<貳>
学校の怪談如きで、とは言ってみたが、しかしそれが僕たちの学校、あの犬上祐が通っている県立東柳童高校で流行している噂であるならば話は別だ。犬神という、看過しがたい実例と、それに伴う物質的な実害がごく最近あったのだから、警戒は言い過ぎだろうが、一応の、最低限の注意くらいは払って然るべきだ。
犬神の件は、犬上祐という天才の、その非凡さと異常さ故に引き起こされた特殊な事例、例外的な事件ではあるのだろうが、一つでも例外があると知ってしまった以上、再びそれが発生する可能性も考慮しなければならない。何せ、取るに足りない妄想から、命に関わることにまで発展する危険性があるというのだから。
まあ、一応も一応、最低限も最低限の注意である。犬神の特異性は、特異性の化身である縁、永久不滅のドラゴン様も認めるところなのだ。気に掛けておく、くらいが適切な対応だろう。警戒し過ぎて、あまりに意識し過ぎて、犬上のように自分自身が信仰の発生源となってしまっては本末転倒、どころか逆効果だ。ただでさえ僕は今、そういうった超常的な事象、現象を信じ込みやすい状況にあるのだから、気を付けるというのなら寧ろそちらにこそ気を回すべきだろう。いやだから、気に掛けるでも気を付けるでも気を回すでもなく、気になるから見に行く、程度のいい加減な意気込みで臨むのが丁度良い按配だろうか。
責任感なんて大層なものは持ち合わせていないが、それでも僕はある程度の義務感を持って、現場へと赴く。
自転車を押し、いつものように学校の裏門を出、いつもとは逆に右折。犬上の話では、噂の本拠地は学校の裏手にあるということだ。徒歩でも三分とかからないその場所へ、校門を抜けてからは自転車に跨って僕は進む。
我が校の裏、川沿いのサイクリングロードと表通りを繋ぐ細い道の途中から、また一つ更に細い小路に入ると、そこには祠がある。何を祀ったか、何を崇め奉ったか、今となっては定かではない、古めかしくも奥ゆかしい祠だ。その遥か昔に建立されたと思しき祠に関して、こんな噂があるそうな――。
曰く、祀られた神様に、自分の要らないものを奉げると、その代わりとして欲しいものが手に入ることがある、とのこと。
――今時の神様はリサイクルショップでも経営しているのだろうか。或いはわらしべ長者でもしているのか。酔狂な神もいたものだ。ことがある、なんて断定を避ける辺りも如何にも胡散臭い。高校生の間で流行っているオカルト話の内容としては些か杜撰過ぎやしないだろうか。
――噂に緻密さなんて求めても仕方がないんだろうけど。
さておき、歩を進めて一分少々、件の祠は背の低い木々に視界を遮られた薄暗い袋小路の最奥に構えられていた。
日差しがほとんどない分、周囲に比べてかなり涼やかだ。暑さの猛々しい今の時期には絶好の避暑地になっている。高校に入学してから一年以上経っているが、学校のすぐ近くにこのような場所があるとは知らなんだ。きっと今回の噂話がなければ、卒業するまで、つまりは一生、知ることはなかっただろう。
噂の本丸である祠。噂通り、こじんまりと小さくまとまった印象がある。在りし日の面影は今や見る影もなく、塗装も完全に剥げ落ちて、材木の表面などはそこかしこでささくれ立ってしまっているが、言葉を換えれば味や趣と言えなくもない。足元に群生する青い苔や、風雨に溶かされ最早原形を留めていない低い背丈の、左右一対らしい石像などからも、月日の過ぎ去った形跡というものが切実に見て取れる。
よくよく足元を見てみると、何人分かの足跡が残っている。噂を信じて通っている生徒でもいるのか、或いはそれ以前からこの祠を信仰している人のものなのかは不明ではあるが……。
いや、噂にあった、『要らないもの』らしきものが、祠の前に供えられているところを見ると、少なくとも一人は、例の噂を信用している人物がいると判断できる。
少なくとも一人、しかし多くとも二人だ。供物は二つ、祠に用意された木製の台の上に置かれている。
一つはぬいぐるみ、もう一つはシャープペンシル。いづれも破損していて、本来の機能は既に失われているようだ。確かに、要らないものであるらしい。
年季の入ったぬいぐるみには底知れない本気度が感じられるが、シャーペンの方は、興味本位でこの祠を訪れて、せっかくだから筆箱の中身を整理した、というところだろうか。あまり切実な感じはしない。神様に本気でお願いをするような人間が、こんな雑な捧げものを選択するとは思えないからだ。神に頼ろうとする人間は、もっと切羽詰まっているはずだ。たとえそれが要らないものを奉げることで効力を発揮する神様なのだとしても、である。
そう考えれば、ぬいぐるみを置いた人物とシャーペンを置いた人物は別という線が濃厚になるだろうか。
願ったのは二人。いや、シャーペンの方は悪戯のようなものだろうから、実質的には一人か。
一人もいると言うべきか、一人しかいないと言うべきかは微妙なところだが、しかし噂の広まり方の割には、案外少ないようにも思える。流石に高校生ともなると、あのような荒唐無稽な噂を真に受けてしまう輩はそう多くないということだろう。
――ともあれ成程確かに神域というだけあって、中々に厳かな雰囲気だ。気温の差含め、周りの空間とは明らかに、空気感が違う。神様への信仰など全く持っていない僕でさえそう感じるのだから、信じたい、信心深い人間にとって、打って付けのスポットになってしまうのも致し方ないことなのかもしれない。下らない噂の種にされてしまうのも頷ける。
しかし、それだけだ。おかしなところや不自然な、否、超自然的なところがあるわけではない。何の変哲もないただの古い祠だ。――僕の目にはそう見える。竜の心臓を受け継ぎ、あちら側に寄っているという今の僕の目から見て、この祠に異常はない。至って正常だ。
所詮は子供騙しのしがない噂。幸いかな、想定通り期待通り、取り越し苦労だったというわけである。
犬神は特例中の特例、相当にイレギュラーな事件だったのだ。今時、オカルトが実力を得ることなどやはりそうそうないことなのだろう。今回のこともまた、どうやら心配はないらしい。完全に僕の杞憂だった。
いやはや、僕も竜や勇者や魔女のことがあってから、ゴールデンウィークや犬上のことがあってから、視力同様、精神的にも少々過敏になっていただろうか。目が敏感になっているのだとしても、そのことで常人より些か異常事態に遭遇しやすくなっているのだとしても、そういったことが僕の狭い行動圏の中で立て続けに起こるとは確率的に考えにくい。
――僕は来た道を取って返す。いつまでもこんなところにいて、それこそ妙な噂を立てられてもつまらない。無駄足にはなったが、何もないと確認はできたし、ようやく息も吐ける。
……息も吐ける。そう、僕は犬神以降、息を詰めていたのだ。意識はしていなかったが、気を張り詰めていたのだ。自分自身のことならいざ知らず、人の命が失われるかもしれない場面に居合わせ、あまつさえ自分が結末に少なからず影響を与える立場にあったことは、僕にとってかなり精神的負荷になっていたのだろう。
その肩の荷がようやく下りた気がした――。
こっそりと小路を出た途端、夏の日差しが復活する。ここから凡そ七、八キロ、自転車を漕ぎ続けなければならないと思うと気が重くなるが、そうは言っても仕方がない。青春ドラマか何かのように、燦燦たる太陽に向かって僕は自転車を漕ぎだした。