<參>
帰り道。雲一つない快晴、いっそ日刺しと表記してしまいたいくらいに強く鋭い太陽光線、今日も今日とて猛暑日和である。ただでさえ自転車通学をするには辛い季節であるのだが、僕が利用している通学路、一級河川沿いの土手には、日差しを遮ってくれる建造物が一つもない。市街の中心から少しばかり離れた場所を川が流れているために、途中立ち寄れるコンビニなども全くと言って良いほどない。時折砂漠のオアシスのように木陰が出現することもあるが、それも一瞬の話。延々と続く灼熱ロードである。
――もう三時を回っているというのに、暑い。と言うか、熱い。体が熱い。サドルが熱い。ハンドルも熱い。地面のアスファルトが熱い。
暑さを形容するのに、融けてしまいそうと表現することがあるが、まさしく今にも体が融解してしまいそうな暑さだ。
――いやまあ、人体のほとんどは水で構成されているわけだから、暑さで生じる変化と言えば、蒸発の方が正しいのかもしれないし、或いはタンパク質の持つ性質によって凝固してしまうという可能性も考慮しなければならないのだろうが、ともあれ、考慮する必要のないことをうだうだと長たらしく考えてしまうくらいに、暑い。思考がまともに働かないくらいに……。
――そんな夏の、脳機能を阻害するほどの暑さにも負けず、僕は自転車を漕ぐ。川沿いをサイクリングだなんて涼しそうじゃないか、と勘違いされるかもしれないが、前述した通り遮蔽物がない上に、川から来る湿った、もわっとした空気の塊が風に煽られ登ってくることがしばしばあり、少なくとも昼間に限っては、涼しさという単語とは無縁な環境である。
川沿いという立地上、この辺りには空を区切る電線がほとんどなく上を見上げればそれは清々しくも気持ちの良い、抜けるような青空が広がっているのだが、そんな美しい景色を堪能していられる余裕も勿論ない。今思えばあの祠、木々に覆われたあの祠のあった袋小路の何と心地の良かったことだろう。せめて日が暮れるまであの場所で休憩していけば良かっただろうか。
――加えてこの季節、と言うか春先から晩秋にかけてずっと、暑さの次に厄介なのは虫である。ある程度自然環境が残されている河川敷には、当然の如く、市街地などに比べて断然虫が多い。風情もへったくれもないアブラゼミのジージーという鳴き声に、種の同定も儘ならない謎の羽虫。
水と樹木、という生物の生息条件としては絶好の環境が揃っているのだから当然と言えば当然、また環境問題のことを考えれば喜ばしいと言えば喜ばしいことなのだが、個人的で自分勝手な意見を憚りもなく言ってしまえは、かなり鬱陶しい。
これも人間の傲慢なところなのだろうが、彼らは自転車で走る僕たちのことを、避けてはくれないのだ。いやいっそ、狙ってきてるだろ、と思ってしまうくらいに、よくぶつかる。それも顔面めがけてまっしぐら。うっかり口など開けていると、容赦なしに口内に侵入してくる。家を出てから学校につくまでに、ワイシャツの胸ポケットに入ってくる虫の数は、平均して五匹くらいだろうか。
まあ、その程度の小さな虫ならば大したことではない。数十から数百匹規模で群れを成す蚊柱に突っ込んだところで少々不快なだけだ。嫌は嫌だが、虫に対してそこまで腹を立てるほど、僕も狭量な人間ではない。
問題なのは、大きさである。ある一定以上の大きさの虫が、そこそこのスピードで走る自転車使いの顔面にぶつかると、かなり危険なのだ。痛み、も多少あるが、質量のある物体が顔面にぶつかると、人間はどうしても、無意識的に反射的に防御反応を示してしまう。それが道幅の広いとは言えないサイクリングロードで、しかも自転車での疾走中に起こってしまうとどうなるかは、最早語るべくもないだろう。
極め付きは、蜂。世に恐ろしきアシナガバチに、人類最恐の敵スズメバチ。前述の通り、それなりの環境が揃っているために、毎年どこか近くで巣を作っているらしい。シーズンになると一日に必ず一匹は、多い日には行き帰り合わせて十匹は遭遇する。夏真っ盛りの今はまだ良いが、夏の終わりから秋にかけて、攻撃性を増した彼らの存在は、真剣に死を考えるくらいに恐ろしい。物々しい羽音に行く手を遮られた時の絶望感たらない。硬直するしかない。進めば地獄、退けば遅刻なのである。
と言うわけで、どうだろう。自転車で土手を走るという青春に、甘酸っぱい幻想を抱かれていた皆々様にはそろそろ現実をお分かり頂けた頃合いだろうか。夏は融けるような暑さ、秋は死を覚悟する蜂、冬は耳が取れるかと思うくらいの寒さ、春には花粉――。
簡潔に言って、土手に青春は存在しない。いや在ったとしても、それは汗まみれ虫まみれ霜焼けまみれ鼻水まみれの、我慢我慢の青い春である――。
そして学校から三つ目の橋に差し掛かったところ、ここにも一人、僕以外にもう一人、そんな汗みどろの青春を謳歌している若者がいるらしかった。
僕の前方数メートルのところを、僕よりもゆっくりと走っている。太陽をいっぱいに浴びた白いシャツが汗で背中の肌に張り付いていて、……有体に言って、目の保養、数少ない夏の醍醐味だった。
「私の背中に何かついてるか? 伊瀬」
気付かれていた。存在も、また背中に張り付いたワイシャツ、否、ワイシャツの張り付いた背中を見ていたことも、気付かれていた。
流石は女子バスケットボール部の次期エース。気配や視線を察知する能力には長けているということらしい――。
伏見空。高い攻撃性を持ちながら、しかし好戦的ではない僕のクラスメイト。可愛らしさや美しさよりも、まず格好の良さに目がいってしまう、我がクラスのスポーツ番長。自らの専門種目に対しては、誰よりも努力家で誠実で、強く凛々しく逞しい女の子。時に忌憚のない発言で周囲を驚かせ、場を凍りつかせる、底抜けの正直者。
僕が帰り道に偶然出会ったのは、無尽蔵の体力を持つ、彼女だった。
「……まあ、そうだな。お前の背中に何か張り付いてることは間違いない」
――薄いワイシャツの生地とかが張り付いているよ。眼福眼福。
「何かいやらしい視線を感じる」
「……あ、ああ。うん。そうだな。最近じゃあこの辺りにも怪しい輩が多いらしいし、お前も一介の女子高校生なんだから、それ相応に注意しておいた方が身の為だぜ」
僕は同級生女子に、紳士として当然の注意喚起をした。
……いやまあ、何を隠そう伏見が注意すべき相手は僕であり、自らの行いに注意すべき怪しい輩も僕なのだが。
「……そんなことより」
「いやちょっと待て。え? 今、話題換えようとした? 何かを有耶無耶にしようとしていないか? クラスメイトをいやらしい目で見ていたことを、そんなことの一語で片付けようとしていないか?」
――ぐぬぬ。流石は現役のスポーツマン。目敏い奴だ。こうなれば強硬策に出るしかないか。
先にお断り、注釈を入れておくが、僕は今暑さの所為で冷静な判断力を失っている。だから、これから僕が何を言おうとも、どんな暴挙に出ようとも、どんな言い訳をしようとも、それは僕の所為ではなく、全ては暑さの所為、地球温暖化の所為、つまり全人類の責任なのである。
「……良いか、伏見。健全な男子高校生ってのは、クラスメイトの女子を常にいやらしい目で見てる生き物なんだ。それが男子高校生の生態なんだ。生理現象と言っても良い。――だけど、だけどなあ、伏見、僕たちはいつだって、罪の意識を感じてるんだぜ。いつだって罪悪感と戦って、だけどそれでもどうしても本能に勝てずに、敗北感と無力感に苛まれてるんだぜ。そんな風にいつもいつもプライドをずたずたにされている僕たちを、そんな苦しみに耐えに耐え続ける僕たちを、自らの卑しさや痛みと戦い続けている僕たちを、追及しようってのか!? 糾弾しようってのか?! そんな、……そんな無慈悲なことってあるかよ。そんな残酷なことってあるのかよ、畜生。なあ、伏見よ!」
迫真の演技とはまさにこのことだ。案外僕には、役者としての才能があるのかもしれない。その証拠に伏見も見るからにたじろいでいる。
というか、引いている。
「あ、あれ? これってもしかして怒られてるのか? 何で私、怒られてるんだ? セクハラを注意していたはずなのに、どうして逆に問い詰められているんだ?」
よし! このまま論破してやる! 詭弁とも言えないようなお粗末な理論で、僕はこいつを説き伏せてみせる!
「どうしたんだ、伏見。僕の問いに答えられないのか? やれやれ、どうやらようやくお前にも、男子高校生の苦しさが分かってきたようだな」
「いや、だとしたら滅びてしまえよ。男子高校生。セクハラの動機をさも高尚なものであるかのように言うな。そんなのは本能に勝てないのが悪い。理性を働かせろよ。人間なんだから!」
――仰る通り。仰る通りだが、僕はまだ負けるわけにはいかない。諦めたらそこで試合終了だと、僕の尊敬する先生も言っていた。変態の汚名を、そう易々と戴いてなるものか。
「何でもかんでも、ハラスメントって言っちゃう今の風潮って、僕はあんまり好きじゃないんだよな。いや勿論度を越したのは良くないとは思うよ? だけど今の時代、ハラスメントって言葉が浸透し過ぎて、言ったもん勝ちみたいになってないか? その流れって結構危ういと思うんだよ」
流行は時に恐ろしいものだから、なんて。
「おい、伊瀬。私は勢いでは騙されないぞ」
――くそう。縁だったらこの手で誤魔化せるのに! 流石はクールビューティーでお馴染みの伏見空。馬鹿な自称ドラゴンとは格が違うというわけか。
なれば、なれば……
「すみませんでした」
最終奥義、平謝り。
「しかし、人間、見るなと言われると、余計にそこに目が行ってしまうものなんだよなあ。本当に申し訳ないとは思ってるんだけど、とは言ってもやっぱりそこはそれ、男女の別なく性と言いうか……」
こう、無意識にチラチラとついつい見てしまうと言うか……。
「いや、一応注意はしてみたものの、実は私はそういうことをあまり気にするタイプではないから、別に良いんだけどな」
「そうなのか? 良かったあ~。これで遠慮なく、安心してガン見出来るぜ」
「それは遠慮しろよ! そっちの発言の方が断然アウトだ。流石に私でもガン見は恥ずかしい」
――好きでも何でもない同級生男子に自分の寝間着兼運動着を貸し与え、汗みどろになったそのTシャツを受け取るような奴なのに、そこは一応ちゃんと恥ずかしいんだな。
……それはそれで興奮する!
「と言うか、運転中なんだからちゃんと前を見ろ」
「はっはっはっ。冗談だよ」
「冗談と言えば何でも許されるわけじゃないからな?」
手厳しい指摘だ。
「ごめんごめん」
「ごめんで済めば、刑罰はいらない」
「何だ、その悪即斬みたいな思考回路は!?」
警察の出番は?!
手厳し過ぎる。
「――いやしかしお前って、そういう、所謂下ネタなんか毛嫌いする方かと思ってたけど。意外とそうでもないのか」
僕も僕とて、クラスメイトと、それも女子生徒と常日頃、こんな品位を疑われるような会話をするようなキャラではないのだが、今回は突発的な、謂わば交通事故のようなもので、緊急回避の手段、或いは言い訳として話題を引っ張ったに過ぎないのだが、幸いなことに伏見は下ネタにもある程度耐性のある人物であるらしい。
「意外……か。お前の中で、私はどういう人物設定になってるんだ?」
伏見空の人物像。小さな体躯に反して、率直で発言に遠慮がない勇者。大胆不敵で何物にも物怖じしない強い女子。スポーティなショートカットがよく似合う、孤独よりも孤高という言葉こそ相応しい、努力の人。
「まあ色々と言葉を尽くせば一朝一夕では語り尽せないテーマではあるけど」
「いや、私はそんな壮大な人間ではないと思うのだが。一朝一夕では語り尽せないって、歴史上の偉人か何かか。本当にお前は私をどういう人物だと思ってるんだ。気持ち悪いなあ」
――うわあー、流石に同級生の女子に気持ち悪いって素直に言われると、かなり傷付くなあ。いやしかしここは敢えて、つらいという感情は表に出さないでおこう。心がつらい時は、笑って誤魔化す、というのが僕の処世術だ。
……まあ実際は笑ってないと耐えられないだけなんだけど。
「何で気持ち悪いって言われてるのに笑ってるんだ? もしかしてそういう趣味の人なのか? 気持ちが悪いな」
「はっはっはっ」
つらい! 心がつらい!
この短い会話の中で、二度目の『気持ち悪い』だよ。しかも今度は『気持ちが悪い』だよ。『が』がつくだけで、何故だか言葉に重みが出たよ。遠慮がないにもほどがあるよ、伏見さん!
――ともあれ、
「じゃ、じゃあ、ご要望にお応えして、簡潔に、一言でお前の人物像を片づけてしまうと」
「そんなやっつけ作業みたいに……まあ、良いんだけど。一朝一夕語られるよりは全然良いんだけど。いやすまん。それで、片づけてしまうと?」
「変な女」
「本当に一言で、しかもかなり雑に片づけられた! まさかお前に変な奴だなんて言われるとは。いや私は別に変な女ではないと思うんだが。少なくともお前に変だなんて言われる筋合いはないと思うんだが」
それは暗に僕が変な奴だと言いたいんだろうか。自分が変な人間だなんて、自意識過剰な自己認識はしていないが、どころか、自分のことをそれなりの常識人だとさえ思っていたりなんかしているが、変人だと言われても仕方がない振る舞いを、具体的には、学校では成る丈言葉を発さないという振る舞いをこれまでしてきたという自覚は僕にはある。
「自分の異常性を自覚してない奴が一番質が悪いんだぜ」
犬上然り。
「質が悪い!? 私はお前から見て、質の悪い女なのか? それに異常って、女子高生に向かって使う言葉か?」
「まあ質が悪いは言い過ぎだろうけど、異常ってのは紛うことなき事実だろうぜ」
「へ、へえ。それで? どのあたりが?」
「僕と話してるところが」
――何ということだろう。人類史上、こんなにも悲しい答え合わせがあっただろうか。いやない。
「た、確かにそれは異常だ」
「……自分で言っといてなんだけど、そうもあっさり納得されると、ちょっとくるものがあるな」
本当に言葉を選ばない奴だ。冗談で変な女、なんて言ってみたが、あながち冗談とも言い切れない。伏見空という人物が、少々変わった、日本人としては稀有な性格の持ち主であることは事実なのである。
「あぁ、すまんすまん。ただ、伊瀬の言いたいことがようやく理解できたのでな。成程確かに、私たちの学校で伊瀬と会話する人間なんて、私くらいのものだ。……ああ、いやでも、最近ではそうでもないらしいが……」
――最近の話。僕が犬上と会話するようになったのは最近の話である。出来るだけ目立たないようにしていたつもりだったが、あの犬上と話していて目立たないようにする、なんて土台無理な話である。僕たちの会話は、少なくとも僕たちが会話をしていることは、クラス中に知れ渡っている。無論、犬上の次に話す機会の多い伏見空にもまた、そのことは知られている。
「どうして急に仲良くなった? 何か切っ掛けがあったのか?」
「別に、仲良く、はなったつもりはないけど……。あいつはあいつで、変わった奴だろ。お前とは違った意味で」
伏見が誰にでも分け隔てなく実直にものを言う人物であるならば、犬上祐は誰にでも分け隔てなく優しい人物だ。ちょっと異常なくらいに、良い奴なのだ。
「まあ話すようになった切っ掛けって言うなら、普通に席が前後になったからじゃないかな」
まさか常軌を逸した体験を共にした所為で、吊り橋効果的に親睦が深まった、なんて赤裸々なことを伏見に対して言えるはずもない。それに席が前後になった、という言い訳も、まるっきり嘘というわけでもないのである。昼休みに僕と犬上が話しているのは、あの席順があってこそのものなのだから、切っ掛けではないかもしれないが、理由ではある――。
「お前こそ、学校じゃああんまり話す方じゃないよな」
犬上のことについてあれやこれやと突っ込まれるとぼろが出てしまうかもしれないので、ここで話題転換。
伏見とこうして一緒に下校することなど滅多にない機会である。どうせなら、伏見自身に関する話をしておきたいところだ。
「うん。そうだな。私は喋るのがあまり得意ではない。……いや、はっきり言って私は人と話すのが苦手なんだ」
「そうなのか? そんな感じもしなかったけど」
普通に、楽しい会話が出来てたと思うけど。僕の独りよがりだったのだろうか。
「伊瀬は、懐が深いからそういう風に言ってくれるけど、皆が皆そうというわけじゃない。私の物言いは人を傷つけることがあるからな」
確かにそれは否定できないところだ。伏見は言葉を選ぶということを、基本的にしない。思ったことをそのまま口にする。良くも正直、そして悪くも正直なのである。
――実際僕もさっき、痛めつけられたし。
伏見空は、結果として人との間に軋轢が生じることを、まるで躊躇っていないかのような、真っすぐな物言いをする。それが彼女の長所であり、そして口振りからするに、彼女自身は恐らく短所だと思い込んでいるところだろう。
「僕の懐はそんなに深くねえよ。お前の言ってることって、正しいことが多いから、納得せざるを得ないんだよ。納得っていうか、何てんだろ、……ああ、こいつにこんな風に言われたら仕方ねえな、みたいな。よくわかんないけど」
懐が深いなんて、大袈裟だ。僕が彼女の包み隠さない物言いを許せるのは、言葉に偽りがないと思えるからだ。嘘がなく、飾り気がなく、いっそ清々しい。人の顔色を窺うこともなければ、取り繕うこともない伏見のさばさばとした態度は、傍目から見て格好良いのである。だから、許せてしまう。
面倒な人間関係から逃げるために口を閉ざした僕からしてみれば、人間関係が壊れてしまうことも厭わずに自分の信じたことをはっきりと発言する伏見のような人物は尊敬、と言うより最早憧憬の対象なのだ。臆病な僕には真似できないだろうが、正直、憧れる。
「僕が女だったら惚れていたかもしれないな」
「それは挨拶に困る発言だな」
――うわあ、引かれた! 結構勇気出して言ってみたけど、何でこんな無駄な場面で出ちゃったんだろう、勇気!
「つまり私には女としての魅力がないと?」
じっとりとした視線を向ける伏見さん。流石の威圧感である。嘗て僕をして漏らせしめたというあの鋭い眼光だ。
僕をして漏らせしめたという表現が果たして人を褒める際に使ってしまって良い表現なのかは、微妙なところではあるが、しかし確実に僕の中では最大の賛辞である。
「いや、あるよ? 女としての魅力。少なくとも、透けた肌とか下着とかうなじとか、良い感じに引き締まった太ももとかをいやらしい目で見ちゃうくらいには魅力あるよ!」
伏見に睨まれては、嘘偽らざる感想を、僕は述べるしかなかった。
「見るな! うなじや肌はまだしも、下着と太ももは見るな!」
――わーい! 伏見さんが照れてるぅ! 初めて見るけど、思いのほか可愛いなあ!
……冷静に考えれば酷いセクハラだが、これもきっと暑さの所為だろう。地球温暖化の所為だろう。仕方がない。僕に責任はない。抗えない力と書いて不可抗力だ。
おのれ人類め。いつもいつも僕の邪魔をしやがる!
「しかしそうか。私のような者はそういう目では見られないものと油断していたし、気にしないことにしていたが、これは一度気を引き締めた方が良いのかもしれない」
「ああ。気をつけろよ。世の中には色んな変態がいるからな」
「ふうん。例えばどんな変態がいるんだ?」
「さあ。僕も詳しくは知らないけど、クラスメイトがセクハラされて赤面してるのを見て興奮する変態とかじゃねえか?」
……まあ、僕のことである。クラスメイトをいやらしい目で見たのも、セクハラをしたのも、興奮したのも僕である。
――と言うか、伏見とばったり出会ってからというもの、ほとんどセクハラしかしてないんじゃないか? クラスメイトの女子にセクハラを畳み掛けるなんて……、……いやあ、僕のコミュニケーションスキルも相当上がったなあ~。
「流石は、クラスで変態博士の称号を恣にしている伊瀬だ。セクハラに関することには一家言持っているらしい」
「そんな不名誉な称号を恣にした覚えはねえよ! 永遠に欲しくないままな称号だよ、変態博士。何だ僕、クラスじゃ目立たないように、存在感を消してたつもりだったけど、そんな流言飛語の対象にされてたのかよ」
――ちょっとプライドが傷付くなあ。僕のミスディレクションは完璧だと思ってたのに。
「伊瀬について流言が出回るようになったのは、やっぱり犬上と話すようになってからなんだけどな」
「あー。それなら納得だ」
それならば、僕がどんなに強力なミスディレクションを発動していようとも、関係がない。犬上祐という眩しすぎるほどに輝かしい人物のご威光に照らされてしまっては、僕如きの隠密術では太刀打ちできないはずだ。噂や流言のネタにされてしまうのも頷ける。
――噂。……噂、ね。
そういえばあの噂について、こいつは知っているのだろうか。
「学校裏の祠の噂、って知ってる?」
「祠の噂? さあ。何のことだ? もしかして、時を超える力を持ち、美しい森にのみ生息すると言われる、あの幻の虫ポケモンでもいるのか?」
――セレビィのことか!? 祠からの連想でそこに行き着くのか。こいつ中々やるなあ。
「いやまあ、学校の裏手に小さな祠があること自体は知っている。ランニングコースに行く時、あそこは必ず通る道だからな。しかしあれが噂の種になっていることは聞いたことがない」
「へえ。僕が知ってることを知らないなんて」
高校という閉鎖的な社会に於いては、情報網の広さというのはほぼイコールで交友関係の広さを指す。特に校内限定の、ローカルな流行や噂話に関する情報のほとんどは、友人や知人伝に入ってくるものだ。それ故に、縦の繋がりも横の繋がりもほぼ持っていない僕の情報集積能力は極めて低い。皆無とさえ言える。
その僕でも、犬上と、ついでに米村担任を除いて学校では孤立無援状態の僕でも知っている情報を知らないとは、伏見も相当のものだ。
僕同様、伏見もあまり友達の多い方ではないのだろうが、それでも僕よりは多くいるのだろうし、何より伏見は部活に加入している。友達でなくとも、チームメイトからそういう話を聞いていても良さそうなものである。噂話など気にしないタイプなのだとしても、ちょっと無関心が過ぎる。
……僕より流行に疎いなんて、女子高生としてはかなりまずいんじゃないのか?
「つっても、僕もさっき、犬上から聞いたばっかりなんだけど」
不要なものを奉げると、願い事を叶えてくれる神様の噂。
嘗て犬神はほぼ無条件で犬上祐の願いを叶えようとしたが、今回の噂の中の神様は対価を支払わなければならないらしい。
まあ、この前の犬神は犬上が生み出した、オリジナルの神様のようなものだし、本来の犬神伝承には、生贄と儀式が必要とあるのだから、似たようなものか。世の中何事も、タダというわけにはいかないわけだ。只より高い物はないとも言うし、そうそう甘い話はない。
「……要らないもの、か」
「馬鹿げた話だよな。今時高校生にもなってオカルトなんて」
あの四月から、様々な経験をしてきた僕としては、オカルト自体を馬鹿にすることは中々し難いところではあるが、それを簡単に信じてしまう人間は馬鹿げていると僕は思う。
「ああ。本当に、馬鹿げた話だ。月初めのことがあってから、何となく皆そわそわしてるとは思っていたが、そんな噂まで流布していたとは」
――おっと。流石の伏見でも、あの事件が切っ掛けになっていることには気付くか。発言には気を付けねば。
「ま、まあ、不安な心に付け込むのがオカルトとか宗教のやり口なんだろうけどさ」
「宗教者に叱られそうな台詞だな。付け込む、とか。私とは違った意味で、お前もお前で発言には気を付けた方が良いと思うぞ?」
うん、たった今、気を付けねばって意気込んだところだったんだけどね……。
「とは言っても、問題発言であることは認めるけど、まるっきり間違いってわけでもねえだろ? 古来よりお化けとか妖怪とか神様とかって、需要に応えて、人間の必要に迫られて生み出されてきたんだろうし」
縁の言葉によれば、勇者は竜を退治することを望まれ、竜は退治されることを望まれる。人によって、望まれ、生まれる。
妖怪や幽霊は、未知への恐怖を解消するため、そして神や仏もまた、奇跡や偶然に説明をつけるため、或いは救済を求めて、人に在ることを望まれる。犬上や、彼の母親が生み出した犬神がそうであったように、神様に妖怪に化物に、所謂オカルトに分類されるものは総じて皆、そういう都合の良い存在だ。
「需要に、必要……か。そんなこと考えたこともなかったが、案外そうなのかもしれないな。……そういう意味では、神も人も大差ない」
――誰もが皆、認められなければ生きられぬ。
などと、伏見は言った。
「もし本当に願いを叶えてくれる神様がいたら、お前は何を願う?」
「恒久平和」
間髪入れずに即答する。
「拍動するように嘘を吐くな、お前は」
「いや拍動するようにって、もうそれ無意識じゃん! 僕の意思とは関係なく嘘吐いてんじゃん。不随意筋じゃん。そうなってくると最早僕、悪くないんじゃ……」
「そうだな。お前は悪くない。お前という嘘の申し子を生み出してしまった社会が悪いんだ」
「嘘の申し子はただの嘘吐きじゃないのか? と言うか、何で世界の平和を願っただけで嘘吐き扱いされなきゃならないんだ? 言っておくけど、男子高校生ってのは割と真剣に世界平和とかを考えてる生き物なんだからな? いやらしいことの次くらいに、真剣に考えてるんだからな、世界平和!」
「一位の座に『いやらしいこと』がランクインしている時点で、それ以降の尊いもの全部が穢れてるように見えてしまうな」
――伏見空、僕が密かに一方的に尊敬してやまない努力家のクラスメイトは、そんな辛辣なことを呟いて、後は静かに、灼熱のサイクリングロードを走っていく。