ある夏の遭遇<文>
ゴキブリが あらわれた!
ゴキブリが あらわれた!
ゴキブリが あらわれた!
僕の家にゴキブリが出現した。
いや別に三体のゴキブリと同時にエンカウントしたわけではないのだが、僕にとってその事態は同じ文章を三回も繰り返してしまうほどの驚愕だったということである。
――七月の終わり、犬上や伏見の一件も落着し、定期テストも無事乗り越えた後、ついに安息かと思われた夏休みの最序盤、我が家に一匹のゴキブリが出現した。
クーラーを掛けなければ座っているだけで汗が垂れてくるような、うだるように暑い、暑い夏の日のことである。熱風吹き荒ぶ屋外から揃って帰宅した僕と縁を、一匹の成ゴキブリが、お帰りなさいませと言わんばかりに、出迎えたのであった。
それが何を意味するかと言えば、計算上あと三百匹は奴らがこの家に隠れ潜んでいるということである。
『一匹いたら三百匹いると思え。』
巷で実しやかに囁かれている格言だ。
――ゴキブリの繁殖力、生命力を侮ってはならない。中途半端に都会っ子な僕だって、その凄まじさくらいは聞き及んでいる。
曰く、ゴキブリの脚は落とされても再生するらしい。また、半死半生の状態で彼らを取り逃がすと、最後の力を振り絞って、暗がりの中で次なる世代の種を落とすということらしい。全く恐ろしい執念である。種の存続に対する凄まじい執着である。生物としては立派とさえ言える。僕たちはもう少し彼らに倣うべきかもしれない。
さておき、きっと宇宙からやってきた第三者が見れば、地球を支配しているのは人間などではなく、彼らゴキブリであると結論付けるだろう。文明を持つ人類を、これほどまでに恐怖させる生物は他にいない、とまでは流石にいかないとしても、個体数、繁殖能力、生息分布、環境適応力、文明への脅威度等々を総合して考えれば、あながち大袈裟とも言えないはずだ。
ところで、幾何級数的増加を説明する例として、しばしば鼠算という言葉が用いられるが、ゴキブリの増殖率は鼠のそれを遥かに上回るであろうからして、今日から、名称をゴキブリ算と改名すべきだ。
……使う頻度が劇的に少なくなりそうな語感である。
「落ち着け、丙。何をそんなに慌てておるのじゃ。相手は所詮節足動物じゃ。人間であるお主の敵ではあるまい。戦闘力で言えば、お主は奴を遥かに凌駕しておる。」
「サイヤ人でもあるまいし、何でもかんでも戦闘力でものを語るな。そういう問題じゃないんだよ、あいつは。僕たち人間と奴らの長き闘争の歴史をお前はまるで知らないからそんな暢気なことを言ってられるんだ。」
もっと慌てろよ。ふためけよ。ふためく、って言葉を独立した言葉として使っちゃうくらい動転しろよ、僕みたいに。これはそれだけの事態だ。慌ててふためいちゃう事態だ。
僕たちは、彼らと対峙する度に知るのである。自らが、どれだけ非力な存在であるのかを。
「いや、私とてお主らがその黒くて素早い昆虫を毛嫌いしていることくらいは知ってはおるのじゃがな。しかし何故それ程までに恐れるのか、全く理解出来ん。ドラゴン数万年の謎じゃ。」
――人は何故ゴキブリを忌み嫌うのか?
永久不滅のドラゴンが数万の年を費やして尚未解明の、壮大なテーマである。
「じゃって、まず体の大きさからして、違い過ぎるじゃろう。少なく見積もっても数百倍の体積を持つであろうお主らが、何故あのような小さな虫を恐れるのじゃ。竜という中立な立場から言わせてもらえば、核兵器だかの大量破壊兵器を、とまでは言わずとも、殺虫剤やら鉄砲やら科学と技術を結集してそういった殺傷能力の高い武器を生み出してしまうお主らの方が余程恐ろしいと思うのじゃがのう。」
むむっ。こいつにしては珍しく、正論を言う。
「いやだけど、それは確かにそうだけど、何かお前から言われると凄く重みのある言葉に聞こえて、人として耳に痛いばかりだけど、この感情は僕たちのDNAに染み付てるんだ。そう簡単に拭い去れるものじゃない。僕たち人間は、どんなに凶悪な兵器を生み出したところで、奴らには勝てないんだ。」
だってあいつら、本当に危なくなったら、飛ぶんだぜ? あの速さで走る癖に、飛ぶんだぜ? 陸空両用なんだぜ? 勝てるわけないじゃん! 多分、裸の人間とゴキブリだったら、ゴキブリが圧勝する。
「ふうーん。そういうものかのう。して、どうするのじゃ?」
そう。ここで憂慮すべきなのは人間とゴキブリ、地球にとっての真の害虫はどちらか、という人間でいるのが嫌になりそうな問題ではなく、また彼らが追い詰められた際にここぞとばかりに発揮する飛翔能力でもなく、この家に彼らを撃退するための手段がないということなのだ。
我が家には殺虫剤なる決戦兵器は配備されていない。幸いかな、昨年の夏から今に至るまで僕の狭い部屋にはゴキブリをはじめとする節足動物系エネミーが出現しなかったからである。
前の家でもそういう経験がなかったものだから、ついうっかり警戒を怠っていたと言うか、その手の問題に僕はまるで思い至らなかった。そのことに関して、問題意識を持っていなかったのである。無知というのは、本当に恐ろしいものだ。こういう状況に追い込まれて初めて、教育の重要性というものを真に思い知らされる。……馬鹿な思い知り方だった。
――余談はさておき、なんて、まあ今回の場合、何が余談で何が本題なのかは微妙ではあるが、と言うか、この話自体がそもそも余談みたいなものなのだが、いや、余談どころか無駄話でしかないのだが、……さておき、ゴキブリは負の走光性を持っている。つまり、明るさを嫌う。今こうして両者が動かない膠着状態にあるのは、単に彼だか彼女だかの気まぐれであって、次の瞬間には大好きな物陰に隠れてしまわないとも限らない。猶予は一刻もない。後悔などしている暇はない。状況は逼迫している。この城の主として、今すぐにでも決断を下さなければならない。
「どうしょう、縁!」
――僕は指揮権を放棄した。丸投げである。
「そんな縋るような目で見るでない、良い歳の男子高校生が。」
そんなこと言ったって。
「言うなれば、人とゴキブリと竜の三竦みといったところかの。」
「その三者だと、明らかに僕だけが竦むことになりそうなんだけど。」
と言うか、言うなれば、じゃねーよ。言うなるなよ。早くしないと逃げちゃうって!
「いやいや、竜の天敵は人間じゃ。竜は人間に弱いと言っても決して過言ではないじゃろう。」
その理論だと、人間は竜に強く、ゴキブリは人間に強く、竜はゴキブリに強いということになるのだろうか。……なんて、悠長に分析している場合でもない。
「お前は今現在の状況じゃ竦む必要は皆無なんじゃないのか? というかお前はゴキブリ大丈夫なんだな。」
だったらほら、ねえ!
「ま、そうじゃの。私はお主らと違って生物を見た目で差別したりせん。それにそ奴らとは馴染みみたいなものじゃ。私が死んでいる間、私の体の周りを、群を成して駆け回っておったものじゃ。」
「……そりゃあ、まあ、何とも言えない体験談だけど。」
自分の亡骸の周りをゴキブリが這いまわっていて、その様子を客観的に見ることが出来るのに振り払うことも出来ないなんて、人間だったら一体どういう気持ちになるのだろう。もしかすると、それは死ぬより辛いのでは? ……まあ、死んでいる間の意識があるのなんて竜くらいのものだろうから、人間の場合を考えることに意味なんてないのだが。
「お前、あいつを倒せるか?」
倒せるよね? 竜だもんね?
「私は竜じゃ。私が本領を発揮すれば、この世に倒せぬものなどない。」
スケールの大きい返答だった。
しかし竜である彼女が本領を発揮してしまうとゴキブリ一匹どころか、この家やもっと言えばこの街ごと消し去ってしまいそうなので、そこは冷静に考えて、縁の力を当てにはしない方が良さそうである。
なればどうする? この状況を打開するウルトラCはないのか!?
「いや何も本気を出さずとも、この姿のままの運動能力でも、ゴキブリ程度造作もないことじゃぞ? 私にとっては。一先ずは捕獲すればよいのじゃろ?」
「え! お前にそんな秘めたる力があったなんて、知らなかったぜ。初めて思ったけどお前って凄いな!」
「ええーっ! 初めて思ったのか!? 今まで凄いと思われとらんかったのか? 私竜なのに!?」
「ああ。だってお前、自分で竜なのに!? とか言っちゃうんだもん。いや、今はそんなことはどうでも良い。出来るなら、早く対処してくれよ。お金は払うからさ。五十円。」
「安っ! それでは労働基準法違反じゃ。」
知っているのか、ドラゴンよ。
「ちゅーか、私は害虫駆除業者ではないぞ。まったく、毎度毎度便利に使ってくれおって。とんだ狼藉者じゃ。私を何じゃと思っとるんじゃ、お主は。」
「そりゃあ、愛玩動物くらいには思ってるよ、僕だって。」
「その程度にしか思われていないのか! 私を犬猫の類と一緒くたにするな!」
「あ? 竜も犬も猫も、ペットであることには変わりがないじゃないか。」
「ペットじゃないっ! 私は、ペットではない!」
「え? お前って僕のペット扱いってことになってなかったっけ? 僕の記憶が定かなら、そういうことになってたはずだぜ?」
「お主の記憶は定かではないのじゃな。どこでそんなことになった。いやなってない。どこでもなってない。」
反語だぁ。リアルに使うことってあるんだな。
「じゃあ何だよ。ペットじゃないってんなら、お前は一体何なんだよ。どういう位置づけで、この家に飼われてるんだ?」
「ちょっと待て。その侮辱的な動詞は一体何なのじゃ? お主、私をどうしてもペット扱いしたいようじゃなあ。言っておくが、お主よ、私はペット経験なしの、生粋の野良ドラゴンじゃ。」
まるで飼いドラゴンがいるような口振りである。
「え? ああ、悪い悪い。じゃあ、改めて。お前はどういう理由で、僕の世話係なんかを買って出て、昼となく夜となくご奉仕なんかしちゃったりしてるわけ?」
「私がさも如何わしい活動をしているかのように言うな。まあ、望まれれば応えるけどもっ!」
応えるのかよっ!
「ふんっ。もう怒ったもんねっ。ゴキブリなんて私の知ったことではないわい。そら、そこなゴキブリよ。どこへなりとも隠れ潜むが良い。一先ず冷蔵庫裏にでも隠れ潜んで、丙の寝ている間に丙の口の中に移住するが良い。食道にいくらでも卵を産み付けるが良い。」
こいつめ、僕の攻め所を分かってやがる!
「不吉なことを言うな! 僕の安眠をどうする気だ!?」
「ふふぅーん。眠れなくなるが良い。肌に布団が当たる度に、あれっ? これってもしかしてゴキブリなんじゃね? って思うが良い! はっはっはっ! 思い知ったかっ、我が力!」
うわあ、史上最悪な力だ。
「くそう。これが竜の力というわけか! 流石と言わざるを得ないな。天下無双の野良ドラゴン。侮れないぜ。……だがなあ、縁。僕を余り見くびらないで欲しいもんだ。僕は、そんな脅しに屈する柔な男じゃないぜ?」
こちらにはまだ、とっておきの切り札がある。
「良いのか? 縁よ。僕が安眠できなくなるということは、即ち起床時間が遅くなるということであり、ひいては朝飯を作れないという事態に陥るんだぜ? 果たしてその状況に、お前は耐えられるかな?」
思い知れっ、これが食事係の力!
「な、なんという奴じゃ! 私の人生の楽しみを人質にとりおった! このう、卑劣なあ。全く以って納得し難い。忌々しいことこの上ない。」
と恨めしそうに僕の方を見ながら、そそくさとビニール袋にゴキブリを捕獲する縁であった。
――僕の勝利の瞬間である。
――さておき、前々から気付いていたことではあったが、縁の運動能力は人間の姿のままでも十分に凄まじい。僕は僕で、まあ色々あってそれなりに身体能力が向上しているのだが、そんな僕でも彼女の非常識的な運動能力には遠く及ばない。当然のことながら、ほとんど全うな人間の僕には素早く動くゴキブリを素手で、それもそっぽを向きながら捕まえる、なんて芸当は真似出来ないのである。と言うか、絶対に真似したくない。
うわあ、うわあ。ほんとに持ってるよ、こいつ。頼んどいて、ほとんど強制しといて何だけど、こいつほんとに捕まえちゃったよ。引くなあ。
「ゴキブリ素手で持つ奴初めて見た。」
ゴキブリってそこをそうやって持つんだな。クワガタみたいに。
「ゴキブリと他の昆虫と何が違うのじゃ? 例えば子供たちの間で絶大な人気を集めているカブトムシやクワガタと何が違う。あんなもの角がなければほとんどゴキブリと変わらんじゃろう。そこにどんな隔たりがあるというのじゃ。」
ゴキブリを捕らえた白のビニール袋の口を閉じて、ガサガサいうその袋を僕の方に差し出しつつ、縁はさも不思議そうに尋ねる。鳥肌が立ちそうだった。
「ちょっ、こっちに差し向けるな、まだ生きてんだから。……何が違うって、動きが違うだろ。クワガタもカブトムシも、そんな俊敏には動かない。」
予測不能な動きをするんだよな、こいつらって。
「それだけか? たったそれだけの理由でお主らはこやつらを邪険に扱うのか?」
「そりゃあ……、そう、衛生上の理由がある。」
知らないけど、どうせ何とか菌の媒体になっているに決まっている。
「ふうん? 衛生上、どんな問題があるのじゃ? それをお主は明確に答えることが出来るのか?」
「いや、明確にはできないけど……」
「では何故そうも簡単にこやつらを害虫と決め付ける。衛生上の理由というのは、本当はただの言い訳なのではないのか? 聞くが、もしこやつらに何の病原性もないとしたら、どころか家を綺麗にしてくれるという性質を持っているとしたら、お主らはこやつらを丁重に扱うのか? 察するに、恐らくそうはせんじゃろうな。つまり、お主らはただ見た目が気に食わないという理由だけで、こやつらを敵視し、駆除しておるというわけじゃ。衛生管理のためという理由をこじつけて、殺戮の限りを尽くしているというわけじゃ。」
殺戮って。
「何だよ。妙に詰め寄るじゃないか、今日は。お前、人間好きじゃなかったか?」
「そうじゃあ。私は人間を愛してる。しかしだからといってその全てを愛しているというわけではない。愛する相手には好きなところしかなく、嫌いなところが全くないなんて、そんな幻想をお主とて信じているわけでもあるまい。もしそのような関係があったとすれば、それは愛などではなく、狂信じゃ。」
ゴキブリから愛を語るなんて。多分人類史上初の試みだろう。前代未聞だ。
いや厳密に言えば、こいつは人類ではないんだけど……。
「じゃあ、どうすれば良いんだよ。お前は僕に、このゴキちゃんたちと、共存しろって言うのか?」
「そんなことは言うておらん。こやつらがお主らの衛生管理上問題のある生物であることは事実じゃ。じゃが、その理由を隠れ蓑にして、嫌悪感ではなく清潔感をあたかも優先したかのように振舞って、装っておることが気に食わん。見た目が嫌いだから殺します、と、はっきり申せば良いのじゃ。精神的に害虫です、と、正直にの。」
精神的に害のある虫。不快害虫って、しかしよく考えれば凄い言葉だな。
「お主は私にとっての不快害虫じゃ。」
「本当に凄い言葉だなあっ!」
だ、ダメージが尋常じゃない。
「お前、その言葉、人類に対して使って良い言葉じゃないからな?」
「馬鹿な。言葉など、人類に対して使わなければ何の意味もないじゃろうが。」
そうだけど。相変わらず、視点がドラゴンなんだよなあ、こいつ。
しかし、だったらそれは、その言葉は意図的に死語にするべきだ。
「……いや、まあ、、確かに、お前の言うことも分からんでもないけど。しかし、それは道徳的に許される発言なのか? 良識ある一人の大人として、あるまじき台詞なんじゃないか?」
まあ、生き物を殺すことなんて、日頃からしょっちゅうやってることではあるけど、今となっては後ろめたい過去ではあるが、子供の時分、蟻の巣穴に水を流し込んで遊んだ思い出もあるけど、しかしある程度精神的に成熟した人間が、見た目が気持ち悪いから殺します、なんてわざわざ宣言してからことに及ぶというのは、流石に抵抗がある。
「自分はそんな理由で無闇に命を奪うような野蛮人だと、そんな残酷な生き物だと、認めたくないのじゃな。」
「……そうだよ。」
言われれてみれば、返す言葉もなくそうだ。自己嫌悪を嫌悪する。真っすぐ言えば、自己愛。僕の抵抗はきっと、そういう感情に帰属するものだ。
「しかし私からすると、よう分からん感性じゃ。どうして命を奪うことが、残酷と決め付けるのじゃ。同族殺しを嫌悪するというのはまだ分からんでもないが、他種族の命を奪うことに、どうして躊躇いを持つのか、それが悪であるかのように扱うのか、全く以って理解出来ん。」
こういう時、改めて、やっぱりこいつは人間じゃないんだなあ、と感じる。縁は竜であり、人ではなく、僕と同じではないのだと実感する。
「それはきっと、線引きがないから、じゃないのか?」
命の価値の、線引きが。
「線引き、のう。」
人と動物の線引き。人と竜の線引き。
境界は曖昧。否。境界など、本当はない。あるのは自他の区別だけ。自分と同じか、違うか。しかしそれもまた、精神的な問題である。愛犬や愛猫、所謂ペットを、同種である人間などより深く愛する人もこの世界にはごまんといるし、僕の目には、縁は人の姿に見えている。
だから、大した意義もなく、簡単に、無感情に動物を殺せてしまえる人間は、いつか人をも殺すようになってしまうような、自分の命まで軽くなるような、そんな気がして、きっと怖いのだ。
「だからそういうことに対して躊躇いを持つことで、歯止めをかけてるんじゃないか?」
いつか間違いを犯さぬように、正当化する理由をこじ付けている。
「ふむふむ。成程の。分からなくもない論理じゃ。」
――まさかゴキブリ一匹を退治するために、こんな気の重くなるような考察をすることになるなんて、思いもよらなかった。
彼女との共同生活が始まって、もう二か月以上経ったが、未だにこういった感覚のずれとでも言うべき、相互不理解の溝は埋まらない。
まあ、埋まるなんて端から思っていないけど……。
思っていないし、そんな期待はしていない。普段の彼女が余りにも人間らしく振舞うものだから、時々忘れてしまいそうになるが、しかしどんなにそれらしく振舞おうと装うと、畢竟縁は竜なのである。分からないのは当たり前。感覚や考えが違って当然だ。
僕は竜に人間を教え、彼女は僕に竜を教える。お互いの違うところを答え合わせみたいに見つけ合う。僕たちの関係はそれでこそ健全だろう。それ以外は不健全だ。
「して、結局これはどうするのじゃ?」
「ああ。そうだなあ。まあ、僕の場合、そんな意識を持たなくたって、将来凶悪な犯罪行為に手を染めることはないだろうから。」
「ほう。それは軽犯罪には手を染める気はあるということかの。」
「曲解するな! 何だよその小者感が凄い覚悟は。」
こいつ、時々行間を読み過ぎなんだよな。そして僕のショボさを絶妙に言い表すんだよな。
「違うよ。だから、一応お前の言う通り、宣言しておこうってことだ。」
宣誓
「――僕は見た目が気持ち悪いという理由だけで、ゴキブリを殺しますっ!」
「うーわぁーっ! 言いおった、言いおった! 本当に言いおった! こやつ、人として言ってはならんことを口走りおった!」
……喜色満面。いっそ清々しいくらいのしたり顔である。
――罠か! 壮大なトラップか! まさかこれまでのやり取りが全て伏線だったというのか!? 一体いつから僕は縁の掌の上で踊らされていた!?
どうしよう、僕、結構真剣に考えちゃったよ! シリアスパートかと思っちゃったよ! 恥ずかしっ。
「この鬼畜。人畜。外道!」
人畜は当たらないにしても、この場合、鬼畜も外道も縁のことを指して言うと僕は思うのだ。
「あな恐ろしや。人間め! お主には倫理観というものがないのか?! お主は同じ理由で、将来とんでもない過ちを犯すのじゃろうなあ! 見た目が気持ち悪かったのでやりました、とかっ!」
とか、って……。なにを、『やった』のかを明言しないところが何とも香ばしい。
「違う! これは誘導尋問だ! 僕は悪くないっ。」
「ふんっ。お得意の、親が悪い社会が悪い、か。」
お得意のとは何なのだろう。それではまるで、僕が常日頃、親や社会の所為にして、何かから言い逃れているみたいだ。
「親も社会も悪くない。今回悪い奴がいるとすれば、それはお前だ。」
――結局、竜に捕らえられた憐れなるゴキブリがどうなったかと言えば、弱肉強食という自然の摂理に従って、当たり前にその命を儚く散らすことになった。
そしてこの晩から、連日の熱帯夜となった蒸し暑いこの日の夜から、僕は、肌掛け布団が脚を撫でる度に、奴の仲間が復讐に来たのでは、と戦々恐々とする破目になり、結果として僕の安眠と縁の朝食が暫くの間奪われることになったのであった。
――人、竜、そしてゴキブリの三竦み。しかし真の勝者はゴキブリなのかもしれなかった。