められてるって、正直言ってかなりがっかりだ。
「と言うかお前、魔女なんだから、魔法でどうにかできるんじゃないのか? 前、でっかい氷作ってたじゃねえか」
――思い返すまでもなく、作るどころか僕の肩に突き刺してたじゃん。あの巨大な氷柱。
ドラゴンvs魔女の決戦に巻き込まれて、僕は体の一部を貫かれている。正確を期せば、巻き込まれて、ではなく魔女の思いつきの策略に付き合わされて、なのだが、その辺りはあまり詳しく思い出したくもないので、省略。僕の中であれは完全にトラウマ認定されている。
「いやいや、あれはかなり無理をしていたんだよ、ボクとしても。言ったはずだぜ、お兄さん。魔法は何もかも万能というわけじゃない。ボクたちの扱う魔法は、竜固有の能力と言って良い、精霊術なんかよりずっと使い勝手が悪いんだ」
いやあ、そうは言われても、あの凄まじい波状攻撃は相当自由自在に使ってたように見えたのだが。全くの素人目だけど。
「だから、無理をしていたんだって。魔法は基本的に、体内のエネルギー、つまりは自分の熱を変換して行使するものなんだぜ。ものにもよるけど、通常あんな大規模魔法を連発してたら、身が持たないよ」
「へえ。一応そんな理屈があるのか。」
「そういうこと。お兄さんは、ドラゴンの精霊術を日常的に便利に使ってるみたいだから、贅沢に浪費しているみたいだから、感覚が麻痺しているんだよ。ボクがもし自分の住処を魔法の力だけでキンキンに冷やそうと思ったら、その分、魔法で代替したことで浮いた電気代を遥かに上回るだけの食糧費がかかるだろうぜ。どうだろう。ざっと見積もって、一日五万円くらいかかってしまうかな。」
――効率悪っ!
しかし、成程。こいつがいつも金に困ってる風なのは、そういう理由か。魔法を使うにはお金がかかるのだ。しかも食糧費。
僕はてっきり、箒とか杖とか衣装とか、魔法グッズにお金を費やしているのだとばかり思っていたが、魔法って案外現実的だなあ。ファンタジーが台無しだ。
「ということは、お前って、魔法使ったらお腹が減るのか?」
「まあ、そうだね。エネルギーを使ってしまえばお腹は減るさ。魔女とは言ってもボクは人間だ。熱を作り出すにはどうしても食べ物を食べなきゃならない。いや裏を返せば、ドラゴンさんは、本当は食べ物なんか摂らなくたって良いはずなんだけど。」
「は?」
「おい! 魔女っ。それは機密事項じゃ。営業妨害じゃ! 丙の前で何てことを言いおる! そんなことがばれてしもうたら、丙が私にかける食費をケチるようになってしまうじゃろうが!」
「おっと、これは口が滑った。つい、うっちゃりしていたよ。」
「……お前ら、土俵際で逆転し過ぎ。」
流行ってんのか? その言い間違い。
「と言うか、縁、説明しろ」
お前には説明責任を果たす義務がある。
「ななななな、なんのことかなあ~。……いや。いやいやいや。ほほほほ、本当に私にはお主に話すべきことなど何もなかったはずじゃ」
ザ・古典。
「お前その反応は、自白してるみたいなもんだからな」
「むう。ばれてしまっては仕方がない。ここは潔く、白状するしかないらしい」
いやたった今、往生際悪くも粘ろうとしたよね?
「それで、本当は食べる必要がないって、どういうことだ?」
「……本当に言わなくてはならんのか?」
低い視点から上目遣いで僕の顔を覗き込む縁。いつものあの、嘘のように綺麗で淀みのない、赤味を帯びた瞳で、僕のきっと淀み切った眼球を見つめているのである。
――こういう時だけ無駄に可愛いな、畜生。
――でも駄目。駄目なものは駄目だ。魔女の発言は、あまりに聞き捨てならない。
「何だよ。潔く白状するんじゃなかったのかよ。態度をコロコロ変えやがって。供述を翻しやがって。さっさと吐いて楽になっちまえ。別にそんなことで、お前の分の食糧費を削ったりしないから。」
怒らないから正直に話せ、という言葉ほどしかし信用できないものもない。
「実は、そういうことなのじゃ。私は本来食物からエネルギーを摂取する必要がない」
「そうか。じゃあ、お前の分の飯は今後一切準備しなくて良いな」
厳粛な態度で、しかしあくまで冗談のつもりで、おふざけのつもりで僕は言った。そう、全くの冗談、僕には縁の食料を奪うつもりなど、さらさらなかったのだ――。
世の中には言って良い冗談と、言ってはいけない冗談がある、と言う。だとするならば、今回の冗談は、断然後者であるらしかった――。
縁の頬に一条、二条と光るものが伝った。儚くも美しい、女性最大の武器、その名も涙。驚くべきことに、あの涙である。汗でも汁でもなく、さんずいに戻と書いて、涙である。
あの日以来、僕の体に穴があけられたあの夜以来、縁は一度として涙を流したことはない。今日という日の、今の今までは……。僕の同居人は、滅多なことで涙を流すような竜ではないのである。縁は、決して涙を安売りしない。だからこそ、余計に苦しいのかもしれない。
――止めどなく、零れ落ちる光の粒。赤味がかった綺麗な色の瞳から、溢れて、溢れて止まらない。所謂ボロ泣き状態だ。
それでいて、嗚咽も漏らさず、唇を噛み締め涙を堪えようとしているところが、何とも涙ぐましい。
「うーわあー。お兄さん、サイテー。」
冷ややかな視線。元々の無表情に相まって、絶大な威力だ。
――ああ、何たる罪悪感。狂おしいほど、苦しい。こんなに嫌なものだったっけ、人を泣かせてしまうことって。
期せずして、というのが如何ともし難く心苦しい。まさか泣くなんて、人間の恐怖の化身であるドラゴン様ともあろう者が、食べ物のことなんかで泣くなんて、思いもよらなかったのだ。
――いやしかし、そう言えば、こいつの生きる理由の半分って食べること、なんだっけ。そりゃ、泣きもする。
「嘘嘘。嘘だよ、縁。楽しいジョークだよ。お前はこれからも変わらず、ずっと、僕と一緒にご飯を食べるんだ。当たり前じゃねえか。――ほーら、縁。見てみろ。今日だってお前のために、美味しい豚肉を買ってきたんだぞお。国産だぞお。……そ、そうだあ。今日は奮発して、焼き肉にでもしちゃおっかなあ。うんそうだ! そうしよう。待ってろよー、縁。今お前の為に、最高の夕飯を作ってやるからなあ!」
泣きじゃくる子供をあやす要領で……。
「本当か? 本当に、私はこれからもお主とご飯を食べて良いのか? そんな無駄なことに、お主の貴重な財産を使ってしまって良いのか?」
くそう! 普段は基本偉そうな奴だから全然そんなこと思わないけど、今だけは強く抱きしめて謝罪したい!
「い、良いに決まってんじゃねえか。と言うか、無駄なんかじゃねえよ。お前と一緒じゃないご飯なんて、今となっては考えられねえぜ。いや、是非これからも僕と一緒にご飯を食べて下さい、と本来ならここは深く頭を下げるべき場面なのかもしれねえな。あー、縁とご飯を食べられて、僕は世界一の幸せ者だなあ」
「そ、そうか。それならば、良かった。いや、見苦しいところを見られてしもおたわい」
両腕で涙をごしごし拭う縁。どうやら気を鎮めてくれたらしい。やれやれ、危うく家庭が崩壊するところだった。滅多なことは言うものじゃない。
これまでも散々、ご飯抜きにするぞ、などと脅しをかけてきたが、今回は自重すべきだった。何よりも、楽しい会話をしながら食卓を囲むことが大好きな縁は、きっと真実が明らかになることで、その機会が失われることを恐れていたのだ。いつもの冗談とはわけが違う。流石に可哀想なことをしてしまった。失着失着。
「だけど、そんなこと隠さなくたって、僕がお前から食べる権利を剥奪するわけないだろ?」
僕にとってもあの時間は大事なのだから。そんな共倒れ、僕が認めるはずがない。
「僕はお前のことについて、出来るだけ知っておきたいだけなんだよ。だから、教えてくれるか?」
「うむ。それもそうじゃの。すまぬ。正直に話そう。つまり、私は食料から栄養を摂取せずとも、太陽光さえ浴びればそれで事足りるのじゃ。勿論、食べることで栄養を補給することもできるが、それは必須とは言えん」
またしても、驚愕の事実。縁と暮らし始めてからというもの、こういう新発見は後を絶たないことではあるが、今回のそれはいつにも増して凄まじい大発見だ。
「太陽を浴びればって、植物の光合成みたいなことか?」
「まあ、詳しくは分からんが、恐らくは似たような原理じゃろう」
僕の語彙力を総動員して感想を述べると――凄っ!
「……何というか、実はお前が頑張れば、世界のエネルギー問題は解決するんじゃないのか?」
しかしどういう仕組みなのだろう。理系科目はあまり得意ではないが、ない頭で考えて、少なくとも大気中の二酸化炭素は使うはずだよな。多分炭素はどうしても必要だろうから。いや、そもそも肉体の構成からして違うのか? だとしたら、僕たちが体を維持したり動かしたりするために必要な物質が必ずしも使われてるとは限らないのか? うーん、分からん。――謎は深まるばかり。
「まあ、ボクたちが体を動かしたりできるのも、本を正せばほとんどが太陽光線のお蔭だ。」
と、口を挟む魔女。
確かに、人間は光を直接吸収して変換することはできないが、その役目を代わりに果たしてくれている植物や、それを食べる動物たちを食べて、栄養としている。太陽の放つエネルギーを間接的に摂取していると言えなくもない。
「竜はその過程を省略しているのさ。そこがドラゴン、と言うより精霊術最大の強みでもあるんだよ。人間の魔法が、摂食によって生み出された熱を、内的リソースを利用するのに対して、竜の精霊術は、光やその他諸々をそのまま霊力や生命維持のためのエネルギーに変換できる。形を持たない、ほぼ無尽蔵のエナジータンクに支えられているようなものだ。そりゃあまともにやり合えば、人間に勝ち目はないよね。」
「へ、へえ。まあ、何となく分かったような。」
――いや、本当はよく分かってないんだけどね。
さておき、新たに縁の、竜のとんでも生態が明らかになったのだった。
このあたりの詳しいことは、またおいおい、知っていけば良いだろう。いきなり原理や法則に迫っても、僕の理解が追い付かないし、そもそも縁や魔女でさえ、確証は持っていないのだ。論はあっても証拠はない。
「――じゃあ僕は、追加の食材を買い出しに行ってくるから、どうぞ御ゆるりと」
焼き肉にすると、約束してしまった以上、足りない分の野菜やら肉やらを調達してこなければならない。痛い出費だが、まあ、致し方なし。縁のお蔭で浮いた電気代、水道代、ガス代等々のことを考えれば、ついでにメンタル的なことも含めて考えれば、良い埋め合わせと言えなくもないだろう。
「そうかい。いや、それならボクもついて行こうかな」
「え? 何で?」
その見た目で、その如何にも魔女みたいなマント姿で買い物についてこられると、かなり恥ずかしいから、出来ればこのまま我が家で涼んでいて欲しいんだけど。
「何でって、そりゃあお兄さん。これから晩御飯をご馳走になるというのに、何も手伝わないなんて、そんな図々しい真似、慎ましやかなボクには到底できないよ」
「慎ましやかなお前は、勝手に晩飯をご馳走になろうとしていることが、図々しいことだとは気付かないんだな」
慎ましやかの意味を分かっているのだろうか、この魔女は。
「……まあ、お前にはいつも世話になってるし、飯奢るくらいなら良いけどさ」
日頃の恩返しというのなら、縁のついでと言っては何だが、ここらでまとめてしておいても悪くはない。何せ僕には、この魔女に対して、返しても返しきれないほどの大恩があるのだ。たとえ一生かかっても返しきれないのだとしても、それは返さなくて良いということには決してならない。こんなことで少しでも返せるわけではないのだろうが、何事も小さなことから、だ。
「あ、いやでも、買い物についてくる気なら、せめてその魔女装束、どうにかならないのか? 外でそんなの着てたら暑いだろうし」
今日の最高気温は三十度以上。いくら夕方になって気温が下がってきたからといって、黒の外套は如何にも暑苦しい。勿論、一緒にいる僕が恥ずかしいから、といのが第一の理由ではある。
「分かった分かった。ご要望にお応えしてこのマントは脱いでいくよ」
そういって蝶結びにされていた胸のあたりの留め紐を解き、魔女はローブを脱いだ。
以前、まだ縁と出会ったばかりの頃、似たようなやり取りがあったのを思い出して、少し焦ったが、流石の魔女も全裸にマント、などという露出狂紛いのコーディネートはしていなかった。
「何だい、お兄さん。まるで何かを期待していたみたいな顔をして。まるでボクが全裸になるのを期待してたみたいな顔をして」
「そんな用途の限定された表情を作るためには、僕の顔面筋は作動しない。期待したんじゃねえ。心配したんだ」
意外にも魔女のマントの下は、白に薄いストライプの入ったノースリーブに、黒のハーフパンツ、同じく黒っぽいソックスという、お洒落かどうかは別として、一般的と言えなくもない、僕の目から見てもまともな服装だった。
何故だろう。ちょっと感動である。これがギャップ萌えというやつなのか。いつもは肌を晒さない魔女のノースリーブ姿には、かなりぐっとくるものがある。
「……お前ってやれば出来る子だったんだな」
「何がだい? この服装はただのクールビズだよ」
「お前今日はビジネスで来てたのか?!」