<20>
「ふうぃー。あーーーー、ぢぃがれたぁ~。」
最近入荷した座り心地の抜群な座椅子に腰を下ろして背もたれに体を預けると、思わず間の抜けた声が漏れた。勿論、音に迫るスピードで中空を猛進したり、背中を強烈な空気砲で打ち抜かれたりしたことによる肉体的な疲労、ダメージも相当にあったが、他人の命運が自分の采配によって決まってしまう状況に置かれたことによる精神的疲労はそれに勝るものであった。
――犬上の一件の決着が一応付き、僕と縁は帰宅した。犬上にはあまりにも問題のある登場シーンを見られてしまったため、縁についてある程度釈明しなければならないと僕は覚悟していたのだが、意外なことに、と言うより、まあこれも犬上らしいと言えば犬上らしいのだろうが、彼はそのことを詮索するようなことはしなかった。
精霊術による迷彩効果が発揮されていたと言っても、凄まじい速度での着陸だったために、僕たちは地面に降り立った瞬間、犬上に目撃されている。カムフラージュをしていても、音までは遮断出来ないし、注視されれば正体がばれてしまう、というのが縁の解説だった。
当然あの速度で人間二人分の質量が墜落すれば、気を遣っていてもそれ相応の騒音は発生するし、衝撃も生まれる。どれだけ急げば良いのかも分からぬままに急いでいたし、またリミッターを解除させたのも僕であったので、仕方のないことではあったが、しかしあの登場はいくらなんでも戴けなかった。あの時の縁には正体を隠そうという意思が全くなかった。
そうでなくとも、相手はあの犬上祐である。異常な勘の鋭さで、暗闇の中の僕たちを看破した犬上である。僕が縁に文句を言える立場ではないことは分かっているが、彼女も彼女で、自分のために自分の立場を少しは弁えて欲しいものである。
……助力を得た身で、本当にそんなことを言えた義理ではないのだろうが。
「そう言えば結局、犬上の超人的な勘の鋭さというか、あいつは何で、あの暗闇の中で僕たちの正体を見破れたんだ? あの犬神は、実体を得て、実際に効力を得たんだろうけど、だけどそれは最近の話だったんだよな?」
犬上が犬神を信仰し始めたのは、確かこの前の日曜日、五日ほど前のことだ。
彼が犬神の神体を学校の校庭で発見したのは、水曜の夜、昨日の晩のはず……。無理に考えて、あの犬の頭蓋骨を見つけるより前、犬上家が犬神家であると知った日曜辺りから、犬神が効力を発揮し出したのだとしても、もっと昔から続く彼の幸運や勘の鋭さは説明できない。いくら選択肢があるからって、生まれてからずっと一問も間違えずに正解だけを積み重ねてきたなんて、やはりどう考えても普通ではない。普通ではないということは、そこには普通でないことが関わっているはずなのだ。
――でなければ、今回のことがそうであったように
「それもただの思い込みか。」
ついさっき発覚したことだが、犬上は相当思い込みの激しい人物である。勉強のことで見栄を張るタイプでもないだろうから、ただ単に勘違いしていただけということも、有り得なくはない。
基本的にはしっかり者の、少なくともうっかり屋とは言えない彼の人物像に、若干そぐわない感じもするけど……。
「いやいや。それはないじゃろう、お主よ。」
「え? でも、昨日お前に聞いた怪しい理論じゃあ、認識していないものは発生しないはずだろ? あいつが犬神を信じるようになったのは、蔵の中を整理してた時のことなんだから、犬神の恩恵が生まれるのだって最低でもそれより後になるのでは?」
「あっ! そうかそうか。成程のう。どうりで……。」
一瞬、元々大きな目を更に大きく見開いて驚きの表情を見せた今回の功労者は、何故か納得したようだった。
「一人で納得してんなよ。何がどうりで、なんだ?」
――それにしても、こういう事案になると毎度毎度訊いてばかりで、何だか癪だなあ。自分の無知を思い知らされる。
「うむ。そうじゃのう。これも視点の違いの話じゃ。どうやらお主に見えぬものが私には見えており、私には見えるものがお主には見えていなかったらしい。」
視点の違い。竜と人では見える世界が違う。感度や構造の違いが引き起こす、見え方のずれ。分かり易く言えば、そして胡散臭い言い方をしてしまえば、霊感のようなものだ。そもそもがあちらの生まれのドラゴンは、僕たちに比べてそういったものを感知する能力に長けている。僕も僕とて多少は感度が良くなっているはずなのだが、それでも本家本元、本物の竜には及ぶべくもない。
しかし、その理論は理解できなくもないが、犬上の超人的な勘とどういう関係があるのだろうか。
「あの者に憑いておった犬神は一匹ではなかった。」
「えっ、ええっ! えっ、ちょっと待てよ。どういうことだ? どういう意味だ?」
もう一匹の犬神? そんな話聞いてない。話が違う。本当に、話の筋が変わってしまう。
驚愕の事実とはまさにこのことである。何でもないことのように縁は言うが、僕にしてみれば冷静さを保てなくなるくらいの爆弾発言である。
「と言うかそれ、犬上は大丈夫なのか?」
僕が今日無理矢理いないことにしたのは、一匹の、一柱分の犬神だけだ。縁の言うことが本当なら、犬上にはまだもう一柱の犬の呪い神が、今も尚憑いているということになる。
「まあそう慌てるでない。大丈夫じゃ。あれは人に危害を加える類の呪いではない。」
人に危害を加えない呪いって、矛盾しているのでは?
「寧ろ逆じゃ。あれは憑いた者に幸運しかもたらさん。」
「え。じゃあ、その、僕には見えなかった、もう一匹の存在感の薄い犬神が、あいつの直感とか幸運度みたいなものを補助してきたってことなのか?」
だとするならば、僕が犬上に対して放った偉そうな言葉は、まるきり間違いということになる。僕は全てが犬上の責任だと決めつけ、そう豪語したが、犬上の想像通り、彼が実際に犬神の加護を受けていたのなら、責任なんてものは発生しない。彼の憤りは正当だ。
「……いや、それだとやっぱおかしくないか? だって犬神は犬上によって生み出された空想の神様なんだろ? あいつのご先祖様が、その昔、古式ゆかしき儀式をして、その当時本当に犬神を呼び出せてたんだとしても、それによって家が栄えたんだとしても、五日前まではその信仰は失われてたっていう結論が出てたはずだぜ。犬上はそれまで、犬神のことなんて、まあ僕が知ってたくらいには知ってたんだろうけど、だけど自分の家が犬神筋だってことは知らなかったんだから、実体を生み出してしまうほどには当然信じ込んでなかったはずだ。」
犬神を生んだのは、狂気的なまでの信仰だ。そして彼の中に確固とした信仰が生まれたのは、自らの家の事情について知り、自らの人生と照らし合わせて、納得したからである。
……あれ? でも、こいつさっき何か言ってたな。幼少期の怪我や大病がどうとか。脈絡のないことを。
それに……。……そう。あの警告文。古い地図に記された警告文。もしもあの地図が、百何十年だか前に犬神の神体の隠し場所を示すために、犬上のご先祖様が残したものであったとするならば、では一体、あの警告文はいつの時代に書かれたものなのだろう。
犬上の話では割と近い時代に書き添えられたんじゃないかって、話しだったけど、結局正確なことは分かっていないし、誰が書いたのかも定かではない。まあ、少なくとも犬上家の誰かであることは間違いないんだろうけど……。
危機的状況が去って、気を抜いてしまっていたが、よくよく考えてみれば未だ不可解な点がいくつも残っている。こうして縁が落ち着いて、自分で淹れた茶をのほほんとした表情で啜っているからには、今のところは切迫した状況ではないと考えてしまって良いのだろうが、しかし不明なことをそのままにしておくのも気持ちが悪い。犬上の命に関わることかもしれないので、その辺りは出来れば解明しておきたい事柄である。
「もう一匹を生んだのは、お主の同輩ではない。」
――湯呑を置いた縁は、思いがけない答えを示した。
次から次へと驚きの新事実を発表して、こいつにはもう、事件の全容がはっきりと見えているようである。
「母親、じゃよ。もう一匹を生んだのは、あの者の母親でまず間違いないじゃろう。」
「母親……?」
どうしてここで、犬上の母親が出てくる?
「お主も知っての通り、母の愛は偉大じゃ。時に偉大過ぎるほどに、狂おしい程に絶大じゃ。例えば、生命の危機に瀕した愛し子に、危機を脱するための、或は不運を寄せ付けないための超常的な加護を与えてしまうほどに、の。」
――だからこいつはあの場面で、あんなわけのわからない質問をしたのか。確証を得るために。そしてその目で直接、二柱の犬神を見ることで確証を得た。
となれば、あの警告文の筆者も最早明らかだ。あの文章には、愛する子供のために、自らも罪を重ねた、という意味合いの文言が書き記されていた。
嘗て犬上祐の母親が、息子の命の危機に際し、今回同様古い信仰を復活させた可能性は十分に考えられる。その結果、子供に超人的な特殊性、圧倒的な勘の鋭さが備わってしまったことも、だ。
犬神は悪霊でもあるが、願いを聞き届ける神でもある。だから、『我が子に加護を、恩恵を与えよ。』と願えば犬神はそれを叶えるだろう。犬上祐が憑依する悪霊として、罪に罰を与える者として、不正を正すために犬神を発現させたように、犬上の母親も、願望成就の神として、愛息子を救うために、都合よく伝説を解釈したのだ。
結局本人には確認を取っていないし、きっとこの先も尋ねることはないだろうから、推測の域を出ないが、その説明ならば納得がいく。罪の意識に耐えかねてか、わざわざ後世に警告と告白を残す辺りが、如何にも犬上祐の母親らしいところではないか。
――母の愛は偉大だ。縁が何の迷いもなく、二匹目の、と言うより本来、一匹目の、と言うべきなのだろうが、犬神を発生させたのは母親であると断言した気持ちは、分からなくもない。どころか妥当な推理だろうと思う。
あくまで一般論であり勿論例外も数多くあるだろうが、子を失うかもしれないと分かった時の母親の必死さは、誤解を恐れず言えば、狂気的とさえ言える。母が子供を愛するのは、生物としての根源的な本能だ。種を存続させるための、強力なシステムだ。
「まあ、あの家は間違いなく犬神筋じゃったのじゃろうのう。犬神という信仰を生み出しやすい土壌があったわけじゃ。」
自分の一族が、犬神筋だという自意識が、犬上祐の犬神や、その母親の犬神を生む根拠となった。
犬上家がまだ犬上家と呼ばれる前、成功したのかも定かではない遥か昔の犬神と、今回の犬神は無関係ではないというのは、成程そういうことだったわけだ。
「何にせよ、見当違いな説教垂れちまったな。」
今回のことで誰も犬上を疑わなかったのも、僕が往生際悪く犬上を庇おうとしたのも、彼の母親が与えた犬神の恩寵だったのだから、あの状況では仕方なかったとは言っても、間違った情報を使って、結果的には騙す形になってしまったのが何となく悪い気がする。
「なーにを戯けたことを言うておる。そんなわけがなかろう。」
「え。は? だってお前が今そう言ったんじゃ」
「確かに、あの者が暗闇に紛れる私達の正体を見破ったことと、事に対処するに当たって、お主の通学路と帰宅時間を特定したこと、お主に助力を求めたことは犬神の加護があってのことじゃろうが、お主やお主の学友たちがあの者に嫌疑をかけなかったのも、お主があの者を庇おうとしたのも、全てはあの者がそういう人間であったからじゃ。お主曰く、誰にでも親切で公平な人物であるからじゃ。勘違いするでない。そこはお主の言った通りじゃ。」
「……そっか。」
そうだよな。あいつが良い奴だってことには変わりがないんだし。
「あの犬神はそれほど強力な効果を発揮するようなものではない。精々、直観力を高める程度の恩恵しかもたらさん。今回生み出された犬神などとは比ぶべくもない、視力の上がっているお主の目で見ても見えない程に、か弱い、ほとんど消えかけた、忘れられかけた信仰じゃ。お主がそう話したのではなかったか?」
「話した? そんな話をした覚えは。…………ああ。そういうことか。犬上の両親は、犬神について知らないって話だったもんな。」
犬上の母親は犬神に願ったことを忘れているのだ。いや、縁に倣って正確を期して言えば、忘れかけているのだ。完全には忘れてはいないから、未だに細々と効果を発揮し続けている。
犬上の母親にとって後ろめたい秘密の隠し場所である、あの石造りの蔵の探索を止めなかったのには、そういう理由があったのだ。
「まあ時間の問題、じゃろうがな。あの犬神も、じきに消滅する。今はその過程というところじゃろう。」
時間があと少し経過すれば、嘗て犬上の母親が、息子を窮地から救い出すために生んだもう一柱の犬神はついには忘れ去られ、効果を失う。
「いやしかし……」
――あの文面からして、犬神に願掛けした時点では、犬上の母親には相当の罪悪感があったはずだ。そこまで罪の意識を強く持っていた人物が、そう易々と、十数年を経たくらいで、忘れてしまうものなのだろうか。そうだとすれば、確かに勝手な話だ。
勝手に願って、勝手に使って、願いが叶ったらまるで何もなかったかのように忘れる。そう考えると、犬神の去り際の一言は、犬上の想いでもあったのだろうが、尤もだ。
「それだけ幸福な家庭なのじゃろう。溢れるほどに満ち足りて、罪悪感など感じている暇もないほどにの。良きことじゃ。」
自分の犯した罪を忘れてしまうほどの幸福、か。それはきっと本当に、幸せなことなんだろうな。
「でもそれは良いこと、なのか。」
忘れてしまって良いことなのか。いや、勿論犬上家が幸福な家庭を築いたことは良いことなのだろうが、それを竜である縁が言うのか。
「良いに決まっておる。存在しないもののために心を砕くなど、愚かな行為じゃ。お主ら人間は、現実だけを見ておれば良い。見えないものを見ようとして、まさしく現を抜かして、うっかり足を滑らせては元も子もないのじゃからのう。今回の話は、つまりそういう話じゃったのではないか?」
「そうなんだろうけどさ。」
――夢か現か。嘘か実か。
しかしその境界は曖昧だ。誰かにとっては偽りでも、他の誰かにとっては真実ということもある。今回だって、犬神は現として、物質として存在していたわけだし、竜である縁もまたそうだ。魔法、魔女、勇者に竜、そして犬神。そのどれもが空想の産物であり、僕がこの身で体験した現実である。
だから彼女にそんなことを言われてしまうと、少しだけ不安になる。犬神を否定したことが、どんな意味を持つのか、否が応にも考えてしまう。